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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



西郷隆盛(1828〜1877年)の従弟(父親同士が兄弟)だった大山巌(1842〜1916年)の次男、大山柏(1889〜1969年)の随筆に隆盛の嫡男・西郷寅太郎授爵のことが出ていましたので枚岡山展望台からの眺望と一緒に紹介しましょう。

2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」には隆盛の最初の妻として須賀(ドラマでは橋本愛)、次が1859年に奄美大島で娶った愛加那(1837〜1902年・二階堂 ふみ)、三人目が1865年に薩摩に戻って結婚した正妻イト(1843〜1922年・黒木 華)が登場しています。

隆盛は、愛加那とイトとの間にそれぞれ子供を作っていますが、愛加奈との間の庶子が西郷菊次郎(1861〜1928年・2代目京都府市長)、正妻イトとの間の嫡男が西郷寅太郎(1866〜1919年)です。寅太郎はドイツに13年間滞在してドイツ士官学校を卒業、1892年(寅太郎・数え年27歳)帰国して陸軍士官となった人物。・・・花園ラグビー場

帰国から10年後の1902年・明治35年(寅太郎・数え年37歳)、父の維新時の功績で嫡男寅太郎は侯爵に列せられ、体面を維持するための金一封(5万円)が下賜されることとなりますが、ある宮内省関係者から異論が出ています。

その異論とは「西郷は子孫に資産を残していません。寅太郎も陸軍給与だけで倹しく暮らしており、5万円の御下賜金では到底侯爵の体面を維持できない故、今少し爵位を低くして戴きませんと体面維持は困難かと」と言上したこと。・・・あべのハルカス(高さ300m)は、枚岡山展望台より高い

しかし明治天皇はこの言上を聞くや否や「さすれば爵位はそのままで下賜金を倍にしてつかわせ」と即答、前例を破って寅太郎侯爵に限って10万円が支給されています。明治天皇が大西郷の功績を高く評価していた証拠でしょう。・・・南港コスモタワー

当時、西郷寅太郎一家は間口4間(約7m)くらいの粗末な二階家に母親(イト・当時60歳)と同居していましたが、授爵のことが新聞報道された翌朝、上品な老紳士が贅沢な2頭曳の馬車で西郷家を訪問しています。・・・あべのハルカスのアップ

玄関も無い粗末な家で質素な未亡人(イト)が慎ましやかに挨拶すると「これで私も安心仕りました。まるで肩の荷を一時に下したような晴れ晴れとした気持ちになりました。本当に心からお祝い申し上げます」と丁寧に言上したといいます。・・・大阪梅田方向

その紳士こそ、34年前に西郷隆盛の奔走によって命を救われた恩義を忘れなかった、徳川15代将軍徳川慶喜(当時66歳・実は前日に寅太郎と同時に公爵を授爵)その人だったのでした。・・・左の白いビルは阪急百貨店中央がグランフロント

参考文献:金星の追憶 回顧八十年 大山 柏著



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生駒山の麓にある枚岡山展望台から西側に広がる大阪平野のパノラマです。

コスモタワーのある咲洲方向、右端に通天閣(高さ108m・HITACHIのマーク)が写っていました。

中央やや左の黒いビルは北浜タワー(209m)、その右は関電本社、フェスティバルタワー(199m)など中之島の超高層ビル群です。

大阪ビジネスパークとその背後の梅田の超高層ビル群です。

梅田の超高層タワーマンション群、左にHEPFIVEの観覧車も見えています。

左のビル群が梅田、右側にある緑地は鶴見緑地公園でしょう。

望遠レンズで拡大すると鶴見緑地の「いのちの塔」が何とか判るので間違いないでしょう。

さらにその右側(北)には大阪メトロ「大日駅」近くにある3本のタワーマンションも見えていました。

こちらは大阪平野の南側、羽曳野市方向ですが、超高層ビルは少ないようです。



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6月と7月は渡り鳥が渡来してこない閑散期です。そこで生駒山散歩をしようと枚岡神社のある枚岡まで電車で移動、枚岡展望台まで行ってきました。・・・枚岡駅の裏は海抜86mくらい(地理院地図)

枚岡神社の左手にある登山道を登る途中、アジサイが咲いていました。

右手のなるかわ園地の方向が枚岡展望台

色付きはじめたアジサイが眼を楽しませてくれましたが、登山道はかなりの急勾配でした。

登山道で見かけた模様の美しいチョウはクロヒカゲ(たまたま持参していたマクロレンズで撮影)

もうじき枚岡公園展望台

約1時間かけて到着しました。標高は286m(地理院地図)。NETで検索すると260mとあるのでそちらが正解でしょう。

枚岡神社の裏手にある小高い丘のようになっていて、大阪平野が一望できます。展望台の素通窓越しに、大阪平野を見ると額縁に入った写真のようです。

枚岡山展望台からの風景という案内看板があり、ここから見える高層ビル群の場所を教えてくれました。



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竜田道を下ってゆくと、谷の向こうに小さな山のようなものが見えてきました。

ズームアップしてみると、どうやら古墳のようです。

ぶどう畑の上に少し開けた場所があり、そこから古市古墳群を見下ろすことができました。

石川の向こう岸に見えるのは、左から応神天皇陵、中央先に見えるのが仲津媛皇后陵、中央から右の最も大きく見えるのが允恭天皇陵でしょう。

竜田道を通って大和から河内に出てきた古代の旅人達は、5世紀後半には既に完成していたというこの古墳群を見ていたはずです。モヤがかかっていましたが、もっと拡大してみましょう。

そのぶどう畑の下に墓地があり、戦国時代初期の河内守護代、木沢長政(飯盛山城主、1493?~1542年)の墓の表示が出ています。

木沢長政は、河内守護畠山義堯の家臣でしたが次第に主家を圧倒、1532年には畠山義堯を自害に追い込み、さらに三好元長(1501~1532年)まで自害(墓は堺顕本寺)させ、畿内での権力を握っています。1534年(長政42歳頃か)には、河内と大和を押さえる信貴山城や二上山城も築城する財力も持っていたようです。墓地は、安堂、太平寺共同墓地とありました。

1541年、木沢長政は、対立する三好元長の嫡男長慶(1522~1564年)を追って京都に侵攻、足利義晴の擁立を図りますが失敗、翌1542年に細川、三好勢の幕府追討軍と太平寺の戦い(この墓地の近く)で破れ、討ち死にしています。木沢長政の墓がこれ。

木沢長政の飯盛山城は、1560年から三好長慶の居城となり、信貴山城と二上山城はその家臣松永久秀の居城となっています。墓地から近鉄安堂駅まではすぐでした。



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高安山気象レーダーを見てからケーブル高安山駅まで戻り、そこから南側に向かう山道を大和川目指して下ることとしました。

ケーブル高安山駅の南側は、広大な四天王寺の墓地となっていて、その先に関電の変電所があります。

また道路の周囲は、平地も斜面もぶどう畑です。

迷いながら歩いていると、岡本ガーデンの前に出ました。そこに寄り道せず、さらに道を下ります。

しばらく歩いていると、雁多尾畑大池という整備された溜池がありました。

看板には、池への魚の放流、魚釣り禁止と書いてありますが、数人の釣り客がのんびり竿を出していました。

さらに下ると、低い尾根の向こうに二上山が見えてきました。二上山と尾根との間に大和川が流れているのでしょう。

さらに下ってガードレールの表示を見ると、竜田道と書いてありました。江戸時代までの大和川流域は崖が続き、人が歩けなかったそうです。そこで奈良から大和川の北側を河内に抜けるルートは、竜田大社(奈良県三郷町)から雁多尾畑地区に入り、この道(竜田道)を通って安堂に出たようです。

ここから南を見てみましょう。低い尾根の向こうが大和川、その先、左のドーム型の山が二上山(517m)、次が岩橋山(659m)、さらに葛城山(960m)、一番高いのが金剛山(1125m)でしょう。

つづく



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高安山駅の改札を出て右側のスロープを下りると、ちょっとした展望台があります。

これが展望台からの眺めです。この日は天気はまずまずでしたが、薄いモヤがかかっていて大阪市内が良く見えませんでした。少し前、二上山に登ったときは、空気が澄んで視界が抜群でした。

北西側をズームアップしてもこんな具合で冴えません。山は空気の透明度の高い日に限りますが、そういうタイミングに休みが取れないのがサラリーマンです。

さて、駅前の地図を見ると高安山気象レーダーが近いようなので、ちょっと寄り道することにしました。この地図を見ると、気象レーダーは、高安山山頂よりもやや南西の位置にあるようです。

途中の標識。左方向は、上の地図の「おおみち」で、信貴山口駅に下りるルートなのでしょう。イノブタ注意の標識が不気味でした。

その先に四角い柱の上に置かれた気象レーダーが見えてきました。このレーダーですが、2010年3月に 建屋の建替えと本体のドップラーレーダー化工事が完成。最新鋭設備となったようです。

大阪管区気象台の高安山気象レーダーについての説明には、室戸岬レーダーとの連携で台風、集中豪雨、雷雨を観測することを目的に1968年に設置されたとあります。

レーダーは、建物の上にあるので高安山山頂よりも約10m高い、標高498mに置かれています。レーダー観測は、3時間ごとに1日8回行われ、南は室戸岬のはるか先、西は広島県、北は若狭湾北方、東は富士山という半径300kmが観測できるそうです。

レーダーのすぐ下には、高安城跡の石碑が置かれていました。西暦667年は、今から1346年も前のこと、その頃ここに城があったとは、生駒山系の歴史は古いということでしょう。

つづく



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ある平日、有給休暇を取って高安山から柏原市まで山を歩いてみることにしました。近鉄電車の信貴山口駅で下り、ケーブルカーを使って高安山まで登ります。

平日のケーブルカーは、40分間隔の運転です。そこで待ち時間に駅の近くにいた野鳥を撮影してみました。ケーブルカーの電線に止まる野鳥(モズ)のツガイ。

怪傑ゾロのような目は、どうやらモズの雄のようです。

こちらがモズの雌、目の周囲の黒色が無く、優しい表情をしています。

周囲が黒く、キツイ目をしているモズの雄が、こちらをキッと睨んでいました。今回はじめてモズの写真を撮ってみましたが、結構面白かったのでこれからも挑戦しようと思います。

モズの写真を撮っているうちにケーブルカーは出発、途中、下りのケーブルカーとすれ違います。この辺りの勾配は緩やかでした。

しかし、そのあとのトンネルを出ると急にレールの傾斜がキツクなっています。この急勾配を歩いて登るのは大変です。

信貴山口を出発してから約7分で高安山駅に到着。この日は冬の平日だったので、乗客は私一人だけでした。

静かなケーブル高安山駅の外側です。

つづく



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ダイヤモンドトレールを穴虫峠に下りる途中、振り返って見た二上山です。・・・中央が雄岳517m、右が雌岳474m

大阪平野を眺望する角度も低くなっています。

ダイヤモンドトレールどんづる峰方面の矢印に従って先に進みます。

中央の谷道が近鉄南大阪線と並行する府道703号線(香芝太子線)、2010年に工事開始から20年以上の年月を経て完全二車線(片側一車線)化工事が完了、二上山の北側を巻くように通っています。

かつての大坂道、府道703号線(香芝太子線)の最高部は、大阪と奈良の境となる穴虫峠(標高129m)です。・・・下の写真の前方

一方、ここから2.8km南南東、二上山の南側に大和から河内までの官道として有名な竹内街道の竹内峠(標高286m)があります。そちらは標高が高く、かなり急勾配です。・・・府道703号線は、穴虫峠の東で国道165号線と合流しています。

国道165号線に入ると、穴虫峠(標高129m)から852m北東に明治13年(1880年)に開削された新しい峠、田尻峠(標高117m)があります。・・・下の写真の最高部が田尻峠、この峠もかなり緩やかです。

現在、大和河内を結ぶルートをウオーキングするなら、この田尻峠(標高117m)よりも大和川沿いの奈良街道(田尻峠の北3km、標高40m程度)の方がもっと起伏が少なくで楽でした。・・・国道165号線は車の通行量が多い

ダイヤモンドトレール北入口から大阪教育大学前までの距離は4.8km、緩い峠部以外は下り坂となっていたので僅か50分で到着。大阪教育大学前駅から近鉄電車に乗れば27分で難波です。

大和から河内へ通じるルートとして使われたのは、飛鳥時代には長尾街道(大坂道、穴虫峠越え)、蘇我氏の絶頂期に竹内街道(竹内峠越え)、奈良時代以降には奈良街道(大和川沿いの龍田道)と時代によって変わってきているようです。

参考文献:探訪古代の道 上田正昭編



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今から1327年前に亡くなった大津皇子(663~686年)の陵がある二上山からは、大阪平野南西方向の眺望も楽しむことができます。中央はPL大平和祈念塔、その左側の先に関空ゲートタワービル、そこから右に関西空港をなんとか見ることができました。この写真、関空の向こうに見える山は淡路島です。

そのやや右には、南海電鉄和泉大津駅前のツインタワービル。大阪湾を挟んで淡路島が見え、その左端は淡路市でしょう。

さて、昨日に続いて二上山から大阪の中心部を見てみましょう。左手前の山は寺山294m、その先に大和川、さらにあべのハルカス、中央やや右が中之島から梅田地区、右端がOBP周辺でしょう。

まず、あべのハルカスのある近鉄阿倍野橋駅周辺から南海難波駅までの部分を拡大しましょう。あべのハルカス背後の六甲山系は、右に向かって低くなり、最も低い部分を越えた武庫川が画面の右から左に流れ出ています。

その右側は、いよいよ大阪の中心部です。写真には難波から心斎橋、本町、その向こうに中之島のビル群が見え、心斎橋日航ホテルの向こうの山の麓が阪急宝塚駅周辺の超高層マンション群でしょう。・・・大阪市内にも超高層ビルが増えましたね。

手前は八尾空港、その向こうに中之島、梅田、右端は法円坂のNHK大阪放送局です。

さて、この右側に大阪城が見えるはずですが・・・写真の中央、上町台地の高台に大阪城はちゃんと見えています。昨年の秋、吉野から見た大阪城の写真を吉野花矢倉の茶店で見せて貰いました。実は、吉野から大阪方向は二上山北側から柏原市役所の南(大和川が流れている)部分が狭い谷となっていて、その先に大阪城がちゃんと見えるのです。

やや左下がJR久宝寺駅前のタワーマンション、そのすぐ後ろに久宝寺緑地、その向こうやや見えにくいですが大阪城。その右側は、OAPタワー、その右黒いクリスタルタワーの並びがOBPのビル群です。大阪城のある台地はかつて難波宮(前期難波宮完成は652年、686年の火災で焼失)があった場所、今から1300年以上前の大津皇子陵の参拝者は、二上山からこうして難波宮を見ていたのでしょう。

最後にあべのハルカスから南海難波駅までの地区をもっと拡大してみました。このあべのハルカスのすぐ向こうには大津皇子の亡くなる93年前(593年)に創建された四天王寺がありますが、今の二上山からは見ることができません。

今から1327年前、大津皇子陵の建設にかかわった大勢の人が、二上山から四天王寺を見たこともあったのでしょうね。



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二上山雌岳山頂の青空と雲、快晴ではありませんが、なかなかの景観です。・・・そこには、石でできた日時計が置かれていました。

山頂の温度計は、氷点下2℃を示しています。・・・しかし風が無いのでそんなに寒くありません。

9時54分、雌岳から下山することにしました。・・・その途中、急に盛り上がっている雄岳の斜面を見ると、二上山が火山だったことが良く判ります。

馬の背からは、ダイヤモンドトレール北入り口に向かって下山します。・・・途中、こんなに見晴らしの良い場所があり、この南側(写真左下から中央方向)を古代の官道、竹内街道が通っています。

さて、河内から大和(飛鳥宮)に抜ける峠としては、南から竹内峠、岩屋峠(二上山馬の背越え)、穴虫峠、田尻峠があります。・・・竹内峠から雌岳までは、自転車でも登れるようです。

古事記には、二上山を大坂(おおきさかの)山とし、その坂は履中天皇即位記などの記述から穴虫峠とされ、穴虫峠を通っていた道は大坂道と呼ばれていました。(上田正昭編 探訪古代の道)・・・ダイヤモンドトレール北入り口は、屯鶴峯登山道に通じています。

大坂道は、西の長尾街道に通じ、さらに竹ノ内街道にも通じていたようです。・・・北入口にある地図には府道香芝太子線(大坂道)が竹ノ内街道と繋がっています。

ダイヤモンドトレールのコースの周辺は交通の便が良く、エスケープルートも多いのでコースを分割して歩く人が多数派のようです。・・・急な下りの道を延々と下りてゆきます。

北入口までのダイヤモンドトレールは、尾根筋を通っているため、登りとなっている場所が意外と多く、結構時間がかかりました。

ダイヤモンドトレール北入口到着は11時6分。・・・雄岳への登りが1時間だったのに、雌岳からの下りは1時間12分もかかってしまいました。

参考文献:上田正昭編 探訪古代の道

つづく



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二上山(雄岳)から西側の眺望です。大阪湾の向こう、左が淡路島、明石海峡(大橋がなんとか見えています)を挟んだ右が明石から神戸市。写真中央を左から右に流れるのが石川。写真下の高架道路は南阪奈道路

明石海峡大橋を拡大してみましょう。中央やや右の大きな古墳は仁徳天皇陵。その左が履中天皇陵。今から1327年前、二上山山頂に大津皇子陵が完成した時(西暦686年)にも存在していたはずです。

西からやや北側方向、手前は羽曳野市、その先が松原市、堺市、大阪市住之江区の南西部、海の対岸は神戸市。

拡大してみましょう。中央左右の緑地は堺市の大泉緑地、その向こうが堺港、そのすぐ右に南海電鉄堺駅前のビル、手前の小さな古墳は反正天皇陵、右の超高層マンション2棟はJR堺駅前にあるベルマージュ堺、その後ろがシャープの堺浜液晶工場です。海の向こうには神戸空港、その背後の山は横尾山312m、右の谷の向こうは妙法寺駅、谷を挟んだ右の山は高取山328mでしょう。

さらに右(北)側の拡大です。左が関電南港発電所、中央が大和川の河口、対岸の左は菊水山459m、その手前が三宮中心部、大和川河口の先はJR三宮駅東の超高層マンション、その右は新神戸駅周辺のホテルとマンション、背後の山は鍋蓋山487mでしょうか。

もっと右を見てみましょう。手前の古墳は松原市の大塚山古墳。その先に咲洲のコスモタワー。対岸は左端に新神戸駅周辺のビル、中央が六甲アイランドのビル、背後の山の右端が麻耶山702mです。大阪湾が川のように見えますね。

さらに右側。中央やや右下の白いビルが松原市のメディコビル、その左上の小さな森が住吉大社、その向こうが港大橋、夢舞大橋と続き、その対岸の左が神戸市、正面が芦屋市、右が西宮浜でしょう。

さらに右を見ると、長居スタジアムその右が長居公園、その向こうに新千歳橋、天保山大橋、背後の山にアンテナがある付近が六甲の最高峯932m。

その右側。中央下は松原市を流れる大和川、中央やや左にUSJのホテル群、その向こうに尼崎のパナソニック工場、さらにその上は芦屋から西宮にかけての山の手住宅です。

そのやや右側。右に弁天町の超高層ビル群、その向こうに阪急西宮北口駅周辺のマンションが見えています。二上山から見ると大阪市、尼崎市、西宮市は連続した市街地となっていますね。



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8時55分、二上神社口駅を出てほぼ1時間で二上山の頂上に到着です。ここには、明治9年に治定された大津皇子(663~686年、天武天皇の皇子)の陵墓があります。・・・正面

大津宮で成長したので大津皇子と呼ばれ、天智天皇の第一皇子(大友皇子648~672年)とも仲が良かったようです。・・・西向きとなっている鳥居の奥の円墳がその陵でしょう。

父の天武天皇は、大友皇子と壬申の乱を戦い、即位後15年かけて古代天皇制を創った剛毅な人物で、大津皇子は父親とよく似た性格だったと日本書紀にあります。・・・宮内庁の看板の向こうは、南方向となる金剛山

天武天皇の崩御の直後、皇后(後の持統天皇、大津皇子の伯母)と皇太子(持統天皇の子、草壁皇子662~689年)連合対、大津皇子との抗争があり、大津皇子が破れて自殺したのです。・・・大津皇子陵から西はさらに高く、そこに葛木坐二上神社がありました。

伊勢神宮の斎宮から飛鳥宮に召還された大津皇子の実姉(大来皇女)が、弟の死をいたんで詠った和歌が万葉集に残されています。・・・雄岳山頂から少し下ったところに見晴らしの良い場所を見つけました。後日その詳細を紹介したいと思います。

「うつそみの 人なるわれや 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を 弟背(いろせ)とあが見む」・・・さて、大阪平野の眺望を楽しんだ後、雌岳(正面やや右)を目指して山道を下ることにしました。

「生きてこの世に残っている私は、明日から この二上山を(天皇となる人物だった)弟と思って崇め、眺めよう」という意味でしょう。・・・雄岳と雌岳との鞍部は、馬の背と呼ばれるポイントで、トイレも完備していました。

万葉集に残った大来皇女の和歌から二上山頂の墳墓が大津皇子陵であることは間違いないと思います。・・・馬の背を過ぎ、雌岳への登山道から大津皇子陵のある雄岳を振り返って見ました。

持統天皇が大津皇子を自殺に追い込んで天皇位につけようとした実子(草壁皇子)は、3年後に死去、彼女はその翌年、女帝として即位しています。・・・雌岳山頂の手前にも、こんなに見晴らしの良い場所がありました。

二上山の山頂に埋葬されている人物(大津皇子)は、今から1320年以上前にあった抗争の主役の一人だったのです。

参考文献:二上山 田中日佐夫 著

つづく



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今年初の登山は、大阪府と奈良県の境にある二上山571mです。近鉄電車から見た二上山

阿倍野橋駅から出発する近鉄電車の南大阪線に乗って二上神社口で下り、二上山を目指しました。・・・二上神社口駅の観光地図

二上神社口駅改札を出たのは7時54分、駅前の道を山に向かいます。

途中にあった公園から二上山の全景を見てみました。二上山は、2000万年前まで噴火していたトロイデ型火山で、現在は死火山となっています。左が雌岳474m、右が雄岳517m

加守神社、倭文神社、二上神社とあります。

その拝殿

拝殿の左側が登山道。この先にイノシシ除けの柵があり、登山者は扉を開けて山に入ります。

最初の登山道は、なだらかで快適でしたが、すぐに急こう配の登山道となり、氷点下の朝でも汗が吹き出てきます。

登山道は、雄岳斜面を北から右回り、つまり北から東、南と高度を上げてゆきます。樹木の影を見ると、この辺りは東南側でしょう。ここまでくると頂上はもうすぐ。

つづく



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さて、この大和川(龍田川)沿いの大和から河内に抜ける道(龍田道)は、いつ頃からあったのでしょうか。・・・芝山の北をかすめて流れる大和川。奥が下流側。右は青谷ゴルフガーデン。

先日読んだ探訪古代の道(上田正昭編)には、奈良遷都に伴う事業として龍田道が開かれたとありました。とここから芝山橋を渡り、大和川の右岸を歩くことにしました。正面がその右岸。

このルートは、急峻な山が大和川の岸まで迫っていること、また飛鳥宮から北に離れ過ぎているため、少数の里人だけが使うマイナーな存在だったようです。・・・大和川の右岸からみたJRの鉄橋(上下2本)です。正面右手の小山が大和川が迂回する芝山。

藤原宮の文武天皇は、大和から河内に出る際に騎兵を従えて大坂道(穴虫峠越え)を取っていましたが、平城宮の聖武天皇は騎兵を連れず(馬が通れなかった?)龍田道を通った記録があります。・・・芝山の迂回ポイントを越えた大和川下流は、急に川幅が広がってきます。正面は国豊橋

奈良時代の龍田道は、龍田大社背後の山から大和川右岸沿いに西に向かって伸びる狭い山道で、騎馬の兵士は通れなかったようです。・・・大和川右岸には、近鉄大阪線鉄橋の上流から遊歩道が整備されていて、その脇に河口から18.4kmの標識がありました。ここからは車道の側道を歩く必要が無くなります。

大和川右岸の山道を通っていた龍田道も、1874年(明治7年)に亀の瀬の南岸(大和川左岸)沿いの新道が開かれ、さらに1890年(明治23年)に大阪鉄道(現在のJR関西本線)が開業しています。・・・左から右に流れる大和川と石川(正面)との合流地点です。

石川と合流し、左から右(北向き)に流れる大和川は、このポイントから不自然に左側(西向き)にカーブしています。正面は新大和橋と近鉄道明寺線鉄橋。土手の右側は柏原市役所

上の写真の右手の土手には、大和川付替記念公園があり、かつてここから北向き(下の写真の黄色のルート)に流れていた川が、川違新川という名前で西向きとなった地図が掲示されていました。

大和川付替については以前このブログで紹介したことがあります。大和川付替二百五十年記念碑

参考文献:上田正昭編 探訪古代の道

 



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大和川の上流方向を見ると、左から亀の瀬岩がせり出し、川が大きく蛇行しています。

大和川下流の橋には、「亀の瀬地すべり対策工事中」の文字が掲示してありました。この右手一帯が地すべり地域なのでしょう。この亀の瀬橋から下流側が大阪府です。

対岸(右岸)を通っていたJR線路は、地すべり対策のために左岸に移設され、その鉄橋が架けられています。このJR線路は、三郷駅手前にある鉄橋でもとの右岸に戻るルートとなっていました。

亀の瀬地区を抜けると、車1台がやっと通れる弁天橋が見えてきました。対岸の地すべり地区にも民家があるようです。

弁天橋の下流にある国分寺大橋付近、右岸の山が消え平坦な地形となってきます。

国分寺大橋を過ぎた大和川は、正面にある丘(芝山)を避けるように大きく北側(右)に向きを変え、「乙」の文字に似た流れとなります。

このJTEKT社(KOYOベアリング)の建物が「乙」の文字となる大和川の左下辺り。大和川に沿って歩くため直進する25号線から外れて右の小道に曲がります。

小道をしばらく歩くと、大和川が北向きに流れを変えているポイントが見えてきます。大和川は奈良県側での大雨の際、このカーブで一旦堰きとめられ、上流の水位が上がるようです。

大和川は、芝山を大きく迂回するために、ここで北向きの流れとなります。芝山の両側で大和川を渡るJR線路。これは上流側。

つづく

 



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