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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



隠岐汽船は、設立から3年間赤字が続き、4年目に僅かの利益を出し、1910年までの13年間、乗客数が少しづつ延びて業績が黒字となったようです。

設立時本社があった菱浦



その後、隠岐丸は3隻に増船され、日露戦争後の1905年には舞鶴で阪鶴鉄道に連絡する航路を開設、1910年の朝鮮併合直前には隠岐から下関、鬱陵島を経由して朝鮮東岸を巡航する北韓航路も開設し、日本の成長と共に力強く歩みはじめています。

菱浦に1892年来島した小泉八雲夫妻の銅像



しかし、北韓航路開設は、体力に余る拡大策だったようで、翌1911年から1915年まで毎年のように赤字決算となっています。

菱浦港のヨット



1916年には、航海数を大幅に削減するリストラをした結果、創業以来最大の利益を出しています。

菱浦を出るフェリー



その後も航海数を押さえ、隠岐汽船の業績は徐々に回復したようです。(参考文献:島根県の歴史)




現在の隠岐汽船は、2300トンクラスのフェリー3隻、高速水中翼船1隻の4隻で隠岐と境港、七類港を運行していますが、島の人口減少で経営状況は思わしくないようです。



そこで、隠岐郡の4町村で構成する隠岐広域連合が船を買い取り、2007年から隠岐汽船に無償リースして運航委託しているようです。

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隠岐と本土を結ぶ海上航路は、1885年(明治18年)西ノ島の松浦氏が、隠岐四郡連合町村会と共同で大阪商船のイギリス製木造蒸気船「速凌丸」(132トン)を購入して「隠岐丸」と改名、菱浦から浦郷、境港間を運行させたことに始まったようです。

菱浦港



松江藩士の娘、小泉セツと結婚したアイルランド人、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、その「隠岐丸」に乗船して1892年の夏に菱浦を訪れ、ここで9日間滞在しています。

旅館跡地の小泉夫婦像



その3年後、1895年に隠岐汽船株式会社が設立されていますが、設立当初の最大の株主は、中ノ島海士村崎に居住していた渡辺新太郎で、渡辺は初代社長に就任しています。

郵便局



菱浦郵便局前には、それを示す「隠岐汽船発祥の地」の石碑があり、明治28年隠岐汽船はこの地に誕生しましたとあるので、社長の出身地である中ノ島菱浦に本社を置いていたようです。



また中ノ島福井村の魚山幸市も第三代社長に就任していて、隠岐汽船黎明期の社長は中ノ島から出ているようです。

小泉八雲来島100年の記念碑



ちなみに隠岐汽船創設時、その総株数の6割以上が島前3島(中ノ島、西ノ島、知夫里島)、残りが島後と境港の折半と「島根県の歴史」にありました。

西ノ島の浦郷港



島前3島は、島後、境港に比べると一番人口が少ない地区ですが、隠岐汽船に6割も出資したのは、島後と境港間を結ぶ別の海運会社があったからでしょうか。

島後と本土を結ぶ隠岐汽船フェリー「おき」



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黒木とは、暫くすると黒く変色する樹皮のついたままの木材のことで、黒木御所とは黒木を使って急いで建てられた(質素な)御所という意味のようです。

黒木御所跡



後醍醐天皇が配流先で詠んだとされる和歌が残されていて「こころざす かたをとはばや 波の上に うきてただよふ あまのつり舟」とあり、配流先からこのような景色が見えていたのは確実です。

黒木御所跡地の歌碑



その意味は、「こころざし(倒幕)のため(脱出して帰る)方角はどちらか、波の上に見える海士(漁師と地名両方の意味がある)の舟に聞いてみたいなあ」と解釈されるようです。

海士町との間の海(高い山の右側が京都の方角)



後醍醐天皇の配流先は、島後(隠岐の島町)国分寺とする説もありますが、そこからは海が見えないので、島後配流説にはやはり無理があるようです。

史跡黒木御所



別府の黒木御所の麓に、三位の局の館跡とつたわる場所があり、後醍醐天皇に同行して隠岐に流された阿野廉子が住んでいた所と伝わっています。

三位の局の館跡から黒木御所のあった山上を見る



阿野廉子は、後醍醐天皇のあとを継ぐ後村上天皇の生母で、後醍醐天皇と共に隠岐を脱出し、後醍醐天皇を陰で支えた人物です。

三位の局の館跡



阿野廉子の墓地が河内長野の観心寺にあることは、以前にブログで紹介したことがありますが、彼女は後醍醐天皇と行動を共にして京都から隠岐、吉野、河内長野を移動しているので相当活発な女性だったようです。



後醍醐天皇配流の際の隠岐守護は、佐々木兄弟の五男義清を祖とし、鎌倉幕府末まで鎌倉の中枢にいた佐々木隠岐守清高、その守護代が隠岐判官貞清と太平記にあります。

島前代官所跡の石碑



西ノ島の別府には、その守護代が居住していたと伝わる判官屋敷跡地と伝わる場所が残されていましたが、1221年の後鳥羽上皇隠岐配流に当たって、島後から配流地中ノ島に近い(今は連絡船で6分の距離)西ノ島に守護代の居住地が移転したようです。

判官屋敷跡地



この判官屋敷のあった土地は、別府港を見下ろす高台に当たり、隠岐を統治する守護代が住む屋敷としてふさわしい場所と見ました。

判官屋敷跡地からの別府港



また西ノ島の焼火神社には、後醍醐天皇が参拝され、薬師如来と毘沙門天像を奉納された伝承が残っていますので、1332年配流された後醍醐天皇の黒木御所は、やはり別府にあったのは確実なようです。

黒木神社の鳥居




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「建武の中興」で有名な後醍醐天皇(1288~1339年)は、鎌倉幕府への反逆で1332年に隠岐国に配流されています。

別府港



隠岐の配流先は、西ノ島町の別府説と隠岐の島町の国分寺説があり、未だ明確な決着がついていないようですが、別府には黒木御所という当時の行在所があった伝承が残り、地名や神社も現存しています。



一方、明治になってから発表された隠岐の島町説には、地元に後醍醐天皇配流の伝承が無いのでこの説にはかなり無理があるようです。

黒木御所が置かれた天皇山



さて、菱浦港からフェリーで別府に渡り、港から海沿いに10分くらい歩くと、行在所のあった小山(天皇山)にある黒木神社の入り口が見えてきます。



左が拝観受付と資料館、直進すると左手に黒木神社の拝殿に上る石段があり、いままで訪問された皇族の名前が誇らしげに掲示されていました。



山上への急な石段を上ると狭い敷地の山側に黒木神社の拝殿、その前には建物跡が残る広場があります。



その先は、すぐ崖となっていて、崖の向こうに海を挟んで見えるのが中ノ島の福井地区です。



福井地区には、隠岐国安国寺の遺蹟が残っていますが、安国寺とは、後醍醐天皇以下南北朝の対立で亡くなった戦没者の菩提を弔うため、国毎に建てられた寺のことです。

黒木神社拝殿



隠岐国では、後醍醐天皇が配流された黒木御所から見て、京都の方角に当たる中ノ島福井に建設されていたようです。



さて、黒木神社拝殿右手の小道を30mくらい奥に進んだ小高い場所に、黒木御所の石碑が建っていました。



このあたりは周囲が険しい崖になっている山の頂上付近に当たり、配流された流人を閉じこめ、監視するのに都合が良かったのではないかと思います。



周囲の樹木が無ければ、黒木御所跡地から海と中ノ島(海士町)を展望することができそうですが、今は樹木で覆われて良く見えませんでした。


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今年の隠岐は、天気が悪く気温も低かったので、なかなか海に入る機会が無かったのですが、晴れ間を見つけて何とか1回だけ潜ってみました。



実は、今回の旅行に新規調達した水中コンパクトデジカメを持参していたので、その画像を早く見てみたかったというのも潜る理由のひとつでした。



隠岐の磯では、ニーナ、サザエを簡単に見つけることができますが、さすがにアワビは見当たりません。



1日分として食べるニーナは、30分くらいで十分確保できたので、潜水を水中写真の撮影に切り替え、磯の中を見渡すと、ムラサキウニが一杯生息していました。



このムラサキウニを引き上げて、トゲに気をつけながら殻を割って中の身を食べると結構美味いのですが、トゲとの格闘が面倒なのと時間が無かったので今回はパスしておきます。



浅い岩礁で、比較的地味な模様のウミウシを見つけましたが、ウミウシの仲間には吃驚するくらい派手な姿をしたものも時に見かけることがあります。



キヌバリという小魚は、浅い海底のいたるところで眼にしましたが、かなり深い場所にも生息しているようで、沖で魚釣りをしているとたまに掛かることがあります。



またグレの稚魚の群れがいて、岩礁についている海草を夢中で食べていましたが、食事に熱中していたせいか、かなり近くまで寄って写真を撮ることができました。



さて、海で拾ったニーナは、塩茹でにしてからまとめて殻から外すと、小さなお椀に山盛りとなる分量がありました。



早速、その一部をごはんと一緒に炊き込んで「ニーナご飯」を作ってみましたが、磯の香り豊かな、味わい深いご飯となったように思います。



残ったニーナは、翌日スパゲッティの具として使い、トマトベースの海鮮ニーナスパゲッティとして頂きましたが、これも海の香り豊かな素晴らしい料理となりました。



実は、初日に調達したサザエで「サザエの炊き込みご飯」も作ってみたのですが、味、香り、歯ごたえすべての点で「ニーナご飯」のほうが上だったように思います。


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少し時間があったので菱浦港から、中ノ島を半周する路線バスに乗ってみたら、これが大正解、貸し切りバスによる観光旅行となりました。

中ノ島の菱浦港



中ノ島の南部を半周する海士島線の小型路線バスは、一日5便だけと利便性が良くないせいかあまり使われていないようです。



つまり朝のバスで出かけ、用事を済まして戻る場合、次のバスを最大3時間半も待つこととなるのが原因のようです。

(ここからは、すべてバスの中から撮った写真なので少し見難いかもしれません)



一方、うまく路線バスに乗れると貸し切り状態で島内に点在する集落を移動できるメリットがあります。



山が海に迫っている火山島、中ノ島では、山間部の高原地域を切り開いて道路を確保しているので、バスの中からの展望はなかなかのものです。



夕方、島の内海をフェリーが航行している風景を見ることができましたが、この景観はフェリーの航行ルートから外れている国賀海岸では見ることができない美しいものでした。



菱浦港を出たバスは、島の南端にある崎という集落に入りますが、かつて平城京で発掘された養老7年(723年)の木簡に、隠岐国 海部郡 佐吉郷(現在の隠岐郡 海士町 崎)アワビ六斤とあるので、1300年前からここに税を払う人が居住していたのです。

右が崎の集落



それから498年を経た1221年、隠岐に流された後鳥羽上皇が最初に上陸したのがこの地で、上皇が1泊したと伝わる三穂神社は、今もひっそりと残っています。



バスは、南端の崎から一旦引き返し、島の中央にある峠を越えますが、その途中に島根半島がかすかに望める場所がありました。



また雨上がりなどには、伯耆大山も見ることができるようですが、この日は生憎見ることはできませんでした。

中ノ島にも高い断崖があります



バスは、多井、御波、知々井、保々見という集落を経由して、今度は島を東から西に移動し、出発した隠岐汽船乗り場に戻りました。

途中にある集落



路線バスを上手に使えば、国立公園隠岐の風景を楽しみながら、離島の人々の様子や、古い歴史を誇る集落の現状をつぶさに見ることができるのです。




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浦郷港からは、観光バスに乗って15分、赤尾展望台に到着すると、海からの高さ257m、大山隠岐国立公園のベストスポット国賀海岸を眺めるビューポイントの牧場に到着です。

浦郷港



ほぼ垂直に切り立った摩天崖は、海による浸食を受けてできた崖(海蝕崖)として、日本一の高さがあるという説明がありました。



ここの展望台は、岬の先端に突き出したコテージ風「あずまや」で、海と空の中に浮かんでいるように見え、リッツカールトン・バリにあるスパオンザロックを思わせます。



バスは一旦高原を下り、今度は摩天崖の上の展望台に移動すると、そこも高原牧場になっていて、意外と多くの馬や牛が一心不乱に草を食んでいました。



この頂上近くに元陸軍参謀で、シベリア抑留経験のある瀬島龍三氏(1911~2007年、伊藤忠商事元会長で中曽根首相のブレーン)が揮毫した「山本幡男顕彰之碑」がありました。



戦後、ソ連軍によってシベリヤに抑留された日本兵の一人山本幡男は、収容所で句会を開くなど同胞に生きる希望を与え続けていましたが、帰国する前にかの地で亡くなっています。



持ち出すことを禁止された山本の遺書(4500文字)は、全文が7名の同胞によって丸暗記され、生還した彼らが日本の妻子に届けたそうです。(ダモイ遥かに:辺見じゅん著より)



西ノ島別府の「ふるさと館」に、その資料の一部が展示してあり、辺見じゅん氏は山本のことを「偉大なる凡人」と称えています。



摩天崖の上の展望台からは、西ノ島の最高峰(標高452m)焼火山がよく見えましたが、島前(西ノ島、中ノ島、知夫里島3島)は、この焼火山を中央噴火丘とする外輪山で、カルデラが沈下した部分が島を引き裂く海となっています。

馬の背中の先が焼火山頂上



現在でも外輪山外側の直径は、約18キロもあり、沈下していなければ島後(隠岐の島町)の面積とほぼ等しいようです。



国賀海岸を見下ろす高原を20分ほど散歩して景観を楽しんだあと、バスは最後の観光スポット、由良比女神社に向かいます。



由良比女神社の前浜には、かつてイカの大群が押し寄せ、いくらでも手づかみできたと聞きましたが、一度遭遇してみたいものです。


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菱浦港から連絡船「いそかぜ」に乗ると、僅か6分で西ノ島の別府港に到着、フェリー埠頭の先にある国賀観光船のチケット売場に急ぎます。

観光船



別府港の国賀観光船は、15人くらいの乗客を乗せて出港、菱浦港にも寄港して2名を乗せ、西ノ島と中ノ島の海峡を北上しながら西ノ島の東端を目指しているようです。

別府港出航



隠岐の島町のある島後を正面に見ながら、西ノ島の最東端の沖を西に曲がると、じきに北面する断崖が見えてきます。

島後



その前に、最近発見されたゲゲゲの鬼太郎に出てくる「ねずみ男岩」を見物するため観光船は一旦沖の小島に回航します。



小島の北側にある波の侵食でできた「ねずみ男岩」を見て、その西に向かうと大山隠岐国立公園のハイライト東国賀海岸です。

右がねずみ男岩



隠岐は、火山の噴火でできた島で、東国賀海岸の断崖には、六角形をした玄武岩の柱状節理が見られ、この玄武岩は城崎温泉の近くの玄武洞のものと良く似ていました。



冬の北西の季節風が、気の遠くなるような時間をかけて西ノ島の北西部分を削ってできたのが国賀海岸です。



大山隠岐国立公園に指定されている景色は、確かに美しいものがありますが、何かもう一つ楽しめるものがあれば、もっと客が呼べるのではないかと思います。



例えば、カプリ島の青の洞窟のような神秘的なスポットへの案内とか、魚や海鳥の餌づけとか、何か感動してもらえるイベントを工夫して欲しいと思いました。



あとで調べてみると、波が穏やかであれば、東国賀海岸にある洞穴(明け暮れの岩屋)の中に船で入るイベントもあるようですが、波が高い日が多いので、チャンスに恵まれる確率は低いようです。



観光船は、国賀海岸の絶景を堪能したあと船引運河に入りますが、幅12m、長さ335mの運河は、大正4年に完成している結構歴史のある運河です。



運河の幅は、意外と狭いものでしたが、運河を出て西ノ島大橋を潜ると、じきに観光船の終点となる浦郷港到着です。

国賀海岸のおまけ写真(天気が悪く写りがイマイチでした)



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松江東急インを7時15分にチェックアウトして松江駅のバス停まで歩き、7時55分発七類港行きのバスを待つことにしました。

七類港のフェリー「おき」



隠岐行きのフェリーがでる七類港行きバスは、積み残しを出す混雑ぶりでしたが、後からすぐに臨時バスが出たようです。

七類港のフェリー「くにが」



七類港フェリーターミナル(以下メテオプラザ)は、島根県出身の高松伸氏が1994年の設計コンペで最優秀賞となって設計したビルで、ビルの奇抜なデザインには何回見ても飽きない面白さがあります。

フェリー「くにが」のデッキから見た「おき」とメテオプラザ



メテオ(隕石)プラザのHPには、「1992年12月10日 夜9時頃、島根県松江市美保関町の民家に一つのいん石が落下しました」とあります。

隠岐汽船のフェリー「しらしま」



長さ25センチ、重量6,4キロの隕石は、46億年前に太陽系の誕生と共に生まれ、6100万年の間、宇宙を旅してきたものだそうです。

メテオプラザ屋上にある隕石のモニュメント



さて、松江からバスで35分かかった七類港では、出発の1時間前なのに乗船ブリッジに行列ができていました。



特別2等のチケットを申し込むと売り切れだったので、2等のチケットを買い、乗船待ちの行列に並んでいると、出航40分前に乗船が始まりました。

マリンポート海士ホテルの沖を通過するフェリー「しらしま」



船に入ると、2等客室には割り込む隙間が無かったので、貸しゴザを借りてきて通路に敷き、固いゴザの上の3等スペースに座って隠岐に向かいました。

途中寄航する別府港



出港してデッキに出てみると、メテオプラザ屋上の隕石のモニュメントが朝日を反射して光っていましたので、設計者は海から見た姿が最も美しくなるようデザインしたのではないでしょうか。



フェリーは、知夫里島の来居港、西ノ島の別府港を経て、七類港から3時間かけて目的地の菱浦港に到着です。



菱浦港では、フェリーが港に接岸したり、出航する写真を何枚か撮っておきましたが、船には何か魅力を感じますね。

菱浦港からバックで出航するフェリーしらしま




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堀尾氏は、2代目の忠氏が初代堀尾茂助吉晴(1544~1611年)よりも先に亡くなり、3代忠晴(1599~1633年)にも嗣子が無かったために1633年に断絶しています。



これは、1609年に隣の伯耆米子藩主(17万石)中村一忠に嗣子が無かったため断絶となったこと、1619年広島藩の福島正則家51万石の断絶、1632年熊本藩の加藤清正家52万石の断絶などに続く外様大名つぶしの一環だったと思います。

太鼓櫓



大名家が断絶すると、家臣団とその家族は路頭に迷うことになるのですが、次々と発生している大名家の無嗣子断絶を知っていた堀尾家に危機対策は無かったのでしょうか。

三の門前にある樹齢350年のクスノキ



堀尾氏の跡は、若狭9万石から京極高次の長男、忠高(1593~1637年)が先祖(佐々木氏)以来の領地であった出雲隠岐26万石に入国しています。

天守から宍道湖方面(南)の展望



その京極忠高もわずか4年後に嗣子が無いまま死去し、京極家も断絶されかけましたが、父親の徳川家に対する忠義と鎌倉以来の名門であったことが考慮され、甥(妾腹の実子という説も)に当たる京極高和が播磨龍野に6万石(後に丸亀に移封)の大名として存続を許されています。

松江城北門跡の石垣



京極氏の後には、松平直政(1601~1666年)が信濃松本7万石から一挙に18万6千石に加増されて松江に入っています。

松江城天守



松平直政は、2代将軍秀忠の兄、結城秀康の3男という親藩中の名門の出身で、2代綱隆以降歴代松江藩主は、将軍の名前から1字を受けることが伝統とされ、その書面が松平家の菩提寺である月照寺の宝物殿に展示されていました。

月照寺唐門



松江城の二の門の先には、松江開府の堀尾吉晴、松平直政、松平治郷(不昧)公を祭る松江神社があり、石の鳥居には出雲侍従源直政朝臣と彫り込まれています。



この神社は、寛永五年(1628年)堀尾忠晴が創建した東照宮を明治になってから松江城に移し松江神社と改称したもので、昭和初期に堀尾吉晴、松平直政、松平治郷が合祀されています。

手水舎



本殿は、堀尾忠晴によって1628年に建造されたもの、拝殿は松平直政が松江に入った後の1661年の建造、手水舎も松平直政時代の1639年に建築された古いものです。


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松江城天守閣から北側に回り、北門跡から石段を下ると松江城の北東部分、松江護国神社の前に出ます。

松江城天守



そこから北に向かって歩くと、城山稲荷社への参拝路の前を通って内堀に架かる稲荷橋、さらに新橋を渡ると600石~200石までの中級藩士の家が並んでいた地区に入ります。

新橋と堀



松江城内堀に沿って緩やかにカーブする「塩見縄手」と呼ばれるこの地区の遊歩道は、江戸時代の雰囲気が良く残っていて、「日本の道100選」にも選ばれていました。



その武家屋敷の一部は、1890年に英語教師として松江に赴任してきたラフカディオ・ハーン(1850~1904年、小泉八雲)の記念館で、現在の館長は八雲から4代目(曾孫)の小泉凡氏とか。

小泉八雲記念館



この建物は1933年に開館した洋風建築でしたが、この地区が伝統美観保存地区に指定されたために1984年に和風建築として再建されたようです。

塩見縄手の武家屋敷



小泉八雲記念館の収蔵品は、直筆原稿20点、書簡80点、遺品90点、著書など資料950点と充実していて、時間をかけてじっくり拝観すれば八雲の思想が少し見えてくるように思いました。



展示されていた八雲の書簡の中に、「日本で最もすばらしいものは、歴史や文化では無く、日本女性である」と松江藩士の娘であった妻の小泉セツのことを書いたものがありました。



小泉セツが、武家の娘として受けてきた躾と教養は、40歳の西洋人、八雲にとって驚嘆に値する何かがあったのではないでしょうか。

武家屋敷にある田部美術館



小泉八雲記念館の隣の武家屋敷が小泉八雲旧居として公開されていますが、ここには1891年5月~11月までのわずか半年しか住んでいなかったようです。



塩見縄手に公開されている武家屋敷は、600石程度の中級藩士の屋敷で、屋敷替えによって複数の藩士が入れ替わり居住していたようです。 

武家屋敷の長屋門



建築後約275年を経ている母屋は、約70坪の広さがありますが、南側の日当たりのよい場所は表座敷と呼ばれる公的なスペース、私生活に使うスペースは北側にありました。

武家屋敷の裏



松江の冬、北向きに暮らしていた当時の武士の家族は寒い思いをしていたのではと思いますが、このように中級武士の屋敷が保存されている例は全国でも珍しいそうです。


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松平氏初代の直政から9代までの墓所は、松江城の南西1キロの場所にある月照寺です。



最後の藩主となった10代定安(1835~1882年)は、津山藩から養子として入ったためか、明治15年に東京で亡くなったせいか、ここに墓地はありませんでした。

初代直政墓地



この墓地の配置で特徴的なのは、唐門の真正面の高台に7代治郷(不昧公)の墓が配置されていることでしょう。

7代治郷(不昧公)墓地



また、6代宗衍(むねのぶ、1729~1782年)墓地に向かって左側には、巨大な石の亀の上に石碑が建つ、寿蔵碑と呼ばれるものが置かれていました。



月照寺は、1891年頃松江に滞在していた小泉八雲のお気に入りの場所だったそうで、この珍しい亀の彫刻のことも彼の随筆に紹介されているようです。



さて、月照寺を見たあと「レイクライン」に乗ってホテルに戻り、シャワーを浴びてからいよいよ夕食に繰り出すことにしました。

大橋川沿いの遊歩道



今日の食事は大橋川に近い「根っこ屋」という松江料理の店で、6時過ぎに入ったら、時間が早かったせいでほとんどお客がいませんでした。

前菜



根っこ屋のコース料理は、どれも手の込んだもので、日本海の海と湖の幸で久しぶりに満腹することができました。

宍道湖に遡上するスズキの吸い物



次がお造り(ヨコワ、白いか、甘エビ、マトウダイ)です。



3つ目の料理が日本海名産「のど黒」の塩焼きで、高級魚の「のど黒」を食べるのは初めてでした。



4つ目が宍道湖名産のシジミの酒蒸でしたが、こんなに大きなシジミは久しぶりです。



5つ目が揚げたての海老のてんぷら



6つ目が岩海苔で包んだ大きなおにぎりで、これで腹いっぱいとなりました。



最後がデザートというメニューでした



帰り際に大橋川越しの松江の夜景を何枚か撮ってみましたが、どれもブレていて使えるのはたった1枚だけでした。



実は、紹介した料理は、ホテルを通じてセットして貰ったものだったのですが、日本海と宍道湖の幸を堪能できて、大満足でした。


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さて、東急インから歩いて数分の距離にある松江駅バス停に行き、ホテルのフロントで聞いた松江観光ループバス「レイクライン」に乗ることとしました。



朝9時前から夕方の5時過ぎまで20分ごとに運行しているレイクラインは、1回の乗車が200円ですが、500円の1日パスを買えば乗り放題の上に観光スポットの入場料が割引きとなる特典が付いているので松江観光には便利なバスです。



バスで市内を移動すると、松江城の外堀が延々と続いていましたが、内堀だけでなく外堀もこれだけ保存されている都市は少ないのでは無いでしょうか。



さて関ヶ原で徳川に味方した堀尾吉晴、忠氏父子がその戦功から出雲隠岐24万石に移封され、1603年から1611年にかけて築城したのが松江城です。



小雨の中、堀越しに見る松江城は、石垣の上に櫓が3棟(左から南櫓、中櫓、太鼓櫓)と、櫓と櫓をつなぐ城壁が見事です。



この櫓と城壁は、2001年に再建されたものですが、大阪城本丸に江戸末期まであった櫓や城壁も松江城を見習って、ぜひ再建して欲しいと強く思いました。



1611年に築城された松江城の天守は、日本に現存する天守としては、平面規模で2位、高さで第3位、古さでは6位といわれ、国の重要文化財に指定されています。

太鼓櫓



堀尾家と石高がほぼ等しい土佐山内家24万石の高知城天守閣は、狭い山の上にあるためか、松江城よりも規模が小さかったように思います。



さて一の門から本丸に入ると、牛蒡積みと呼ばれる傾斜が直線となっている石垣の上に約400年間の風雪に耐えた天守閣が聳え建っていました。



その天守閣の内部は、細い角材を束にした柱など築城当時の雰囲気が良く残っていて、非常時に引き上げられる階段は、厚さ10センチもある軽い桐材を使っているせいか、かなりすり減っていました。



内部には、武具などの陳列品もありましたが、400年前に完成している松江城は、木組の構造自体が一番の見所ではないでしょうか。



天守閣の最上階からは、今でも松江市内を360度見渡せ、東西南北いずれも素晴らしい景観が楽しめます。

南側は宍道湖




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午後1時に荷物だけ預けようと思い、JR松江駅前にある松江東急インのフロントで名前を告げると、ありがたいことに部屋の用意ができていますとのこと。

JR松江駅



また、松江市内観光について聞いてみると、ホテルの近隣と市内中心部が記載された無料地図で詳しく説明して貰えたので助かりました。

フロント



用意されたツインの部屋は、狭い空間に機能的にベッドが配置されていて、観光で1泊するには十分なスペースがありました。



バストイレのスペースも、ほかのビジネスホテルよりも少し広く、バスタブも深く、足を伸ばせるくらいのサイズがあります。



部屋には冷蔵庫、空気清浄機があり、エアコンの効きもが良く、蒸し暑い市内観光から冷房の効いた部屋に戻ると、ほっと寛ぐことができました。

部屋からは松江駅が見えました



また、このホテルの7階にあった自動販売機では、ビールなどの飲み物がコンビニと同じくらいの安い価格に設定してあったのにはビックリしました。



ホテルの自動販売機は、常識外れの高い価格となっているのが普通なのに、良心的な東急インの自販機は助かりました。



さて翌朝の朝食は、HPに7時とありましたが、実際は6時半から利用することができ、余裕を持って朝食を楽しむことができました。



東急インの朝食バイキングは、余り期待していませんでしたが、ヒルトン東京ベイホテルの朝食と比べても遜色ない内容だったように思います。



松江東急インでは、時期によって朝食付きの方が安い宿泊プランもあるので、よく調べて申し込むと得なようです。



松江駅前には、多くのビジネスホテルが建っていましたが、駅からの距離が近い利便性と、全国チェーンのブランドを信用して今回の宿泊を東急インに決めて正解でした。


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今年は、記録的に遅い梅雨明けとなったようで、連日うだるような暑さが続いていますが、この暑さを体感すると、6年前に赴任していた中国の広東省、広州市を思い出します。

広州の朝



ちなみにネットで検索してみると広州市の最高気温は37℃、最低気温は28℃とありました。

広州のビジネス街



北回帰線に近い広州の夏は、12時頃の太陽が真上から照りつけ、外を歩く人は、足元に頭と肩の部分だけの小さな影ができる不思議な現象を見ることになります。

広州の夜景



この暑さがあるため日本には無い亜熱帯特有の作物が育ち、最も暑い6月下旬から7月中旬に出回るライチーは、安くておいしいので楽しみでした。

広州東駅前歩道



特売売り場には、朝獲れたライチーが山積みされ、その中から良く熟れた大粒の果実だけを慎重に選んで袋に入れ、500グラムが150円くらいだったと思います。

広州のスーパー



また、日本では高価なマンゴーやドリアン、マンゴスチンなどの果物も安く、思う存分食べることができたのは楽しい思い出です。



なかでも匂いの強烈なドリアンは、私の大好物となり、果汁がしたたるくらいに熟れたパック詰めのドリアンを毎日食べていましたが、残念ながら帰国してからは一度も口にすることがありません。



マンゴーも安く、300円くらいで腹いっぱいになる量を買うことができましたが、中には日本では目にすることのないジャンボサイズもありました。



夏の暑さは、作物の稔りを人間に与えてくれる天の恵み、少しくらいの暑さは辛抱しないといけません。

広州の街角



日本でも、真夏しか食べられない果物が結構あるので、少し贅沢をして天の恵みを楽しみ、夏の暑さに感謝する、それが人間の知恵かもしれません。


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