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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



伊藤萬は1883年初代伊藤萬助が創業した繊維商社で、1919年に家業を継いだ2代目伊藤萬助(卯三郎)になってからの大正末期から昭和初期が「天下のイトマン」といわれるイトマンの全盛期だった。

1904年の伊藤家一族



その後日中戦争、太平洋戦争を生き延び、東証、大証1部上場企業として順調に発展を続けてきていたが、1973年のオイルショックで在庫が異常なレベルに達し、経営環境が急速に悪化したという。

そこで主力行の住友銀行から、高卒で役員にまで出世していたパワフルな河村常務(1924~)を社長として迎え、4代目の伊藤寛は代表権の無い会長に退いている。

住友銀行本店正面



当時50歳であった河村は社長就任早々、従来からの繊維商社から脱却し伊藤萬を総合商社とする方針を打ち出し、持ち前のパワーで陣頭指揮したことから業績はみるみる向上し、河村は「伊藤萬・中輿の祖」として賞賛されることになる。

1976年には旧伊藤萬ビルを建て替えた伊藤萬ビルが御堂筋と本町通の交差点に完成している。

2006年1月解体寸前の伊藤萬ビル(左)と御堂筋



1985年河村は、住友銀行頭取の磯田一郎(1913~1993年)から平和相銀の内紛株買戻しの要請を受け、住友銀行の影武者として住友から巨額の融資を受けたことから泥沼に入り込むことになった。

イトマン事件で伊藤の弁護人であった田中弁護士の書いた「反転」という本によれば、1990年頃に地上げ屋をしていた伊藤(1945~)は、磯田一郎の自宅に足しげくかよい、気に入った磯田が伊藤をイトマンに推薦したという。

反転



一方、イトマン事件の裁判の記録を検証した、野木昭一氏の「論談:イトマン」によれば、河村が「伊藤は不動産のプロ、らつ腕、やり手なのでイトマンへ入社させて仕事をやらせたい」と表明し、周囲の反対を押し切って入社させたという。

しかし、河村発言の裏には田中弁護士の書いているように、住友銀行の磯田頭取の意向と、磯田の意向に従えば住友からの融資をさらに増やせるという河村の計算が隠されていたのではなかろうか。

2006年4月解体中の旧伊藤萬ビル



河村は、不動産事業を統括する企画本部長として1990年2月に入社させた伊藤を、僅か4ヶ月後には筆頭常務に昇進させているが、伊藤の友人であった許(1947~)も次第に伊藤萬の経営に関係を持つようになっている。


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今から130年前に創業した南地大和屋の場所は、道頓堀川に架かる太左衛門橋の北、宗右衛門町通りを少し北に入った場所である。

太左衛門橋から北の大和屋跡地を望む



南地大和屋跡地は、丁度工事現場となっていて、2008年8月の完成を目指して12階建の高層ホテルが建築中であった。

高層ホテル



この場所を1959年の住宅地図で見ると、大和屋(芸妓扱所)と書いてあるので当時も「お茶屋」であったのであろう。

1959年の地図



「甘党お多福」とある敷地には、今も小多福という店が残っているので、この土地の地主はバブルの荒波も乗り越えて50年後の今も変わっていないのかもしれない。



1965年には、敷地面積1392㎡、延べ面積5184㎡地下2階、地上5階の南地大和屋ビルが完成しているが、敷地の形が1959年の地図とかなり違うので、ビルに合わせて土地の区画を整理したのであろう。

1970年の地図に載っている大和屋



この南地大和屋ビルは、2003年10月に閉鎖され、大和屋の店舗としては高島屋大阪店内「大和屋三玄」、そごう心斎橋店「大和屋」の他に東京横浜に3店舗が残るだけとなっている。

今では大和屋に仕出しを届けていた吉兆のほうが有名になってしまっているが、明治から大正、昭和40年代まで大阪では超一流のお茶屋であった。

吉兆主人湯木貞一のコレクションを展示した湯木美術館ビル



1951年、大和屋3代目の阪口祐三郎は、南花街組合を結成し初代組合長となり、1953年には全国花街連盟の初代会長になっているほどである。

ミナミの大和屋を贔屓にしていた有名人は数多いが、代表的な人物として電力業界の松永安左ヱ門(1875~1971年)、永野重雄(1900~1984年)新日鉄会長、小泉信三(1888~1966年)慶應義塾塾長、司馬遼太郎(1823~1996年)などがいるという。

道頓堀



司馬は年に二回、関西在住の作家、田辺聖子や陳舜臣と語らい、編集者にも声をかけ、「大和屋」で芸者をあげて宴会することを恒例としていたという。

1984年に4代目を継いだ阪口純久(きく)さんは、今も全国に大和屋5店舗を展開する(株)季之三玄(きしさんげん)の社長で、2000年には大阪市民表彰を受けている。

道頓堀東側、日本橋たもとの観光ホテル大和屋本店と大和屋は関係ないようである



祐三郎から店を継いだ阪口純久(きく)さんは、一時大和屋の地下を改装し、高級ナイトクラブ「酒肆 大和屋」を新たに開いたことがある。

すぐ近くの料亭で仲居をしていた尾上縫が、自分の店の屋号を「酒肆 恵川」としたのは、伝統と格式のある大和屋のネーミングにあやかったのかも知れない。

阪口祐三郎の弟・阪口金蔵氏が創業したのが、天王寺にある阪口楼で、今も営業を続けている。


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明治維新から10年後の1877年、奈良県五条出身の元芸者「阪口うし」は、大阪ミナミ宗右衛門町に大和屋という芸者置屋を創業している。

道頓堀に架かる太左衛門橋(写真の橋)を右に入ったところに大和屋があった



「阪口うし」は、松本重太郎(1844~1913年)が若い頃、その人柄と才覚を見込んで、出世払いで大金を用立てたとされている重太郎の恩人であった。

今のミナミ宗右衛門町の朝



後に住友銀行と肩を並べる百三十銀行頭取となった松本重太郎は、現在の東洋紡績、南海電鉄、JR西日本、日本火災海上保険、アサヒビールなど多数の企業を創業した事業家として有名な人物である。

住友銀行本店



出世した松本重太郎との縁で大和屋は隆盛を極める事になったが、子供の無かった「阪口うし」は、急死した弟の子供を引き取り、長男の祐三郎(1883~1961年)を、松本重太郎のもとに丁稚として預けている。

道頓堀に架かる太左衛門橋へのアプローチ



そのころ松本家には、住友や鴻池といった財界の名士から、西郷従道のような政治家まで、訪問する客が多く、祐三郎は松本重太郎の恩人の息子としてそうした一流の人物の謦咳に触れて多くを学んだようである。

宗右衛門町の交差点(写真)を右に入れば南地大和屋



日露戦争が始まると、祐三郎は騎兵として出征し大陸で戦っているが、3年後に無事大阪に戻り、26歳で大和屋を相続している。

その後、祐三郎は1910年に「大和屋芸妓養成所」を作り、育てた芸者の仕事場を増やすために置屋から茶屋、そして料亭へと、手を広げていったらしい。

大和屋が2軒ある1938年の地図



阪急電鉄の創設者、小林一三(1873~1957年)は大和屋を贔屓としていて、宝塚歌劇はこの芸妓養成所の若い芸妓の踊りを見たことがヒントになったと語っている。

大正から昭和初期になるとミナミの大和屋は、超一流という評判が立ち、政界、財界の名士の社交場として知られるようになっている。

1956年の地図に載っている二鶴は今も隣に残っている



昭和になってからの大和屋では、宗右衛門町から遠くない「吉兆」から料理の仕出しを毎日数十人分も取っていたので、吉兆の湯木貞一(1901~1997年)は、盆暮に必ず祐三郎のもとに挨拶に来ていたようである。

今の吉兆高麗橋本店



祐三郎は、昭和初期に玉造税務署の署長だった池田勇人(1899~1965年)が遊びに来たときに、若い者の来る所ではないと追い返したことから、後に首相となる池田勇人は祐三郎を気に入り、終生大和屋を贔屓とするようになったという。


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田代恭介氏の小説「日債銀破綻の原罪」の中には大阪千日前の料亭恵川のおかみ、との取引の様子が詳細に描かれていて興味深い。

恵川のあったビル



日債銀も興銀の3千億円には及ばないが、縫に最高8百億円ものワリシンを売っていたようで東京から副頭取が千日前の恵川に来店し、お礼の一席を設けている。

1990年10月頃から日債銀は恵川との取引を減らし、1991年2月には取引が終わっているが、ほどなく恵川は破綻してしまうので、このときの日債銀の判断は正しかったことが証明されるのである。

旧日債銀大阪支店は関西アーバン銀行ビル



バブル崩壊によって、頴川史郎会長が進めたノンバンクや不動産業向け融資が巨額の不良債権となって、経営を圧迫し始めている。

1993年、保有株式の売却や債権買収機構などを積極活用した中期経営計画が進められ、同年に窪田弘元国税庁長官、1996年には東郷重興元日銀理事をそれぞれ経営首脳に迎え、日債銀は事実上大蔵省・日銀管理銀行となっている。

関西アーバンビルの入り口



しかし不良債権をペーパーカンパニーに付替える、いわゆる「飛ばし」行為による粉飾決算は、この1993年以降に本格化しているので大蔵、日銀も日債銀破綻については同罪と言われても仕方が無い。

1998年、窪田元会長・東郷元頭取ら旧経営陣3名が、粉飾決算による証券取引法違反容疑で逮捕されたが、A級戦犯の頴川史郎元会長が時効によって逮捕を免れているのは皮肉である。



日債銀は1998年12月に経営破綻し一時国有化、2000年に投資グループに売却され「あおぞら銀行」に行名が変更されている。

あおぞら銀行大阪支店のビル



「あおぞら銀行」として売却したときに、金融再生委員会と預金保険機構は、日債銀の債務超過を穴埋めするため、3兆円を超える公的資金投入しているが、この金は返済されずにすべて国民負担となったのである。

2004年東京地裁は 逮捕した窪田元会長以下3名に対し、有罪判決を言い渡し、2005年、東京高裁にて旧経営陣と整理回収機構との賠償支払の和解が成立、頴川元会長が4千万円、松岡誠司元頭取ら8人が計1億6千万円を連帯して支払う内容となっているという。



その頴川氏は今年3月、84歳という天寿をまっとうしているが、国のお金を3兆円も負担させた張本人として晩年どのような人生を送ったのであろうか。


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日債銀は、1957年長期信用銀行法に基く日本不動産銀行として設立され1977年に日本債券信用銀行に行名変更されたが、長銀と同じようにバブルで崩壊してしまった。

日債銀大阪支店があった旧日債銀ビル



金融再生委員会と預金保険機構は、日債銀を投資グループに売却したときに、債務超過を穴埋めするため、3兆円を超える公的資金の投入を行ったが全額が返済されずに国民負担となっている。

その破綻のプロセスは、元行員であった田代恭介氏の小説「日債銀破綻の原罪」に詳しく描かれているので紹介したい。



1969年には第4代頭取として勝田が就任し、その後18年間の長期に渡って、頭取・会長として実権をふるい、バブル崩壊直後の1992年に死去するまで名誉会長の座にあった。

勝田は、会長に退いたときに「会長として院政はしない」と発言して本質を知る行員の失笑を買っているが、最後まで院政を敷いて人事権を手放さなかったという。

御堂筋のそごうと旧日債銀ビル



勝田は、気に入らない部下は強引に左遷・降格した超ワンマンであったが、昭和史の専門家としても有名で、「重臣たちの昭和史」という本を出版している。

しかし日債銀の社員をゴーストライターとしていたようで、頭取のお気に入りのゴーストライターが、役員にまで出世したのも行内では有名な話だったという。

旧日債銀ビルは今、関西アーバン銀行ビル



1982年に頭取となったのは、勝田と良く似た頴川(1947年東大経卒)で、「貸して・貸して・貸しまくれ」、と積極融資の大号令をかけ、不良債権を心配する慎重派役員や幹部社員は全員左遷されてしまった。

元日債銀社員の田代恭介氏は、小説「日債銀破綻の原罪」の中で、日債銀の巨額の不良債権は頴川の経営戦略に位置づけられた無謀な拡大方針によって組織的に生み出されたと喝破している。

関西アーバン銀行1階御堂筋側は喫茶スペース



バブルの直前の1988年6月、勝田は名誉会長、頴川は会長に退き、松岡誠司頭取が誕生しているが、拡大路線と社内の序列はそのまま引き継がれている。

勝田は、丁度バブルがはじけた1991年5月に名誉会長のまま79歳で亡くなっているので、10億円近い退職金を貰った上に日債銀の破綻を見ずにあの世に行った悪運の強い人であった。

隣は日航ホテル



ちなみに、公的資金3兆円が回収不能となるまで不良貸付をドンドン進めた張本人の頴川が役員退任時に貰った退職金は約6億円といわれているが、彼は時効により刑事立件を逃れている。


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天神祭りの午後、大阪天満宮に立ち寄ってみると、南門を入ったすぐ西側の舞台で、3人の女性が指を曲げ、手や体をくねらせて龍踊りをやっている。



龍踊りを見ていると、催太鼓の願人と舁方(太鼓中と呼ばれる講)が大勢集まりはじめ、観客は境内の隅に移動させられてしまった。



境内の隅から見ていると、太鼓中に紙コップのお神酒が配られ、全員で乾杯したあとで、土足(白足袋)のまま拝殿に上がりお祓いを受けている。



天神祭りの祭礼に土足昇殿を許されているのは、太鼓中だけで昔拝殿から催太鼓を舁出していた由緒による伝統といわれている。

30分以上もの長いお祓いの後、太鼓中が拝殿から下りてくると、いよいよ催太鼓の始まりである。



まず6人の願人と、采頭、采方あわせて8人が太鼓台に乗り、最初はゆっくりとしたリズムで太鼓を打ち始める。

リズムの間隔が短くなると、舁方が太鼓台を担ぎだし、台に乗らない願人(30人)と台を担がない舁方(350人)全員が太鼓台を取り囲みながら境内を練り歩くのである。



その間、太鼓台は2,3度立ち止まって、願人、采頭、采方、舁方数百人全員で「打ちまひょ(パン、パン)もうひとつせぇ(パン、パン)いおうて三度(パン、パン、パン)」と一糸乱れない大阪締めをやるのがカッコいい。



大阪締めが終わると、50人の舁方が太鼓台をシーソーのように揺らす「縦からうす」と、横に揺らす「横からうす」を交互に何度も続け祭りを盛り上げている。

その「横からうす」は、水平な台が垂直になるくらいまで豪快に左右に傾けられるので、太鼓台の上にいる人は振り落とされそうである。



太鼓台の上の願人達は、必死になってふんばり、太鼓を叩いたり掛け声をあげたりして天神祭りの花である「からうす」を盛り上げている。

そのうち催太鼓の太鼓中は、南門から天神橋筋商店街のアーケード街に出てゆき、替わりに木場の提灯を掲げた20メートルくらいもある船が台車に乗って入ってきた。



この船を引いてきた木場講の連中も、神社からのお祓いを受け、大阪締めをやって境内から出て行き、これから大阪天満宮のはじまりである。


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江戸時代から日本3大祭りの一つとされる天神祭りは、大阪天満宮が鎮座した2年後の951年より始まったとされていて、当時は大川より神鉾を流して流れ着いた場所に祭場を設けて、その祭場で禊払いを行う簡素なものであったらしい。



その後640年を経た1590年代、豊臣秀吉から拝領した陣太鼓が元と伝えられる催太鼓が始まり、今も天神祭の陸渡御(おかとぎょ)の先頭を切る祭りの花となっている。

打法が10数種類もある催太鼓は、太鼓台に乗った願人(がんじ)と呼ばれる6人の叩き手によって叩かれる低音の伸びが素晴らしい大太鼓で、大阪府の無形文化財に指定されている。



願人は長い赤い布が垂れ下がった投げ頭巾と呼ばれる帽子をかぶり、背中に背ブチと呼ばれる木の棒を背負う、祭りの主役らしい非常に目立つ姿が特長である。



太鼓台を担ぐ人を「舁方(かつぎかた)」と言い、舁方を3年以上経験しなければ願人にはなれないので、願人は舁方をしている若者のあこがれとなっているようである。



6人の願人の他に、舁方と願人を統率する「采頭(ざいがしら)」と「采方(ざいかた)」というベテランが太鼓台の上にいて演奏や移動のタイミングを指示している。



願人は6人を一組として全部で36名、太鼓台を担ぐ舁方は50人を一組として、全部で400人、他の諸役を含めると600人の大集団が交代で催太鼓をするという。

天神祭りの催太鼓は、「からうす」というパフォーマンスをすることが他の祭りに無い特長であろう。



「からうす」は、50人の舁方がシーソーのように揺らす太鼓台の上で、願人が太鼓を叩くという技で、縦に揺れる縦からうすと横に揺れる横からうすを交互に何度も続ける豪快なパフォーマンスである。

実際に見ていると、かなりのスピードで揺らされるので、願人達は振り落とされそうになりながらも必死で太鼓を叩いているが、「からうす」の遠心力で投げ頭巾が落ちないようにしなければならないという。



大阪天満宮の拝殿前で繰り広げられるこの催太鼓の「からうす」は、天神祭の勢いを感じさせてくれる祭りのハイライトの一つであろう。

元禄時代(1688~に1703年)になると講が形成され、この頃の天神祭の壮大さは東海道中膝栗毛や世間胸算用の中にいきいきと描かれているという。



天神祭は、幕末から明治初期の混乱期と、日中戦争、第二次世界大戦(1938~1948年の間)船渡御や祭事が中止されているが、1949年には船渡御が復活し、徐々に江戸期をしのぐ盛大な祭りとなっている。


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京都から九州までの天満宮の中で、特に菅原道真に関係の深い25か所を選んで「菅公聖蹟二十五拝」というらしいが、阪神福島駅前の福島天満宮は、その第12番とされている。



901年、左遷された菅原道真が、航路を使って太宰府をめざした時、当時西への船旅の風待ち所(島)がこの地であったという。



ここに立ち寄ったとき1本の梅の木を見た道真は、「行く水の中の小島の梅さかば、さぞ川浪も 香に匂ほらむ」という歌を詠んだという。

土地の土豪であった「徳治郎」のもてなしを喜んだ道真は、布に自らの姿を描いて与えたといい、現在も此の自画像が福島天満宮の御神体となっている。



道真が風待ちの間にこの土地(島)の名を聞くと、鹿飢島とか葭原島と呼ばれているとの答えであったので、徳治郎の徳にちなんだ「福島」と改めればどうかと言ったらしい。

福島天満宮鳥居の向こうには超高層ビル



それ以降、この地は福島と呼ばれるようになったというので、福島の名付け親は天神さんでおなじみの菅原道真という大物であった。

大宰府に左遷されてほどなく道真は亡くなっているが、訃報を聞いた福島の人々は、その徳を慕い、907年に道真が歌を詠んだ梅の木の場所に祠を設け道真を祀ったのが福島天満宮の創始であるという。

福島天満宮から程近い玉江橋



従って福島天満宮の創始は、919年とされる太宰府天満宮、947年の京都北野天満宮、949年の大阪天満宮よりも更に古い1100年の歴史を持っている。

福島天満宮の旧社殿は、1909年の大火で炎上し、御神体を除く旧記・宝物等大部分が、灰燼に帰したが、6年後に本殿が再建され、1921年には拝殿以下の社殿が竣工している。

福島の超高層ビル全景



戦時中の1945年、境内に焼夷弾が11発も落下したが、すべてが不発弾であったために焼失を免れたのは道真の霊験であったのかもしれない。

境内



1967年、なにわ筋の拡幅で120坪を道路に提供しているので、現在のような狭い境内になってしまったようである。


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高島屋大阪店の地下1階にあるスイーツコーナーに入って左側、一番最初の店がグラマシーニューヨークである。



7年前に行ったニューヨークには確かにグラマシーと呼ばれる地区があり、19世紀には高級住宅街であった閑静な場所として知られている。

そこから屋号を取ったグラマシーニューヨークは、名古屋と桑名の中間にある愛知県海部郡蟹江町に本社がある丸信製粉(株)という製粉メーカーの系列の(株)プレジィールの展開するスイーツのチェーン店である。



丸信製粉(株)は創立が1907年という古い会社であるが、「名古屋には感動を覚えるお菓子が無い」と言われたことがきっかけで、1986年に(株)プレジィールを作ったという。

(株)プレジィールによるグラマシーニューヨークの展開は、1998年JR名古屋高島屋店に出店したのが最初で、大阪には2003年阪急梅田店にオープンしている。



その後も出店は続き、今では全国に8店を展開しているが、梅田阪急店以外はすべて高島屋に出店しているのが面白い。



高島屋大阪店には2005年2月に出店しているので、オープンから2年半近くが経過しているが、今でも客が行列を作っていて、高島屋の中ではトップクラスの人気店となっている。



この成功は、スイーツの美味しさもあるが、愛知県にある製粉会社の子会社という田舎のイメージを徹底的に隠し、ニューヨークから進出したような都会的なイメージを守ってきたことと、他の店よりも少し高い高級路線が成功したからであろう。



従ってこのグラマシーニューヨークでケーキを買う客は、人よりチョット高いケーキをオシャレな店で買ってチョットした優越感を味わえるという具合である。



店の中にはカウンターとテーブル席があり、ここで注文すれば、行列に並ばずに好きなケーキをすぐに食べることができるようになっている。



丁度ショーケースの中に店のコンセプトと少し違和感のある「茶人」という和風のスイーツがあったので、それとコーヒーを注文してみた。



栗と小豆の餡と抹茶のババロアと生クリームがカップに入った涼しそうな「茶人」は、コーヒーと一緒に頂くと今の季節に丁度良い甘さであった。


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終戦後間もない1950年、大劇ビル地下の遊戯施設跡に設けられた飲食店がアルバイトサロン(アルサロ)である。

なんばオリエンタル西の千日前



アルサロは、同じ松竹が持っていた旧大阪歌舞伎座(今のビックカメラビルの場所)にあった進駐軍向けのキャバレーの人気にあやかって日本人向けにスタートしたという。

千日前さらに南の賑わい



支配人を務めた磯田敏夫は織田作之助門人の文士でもあり、自らの経験が元になった映画「ネオン太平記」ではロケにも使用されたようである。

なんばオリエンタル南の千日前通り



1967年日本ドリーム観光は、不採算物件であった大劇の劇場部分を複合ビルに改装し、既に営業していた地下アルサロと上階の映画館(大劇シネマ)を含んだ一大娯楽施設大劇プレイタウンに転換している。

新聞紙面を印刷したステンレスの波板で低層部を囲んだ、なんばオリエンタル南東角



ジャズ喫茶、ボウリング場、ダンスホール「大劇ダンス天国」などが設置され、一階は飲食店の他に千日デパート火災で移転を余儀なくされた一部名店街が入店し、館内は迷路状態となっていた。

なんばオリエンタル北西角



しかしバブルの頂点であった1991年、大劇は老朽化に伴い取り壊され、ダイエー系のなんばオリエンタルホテル(客室数257室)として1996年3月にオープンしている。

ホテル入り口



オープンまでに5年近くかかったのは、大劇プレイタウンに入居していたテナントとの退去に伴う権利関係の調整が難航したせいであろう。

1967年11月頃の住宅地図には大劇の中に多くのテナントが



今もなんばオリエンタルホテルの低層部分には多くの飲食店やパチンコ屋が入店していて、シティホテルと呼ぶにはちょっと抵抗があるくらいである。

なんばオリエンタル北にある榎龍王社



しかしホテルの開業わずか7年後の2003年、ダイエーの経営悪化により、外資のゴールドマンサックスグループに167億円という格安な値段で売却されている。


従って千日前大劇跡地に建つ「なんばオリエンタルホテル」は、青木建設が建てたウエスティンホテル大阪と同じようにアメリカ資本のホテルになってしまったのである。

ウエスティンホテル大阪



東洋劇場が身売りされて大劇となった土地に建つ「なんばオリエンタルホテル」は、東洋劇場と同じように最初の持ち主から次のオーナーに身売りされるよく似た運命をたどっている。


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1945年の終戦後も残った旧大阪歌舞伎座上階のアイススケート場は、進駐軍向けの特殊慰安所(キャバレー)に改装され、朝鮮戦争が終わる1953年頃まで運営されたらしい。

千日前交差点(左は竹林寺)



このキャバレーは、進駐軍側からの指示で置かれていたようなので、アメリカに従軍慰安婦問題をアレコレ言う資格は無いのである。

上空か見た歌舞伎座



1958年、旧大阪歌舞伎座は御堂筋に今もある大阪新歌舞伎座に移転し、旧歌舞伎座の建物は改装されてショッピングビル(千日デパート)として開業している。

大阪新歌舞伎座



1972年の千日デパート火災発生当時は1,2階が『千日デパート』、3,4階は『ニチイ千日前店』、5,6階が均一ストア、ゲームコーナー、7階がキャバレー『プレイタウン』で、地下1階は喫茶店という雑居ビル状態だった。

千日デパート跡地のビックカメラ



火災は3階で改装中のニチイ婦人服売り場より22時半頃出火し、避難設備の不備と従業員の不手際が重なって、死者118名・重軽傷者78名という大惨事となってしまった。

その後長らく焼け跡は放置されて利用されなかったが、バブル直前の1984年ダイエー系のデパート「プランタンなんば」が建ち、ダイエーが倒産した後の2001年からはビックカメラなんば店となっている。



ビックカメラから少し南側にある、なんばオリエンタルホテルの場所には、1933年(昭和8年)に建てられた映画館「東洋劇場」があったが、翌年すぐに経営に行き詰まり売却先を探すことになっている。



松竹は、この東洋劇場を買収し1934年「大阪劇場」(通称・大劇)と改称して、阪急の宝塚少女歌劇団に対抗する大阪松竹少女歌劇の本拠地としている。

大劇では実演と映画の二本立て興行を行うようになり、実演は大阪松竹少女歌劇のレビューか人気歌手の歌謡ショウ、映画は松竹映画を上映したために千日前はますます娯楽の場所として庶民の人気を集め賑わっている。

今の千日前、オリエンタルホテル西側



戦時中の空襲で一帯は焼け野原と化したが、大劇ビルは残ったようで演芸街・飲食店街としての復興を果たし1948年、大阪松竹少女歌劇は大阪松竹歌劇団(OSK)と改称し、笠置シズ子や京マチ子といったスターを生み出している。

オリエンタルホテル南側



戦後1960年代くらいまで、千日デパートや大劇のある千日前は、現在グリコの看板のある戎橋筋よりもはるかに人通りが多く賑わっていたという。


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台風4号の接近でテニスの練習ができなくなったのでブルース・ウィリス主演の映画、ダイハード4.0を見に行ってきた。



ブルース・ウィリスは、1988年、33歳でダイハードの主演俳優に抜擢され、ロスアンゼルスの日系企業ナカトミビルを占領するテロ集団とたった一人で果敢に戦い、最後に全員を撃滅するという痛快なアクションで一躍人気スターとなっている。



当時の日本はバブルの絶頂期で、テロ集団が狙うほど日本企業は金をため込んでいるとアメリカ人に思われていたのが今では懐かしい。



ダイハード1が大ヒットしたために、2年後の1990年にダイハード2が公開されたが、これもクリスマスのワシントンダラス空港の官制システムを占領したテロ集団から空港を守るスケールの大きな痛快アクション映画であった。



それから5年後の1995年には、ニューヨーク連邦準備銀行の金塊を狙ったテロ集団を相手にしたダイハード3が公開されたが、ブルース・ウィリスも40歳になり過激なアクションはこれが最後かと思っていた。



ところが、それから12年も経った今年、ダイハード4.0が公開されるというので、52歳になったブルース・ウィリスのアクションを一度見てみたかったのである。



ストーリーは、主人公が事件に遭遇しながらも知恵と体力を駆使してテロ集団と戦い抜く、前3作とよく似た内容となっているので、52歳のブルース・ウィリスには相当しんどい撮影だったのではなかろうか。



今回のジョン・マクレーンは、保護したハッカーと共同してサイバーテロ組織と戦うという内容であったが、FBI副局長も知らない場所を知っていてすぐに急行するとか、ジェット戦闘機が高速道路をミサイル攻撃するなどかなり無理な展開もあったように思うが、最後まで痛快なアクションを楽しむことができた。



テロ組織のメンバーの一人に、昨年公開された「ミッション:インポッシブル3」でイーサン・ハントの仲間役に抜擢された東洋系美人のマギー・Q(28歳)が出演している。



マギーは、ハワイ出身の女優で、父親はハワイ・ポーランド・アイルランド混血アメリカ人、母親はベトナム人といいスリムなボディのマギーがカラテでジョン・マクレーンと戦うアクションは見もので存在感があった。



どこかで見たことがあると思っていたら彼女は高校卒業後、日本でもモデルとして活躍したことがあり、資生堂のCMなどに出演したことがあるらしい。


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キリンビアパーク神戸の見学通路には、キンリンビールラベルの歴史、ビールの歴史などのパネル展示もあったが、キリンプラザ大阪のキリンビールの100年展の展示のほうがもっと迫力があったように思う。



最後に案内された試飲コーナーのカウンターでビール券を渡して「ニッポンプレミアム」という新発売の缶ビールを1本グラスに注いでもらう。



「ニッポンプレミアム」は、日本の風土でつくった麦芽とホップを用いて醸造した、オールモルトビールという。



キリンビールによれば、国産麦芽を用いることにより、旨み成分であるアミノ酸が豊富で、発酵による甘い香りをいかしたやわらかな味わいを実現、さらに、岩手、秋田、山形産の国産ホップのみを用いることで、上品で華やかな香りと、シャープで引き締まった苦味のビールに仕上がったという。



試飲コーナーには大きな窓があり、ビオトープが見渡せるようになっているので、外の景色をゆっくりと眺めながら、ビールを試飲できるようになっていた。



ツアーガイドの女性から缶ビールのビアグラスへの注ぎ方をレクチャーして貰いながら、キリンビールが発売した新しいプレミアムビールをじっくりと味わってみた。



苦味が少なく、少し甘さを感じるビールであったが、飲みやすく、あっという間にグラス1杯を飲み干してしまった。

一番絞りのカウンター



そこでビールサーバーのカウンターに戻って「おかわり券」を渡し、作りたてのキリンラガービールをもう1杯注文する。



この作りたてラガービルは、全く雑味がなく麦芽とホップの純粋な味がして店で飲む生ビールよりもはるかに美味いと思った。

当然先に飲んだ缶ビール「ニッポンプレミアム」よりもはるかに美味いと思ったが、このキリンビアパーク神戸での試飲は2杯で終りなのである。



工場見学時間が40分、試飲が20分の合計1時間のツアーであるが、やはり最後の試飲タイムがクライマックスであろう。


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1615年、大坂夏の陣が終わった時期に大坂市街地にあった墓地が整理統合され、当時農地であったこの場所に大規模な墓地と刑場、焼き場が併設されたという。



その後、1637年に山城国宇治郡にあった「法善寺」が墓地の霊を鎮めるために現在地に移り、寺で千日念仏を唱えていたことから門前の通りがこの名になったといわれている。

法善寺の不動堂



千日前から法善寺に至る参道の突き当たり左側にある水掛不動は有名で、毎日参拝者が水をかけるので緑の水苔が生えてしまっている。



環境省の「かおり風景百選」にも選ばれている法善寺水掛不動を久しぶりに訪ねてみると、ゴチャゴチャしていた南側がスッキリと整備されていた。



芝居小屋の多い道頓堀の裏手に当たる千日前は、明治になって刑場が廃止されても墓地跡ということで買い手がなく、寂れた場所であったという。

道頓堀



その上、1912年の「ミナミの大火」ではこの地にあった数少ない集客場所の遊郭が消滅し、千日前はますます寂しい場所になったらしい。



1903年に難波~和歌山市間を全通させていた南海鉄道の社長は、近代的なレジャーセンターの建設で千日前を復興することを考え、千日土地建物を設立し、大阪の興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけている。

法善寺通りから千日前を見る



山川吉太郎は、1914年に千日前交差点の南西隅(ビックカメラの場所)に娯楽センター「楽天地」を建設したために千日前は一躍市内の名所となっている。



この「楽天地」の開業をきっかけに、付近には映画館・演芸場が瞬く間に進出しはじめ、道頓堀と肩を並べる娯楽の街へと変貌したというので、今日の千日前の繁栄は、山川の「楽天地」のお陰なのである。



楽天地は、山川吉太郎が映画に熱中して多額の借金を抱えたことで1930年に廃業したが、2年後松竹によって跡地が買収され、7階建て収容人数3千人という巨大な「大阪歌舞伎座」ビルが建設されている。

1918年の地図にある法善寺、竹林寺、楽天地



1932年に建設された「大阪歌舞伎座」ビルでの興行は1958年、村野藤吾氏設計の大阪新歌舞伎座に移転し、移転で空いたビルは千日デパートとして開業している。



2005年、大阪新歌舞伎座の新しいオーナーとなったのは、(株)リサ・パートナーズという投資ファンド会社で、この4月には大阪新歌舞伎座の上本町移転を新聞発表している。



近鉄劇場跡地に近鉄が建設する新しい複合ビルに2010年夏に移転する予定というが、老朽化した大阪新歌舞伎座を取り壊し、ミナミの中心ともいえる跡地に不動産ファンドが新しいビルを建てるのであろう。


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戎橋のキリンプラザ大阪で、キリンビールの100年展を見たら、どうしてもキリンビールの工場を一度見てみたいと思うようになってきた。



そこで電話で問い合わせして、事前予約制となっているキリン神戸工場の見学会「ブルワリーツアー」に参加してみることにした。



JR大阪駅の4番ホームから出る丹波路快速で40分、福知山線の「三田駅」で下車すると駅前にビール缶型のラガーバスが待っている。



このバスは1時間に1本、三田駅とキリンビアパーク神戸との間を運行している無料バスなので、ビールの試飲をする人には便利である。

バスの内部



ラガーバスに乗って20分ほど走ると、山の中に広大なビール工場、キリンビアパーク神戸が見えてくる。



1階の受付で、予約番号を言って2階に上がると、お菓子や雑貨、ビアグッズなど、キリンビールのアイテムが並んだお土産コーナーがあった。



お土産コーナーの向かい側には、出来立ての生ビールを楽しめる「丘の上のビアレストラン」もあったが、この日はあいにく時間が無かったので中には入らなかった。

2階の一角にキリンビール尼崎工場の誕生から閉鎖までと、キリンビアパーク神戸移転に至るまでの歴史が15枚のパネルに展示されていたのが興味深かった。



待合コーナーには旧尼崎工場で使われていた銅製の巨大な糖化釜がデンと置かれていたが、この中で細かく砕いた麦芽、温水、副原料を混ぜてデンプンを分解(糖化)させていたという。



見学時間になるとツアーガイドの女性が来て、パネルを見ながら神戸工場の概要を説明してくれる。



次に実際のビール・発泡酒に使われている麦やホップの説明であるが、麦は二条大麦、ホップは国産「とよみどり」とチェコ・ザーツ産「アロマホップ」を展示してあった。



次にビールの仕込み工程を映像で紹介されたあと、生産ラインが見渡せる広い通路から窓越しの工場見学である。


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