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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



真言宗の開祖の空海は804年、30歳の時に遣唐使として唐に渡り806年、真言密教に関する大量の文献資料を持って帰国、大宰府に滞在している。



大宰府では持ち帰った密教文献を体系的に整理していたようであるが、最澄の尽力・支援で809年には入京し神護寺に入っている。

空海が持ち帰った〈密教〉の重要さをこの時点で正確に評価しえたのは、最澄のみであった。

以前、乙訓寺を訪ねた時のブログにも書いたが、空海は811年から812年までは乙訓寺の別当を務めていて、この時期最澄が長岡京市にある乙訓寺まで密教の教えを請いに弟子としての礼を取って訪ねている。



二人は新しい時代の仏教を背負う者として、10年くらい師弟としての交流関係を持っていたらしい。

空海は816年に修禅の道場として高野山の下賜を請い、下賜が実現した817年弟子を派遣して高野山の開創に着手、818年には、空海自身が高野山にのぼり翌年まで滞在している。

823年、空海49歳の時に今度は東寺を賜り、真言密教の道場としたので、高野山の開設の方が6年早かったことになる。



空海は828年 東寺の東側に庶民の為の教育施設である「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開設しているが、1178年も前に庶民の教育の施設があったとは驚きである。

その後835年、高野山にて62歳で入定、すなわち永遠の禅定に入ったとされている。

空海の死後から86年後、921年になって東寺の長者観賢の奏上により、醍醐天皇より「弘法大師」の諡号が贈られた。

東寺の灌頂院



歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよぶが、一般的に大師といえばほとんどの場合弘法大師を指すことが多い。

真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定は死ではなく高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じられ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を日夜確認しているという。


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東寺は794年、桓武天皇が平安京遷都をした際に、国家鎮護のため羅城門の左右に築かれた東西両寺の一つである。



従って、東寺がこの地にできてから1211年という永い時間が経過していることになる。

国宝 金堂



この2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。

このうち東寺は823年に弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄え、中世以降では弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになっている。

講堂



何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門、金堂、講堂、食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままであるらしい。

なお、羅城門を挟んで対称的な位置にあった西寺は早い時期に衰退し、現在は京都市南区唐橋の児童公園内に「史跡西寺跡」の碑があり、付近に「西寺」の寺名のみを継いだ小寺院が残るのみという。

食堂(じきどう)



東寺には「教王護国寺」という名称もあるが、「教王」とは「王を教化する」との意味であり、「教王護国寺」という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められているらしい。

慶賀門にある教王護国寺の石碑



宗教法人としての東寺の正式名称は「教王護国寺」であり、五重塔の国宝指定際の名称は「教王護国寺五重塔」となっている。



しかし、平安時代から今日に至るまで、この寺はもっぱら「東寺」と称され、「教王護国寺」という名称は実際にはほとんど使われてこなかったようである。

宝蔵の前のハス池



「教王護国寺」という名称は平安時代の記録類にも一切見えず、この寺号の文献上の初出は空海死後405年も経った1240年になってからである。



その後1308年に書かれた後宇多天皇直筆の国宝、東寺興隆条々事書や、南北朝時代に成立した東寺の正式の記録書である「東宝記」にも明確に「東寺」と表記されているので、この寺はやはり東寺と呼ぶのが正しいのであろう。


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東寺の講堂の西には東寺(教王護国寺)の本坊(事務所)があり、そこを左に見ながらさらに北に歩くと食堂(じきどう)が見えてくる。



食堂(じきどう)は空海没後、9世紀末から10世紀初めにかけて完成した建物であったが、惜しいことに1930年の火災で焼失したので現在の建物はその後の再建である。



本尊の千手観音立像はその火災で焼損したが、1960年代に修理され、現在は寺内の宝物館に安置されている。

その食堂の前に東寺の拝観受付があり、500円の拝観料を支払って柵で囲われた庭園の中に入ってゆくと、左に桜の大木が植えてあった。

この桜は不二桜といい、樹齢120年、樹高13mの古木である。

もとは岩手県盛岡の旧家にあったものを、秋田、三重と渡って今年ここに移植されたらしい。

4月には八重紅枝垂桜の銘木として、見事な花を咲かせるというので、来年はぜひ桜の季節に訪れたいものである。

庭園の奥に歩いてゆくと、正面に有名な五重塔が見えてきた。



国宝の五重塔は高さが54,8メートルもあり、木造塔としては日本一の高さを誇っている。

創建は空海没後の9世紀末であったが、現在の塔は5代目で、1644年、徳川家光の寄進で建てられたというが、五重塔の北にある瓢箪池に写る五重塔が綺麗であった。



庭園の東側には1198年に再建された簡素な東大門があったが、この門には重要文化財不開門と書いてある。

1336年、新田義貞が東寺に篭城した足利尊氏を攻めたときに、尊氏側がこの門を閉めて危機を脱したことから不開門と呼ばれるようになったという。



門には新田方の攻めた跡が670年後の今も残っているのかもしれない。

有名な五重塔は近くで見るとその巨大さが良く判り、建築後362年も経った塔とは思えないくらいにしっかりとした造りであった。



塔の裏側には、スプリンクラーの配管が目立たないように塔の中に伸びており、万一の火災に備えてあった。

五重塔の写真を撮って庭園を散策し、拝観入り口から外に出ると、堀に囲まれた宝蔵がある。



この宝蔵は東寺最古のの建造物といわれ平安後期の校倉(あぜくら)造倉庫として重要文化財に指定されている。

宝蔵の周囲の堀にはハスの群生があり、ピンクのハスの花がチラホラ咲いて綺麗である。



拝観受付で聞いた通り、境内東側の慶賀門から外に出て、京都駅まで歩いて戻ることにしたが、7月末の京都の街はさすがに暑い。




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永い梅雨が明けきらない暑い日、京都駅前のC1乗り場からバスに乗り、世界文化遺産「古都京都の文化財」17寺社の一つに指定されている東寺を訪ねてみた。



この208系統バスは、京都駅から七条通りをまっすぐ西に西大路通りに向い、西大路七条で南に折れ、九条まで下って東に引き返し、東寺の南門到着というかなりの迂回ルートを通っていた。

東寺の南大門と堀




結局、京都駅から40分もかかったが、これなら京都駅から歩いたほうがずっと早い。

実は、帰りに東寺の拝観券売り場で聞くと、やはり歩くのが一番早いですとのこと。



帰りに東寺の東門から京都駅までの時間を計ると、徒歩15分という近い距離であったので、バスよりも歩いたほうがずっと早いことが良く判った。

バスに乗ったお陰で、京都駅から遠い南大門から東寺に入ることになったが、この門は東寺にある門の中では最も大きい門で重要文化財、1895年に三十三間堂の西門を移築したものという。

さて、南大門から中に入ると、広い境内と巨大な木造の建造物、金堂が見えてくる。



金堂は国宝に指定されており、現存の建物は1603年、豊臣秀頼の寄進によって再建したものである。



秀頼は当時10歳であったので徳川家康の勧めに従って、恐らく淀君が豊臣秀頼の名前で寄進したものであろう。



この時期、家康は秀吉の蓄えた豊臣家の莫大な財産を何とか減らそうとして様々な理由をつけて寺社に寄進するよう仕向けている。

この寄進では免れたが、11年後には有名な方広寺の鐘銘事件が起こり、1915年大阪夏の陣で秀頼と淀君は自害して果てている。



金堂の内部は広大な木造空間があり、その中に本尊の薬師三尊像が安置されている。



中尊の像高は2,9メートルに達する巨像で、日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代における佳作である。



金堂の北には、金堂と同じくらいに巨大な建造物である講堂がある。



講堂は重要文化財に指定され、今から515年も前の室町時代、1491年に再建された建物である。



講堂には大日如来をはじめとする日本最古の本格的な密教彫像が置かれているが、これらの諸仏は空海没後の839年に完成しており全体の構想は空海によるものである。



堂内中央には五仏(五智如来)、堂内向かって右(東方)には五大菩薩、向かって左(西方)には五大明王を安置するほか、堂内の東西端には梵天・帝釈天像、壇上四隅には四天王像を安置する。



これら21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は後世の補作に代わっており、残りの15体がすべて国宝に指定されている。

さすがに世界文化遺産に指定された寺院の面目か、15体もの国宝を一度に見ることの出来る寺院は京都でも多くないのでなかろうか。

東寺は真言宗総本山である



つづく


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梅雨が空けきらないある日、地下鉄難波駅から道頓堀通りを少し歩いて、法善寺横丁から水掛け不動を訪ねてみた。



法善寺は、1637年開山の浄土宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来、山号は天龍山といい、千日前通りに続く横丁の東側入り口には天竜山法善寺というりっぱな石碑が建っている。



御堂筋の南北御堂が1598年頃に開山しているので、それより少し新しい寺院である。

この寺は千日回向(えこう)を行う寺で,そのために門前が千日前と呼ばれるようになったという。

江戸から明治にかけて何度か火災に合い、その都度再建されていたが、昭和20年の大阪大空襲では六堂伽藍が焼失し、お不動さんだけが残ったらしい。



今の法善寺には水掛不動や金毘羅堂などがあり、特に水掛不動は演歌「月の法善寺横丁」にも歌われているくらい有名である。



戦前までは、お供えの水を静かに供えていただけであったが、戦後になってある大阪のオバチャンが、「たのんまっせ不動さん、絶対願い叶えてや」と勢い良く柄杓で水を掛けて祈ったのが水掛けの始まりらしい。



それ以来、皆が真似をするようになったお陰で、ご本尊の不動明王は全身を緑の水苔で覆われてしまい、大阪ならではの水掛け不動尊となってしまった。



千日前や道頓堀からこの法善寺にお参りする横丁が法善寺横丁で、角座や中座など、いわゆる「道頓堀五座」の芸人や客を相手にする屋台が、法善寺の境内に集まったのがはじまりという。

2002年9月、旧中座ビルを解体する際に発生した火災で横丁の十九店が焼け、一時は建築基準法に適合しない横丁として再建できないのではと危ぶまれたこともあった。

しかし、大阪市民の熱意が行政に通じて、以前と同じ情緒のある横丁に見事に復興している。

法善寺横丁の西側の入り口には、喜劇役者の藤山寛美の味のある筆で法善寺横丁と書かれた看板が掲示されている。



横丁の水が打たれた石畳を歩くと、都会の真ん中にいることを忘れてしまうくらいに不思議な雰囲気のある場所である。

有名な居酒屋「正弁丹吾亭」の前には小説「夫婦善哉」で有名な織田作之助の歌碑「行き暮れてここが思案の善哉かな」があった。



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広州のT苑に転居後、最初の金曜日に中国語のレッスンを早めに切り上げ、近所の足裏マッサージ店「天河足泰服務中心」に中国語の先生の高君と入ってみた。

高君に通訳してもらって、マッサージ料金を聞くと、70分のコースが午前11時から午後6時までは白天(昼間)割引で38元、6時以降は45元(600円)とのこと。



この白天(昼間)割引は土日でも同じということらしい。

入口にいた小姐が2階に案内してくれたが、入ったのが夜の8時過ぎだったので客室はまだ閑散としていた。

後で聞くとこの店は午後9時頃から込み始め、朝の2時まで営業しているらしい。

案内された衝立で仕切られた部屋は3台のマッサージ椅子とテレビが置いてあり、テレビではやかましい戦争劇をやっている。

部屋に入ってすぐ男性店員が、薬草入りのお湯の入った桶を持ってきたので、その中に両足を入れる。

ジャージ姿の若いマッサージ小姐が、マッサージを始めてくれるが、さすがにプロというべきか、若い女性なのにすごい力である。

通訳の高君には、もう帰ってよいというのに、中国語のレッスンが30分早く終わった分だけは通訳しますと言って、なかなか帰らない。

高君が、無料の果物があるがいりませんかと通訳してくれたので、それを頼んでみたが、マッサージを受けながら食べるというのは実に難しいものである。

高君がいると肝心のマッサージのほうにどうも集中できないので、通訳をすると言って頑張る高君になんとか帰ってもらい、ようやくマッサージをゆっくり受けることができるようになった。

まずは上半身の肩から背中、次に腕から手のひらを左から順に揉んでもらい、上半身が終わったら片足を桶から上げて、これも左から順番に揉んでもらう。

足裏のツボを強い力で押さえるマッサ-ジはさすがに痛いが、これを我慢すると後で体が軽くなる開放感が味わえるのでじっと我慢する。

最後に片足ずつ新しいお湯で濯いでくれて、タオルで丁寧に拭き、靴下まで履かせてくれて終了であった。

店に入ってから70分、マッサージを始めてからは65分くらいであったが、最初の説明通り45元(600円)の支払いであった。

今度は昼間に来て格安の38元(500円)のコースか、足裏と全身マッサージの2時間コース76元(1000円)に挑戦してみたいものである。



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梅雨の休日、大阪阿部野橋から近鉄電車に乗って40分、初詣の人出で有名な橿原神宮まで散歩に行って来た。



橿原神宮の創建は1875年(明治8年)奈良県が教部省に対し、神武天皇即位の地である畝傍山東南の橿原宮の旧地に神宮創建の請願をしたのが始まりである。



神武天皇即位紀元2550年に当たる明治23年、橿原神宮の宮号を明治天皇が宣下し創建が成ったので、116年の歴史しかない新しい神宮である。

橿原神宮前駅から神宮に続く駅前道路を10分くらい歩くと木造の第一鳥居が見えてくる。



その鳥居を超えると正面には広大な表参道があり、真ん中の主道の左右に副道が走っているのが特長である。

この主道から拝殿までは細かな砂利が敷かれていて、歩くたびにサクサクと鳴る音は神社らしい厳かな雰囲気であるが、少し歩きにくいのが難点である。

第二鳥居まで150mくらい、そこから拝殿の入り口である南神門までさらに100mばかりあるので結構な距離である。



後で調べてみると、橿原神宮の敷地は50万㎡という広さがあるので、正方形と仮定すれば縦横700mということになる。

表参道は南神門前の広場に突き当たり、広場の右が南神門、左が深田池である。



深田池の奥の森は、川鵜の営巣地となっているようで鵜の声がやかましい。

南神門には、紀元2666年と掲示があったので、偶然に6並びの年に参拝することになった。



つぎのぞろ目は2777年、あと111年間も待たなければならないことになる。

私のDNAを受け継いだ子孫が、111年ごとに参拝してくれれば、無上の喜びというものであろう。

南神門を入ると、これまた広大な外拝殿前広場があり、門から砂利敷きの広場を100m近く歩いて、やっと外拝殿まで到着する。



この外拝殿は、紀元2600年の記念祭の直前、昭和14年に完成した建物で、内拝殿前の広場を囲む回廊が美しい。



外拝殿の奥に内拝殿、幣殿、本殿とあるが、一般の参拝客はここで参拝することになる。



橿原神宮は、旧官幣大社で祭神は神武天皇と皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の二柱で、祭神を祭る本殿は、明治23年に元京都御所の賢所を移設したもので重要文化財に指定されている。

日米開戦の直前の昭和15年、紀元2600年の記念事業として隣接の橿原森林植物園に全国各地から奉献された樹木が植樹されたが、今では我国の森林植物の三分の二を占める素晴らしい人工の森になっている。



橿原神宮は、祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる日本に16しかない勅祭神社の一つであり、2月11日の紀元祭に勅使の参向があるという。

勅使館への入り口




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司馬遼太郎記念館の地下展示室に下りる階段は、安藤氏の設計らしいコンクリート打ち放し円筒形の壁と木製の床で構成されており、素材のコントラストが美しい。



展示室には、今回の展示のテーマである「竜馬がゆく」に関連する直筆原稿や手紙、色紙、坂本竜馬が移動したルートをプロットした日本地図が展示されていた。



展示を見ていると1966年当時、出版されたばかりの「竜馬がゆく」をむさぼるように読んだ青春の記憶が蘇ってくる。

司馬作品は、つねに登場人物や主人公に対して好意的であり、司馬氏が好意を持っている人物しか取りあげないという特長があると言われている。

司馬氏が愛した坂本竜馬(この顔の輪郭を最後まで憶えておいて下さい)



従って小説の主人公に対して司馬氏が持っている共感を、読者と主人公の関係にまで広げ、ストーリーのなかに読者を巻きこんでゆくという手法を使うことが多い。

また歴史の大局的な叙述と共に、ゴシップを多用して登場人物を的確に表現する手法は、今まで日本の歴史小説には無かったスタイルであろう。

展示室



どの長編作品でも、ストーリー全体の五分の三あたりから急に雑になる傾向が見られるのも又、司馬作品の特長である。

こうした雑な、とりとめのないストーリー展開の手法では、雑多な人物がつぎつぎに登場し、ゴシップを振りまいては消えてゆくのであるが、この部分が読者に取って司馬作品の大きな魅力となっている。

安藤作品らしいエントランスのデザイン



新しい視点と斬新な描写で「司馬史観」と呼ばれる歴史観を作るほど人気のあった国民的作家であるが、歴史家の立場から批判が寄せられることも多かったらしい。

実証性の高さによって、司馬作品は小説としての枠を超え、歴史書としての批判にさらされたというのが面白い。

外の庭にある司馬遼太郎の歌碑



歴史という素材から、虚構の小説を生み出す小説家には、歴史家には許されない自由な裁量権があるというのが正解であろう。

その司馬氏が使っていためがねやルーペ、筆記用具等日用品の展示もあったが、展示スペースが少なく展示品も貧弱であった。

地下の奥には150席ほどのホールがあり丁度、司馬氏の「日本人を考える」というビデオを放映していた。



ビデオによれば、徴兵されて戦争を体験した若き司馬氏は、日本人は、どうしてバカな戦争を始めてしまったのかを戦中戦後通してずっと考えてきたという。

日本人とは何かを知りたい、というこの時の衝動によって歴史の中の日本人を小説のテーマとして書き続けてきたらしい。

展示室の天井を見上げて写した写真(下の壁と天井の境目部分に注目 ! )



最近、展示室の天井面のシミが、偶然に坂本竜馬の顔に似ているという指摘が入場者からあったらしいが、そういえば似てなくも無い。


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近鉄難波から普通電車で15分、八戸ノ里駅から歩いて10分の住宅街に2001年にオープンした司馬遼太郎記念館がある。



1923年生まれの司馬遼太郎氏は、亡くなるまでこの地で20年余り生活していたらしい。

入り口にはボランティアの男性が2名いて、司馬遼太郎記念館ですと案内してくれているが、大の男が入り口に二人もいるとどうも入り難い。



中には自動入場券販売機が置いてあったので、この二人は何のために入り口にいるのか良く判らない。

中に入ると野草と雑木が生えている庭があり、その向こうに明かりの点いた書斎が見えた。



この庭は司馬氏が自然の佇まいを好んだために、雑草を抜かずにそのままにしておいた庭という。

そのためかやぶ蚊が多く、入り口では黙っていても、やぶ蚊よけの団扇を貸してくれる程である。



庭から見えるこの書斎は、司馬氏が亡くなるまで執筆活動をしていた場所で、司馬氏が使っていた時のままということらしい。

その前を奥に進むと雑木林の中に半円形のコンクリート打ち放しの壁と、平行するガラスの壁でできた記念館のエントランス通路が見えてきた。



設計した安藤忠雄氏は、来館者に司馬作品を通じて来館者自身が自分自身と対話ができる空間を設計したという。

館の入り口には丁度「竜馬がゆく」展をしているポスターが掲示されている。



1階は喫茶コーナー、みやげ物売り場、司馬作品を紹介するビデオコーナーがあり、吹き抜けになった地下を覗けるようになっている。

その地下から2階までの3フロア分高さ11mの壁は司馬氏の作品と蔵書がぎっしりと収納展示されていて、2万冊もあるこの壁の本は司馬記念館の見所となっている。



ビデオの解説によれば、母屋の玄関、廊下、書斎、書庫の壁には6万冊の蔵書がこういう状態で収納されていて、その雰囲気を表現したという。



母屋の蔵書には司馬氏のメモ書きや付箋などが付けられているために、司馬氏の頭脳の延長線としてそのまま保存することとしたらしい。


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佐川美術館の平山作品の展示室の横には柱の列が美しい廊下があり、その奥には平山と佐藤の会談をビデオで紹介するビデオライブラリーがあった。



その平山棟の隣が佐藤 忠良の彫刻作品の展示棟で、「ブロンズの詩」という看板が掲示されていた。



佐藤忠良は1912年宮城県に生まれているので現在94歳という高齢であるが今も健在のようで、少年期を北海道で過ごしている。

ロダン、マイヨールなど新しい生命主義の作品に惹かれて彫刻家を志し、東京美術学校彫刻科に進み、卒業の年に新制作派協会彫刻部を創立したという。



1944年徴兵されて満州に渡り、終戦後3年間シベリアで抑留生活を経験している苦労人である。

帰国後すぐに彫刻家としての仕事を再開し、それまでの人生経験からか作品は身近な人物たちをモデルにした生命感みなぎる頭像、清新な女性像、純真無垢なこども等に限定されている。



1970年代に〈帽子〉シリーズに代表される現代感覚あふれる新境地を開拓し、自然体のポーズ、さりげないコスチューム、抑制されたモデリングが高く評価されているらしい。

佐川美術館のなかにも帽子シリーズの作品が何点かあるが、この「夏」という作品は見事であった。



ライブラリーでの平山との対談で佐藤は、展示会に出すメインの作品と平行して、「夏」をサブの作品として作っていたが、メイン作品よりも力を抜いて造った「夏」が高く評価されたのでびっくりしたと語っている。



肉体の成熟と精神の幼さのアンバランスを彫刻で見事に表現した傑作で、肩の力をぬいて自然体で作った作品には、人の心を打つ何かが表現されるのであろう。

佐藤の作品はすべて平明で詩情豊かな作風で、現代具象彫刻のひとつの到達点ともいわれている。



1981年にはフランス国立ロダン美術館の熱心な招きで、日本人として前例の無い個展を開催し、これを契機にフランス、イタリアの美術アカデミーの会員に迎えられている。

日本ではそれほど有名な彫刻家とも思えないが、国際的には高い評価を受けているという。



となりの展示棟の平山郁夫が日本では文化勲章画家として超有名でも、世界ではまったく評価されていないのと好対照なのが面白い。

佐藤の作品は美術館で鑑賞されるほか、駅前広場や空港ロビー、公園などで気軽に出会えるくらい全国各地に多数展示されている。



また、素描家としても活躍しており、絵本『おおきなかぶ』や新聞小説などの挿絵も多く手がけていて、1960年代後半の若者に絶大な人気のあった女優、佐藤オリヱの父親でもある。



佐藤オリヱが出演した「若者たち」に感動した団塊の世代は多いと思う。

ひょっとしたら、佐藤忠良の最高傑作作品は佐藤オリヱであったかもしれない。

佐藤作品を楽しんで出口に向かう途中に佐川美術館のコーヒーショップがあった。



コーヒー500円は少し高いが、心洗われる作品を見た余韻をこのコーヒーショップで楽しみながらゆったりと過ごすひと時は良いものである。


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現代日本画壇の最高峰に位置する画家であり、その作品価格は存命する画家の中で飛びぬけて高いらしい。

厳島神社



そうなると佐川美術館の300点余の作品の値段は総額でいくらになるのか、知りたくなってくる。

平山氏は1930年瀬戸内海に浮かぶ広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)に生まれ、広島市で被爆している。

比叡山延暦寺



戦後は東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学、1952年、卒業とともに同校助手となり、助教授、教授を経て1989年には東京藝術大学第6代学長に就任しているので教育者としては順風満帆の人生を送ったことにになる。

平山の作品は院展入選作『仏教伝来』以来、仏教をテーマとしたものが多い。



平山は一時死を覚悟するくらい被爆後遺症に悩んだことがあり、それがきっかけで宗教に傾倒していったようである。

仏教のテーマはやがて、仏教をアジアの果ての島国にまで伝えたシルクロードと玄奘三蔵(三蔵法師)への憧憬につながっていった。



そのために平山は1970年代からたびたび中国やシルクロードの遺跡を訪問しシルクロードをくまなく旅している。



1998年には文化勲章を受章、日韓友情年日本側実行委員長、日中友好協会会長やユネスコ親善大使、平城遷都1300年記念事業特別顧問などの肩書もある。



他にも高松塚古墳壁画の模写、カンボジアのアンコール遺跡救済活動、「文化財赤十字」の名のもとに中東など紛争地域の文化財保護に奔走するなど、その活動は幅広い。

その一環であろうかボスニア難民を描いた大作も佐川美術館に展示してある。



こうした活動を前向きに評価する意見がある一方、国立大学である東京藝術大学の学長という公職にありながら、出版社、百貨店、放送局などとタイアップした自作の展示販売を大々的に行い、多大の利益を上げている点などを批判する人もいるらしい。



また、日本とアジア諸国との友好活動や東北アジア・中央アジアでの文化財保護活動は国際的に非常に高く評価されているものの、国際的な芸術的評価は得られておらず、画家としては日本以外では無名なローカルな存在らしい。

平山作品の展示棟



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ある梅雨の休日、朝起きるとなんとなく美術館を見てみたいという気分になった。

そこで大阪から新快速で滋賀県の守山まで出て、駅からバスで25分のところにある佐川美術館を訪ねてきた。

琵琶湖の湖畔道路から1キロくらい入った田園地帯にある佐川美術館は、1998年佐川急便創立40周年を記念して開館したというので、既に8年の年月が経ったことになる。



収蔵作品は、日本画家・平山郁夫氏と彫刻家・佐藤忠良氏の作品が中心で、2棟ある美術館は棟ごとに二人の作品を仲良く分けて展示してあった。

平山郁夫氏76歳は、仏教やシルクロードをテーマとした連作や、奈良・薬師寺の壁画で名高い日本画家であり、長らく東京藝術大学学長を務めていた。



佐藤忠良94歳は、現代具象彫刻の第一人者で、その作品は、穏やかな人物像が多く、日本人で唯一人、フランスロダン美術館で個展を開催した実績を持つ。

池の中の佐藤作品(蝦夷鹿)



佐川美術館が所有する作品は平山作品300余点、佐藤作品100余点という。

そのため一挙に展示することはスペース的に無理なようで、常時それぞれ50点くらいを順次入れ替えながら展示しているらしい。

それにしても膨大なコレクションの購入には、一体どれほどの金がかかったのであろうか。

美術館の敷地は大部分が人工池になっており、水の上に浮かぶように見える2棟の切妻屋根の展示館は、建設当時からデザインが高く評価され、 グッドデザイン賞(施設部門)、 JCDデザイン賞 ’98奨励賞、 中部建築賞1998入賞 、MARBLE ARCHITECTIRAL AWARDS EAST ASIA 1998、 照明普及賞 優秀照明施設賞 1998 、国際照明デザイナーズ協会照明デザイン賞1999優秀賞 、第23回HIROBA作品賞、 日本建築学会2000年作品選奨 、第41回BCS賞等を受賞している。



これほど多くのデザイン関連賞を一挙に受賞した建物は、日本でもそんなに多く無いのではないかと思う。

美術館の入り口は本館と同じグレーのモノトーンの屋根と壁でデザインされた別棟となっていて、そこで入場料1000円を支払い、橋を渡って池に浮かぶように作られた本館まで移動する。



そこから本館の入り口までは、右手に池を見ながら屋根を支える柱が何本も続く長いオープンエアーの廊下を歩くことになるが、その柱列と池のデザインが見事である。



池と建物とは目立たない溝で縁が切れていて、建物が直接池の水に接しているわけではないようであった。

建物と池がグレーのモノトーンで統一されているために、池の向こうにある森の緑が際立って美しい。

廊下の突き当たりの左に佐川美術館と書かれた木の看板が掲示されていたので、美術館の中に入ると天井が屋根の裏まである広大なロビーがあった。




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日本人のグループ3人で広州で最も美しいと言われる公園、流花湖公園の中にあるカラオケクラブに行って来た。



この公園は面積54万㎡と広大で、入り口が東西南北4箇所あり、タクシーの運転手はどの門から入るのか判らないと言って、かなり遠回りして到着した。

ちなみに大阪の長居公園は66万㎡なので、こちらのほうが少し狭い。

昼間の公園は有料であるが、夜の入場は無料で、公園の南門から直径60cm高さ10m以上ある見事な大王椰子の並木道を少し歩くと、ピンクのランプに照らされた流花倶楽部の入り口が見えてくる。

公園の中の大王椰子



壁にはカタカナと漢字で「クラブ流花」と表示され、これもピンクのネオンが点いていて怪しげである。

中はかなり広い造りで、入り口すぐ左にカウンターと、真中に広いスペースがあり、カウンターの向かい側はキープされたボトルが無数並ぶ壁である。

奥に歩いて行くと、カラオケのステージのようなものがあり、さらにその奥が廊下をはさんで10室の個室になっている。

個室に入るとお揃いのチャイナドレスのホステス、所謂カラオケ小姐がずらりと12人並び、3人指名して下さいときた。

こういう人身売買のような場面は本当に苦手で、最後に指名させて欲しいと言ったが、結局いつものように最年長の私が最初に指名するはめになった。

全員が不安そうな表情をした若い女性であったが、ここは看板がカタカナで「クラブ流花」と表示されていたように、日本人専門のカラオケクラブで、カラオケ小姐は全員日本語が話せるらしい。

そのカラオケ小姐たちは、なんとか指名にあずかろうと、すがるような表情で我々を見つめている。

その12名の中から、たった3人だけを選ぶという実に残酷な儀式が始まるのである。

この儀式で指名されれば、店から350元(5千円)の指名料を受けられるが、それに当たらなければ彼女らの取り分は0という厳しい現実が待っているのである。

グループメンバーが好みの女性3人を指名し、あぶれた9人の女性は内心の悔しさを笑顔で隠し、揃って有難うございましたと会釈をして退室していった。

指名された3人は久しぶりに指名にあずかったのか、本当に嬉しそうで、横に座ってマッサージをしてくれたり、中国語を教えてくれたり、次に来たときも指名してねと念を押すことも忘れていなかった。

実は中国の法律では、女性の接客係が客の横に座って接客することは禁止されているらしい。

しかし、北京から離れているためか、法が徹底しない広州では、こうした規制は誰も守らないのである。

11時半頃までそこにいて、3人で日本や中国のカラオケを歌って、一人480元(約7千円)を払ったが、実は全然楽しくなかったのである。

たとえ一時的であっても、人が人を買う人身売買のような経験はウンザリである。

流花湖公園の朝は市民の太極拳で始まる



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日曜日の夕方7時に会社の同僚4人がマンションのロビーに集まり、一緒に夕食に行くことにした。



マンションから歩いて10分の黒鵞(ブラックスワン)飯店で、餃子を含めたハルピン料理で満腹し、一人45元(670円)という格安料金である。

広州ではハルピン料理の店は安くて美味く外れが無いが、店の清潔さは辛抱しなければならない。

食事の後、4人で黒鵞(ブラックスワン)飯店から花園酒店(ガーデンホテル)のあたりまで延々1時間くらい広州のメイン道路の環市東路を歩くことにする。

花園酒店



なかなか一人では行けないような裏通りにも入り、夜の広州の庶民の生活をつぶさに観察した。

家の中が蒸し暑いせいか、裏通りの住民の多くは路上に出て涼んでいて、上半身裸の男性が多いのが異様である。

こういう風景はアヘン戦争の時代から変わっていない、庶民の姿ではないかと思う。

広州の路地にはどこも水たまりや段差が多くて歩き難く、バリアフリーという思想は未だどこにもない。

又、蒸し暑い路地の側溝には至る所に残飯やごみが捨ててあり、独特の臭気が漂っている。

夜の10時頃まで路地を歩いて疲れたので、表通りの環市東路まで戻りホリディインホテルに近いウインドフラワーミュージッククラブに入った。

昼の環市東路



滑りやすい石の階段を昇って入った涼しく清潔な店の中は若者で満員である。

外には彼らが乗ってきたベンツなどの高級車がズラリと駐車してあり、彼らの経済力を示していた。

中国では今、大学院卒などの高学歴の若者が外国企業や民間企業に高給で雇われ、20代でも実力次第で年収数千万円を超える者も多いと聞いた。

一方で40、50代の中高年は文化大革命の影響でちゃんとした教育を受けた者が少ない。

従って中高年の中国人は失業しているか、就職しても年収15万円という低賃金状態らしい。

我々の事務所が入っているビジネス街の事務所ビルでも見かける中国人は、すべて30歳台までの若い人で、中高年の人を殆んど見かけることが無い。

事務所の入っているビル



従って私のような中年は場違いな場所に迷い込んだような錯覚を受けることがあるが、日本に生まれた幸運に感謝するばかりである。

ミュージッククラブで12時近くまでアラビア風リズムの音楽と、鍛え抜かれたスリムなボディの踊り子(これを胡姫というのか)のアクロバットのような踊りを見た。

ボトル1本を4人で空け、一人100元(1400円)を支払って店を出てタクシーでマンションまで戻ると12時半であった。


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江戸時代の北御堂(津村別院)は、昭和20年3月の大阪大空襲で消失したが、昭和39年にはコンクリートの建物として復興している。



北御堂は境内の敷地が周りの土地よりも建物一階分くらい高くなっていて、そこを登る石段の上に巨大な山門がある。

この境内の高さは1796年に出版された摂津名所図会にも描かれている。



その山門に立って振り返ると丁度御堂筋を見下ろす格好となり、江戸時代には相当辺りを威圧した建物であったろうと思う。



山門を入ると広い境内の左右に親鸞の銅像があり、古い方は昭和47年に建立されたもので笠を被り、平成9年建立の新しい像はスキンヘッドのままである。



境内には南御堂の梵鐘や金灯篭のような古い歴史のあるものは無かったので、戦災で失われてしまったのかもしれない。



境内正面にはまたしても巨大な石段があり、それを登りつめるとやっと本堂に辿り着く。



後で判ったのであるが、本堂には石段を迂回した横の入り口からエレベーターで登る事もできるようになっていた。

昭和39年にできた本堂は南御堂の本堂よりも少し広く、厳かにお昼のお勤めをしていた。



1階には売店があり、御堂さんという雑誌まで売っているのには吃驚したが、冷房の効いたロビーには近くのサラリーマンやOLが大勢寛いでいた。



ロビーの1階と2階の吹き抜け部分には杉本哲郎画伯の巨大な仏画が描かれている。



その仏画の中の仏様は、薄い衣を纏っているが、りっぱな乳房を持った女性として描かれ、又左右には全裸の侍女が描かれているので、本願寺の中にある宗教画としてはかなり異様である。



NETで調べてみると、杉本氏は滋賀県生れの日本画家で京都絵専卒、印度国立中央大学教授、京都市文化功労者となり1985年、85才没。

仏教美術に傾倒、印度・蒙古等の壁画を模写し、カンボジア・ジャワ等でも仏教美術調査を行うほか、宗教発生の世界各地を巡り、力感溢れる宗教画を描いたとある。

壁画の中に本願寺宗主の令嬢と寄贈者夫婦、杉本画伯夫婦の顔がさりげなく入っているのが面白い。




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