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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



江戸幕府は、城の天守の高さに厳しい統制を敷き、幕府にとっての重要拠点となる城(江戸城、大阪城、姫路城など)以外5層の天守を許可しなかったので、豊臣時代に小出氏によって完成していた岸和田城には遡及適用されなかったようである。

戦後再建された天守は、本来の5層ではなく3層



ちなみに、歴代藩主が水戸家から出ていた親藩松平12万石の高松城も3層、譜代筆頭の井伊家35万石の彦根城も3層しかないので、岸和田城主は密かに自分の城を誇っていたに違いない。

二の丸の心技館



藩祖となる岡部長盛は、1590年家康が関東に移封されたとき、下総山崎藩1万2千石を与えられ、関ヶ原の戦いでは、上杉氏の南下に備えた守備で亀山藩3万2千石に加増されて丹波に移封してきている。



1615年、大坂夏の陣でも長盛は功績を挙げて福知山藩5万石に加増され、さらに1624年には西国を押さえる重要拠点である美濃大垣藩5万石へ移封されている。

二の丸の外側にある百軒堀



嫡男の岡部宣勝は、大垣、竜野、高槻城主を経て1640年に岸和田城主となっているが、以降明治維新までの230年間、13代に渡って岡部家が岸和田藩を治めている。

城の北側にある岸城神社



1871年の版籍奉還で多くの旧大名が新政府から距離を置く中、13代の岡部長職(ながもと1855~1925年)は、1875年に渡米してニューへブンズ大学、エール大学へ入学、大学卒業後には、イギリス公使館に勤務して臨時代理公使を務めるなど外交官となっている。

天守の前にある8陣の庭



その後外務次官、貴族院議員、東京府知事を経て第二次桂内閣の司法大臣を務め、旧藩主としては珍しく明治政府の要職を歴任している。

本丸周囲の石垣



岡部長職の長男、長景(1884年~1970年)は、外務省文化事業部長、内大臣秘書官長、宮内省式部次長、陸軍政務次官、貴族院議員、文部大臣などを歴任し、後に東京国立近代美術館館長にも就任している。

本丸内部の石垣



さらに岡部長職の三男、長挙(ながたか1894~1977年)は、朝日新聞社の創業者の村山龍平の娘婿となり、後に朝日新聞社長に就任しているので岸和田城主であった岡部家は、明治以降も各分野で活躍しているのである。


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