今から130年前に創業した南地大和屋の場所は、道頓堀川に架かる太左衛門橋の北、宗右衛門町通りを少し北に入った場所である。
太左衛門橋から北の大和屋跡地を望む
南地大和屋跡地は、丁度工事現場となっていて、2008年8月の完成を目指して12階建の高層ホテルが建築中であった。
高層ホテル
この場所を1959年の住宅地図で見ると、大和屋(芸妓扱所)と書いてあるので当時も「お茶屋」であったのであろう。
1959年の地図
「甘党お多福」とある敷地には、今も小多福という店が残っているので、この土地の地主はバブルの荒波も乗り越えて50年後の今も変わっていないのかもしれない。
1965年には、敷地面積1392㎡、延べ面積5184㎡地下2階、地上5階の南地大和屋ビルが完成しているが、敷地の形が1959年の地図とかなり違うので、ビルに合わせて土地の区画を整理したのであろう。
1970年の地図に載っている大和屋
この南地大和屋ビルは、2003年10月に閉鎖され、大和屋の店舗としては高島屋大阪店内「大和屋三玄」、そごう心斎橋店「大和屋」の他に東京横浜に3店舗が残るだけとなっている。
今では大和屋に仕出しを届けていた吉兆のほうが有名になってしまっているが、明治から大正、昭和40年代まで大阪では超一流のお茶屋であった。
吉兆主人湯木貞一のコレクションを展示した湯木美術館ビル
1951年、大和屋3代目の阪口祐三郎は、南花街組合を結成し初代組合長となり、1953年には全国花街連盟の初代会長になっているほどである。
ミナミの大和屋を贔屓にしていた有名人は数多いが、代表的な人物として電力業界の松永安左ヱ門(1875~1971年)、永野重雄(1900~1984年)新日鉄会長、小泉信三(1888~1966年)慶應義塾塾長、司馬遼太郎(1823~1996年)などがいるという。
道頓堀
司馬は年に二回、関西在住の作家、田辺聖子や陳舜臣と語らい、編集者にも声をかけ、「大和屋」で芸者をあげて宴会することを恒例としていたという。
1984年に4代目を継いだ阪口純久(きく)さんは、今も全国に大和屋5店舗を展開する(株)季之三玄(きしさんげん)の社長で、2000年には大阪市民表彰を受けている。
道頓堀東側、日本橋たもとの観光ホテル大和屋本店と大和屋は関係ないようである
祐三郎から店を継いだ阪口純久(きく)さんは、一時大和屋の地下を改装し、高級ナイトクラブ「酒肆 大和屋」を新たに開いたことがある。
すぐ近くの料亭で仲居をしていた尾上縫が、自分の店の屋号を「酒肆 恵川」としたのは、伝統と格式のある大和屋のネーミングにあやかったのかも知れない。
阪口祐三郎の弟・阪口金蔵氏が創業したのが、天王寺にある阪口楼で、今も営業を続けている。
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