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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日に続き、2014年の万博公園の桜を紹介しましょう。大阪モノレール万博記念公園駅のスロープを下り、万博公園に通じる陸橋の手前左側には桜によく似た花海棠(ハナカイドウ)があります。開花はほんの一部だけ、あと一週間くらいが満開でしょう。

昨日も紹介した「花の丘」に満開となっていたサクラです。

白い花がセイヨウミザクラ(西洋実桜)

ソメイヨシノよりも少し小さな花が咲いています。

薄いピンクの株は、エドヒガン(江戸彼岸桜)。この花もソメイヨシノより小ぶりです。枝垂れ桜は、江戸彼岸が枝垂れ状に変形した株だそうです。

こちらは桃の花

春の泉を取り囲むように咲いていたカンヒザクラ(寒緋桜)です。

カンヒザクラも満開でした。1週間後には、散ってしまう可能性があります。鶴見緑地公園のオカメザクラと近い種類でしょう。

桜と言えばソメイヨシノ。水すましの池に咲いていました。

つづく



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万博公園では、3月29日(土)~4月13日(日)まで桜まつり、その初日に万博公園に行ってみると、5500本もあるというソメイヨシノは三分咲きくらいでした。・・・東大路から太陽の塔方向

公式HPに万博公園の桜の地図があったので、それをもとに公園内の桜の株を訪ねてみました。・・・梅園の近くに咲いていたのは、ピンク色が強い桃の花。

まずは、万博公園の西口に近い「花の丘」。黄色い菜の花の先、白い株が西洋実桜、右の薄いピンクの株が江戸彼岸桜です。

この江戸彼岸桜(エドヒガン)は、北摂に自生していた株を育てたものだそうです。・・・八分咲きくらいでしょう。

万博公園の北西「春の泉」の周囲には、ピンク色の寒緋桜(カンヒザクラ)が満開でした。

春の泉から水すましの池に通じる桜の流れ(左)沿いにあるソメイヨシノ。ここは東大路よりも開花が早く、五分咲きくらいでしょう。この右側が絶好のお花見ポイントでした。

水すましの池の周囲の枝垂れ桜は、七分咲きくらい、早くも見頃となっていました。

桜の流れ西側広場にある紅枝垂桜も満開でした。・・・その後方にある白い花は満開のハクモクレンです。

せせらぎ広場にある巨大な枝垂桜は、まだ一分咲きくらい。あと一週間後が見頃ではないかと思います。

つづく



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日本軍はルソン島を決戦場と定め、1944年9月に着任した山下奉文大将指の揮下に戦備を充実しつつありましたが、レイテ島に米軍が上陸するや南方軍総司令部(在シンガポール、寺内寿一元帥)は、決戦場をレイテに突如変更、ルソンに配備している1個師団をレイテ島に投入するように命令しています。・・・ひげそり用のブラシに似たシュードボンバックスの花(アオイ科・メキシコ~グアテマラ原産)

山下大将は、ルソン島は現有勢力でないと守れないと強硬に意見具申しますが総司令部には受け入れられず、精鋭の第一師団をマニラからレイテ島オルモックに緊急輸送することになります。・・・クマガイソウ

最初の輸送作戦は概ね成功しますが、次第に米軍の航空爆撃が激しくなり、輸送船団に搭載した精鋭兵器、弾薬、食料輸送が殆ど沈められ、助かった兵士だけ着の身着のままレイテに上陸するとういう状態でした。・・・サボテンの花

制空権を奪われた戦域での海上輸送は成功しないことを、日本軍はガダルカナル島で一度経験していたはずですが、遠方で作戦計画している総司令部は、レイテでもまた同じ過ちを繰り返したのです。・・・クリナムアメリカヌム(ヒガンバナ科・アメリカ原産)

米軍は、現地の事情を最も良く知る現地指揮官に作戦を一任する(上級司令部は作戦に口出ししない)方針を取って成功、日本軍は現地指揮官に任せず、安全な司令部から細かなことまで命令し続けて失敗、山下大将のルソン島決戦案は画餅に帰したのでした。・・・熱帯スイレン

1944年12月11日、日本軍の輸送基地だったレイテ島のオルモックが占領されると、レイテ島の日本軍(まだ5万7千名もいました)は、軽武装のままレイテ山中に四散、早期に脱出した3000名以外は圧倒的な米軍の攻撃で全滅しています。・・・熱帯スイレン

大本営は、作戦部長宮崎周一中将を東京からマニラに派遣、山下大将に正々堂々の決戦を促しますが、山下大将は制空権が無く補給も途絶えた日本軍に決戦をする力は無く、戦略持久戦に持ち込むしか無いと回答しています。・・・カラテア・コロカータ(クズウコン科・ブラジル原産)

1945年1月9日、米軍はルソン島リンガエンに上陸、空から襲い掛かってくる敵機を避けて山中に潜んだ日本軍28万名のうち何と21万6千名が戦死しています。・・・ラシュナリア・ギエッシー(ユリ科・ナミビア原産)

フィリピンでの戦いの結果、南シナ海の制空権制海権が完全に米軍のものとなり、日本への南方資源(主に石油)の輸送ルートが遮断されてしまうのです。・・・スピロクセナ・カナリクラタ(コキンバイザサ科・南アフリカ原産)

太平洋戦争の開戦時、石油を南方から日本に輸送すれば米軍と互角に戦えるという日本政府の計画は、このとき破綻、一億玉砕という日本全滅の道か敗戦を認める道しか残っていなかったのです。

参考文献:25歳の艦長海戦記 森田 友幸著

 



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鶴見緑地公園の咲くやこの花館は、珍しい外国産の植物が展示してあるお気に入りの場所です。・・・ラシュナリア・ギエッシー(ユリ科)ナミビア原産

今回も外国産の春に咲く花を撮影に行ってきました。ツユクサの仲間・・・コクリオステマ・オドラティシムム(ツユクサ科)コスタリカ・パナマ・エクアドル原産

これはもう少ししたら咲きはじめる日本のコブシの花に少し似ています。・・・シロバナソシンカ(中国原産)

此の花に似た日本の花は思いつきません。・・・仏教三大聖樹のひとつムユウジュ(マメ科・インド原産)

エンジェルトランペットに似た花でした。・・・オオバナカズラ(キョウチクトウ科・ヒマラヤ~中国雲南省原産)別名ネパールトランペットフラワー

コダチアサガオ(ヒルガオ科・ブラジル原産)

パフィオペディルム・フェアリーアヌム(ラン科)、アッサム~ブータン原産

カリアンドラ・ハエマトケファラマメ科・ボリビア原産)ネムノキの花に似た赤いパウダーパフ。

トリプラリス・クミンギアナ(タデ科・チリ原産)花がウサギの耳のように見えることで知られています。



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駆逐艦磯風の乗組員だった特年兵の1期生、井上理二氏の書いた著書から、磯風の最後と咲くやこの花館のハイビスカスの写真を紹介しましょう。

昭和16年、海軍省は14歳から16歳未満の男子を海軍の中堅幹部として募集しはじめ、応募者の中から学業体力ともに優秀な者を採用(特年兵と通称)しています。

短期のスパルタ教育を受けた第一期生は2年8か月で卒業し、二等兵曹(陸軍なら伍長)に任官、将来は佐官への登用の道も開けていたそうですが、実際は終戦によって実現しませんでした。

その第一期生3700名のうち2500名(78%)が戦死、特年兵の死亡率は圧倒的に高かったのですが、国際法上(ジュネーブ条約で「兵士は満15歳以上」とされていました)問題のあったこの制度を日本は公式に認めていないようです。

さて、昭和19年1月、特年兵として駆逐艦磯風に乗艦したのは16歳の井上理二(二等兵曹、陸軍なら伍長)、17歳となった昭和20年4月7日、350名の磯風乗員と共に沖縄特攻に出撃しています。実は大学卒の見習士官は、戦後復興に必要な人材として全員特攻作戦参加除外となり、艦を下りたのですが、彼らよりも若い特年兵にはその特典が無かったのです。

沖縄に向かう途中、12時30分頃から始まった米軍機の攻撃で14時頃には戦艦大和は満身創痍となり、磯風が所属する第二水雷戦隊旗艦の巡洋艦矢矧も沈没寸前となっていました。

多数の敵機が攻撃してきている緊迫した状況下、磯風が属する第二水雷戦隊の旗艦矢矧から磯風に「近寄れ」の命令が出て、矢矧に急行すると「横付けせよ」との命令が下ったといいます。

半年前、戦艦山城に乗艦していた西村祥治中将(当時54歳)は、駆逐艦隊に「われを顧みず突撃せよ」と命令して最後を遂げていますが、矢矧の古村啓蔵少将(当時48歳)は「横付けせよ」と命令したのです。

米軍機の攻撃を高速で回避していた磯風が矢矧に横付けしようとしたとき、スピードの落ちた磯風の右舷側後部が空爆され大破、舷側からの浸水で右に傾き始めたといいます。ほどなく旗艦の矢矧も沈没。

救助された古村司令官は、大破した磯風を沈める命令を出していますが、磯風乗組員は「横付けせよ」の命令が無ければ磯風は無事だったと司令官を怨んだといいます。

 参考文献:「駆逐艦磯風と三人の特年兵」井上理二著



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あべのハルカス60階展望台とその景色の紹介シリーズの5回目、これが最終回となります。

この展望台トイレは、太陽の光が差し込んで非常に明るく、全面ガラス張りとなっていました。

あべのハルカス展望台の北西は、難波から中之島の西端方向の展望となります。画面中央の右から左に向かって淀川が流れているのが判るでしょうか。

左に大阪ドーム、その先が淀川河口です。淀川の向こうには尼崎のタワーマンションが見えています。

大阪ドームを中心にズームアップしてみましょう。淀川に架かる新伝法大橋が見えています。空気の透明度が良ければもっと鮮明に写るはずですが。

淀川が流れ込む大阪湾の景観です。透明度が良ければ明石海峡大橋が見えるはずです。

あべのハルカス展望台の南西方向は西成区です。画面の左上から右(難波方向)に伸びているのが南海本線。左の白い屋根のすぐ右側が天下茶屋駅。画面下を左から右にカーブする阪神高速の手前が有名な西成区山王3丁目です。

あべのハルカス展望台の南西方向の先は、住之江区南港(咲洲)、その手前が大正区です。

あべのハルカス展望台直下から南、堺を経由して和歌山方向に伸びる旧紀州街道。この先に住吉大社がありますが、この日は見えませんでした。阪神高速と交差する右側には広大な阿倍野墓地が見えています。

今度はもっと空気の澄んだ日にもう一度来てみたいと思いました。

 



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あべのハルカス展望台記事の途中ですが、大阪南港かもめ埠頭からのフェリーさんふらわの出港風景をみてきましたので紹介しましょう。

関電南港発電所のすぐ右下がかもめフェリーターミナル、出港直前のフェリーさんふらわがエンジンを始動、煙突から煙が出ています。

夕陽は、かなり傾きはじめています。この日晴れていましたが、空気の透明度が悪く、水平線の向こうに沈む姿を最後まで見るのは難しいでしょう。

沈む夕陽がフェリーターミナル入り口の塔(アンテナ塔?、以下アンテナ塔とします)にかかりはじめました。

港のアンテナ塔にかかる夕陽です。

アンテナ塔の真後ろまできた夕陽

このタイミングで、フェリーさんふらわが後進しながら出港です。おそらく鹿児島志布志港行きでしょう。

フェリーさんふらわの船体に描かれた太陽と本物の夕陽、二つの太陽が写っています。

フェリーさんふらわの南港出港とほとんど同時に夕陽が水平線の彼方に沈んでゆきました。



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あべのハルカス展望台シリーズの第4回目です。今回は展望台から見た東側、北側、西側の景観を紹介しましょう。

まずは東の生駒山方向の景色です。この方向には目立つ高層ビルがありませんが、右端にJR久宝寺駅前のメガシティタワーズ(高さ142m)が見えています。此の方向には緑地が少ないですね。

北東方向(京都)の景色です。遠くに鶴見緑地公園がかろうじて見えています。また上町台地に林立するタワーマンションの姿が目につきます。天気が良ければJR京都駅前の京都タワーが見えるようです。

鶴見緑地方向をズームアップしてみましょう。右端に門真のなみはやドームの白い屋根が写っていますね。鶴見緑地の左には、守口市の地下鉄大日駅前にあるタワーマンション(サンマークスだいにち、高さ134m)が見えています。

ついでに上町台地方向をズームアップ。黒いクリスタルタワーのすぐ左に大阪城天守閣が見えますね。中央の高いマンションは、ウェリスローレルタワー上本町(高さ146m)

さて、いよいよ大阪の中心部、あべのハルカス北側の景観です。少し遠いですが、梅田の周辺には、超高層ビルが林立、左手前の難波あたりにもかなり増えてきました。

梅田のビル群をズームアップしてみましょう。中央部分で最も高いのが中之島フェスティバルタワー(高さ200m)、右の黒いタワーは北浜タワー(高さ209m)。上空に左側の伊丹空港に着陸する飛行機が見えています。

中之島フェスティバルタワー(高さ200m)を中心にさらにズームアップしてみました。左の関電本社ビル(高さ195m)との間に高度を下げた着陸寸前の飛行機が写っています。その進行方向に伊丹空港滑走路が写っています。

こちらは西側、神戸方向の景色です。左に南港咲洲のコスモタワー(256m)、中央やや右に弁天町のタワーマンション、クロスタワー大阪ベイ(高さ200m)、ORC200(高さ200m)が見えています。

この日は空気の透明度が低く、残念ながら明石海峡大橋は見えませんでした。

つづく



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あべのハルカスの記事の途中ですが、3月21日の春分の日、大阪港シーサイドコスモから淡路島と明石海峡が良く見えましたので紹介しましょう。シーサイドコスモ遊歩道

大阪港の出口にある白い灯台の左側に明石海峡大橋が見えます。

この日、明石海峡上空にある雲の影響で淡路島側主塔の一部が日陰となっています。

神戸空港に着陸する飛行機も良く見えました。

淡路島にある風力発電風車は、島の上空に雲があったため殆んどが日陰に入っていましたが、1台だけ見えていました。

大阪港白灯台の向こうにポートアイランドから神戸空港に渡る橋が見えています。

海上保安庁の小型巡視船「かつらぎ」(114トン)が海鳥をけちらしながらパトロールに出動しています。

帰る途中、フードアウトレット跡地にあるヨウコウザクラがもう開花しているのを見つけました。

コスモタワー前の遊歩道では、何と満開のオオシマザクラを見つけました。今の時期に咲くオオシマザクラは、珍しいと思います。

明日は、あべのハルカスの展望の記事となります。



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あべのハルカスの59階は下りエレベーター乗り場とショップとトイレ、その下の58階にカフェレストランと屋外展望台があります。このオープンエアの展望台(天空庭園)は、実に気持ちが良い空間でした。

左がレストランの屋外テーブル、見上げると60階の展望台。60階は両側がガラス壁で囲われています。その上の屋上(61階)に見えている機械は窓の清掃用でしょう。

北側の難波、梅田方向は緩い階段となっていて、腰かけて景色を楽しんでいる人が大勢いました。

後ろから見ると、こんな風に皆さん寛いでいました。混雑する60階よりも、こちらの方がゆっくりできますね。

吹き抜け部分を見上げると、そこに300mの表示がありました。矢印のポイントが300mなら、60階展望台の高さは290mくらいかも知れません。

さて今回は、あべのハルカス展望台近くの景色というタイトルなので、まずは天王寺公園と天王寺動物園です。実は下の写真をよく見ると、何と通天閣が写っています。

阪神高速のすぐ上、中央が通天閣ですが、高さが低いので周囲のビルと溶け込んで実に判りにくいタワーとなっていました。

河底池の向こうが茶臼山、その上に見える大屋根は一心寺。茶臼山の左に一心寺の墓地も写っています。

あべのハルカス展望台からは、四天王寺の伽藍と墓地も良く見えます。

つづく



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あべのハルカスからの展望の記事の途中ですが、今朝の大阪港シーサイドコスモから六甲山がクリアに見えましたので紹介しましょう。

少しズームアップ。六甲山頂は、薄く積雪しているようです。

これくらいズーミングしてみると、山頂部の積雪が良く判ります。

下の写真、右のクレーンのすぐ左側、山頂にアンテナが林立している場所が六甲山最高峯932mでしょう。山上を覆うのは雪雲でしょうね。

アンテナ付近をもっとズーミング。山上の建物が何とか判別できます。

六甲山の少し左側(西側)も見てみましょう。この辺りはホテルや別荘が集中しています。

さらに左側(西側)を見ると、六甲山の中腹まで大規模な住宅街が広がっています。

その部分を拡大してみましょう。六甲山麓が大阪港からこれほどクリアに見える日は少ないと思います。

カモメが突然カメラのフレームに飛び込んできました。

明日はあべのハルカスからの眺望の記事となります。



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あべのハルカス60階、展望階です。左のエスカレーターで59階に下りると、みやげ物ショップとトイレと下りエレベーターロビー、58階はカフェレストランと屋外展望台(天空庭園)となっていました。

60階から2フロア下にある58階の屋外展望階が見えています。60階の上に屋上がありますが、そこは公開されていませんでした。

60階の展望階から南側方向(堺市)を見ると、ちょうど逆光です。この方向は、ビルが少なくて景色はあまり良くありません。

60階の展望階(天上回廊)は、東西南北をぐるりと周遊できる回廊となっています。下の写真の左側が南、正面が西、右側が北方向。このデザインは斬新ですね。

それでは西側の直下を見てみましょう。左は、あべのキューズモール。その右上が大阪市立大学病院、ガラス外壁は、アポロ・ルシアス、その下のタワーがアベノnini(高さ96m)

JR天王寺駅と天王寺MIO、あべのハルカスの影が伸びています。

JR天王寺駅から左にカーブする環状線、まっすぐ伸びる関西本線、右にカーブのが阪和線、右下の近鉄阿倍野橋駅からは近鉄南大阪線が伸びています。右のタワーマンションは、シティタワーグラン天王寺(高さ162m)

あべのハルカスから南東方向の景観です。シティタワー天王寺のやや右上に二上山がかすかに見えています。空気の透明度が良ければもっとクリアに見えるはずですが。

あべのハルカスから南側の景観です。逆光ですが下から左上に伸びる阪神高速松原線、その右に長居植物園と長居競技場(ヤンマースタジアム長居)の白い屋根が見えていますね

あべのハルカスの記事は、あと3回続きます。



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3月7日にオープンしたあべのハルカス展望台。そろそろ空いてくるころではないかと思い行ってきました。天王寺公園側からアクセスすると、陸橋の向こうにABENO HARUKASの文字が見えました。

壁面文字ABENO HARUKASの下に到着、そこに展望台 16Fチケットカウンターの表示が出ていました。

中に入ると、入場チケットの確認があり、それを見せてからシャトルエレベーターの前に並びます。

シャトルエレベーターで16階へ上がり、入場者はチケットカウンターまで右側の列を進みます。

右がチケットカウンター、ここで前売り券と入場券を引き換えるようになっていました。

チケットカウンターは、1~4番までありました。

交換した入場券をゲートのバーコードリーダーに通し、60階までの直通エレベーター前に並びます。

展望台へのエレベーターは、2台です。

エレベーターのスピードが早く、すぐ60階に到着。展望台は、こんな広いフロアーとなっていました。

あべのハルカスの記事は、今回を含めて5回の連載となります。

つづく



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太平洋戦争の開戦は、日本の中国に対する報償行動(法律用語でいう復仇、国際不法行為の中止を求める行為)がエスカレートした結果だったと歴史学者の加藤陽子さんは書いています。そこで近所の早春の花と一緒にその経緯を紹介しましょう。

相手国が条約に違反する行為をした場合には、それを中止させる目的で相手国の貨物や船舶を抑留したり、領土の一部を占領する行為のことを報償といい、当時は法律上の違法とは見做されませんでした。・・・紅梅

1932年(昭和7年)、リットン調査団が日本を訪れた際に大阪商業会議所は次のような書類を調査団に渡しています。・・・プリムラ・ジュリアンの黄色い花

「満州の変乱を惹起せるは(中略)支那が条約によって日本に認められたる権利を尊重しなかった(日本製品の不買運動の)ため、日本をして正当防衛の行動に出ずるの外なからしめた」・・・白梅

リットン調査団の付属書には、中国による日本製品ボイコットを武力によらない敵対行為とし、これは不戦条約に違反しているので日本は(正当な)報償措置を取っているとの記述があります。・・・サクラソウ

1937年7月、盧溝橋事件で始まった日中戦争で、双方が宣戦布告をしないまま戦闘を続けたのは、双方が日本の中国に対する報償行動と解釈していたからでしょう。・・・白梅

1938年(昭和13年)6月、近衛文麿の書いた文書には、日中戦争をあたかも匪賊(集団で掠奪・暴行などを行う賊徒)を討つ戦いとし「戦闘の性質は、領土侵略、政治、経済的権益を目標とするものに非ず、日支国交回復を阻害しつつある残存勢力の排除を目的とする一種の討匪賊戦なり」と書いてあります。・・・パンジー

また1939年(昭和14年)1月、中支那派遣軍司令部作成の文書に「今次事変は、戦争に非ずして報償なり。報償の為の軍事行動は、国際慣例の認むる所」とあります。・・・プリムラ・ジュリアン

この報償行動は、中国に送りこまれた陸軍の先陣争いとなってエスカレート、これを見た米国が硬化し、中国からの日本軍撤兵を要求したことが1941年12月からの太平洋戦争突入のきっかけとなるのです。・・・シャリンバイの若葉

日本は将兵を消耗品のように扱って一億玉砕(日本滅亡)の方針を展開、対戦する米軍は全力を上げて兵士への補給と救助活動を展開、勝敗は最初から決まっていたのでした。

参考文献:岩波新書 満州事変から日中戦争へ 加藤陽子著



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大阪城梅林も紹介しましたが、梅の花が盛りを迎えましたので、近所に咲いていた梅もついでに紹介しましょう。・・・春らしくポカポカ陽気を表現してみました。

梅のオシベ

八重咲きの紅梅も春の陽気に満開です。

黒い背景にして花を浮き上がらせてみましょう。

背景の明るい方が、春の雰囲気を良く出していますね。

黒い背景の白梅

紅梅

白梅

これも黒い背景の白梅・・・春がすぐそこまでやってきている感じが出ているのではないでしょうか。

 

 



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