1457年、蓮如(1415~1499年)の父、本願寺7世在如は、京都東山の麓、知恩院の北にあった大谷本願寺に阿弥陀堂と御影堂を建てて、熱心に本願寺の布教活動をしたようです。
南殿跡地、光照寺の蓮如像
在如を継いだ8世蓮如の布教活動も、一層熱心であったため、比叡山延暦寺と対立、1465年には延暦寺の僧兵による大谷本願寺の破壊があり、蓮如は近江(滋賀県)に逃れています。
山科本願寺の西にある西宗寺
応仁の乱(1467~1477年)が始まると、蓮如は近江から三河(愛知県)、三河から近江に戻って高野山へ、そこから吉野を経て大和(奈良県)を経て近江に戻り、さらに越前(福井県)吉崎へと各地を精力的に布教して廻ったようです。
東本願寺系の山科別院長福寺
応仁の乱が終わった翌年、蓮如(63歳)は、東国から京都に通じる道があり、信者を東側から迎えられる 山科に本願寺の再興を決意しています。
山科別院長福寺
山科は、もともと醍醐寺の所有でしたが、当時の醍醐寺門跡「義覚」が、日野富子の子で、日野家から宗祖親鸞を出している関係から土地の使用を認めたようです。
蓮如廟に通じる山科別院長福寺の正門
この山科へは、淀川の水運を使って河内、摂津、和泉地方から物資、資材などを容易に運び込むことができたために、建設資材もこのルートを使ったようです。
山科別院長福寺本堂
1476年に造営されたばかりの本願寺堺別院の巨大な坊舎も、1479年にバラバラに解体されて山科に運ばれ、翌1480年、早くも山科御影堂として落慶しています。
鐘楼
山科本願寺の他の堂宇の建設資材は、蓮如が応仁の乱の期間中に布教して回った各地から調達し運んだようです。
山科中央公園のマップにある山科本願寺土塁の遺構(御土居の森)
山科本願寺に付属する寺内町は、完成当時には未発展だったようですが、50年後に焼き討ちされた際には、3重の土塁と堀に囲まれた堅固な城郭都市となっていたのです。
山科中央公園に残る山科本願寺土塁の遺構(御土居の森)
今も山科中央公園の中に残る土塁は、3階建ての建物の屋根くらいの高さがありそうです。
参考文献:山科本願寺・寺内町研究会「山科本願寺と寺内町、戦国の寺、城、まち」