野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1457年、蓮如(1415~1499年)の父、本願寺7世在如は、京都東山の麓、知恩院の北にあった大谷本願寺に阿弥陀堂と御影堂を建てて、熱心に本願寺の布教活動をしたようです。

南殿跡地、光照寺の蓮如像

 

在如を継いだ8世蓮如の布教活動も、一層熱心であったため、比叡山延暦寺と対立、1465年には延暦寺の僧兵による大谷本願寺の破壊があり、蓮如は近江(滋賀県)に逃れています。

山科本願寺の西にある西宗寺



 

応仁の乱(1467~1477年)が始まると、蓮如は近江から三河(愛知県)、三河から近江に戻って高野山へ、そこから吉野を経て大和(奈良県)を経て近江に戻り、さらに越前(福井県)吉崎へと各地を精力的に布教して廻ったようです。

東本願寺系の山科別院長福寺 



 

応仁の乱が終わった翌年、蓮如(63歳)は、東国から京都に通じる道があり、信者を東側から迎えられる 山科に本願寺の再興を決意しています。

山科別院長福寺


 

山科は、もともと醍醐寺の所有でしたが、当時の醍醐寺門跡「義覚」が、日野富子の子で、日野家から宗祖親鸞を出している関係から土地の使用を認めたようです。

蓮如廟に通じる山科別院長福寺の正門



 

この山科へは、淀川の水運を使って河内、摂津、和泉地方から物資、資材などを容易に運び込むことができたために、建設資材もこのルートを使ったようです。

山科別院長福寺本堂



 

1476年に造営されたばかりの本願寺堺別院の巨大な坊舎も、1479年にバラバラに解体されて山科に運ばれ、翌1480年、早くも山科御影堂として落慶しています。

鐘楼


 

山科本願寺の他の堂宇の建設資材は、蓮如が応仁の乱の期間中に布教して回った各地から調達し運んだようです。


山科中央公園のマップにある山科本願寺土塁の遺構(御土居の森)


 

山科本願寺に付属する寺内町は、完成当時には未発展だったようですが、50年後に焼き討ちされた際には、3重の土塁と堀に囲まれた堅固な城郭都市となっていたのです。

山科中央公園に残る山科本願寺土塁の遺構(御土居の森)



 

今も山科中央公園の中に残る土塁は、3階建ての建物の屋根くらいの高さがありそうです。

 

参考文献:山科本願寺・寺内町研究会「山科本願寺と寺内町、戦国の寺、城、まち」



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 大阪からJR東海道線新快速に乗って山科駅で下り、京都市営地下鉄の次の駅、東野駅の西側一帯は、今から500年前に山科本願寺のあった歴史の古里です。

山科の西宗寺にある蓮如像

 

その範囲を大雑把に言えば、東野駅から西100mくらいが寺内町の東端で、そこから西に400mが西の境界、東野駅の南にある国道1号線を挟んで、南北それぞれ400m(合計800m)が南北の境界だったようです。


山科本願寺の御堂のあったと思われる場所は、正面のマンションの左奥辺り


 

1532年(織田信長の生まれる2年前)、土塁と堀で三重に囲まれていた山科本願寺は、細川晴元の命で殺到した近江守護の六角氏と法華宗徒によって破壊されています。


本願寺山科別院本堂背面


 

その後、再建されることなく500年近く放置されていた関係で、山科本願寺とその寺内町の正確な様子は良く判っていないようです。


本願寺山科別院本堂の塀


 

それでも一部の史跡が現存していると聞いたので、東野駅から山科を歩いてみました。


本願寺山科別院正門の外、正面路地の左が蓮如廟


 

まず、最初に訪ねたのは、東野駅の北西150mにある西本願寺系統の本願寺山科別院です。


正門


 

この寺院は、西本願寺第15代、住如が北山別院の旧堂を1732年に移築したときから始まり、1772年には現在の本堂が完成、1782年に鐘楼、太鼓堂、接待所等が増築されています。


本願寺山科別院本堂正面


 

この山科別院の正門から外に出て、約70m直進すると、本願寺8世蓮如(1415~1499年)廟の前に出ます。


蓮如廟前から見た本願寺山科別院正門

 


蓮如廟の前からは、別に北に延びる道もあり、その先に見える山門は、1732年に東本願寺から移築された山科別院長福寺の門です。



 

東西両本願寺の別院は、蓮如廟の参道を挟んで南北に配置されていました。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




8月の末となると、大阪港の日の出の時刻が6月末に比べて40分も遅い、5時半頃となります。



早起きして、大阪港にでかけ、日の出の写真を狙うと、天気が良くても地平線に近い場所に薄い雲があり、ぼんやり光ながら昇る太陽が見えることがあります。




また、折角出かけても、低い空に厚い雲があり、雲の切れ間から太陽が姿を現すこともあります。




今朝、目を覚まして大阪港に出かけて見ると、空気は澄んでいましたが、港大橋の下に雲がひろがっていました。




この日、5時半を少し過ぎた頃、阪神高速を走るトラックの背後から、眩しい太陽が昇ってきました。




太陽の位置が低いせいで、弁天町の超高層マンションの低層部だけが太陽の光を反射して光っています。




港大橋の前をクレーン船が通りかかりましたが、強烈な太陽の光で黒いシルエットとなっています。




ところで、大阪港からの夕陽も有名ですが、この時期、夕方の西の空は雲が多く、なかなか太陽の姿を写すことができません。




何回か通っているうちに、やっと須磨の山に太陽がゆっくり沈む写真が撮れました。




こちらも強烈な太陽の光のため、船の舳先が黒いシルエットとなっています。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日からの写真は、チョウ温室としては関西一、1990年にオープンし、今年20周年を迎えた伊丹市昆虫館の温室に生息する蝶でした。



交通アクセスは、阪急伊丹駅から市営バスで15分、松が丘で下り、昆陽池の周遊遊歩道を北に10分歩くと、昆虫館です。

蜜皿に群がる蝶

 


20周年記念と書かれた入り口を入ると、昆虫の標本展示コーナーがあり、その奥に珍しい昆虫の生態展示室、さらに奥が蝶温室となっています。



蝶温室の中は、200種類以上の植物が育つ明るい空間が広がり、その中に蝶が生育していますが、室内の気温32度、湿度94%と、実に蒸し暑い場所でした。



公式HPに、蝶温室では南国の花々が咲き誇る中を舞う、日本の蝶のうちの15種、約1000匹を身近に見ることができますとありました。



デザイナーの森英恵(文化勲章受章)さんは、チョウをモチーフとする作品で有名ですが、昆虫は嫌いでも、チョウはOKという人は多いのではないでしょうか。



さて、蝶と蛾は同じ「鱗翅目」なので区別は難しいようですが、日本の場合、蝶は昼間飛び、蛾は夜飛ぶことで区別できるようです。

 

また、蝶の触角は、先がこん棒状に太くなっていますが、蛾の触角はくし状、または先がとがっていることでも区別できるといいます。

 

さらにとまる際に蝶は羽をたたみ、蛾は広げることや、蛾の胴体が太く、地味な模様をしていることなどでも区別ができるようですが、例外が多数あるようなので、断定は禁物です。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隠岐で黒い大きなモンキアゲハの拡大写真を撮ろうとすると、素早く逃げられて、悔しい思いをしました。そこで大阪近郊で蝶をじっくり観察できる場所を探し、行ってきました。



隠岐のモンキアゲハに匹敵する日本最大サイズのオオゴマダラ、人をあまり恐れず、飛ぶ動きも緩慢なので写真に撮りやすい蝶です。



モンキアゲハと同じアゲハチョウの仲間で、オスからジャコウの香りがする、ジャコウアゲハ、本州南部から南西諸島まで分布しているようです。



南国産のスジグロカバマダラ(マダラチョウ科)、柿色に黒いスジと白の斑点が目立つ派手なチョウです。



北関東から南の本州、四国、九州、南西諸島に生息するツマグロヒョウモン(タテハチョウ科)で、翅の豹紋が特長です。



南西諸島に生息するリュウキュウアサギマダラ(マダラチョウ科)、オオゴマダラに次いでおとなしく、写真を撮りやすい蝶でした。



鹿児島県南部より南に生息するツマベニチョウ(シロチョウ科)、白い翅の先端に三角形の大きな橙色の紋がある蝶、飛翔力が強いので写真に撮り難い蝶でした。



翅の裏が枯れた木の葉のようなコノハチョウ(タテハチョウ科) 、翅の表には派手な藍色とオレンジの模様があるのですが、動きの素早い蝶で、今回は翅の表側が撮影できませんでした。



長崎にいたシーボルトが標本として採集したことから命名されたナガサキアゲハ、同属のモンキアゲハと同じ大型の蝶です。 

 

小型で地味なツマグロキチョウと思われる蝶、本州のツマグロキチョウは、今では絶滅危惧種となっているとか。



つづく



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1931年(昭和6年)に発表された直木三十五(当時40歳)の長編小説、南国太平記は、絶大な人気を呼び、発表された年に最初の映画が製作され、その後1960年までに9本もの映画がつくられているほどです。

隠岐、海士町の朝



今回の隠岐旅行の道中、その南国太平記(1ページ上下2段の活字で590ページ)を読破しましたので、隠岐と、旅行途中の写真を添え、ご紹介しましょう。

海士町菱浦港



小説は、薩摩藩10代当主、島津斉興の側室、お由羅とその子、久光を暗殺しようとした首謀者13名が切腹した薩摩藩の「お由羅騒動」を主題としています。

菱浦を出港するフェリー




ストーリーは、お由羅派の兵道家(祈祷による呪詛、調伏師)牧仲太郎と、牧を殺害しようとする斉彬派の軽輩、仙波親子(父母、長男、姉妹)の争いを縦糸とし、藩士同士の争いが横糸となり展開してゆきます。

マリンポートホテル海士と菱浦に近づく高速船




登場人物は、多岐にわたりますが、それぞれが個性的に描かれていて、その心理描写が見事で、直木の時代には幕末を知る人物がまだ生きていたことから、時代考証もしっかりとしていました。

ホテルから見た、菱浦に入港するフェリー




中でも、仙波親子の友人、薩摩藩士、益満休之助(実在1841~1868年)を痛快に描いていますが、直木は彼を気に入ったのか、翌年(昭和7年)「益満休之助」という小説を発表しているほどです。

高速船



また、剣劇シーンを丹念に描写していて、映像を見ているようですが、直木がかつて映画製作に携わっていたことが関係しているのでしょうか。

隠岐から遠ざかる高速船




最後に島津斉彬が登場、西郷、大久保達に無益な藩士同士の争いを止めるよう、諄々と諭す場面があり、面白かったので紹介しておきます。

バスの車中からの大山




<何故、お前達(軽輩)一同がわし(斉彬)にならぬ。わし以上にならぬ。(中略)お前達で、天下の難に赴き、日本を双肩に(中略)負うくらいの覚悟がなくてどうする>


バスの中で食べた弁当(海の宝箱)



<西郷吉之助(隆盛)、大久保一蔵(利通)も俯いたきりであった(中略)斉彬の言葉が頭の中に、胸の中に、腹の底に、血管の中へまでも、毛髪の末へまでも、沁み込んできた>


海の宝箱の中



小説に登場する人が殆んど実在の人物なので、物語にリアリティを与えていますが、直木のサービス精神がてんこもりとなった痛快娯楽小説でした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




 天気の良い日には、シュノーケリングをするのが、隠岐旅行の楽しみとなっていますが、今年は生憎天気が悪く、海に入ったのは1回だけでした。

 

しかし、家内の実家が漁業権を持っている磯で、小型の巻貝「ニーナ」を食べるだけ拾う(隠岐では、獲るのではなく拾うという)ことができました。



帰ってから、爪楊枝を使って中身を取り出しましたが、1時間のシュノーケリングの戦果としてはまずまずでしょう。


 
ールのつまみとしても頂きましたが、残りを米と一緒に炊いて、「ニーナご飯」をつくってみました。



余った「ニーナご飯」をオニギリにし、大阪へ帰る途中のバスの中でも頂きましたが、強い磯の香りのするオニギリは絶品です。

 

2番目の目的は、水中カメラを使っての写真撮影ですが、グアムの海と違って魚の警戒心が強く、また魚に色彩が乏しいので写真の出来は今一つ。

 

しかし、集団で泳ぐイカの子供を撮ることができました。

 

3番目の目的は、水中で夏の暑さをしのぐことですが、シュノーケリングしながら変化にとんだ磯を眺めていると、30分で体が冷え切り、寒いくらいです。

 

最後の目的は、あくまでも付録としてですが、アワビを見つけたら拾って帰ることです。

 

実は、磯の中で素人がアワビを見つけることは意外と難しく、また見つけたとしても素手で拾う(獲る)のは至難の業なのです。

 

今回は、幸運にもアワビを1個見つけることができたので、拾って帰り、貰ったケンサキイカと一緒に刺身で頂きました。

磯を泳ぐイカの子



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隠岐諸島の島後(隠岐の島町)東海岸では、天気が良ければ水平線から昇る太陽を見ることができます。 


 
海面から高さ4mの防波堤上から見える水平線までの距離は、約7,5キロ、高さ10mの建物なら12キロ、100mの高台で38キロ、隠岐最高峰の山(608m)なら93キロ先と計算できるようです。

 

今の季節、太陽は、真東から約20度北寄りから昇るため、その方角は、能登半島まで270キロも海が続き、陸地は見えません。(計算上では、5000m上空からなら見える可能性有)

 

同じ隠岐諸島の島前(中ノ島、西ノ島、知夫里島)からも朝日を見ることができますが、実は、水平線から日の出が見える場所は限られています。



この時期の島前からは、日の出の方向に島後(隠岐の島町)があること、島後が邪魔にならない南部には、山が多く、容易に人が近づけないことがその理由です。



しかし、この時期でも、水平線から太陽が昇るのを見ることのできる港が、中ノ島にあります。

 

今回、事前に地図でそのポイントを調査し、乗り込んだのですが、肝心の天気が悪く、写真を撮れる機会は、僅か2回だけでした。



最初は、防波堤が水平線を隠すように、横たわっている場所で、また水平線の上に雲が多かったため、水平線からの太陽を撮りそこねてしまいました。

 

待望の晴天となった帰阪の日の朝、防波堤の途切れたポイントにカメラを構えていると、水平線から太陽が出てきました。

 

しかし、水平線の手前(約5キロくらい先か)に僅かに薄い雲があり、完全な写真とはなりませんでした。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




海士町の広報誌(広報海士、2010年7月号)に、目崎徳衛氏による後鳥羽天皇火葬塚の記事が出ていましたのでご紹介しましょう。

入り口の石碑は、後鳥羽上皇隠岐山陵



徳川幕府崩壊からしばらく経った1873年(明治6年)、明治政府は、後鳥羽天皇(1180〜1239年)の御霊を正式に京都に迎える勅使を隠岐に派遣しています。

火葬塚への昇り口



勅使が離島に来ることは、めったに無いことなので、人情の厚い隠岐の人々は、連日連夜、新鮮なアワビやイカなど海の幸と隠岐の酒を盛大にふるまい、大歓迎をしたようです。

宮内庁は後鳥羽天皇火葬塚と表示しています



思わぬ大歓迎を受けた勅使によって、おごそかに京都に移された御霊(遺灰)は、三千院からほど近い後鳥羽天皇大原陵に改めて埋葬されています。

後鳥羽天皇火葬塚正面



その後、明治政府は海士町に後鳥羽天皇火葬塚の破壊を命じますが、その際、お墓を掘り起こしたところ、上下三段に埋められた(634年前のものと思われる)瓶が見つかったといいます。

塀に囲まれた後鳥羽天皇火葬塚



一番上の瓶は壊れていましたが中に銅銭があり、2番目の青い瓶には、周囲のものとは明らかに質の違う土が入っていたと記録されています。

火葬塚のすぐ近くにある後鳥羽院天皇行在所跡の石碑

 

これが後鳥羽天皇の遺灰だとすれば、一番下の瓶には何が入っているのか、恐れ多いと感じた町の係員は、中を改めずに埋め戻し、すぐ県に報告したようです。



これは想像ですが、大歓迎を受け有頂天となっていた勅使達は、600年以上前の遺灰などはもう無いと勝手に判断し、島の土か何かを入れて持ち帰り、天皇の御遺灰はすべて持ち帰ったと報告したのではないでしょうか。

大正天皇が皇太子時代に植樹した記念碑(明治40年)

 

ところが、西南戦争、日清戦争、日露戦争と次々と起こる混乱の中、離島からの報告は放置され、明治の末年になってやっと今日のような姿に整備されたといいます。

昭和天皇が皇太子時代の植樹記念碑(大正6年)



政府に破壊を命じられ、一時無視されていた後鳥羽天皇の本当の御陵は、その間も隠岐の人々によって大切に守られ、破壊と消滅の危機から救われたのです。

今上(平成)天皇が皇太子時代の植樹記念碑(昭和42年)



大正、昭和、今上(平成)天皇という三代の天皇が、皇太子時代に海士町に参拝に訪れ、行在所跡地に植樹をしている事実、火葬塚が本来の後鳥羽天皇陵なのではないでしょうか。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




菱浦港、海士町観光協会の窓口で申し込めば、レンタサイクルが利用できると聞いたので、到着の翌日、自転車を借りて中ノ島の歴史名所をサイクリングしてみました。

菱浦からほど近い諏訪湾



まずは、鎌倉幕府から後鳥羽上皇(1180〜1239年)の世話役を任され、上皇崩御後、御陵の墓守として、700年以上もこの地の大庄屋だった村上家の跡です。





村上家の当主は、2001年に歌手の西川(仁支川)峰子と結婚、一時話題となりましたが、8年後の2009年に離婚したようです。

母屋 



その後、村上家は、海士町に売却されたと聞きましたが、かなり荒れていましたので、整備を進めて欲しいものです。





こちらは、村上家からほど近い、後鳥羽上皇の御火葬塚で、今も宮内庁が管理しています。

 

空模様が次第に悪くなってきましたが、後鳥羽上皇御火葬塚から北に3キロ、中ノ島北端にあるという宇受賀命神社を目指します。

稲田の中にある宇受賀命神社

 

宇受賀命神社は、今から1200年近く前、西暦842年の「続日本後紀」に記載され、972年の延喜式では名神大社(全国226社)に列した隠岐国4大社の1社です。

一の鳥居



延喜式神名帳では、備後国、周防国、伯耆国、石見国等に名神大社が1社も無いのに、隠岐国に4社もあることから、10世紀頃までの隠岐は、中央で重要な地位にあったのではないかと思われます。

二の鳥居と拝殿



その理由の一つは、神事や宮中の行事に欠くことのできない熨斗の原料、「アワビ」の主産地だったからではないでしょうか。

本殿



さて、雨が強くなってきたので、観光協会へ戻って自転車を返し、隠岐牛店レストランで、隠岐牛の焼き肉ランチを頂きました。



隠岐の塩を少し付けた隠岐牛は、口の中でとろけ、ほんのり甘い・・何故なのでしょうか。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




書きためた記事をブログに予約しておき、今年も隠岐(家内の故郷)に帰省しましたので、その旅行記をご紹介しましょう。

隠岐島前を航行するフェリー

 

8月10日、台風接近のニュースを見て予定を急遽変更、夜行高速バスで大阪から米子へ、そこから路線バスに乗り継ぎ、11日の朝9時、隠岐汽船フェリー(くにが)に乗り込みました。

隠岐菱浦港のフェリーくにが

 

台風の来る前の穏やかな日本海を順調に航行し、昼すぎに菱浦港に到着、港のレストランで、海の幸のミックスフライ定食を頂きました。



次に隠岐牛店でバーベキュー用の肉を調達して、マリンポートホテル海士にチェックイン、ハーバービューの客室で接近する台風を待ちました。

銅像の後ろが隠岐牛店

 

隠岐の島前間の島を結ぶ連絡船は、カルデラが沈下した湾内を航行するため、台風の影響を余り受けないようです。

ホテル客室からの風景

 

ホテルの夕食は、岩牡蠣をメインとした和会席料理で、隠岐の海の幸を存分に楽しみました。

 

深夜になって、かなり風が強くなってきたようですが、ホテルにいれば安全です。

ハーバービューのロビーラウンジ

 

翌朝、目を覚ますと台風は能登半島沖に去り、風も弱まっていたので一安心、朝風呂に入ってから朝食を摂ります。

 

ホテルをチェックアウトしてポートターミナルの物産店(キンニャモニャセンター)で「サザエ」、「ヒオウギガイ」を調達、家内の実家に急ぎます。

ホテル(中央)とその下にあるキンニャモニャセンターの遠景

 

実家での昼食は、「サザエ」、「ヒオウギガイ」の刺身、余った分は、お米と一緒に炊いて、「サザエご飯」として頂きました。



夕食は、炭火をおこし、隠岐牛のバーベキュー、隠岐の塩を付けて頂きましたが、海の塩に甘みがあることを、今回はじめて知りました。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




直木賞で知られる直木三十五が活躍していた昭和初期(昭和2〜8年頃)の物価について、NETで少し調べてみました。

谷町六丁目から西側の長堀通 、工事中のマンション手前の路地を右に入ると直木三十五の石碑



その数値を平均化すると、工場労働者の月収は90円前後、当時はまだ少なかった大卒サラリーマンの初任給が100円前後と思われます。

その石碑

 

また、新聞が毎月1円、扇風機が32円、4球ラジオが60円、蓄音機が60円、カメラが20〜50円、ロンジンの舶来懐中時計が30円程度です。



高級品では、4ドアセダンタイプのフォード製自動車2400円、ダットサン製国産車が1350円。

直木三十五記念館の展示(映画制作にも関係していました)



現在全国紙と呼ばれる新聞の現在の値段は3925円なので、とりあえず当時の1円を4000円と仮定すると工場労働者の年収(90円×12か月)1080円は、今の432万円、大卒サラリーマンの年収は480万円となります。

直木三十五記念館の展示

 

また4ドアセダンタイプのフォード製自動車2400円=960万円、ダットサン製国産車が1350円=540万円となり、どうもレートが高すぎます。

直木三十五記念館の展示



当時の1円=2000円と仮定すれば、大卒新卒サラリーマンの年収は240万円、扇風機6千円、ラジオ(今のカラーTVか)12万円、カメラ4〜10万円、ロンジン6万円、フォード480万円、ダットサンが270万円、今の生活感覚に近くなった気がします。

直木三十五記念館の展示



当時、東京から大阪までの国鉄3等運賃6円は、現在の新幹線回数券料金(1,3万円)に近く、直木が頻繁に利用していた航空運賃30円(6万円)は、鉄道よりもかなり割高だったようです。

直木三十五記念館

 

直木三十五は、昭和5年の税金査定(年収?)が3700円、昭和6年12500円、昭和7年が21500円と書いているので、1円=2000円で換算すれば、740万円、2500万円、4300万円となり、南国太平記の出版(昭和5年)後、急に所得が増加したようです。

 

参考文献:直木三十五伝 植村鞆音



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




直木賞で有名な直木三十五(1891~1934年)について昨日の記事からの続きです。

谷町六丁目駅からほど近い直木三十五記念館

 
直木は、当時最先端の乗り物だった飛行機を使って頻繁に大阪に帰省していたようです。

直木三十五


直木は<私は、いつも、大阪に来る時に、飛行機にしている。旅客飛行機の乗客で搭乗回数のレコードホルダーは、大阪の電気器具屋、それからもう一人あって、次に私である>と得意げに書いています。

右端が菊池寛、次が直木




その時期は、南国太平記の発表後、所得が急増した1931年(昭和6年)から亡くなる前年の1933年(昭和8年)頃ではないかと思います。




木津川飛行場は、1929年(昭和4年)から東京、大阪、福岡への定期旅客便が1日1往復運航され、伊丹空港の完成まで僅か10年間だけ使われた空港です。

直木三十五記念館



直木は、<東京から30円である。だが飛行機は2時間半でくる。11時に宿に着く(中略)旅客機には2、30人に一人は外国人>とあるので、当時東京(羽田空港は1931年に開港)の出発時刻は8時頃、乗客は20~30人だったようです。

直木三十五記念館入り口



また、<飛行機は、木津川尻に着くが、ここから大正橋までは退屈でもあるし、大阪軽蔑心も湧き出してくる>とあるのは、飛行場から大正橋までの道路が舗装されていなかったせいでしょう。

直木三十五記念館の中




木津川飛行場については、以前に紹介したことがありますが、あの直木三十五が頻繁に利用していたとは知りませんでした。




直木は、1934年(昭和9年)に結核が原因の脳膜炎で死去、直木の友人だった菊池寛は、翌年「直木三十五賞」を制定して彼の死を追悼しています。

 

参考文献:直木三十五伝 植村鞆音



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




直木賞で有名な直木三十五(本名:植村宗一)は、1891年(明治24年)に大阪市南区安堂寺町で生まれています。

生地に近い直木三十五記念館


 
また直木は、43年の生涯の約半分を郷里で過ごしていて、大阪ゆかりの人物を題材とした作品が多く、また大阪で書いた作品も多数あるようです。

記念館



直木の甥にあたる植村鞆音は、直木三十五伝の中で、直木が<大衆作家としての土壌を培ったものに、大阪という町の立地がある。ここは史跡の宝庫である。(中略)家の傍の坂の途中には榎木大明神の祠があり、そこには楠木正成お手植えと伝えられる樹槐がある>と書いています。

現在もある榎木大明神と樹槐(右)



上京して早稲田に入学、その後東京で職を転々としながら評論活動、文芸春秋の創刊とともにペンネームを直木三十二として毎号評論、雑文などを発表、社長の菊池寛(1888~1948年)とも親しかったようです。

右から2冊目が直木の楠木正成(榎木大明神の樹槐にゆかりの人物)




同年9月の関東大震災で、一時郷里の大阪に戻り、1924年(大正13年)頃から大阪の雑誌「苦楽」で仇討ちものと呼ばれる小説を発表しています。




1926年からペンネームを直木三十五と替え、1927年(昭和2年)には再び上京して本格的な執筆生活に入り、1930年(昭和5年)には代表作「南国太平記」を発表、一躍人気作家となっています。

榎木大明神の由緒



谷崎潤一郎は、直木の「南国太平記」の文体について<一種豪快な美観がある。(中略)読過しながら、何か馬蹄の響きのような、活発なリズムが耳朶に残る>と絶賛しています。



菊池寛は、創業3年目(大正14年)と10年目(昭和7年)に「文言春秋 執筆回数 番付」を発表、両方とも西の正横綱が直木、東の横綱が芥川龍之介(昭和2年に自殺したので昭和7年は張出横綱)、横綱としての貢献度が考慮されて「直木賞」、「芥川賞」が設けられたのです。

直木から芥川宛の手紙(直木は1歳若い芥川の学才を高く評価していたようです)


 

参考文献:直木三十五伝 植村鞆音



コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




天王寺公園植物温室の中から、まずは大輪八重咲き、チアガールの持つボンボンのような球根ベゴニアです。

 
大輪の球根ベゴニア50鉢と、多数の木立性ベゴニアを、真夏に咲かすためには、世話が大変だろうと思いますが、入場料150円で見ることができます。


ベゴニアで有名な植物温室は、神戸花鳥園、確かに見事な大輪の花を観賞できますが入場料が1500円もします。




写真のような大輪系の球根ベゴニアの原種地は、アンデスの1500m以上の高地で、その環境に近い、昼25℃、夜16
℃が理想とか。




日本の夏は、球根ベゴニアにとって苛酷な環境で、気温が夜25
以上、昼35以上の日が続くと枯れしまうようです。




また、木立性ベゴニアも、
昼28、夜20℃が理想的と言われ、球根ベゴニアより生育温度が少しだけ高いようです。




そういうベゴニアですが、天王寺公園植物温室では、真夏に見事な花を咲かせていました。




実は、我が家にも今年5月に買った木立性ベゴニアがあり、今も奇麗なピンクの花をつけて楽しませてくれています。




弱った花を、摘花しておくと、すぐに次の元気な花芽が出てきて咲き続け、買ってから3カ月近くになるのに、まだ花が一杯ついています。




コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ