南海岸和田駅から一つ和歌山側の駅が蛸地蔵駅で、そこから5,6分歩くと岸和田城である。
岸和田とは、岸という場所に攝津、河内、和泉の守護であった楠木正成の家臣、和田高家が1334年に築いた城があったので「岸の和田城」という言葉が縮まったことが地名の始まりらしい。
その当時の城は、現在の岸和田城から500メートル東側にあり、1583年に中村一氏が一時城主を務めている。
二の丸(左)と本丸(正面)
中村一氏が水口城主に転封後の1585年、小出秀政が入封して本格的な城砦建築が始まり、1597年には5重5階の天守を築いている。
別名猪伏山(いぶせやま)千亀利(ちきり)城と呼ばれる岸和田城は、6万石の大名の城としては面積、石垣の高さなど大規模な城で、天守閣の規模では32万石の岡山城に匹敵するという。
明治維新期に櫓・門など城郭施設を岡部家が破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していない。
本丸の入り口は櫓門1箇所だけ
現存する内堀石垣の下部には、城の防衛面から見ると弱点となる周堤帯(犬走りとも呼ぶ)があり、なぜこのような構造にされたかはわかっていないらしい。
本丸多門櫓
1827年、落雷のため5層の天守が焼失し、以来再建されなかったが、現在の天守は1954年3層で再建された模擬天守である。
小出秀政は、豊臣秀吉の叔父であったために、豊臣の大阪城を守る前線基地として大規模な岸和田城を作ることが許可されたのであろうが、大名の築城には厳しい届出制を敷いた江戸期には実現しなかった巨大な城となっている。
北西方向から見た本丸
小出秀政は、秀吉から片桐且元とともに秀頼の補佐役を依頼されていたので関ヶ原のときには大坂城にいて、出石6万石の大名となっていた嫡男吉政が西軍として行動している。
しかし弟の小出秀家が東軍に属して戦功をあげていたため、小出秀政は本領を安堵され吉政、吉英と岸和田で3代続き、吉英の代に元の出石に転封している。
北側から見た本丸(石垣が補修されている)
1619年には、譜代の松平(松井)康重が5万石で入封し、2代城主を務めているが、2代康映(やすてる)のときに播磨の山崎、その後石見の浜田に転封している。
本丸の東側は岸和田高校
譜代大名の松平(松井)康重の家系は、後に老中を輩出する重要な地位を占めているので、松平の姓を許されていた松井家は、徳川家に相当信頼されていたようである。
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