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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



呉市の大和ミュージアムには、終戦の9日前にエンジン故障で琵琶湖に墜落し、33年後(1978年)に引き上げられた零式艦上戦闘機の復元機体が展示してある。



この零戦のパイロットは、吾妻常雄海軍中尉で、引き上げられた機体の復元作業には本人が協力したようである。



最終的に1万機以上が生産された零戦は1940年、中国戦線で初陣を飾り、味方機の損失無しで敵機27機全機撃墜という伝説的な戦果が報じられたこともあるが、どうやら日本軍恒例の誇大報道「大本営発表」であったようである。

エンジン



真珠湾攻撃は全くの奇襲であったため、アメリカ軍の戦闘機との空戦は少なかったが、その後のフィリピン爆撃では長い航続距離を生かして短期間にアメリカ陸軍航空隊を壊滅させ、南太平洋のラバウルからガダルカナルやニューギニアまで攻撃している。



緒戦における零戦の戦闘能力が高かったことは、日米双方の記録から裏付けられているが、米軍は無傷で捕獲した零戦の機体を徹底的に研究し、零戦の横転性能や急降下性能に弱点を見つけて、そこを衝く一撃離脱戦法等の戦術を確立したためにすぐ形勢は逆転したようである。

機銃(手前が13ミリ、奥が20ミリ)



また零戦は、海軍の要求仕様通り5千m以下の低空戦闘用に作られたために想定外である高度1万mから日本本土に襲来するB29爆撃機の迎撃ができず、肝心の国土を爆撃から守ることができない戦闘機であった。

13ミリ機銃の弾倉



零戦の強みは長大な航続力であったが、速度(530から560km/h)が遅いので、高速のF4U コルセア(670km/h)や、さらに早いP51ムスタング(700km/h)と戦うパイロットには過酷な飛行機であった。

この100キロ以上という速度の差は、停まっている車の横を時速100キロ以上で走行する車を想像すると理解できるであろう。



零戦の主翼に装備した、九九式20ミリ機銃2丁は、緒戦ではアメリカ軍に大きな脅威を与えた機銃であるが、初期のタイプには弾丸が各60発しか登載できず、あっというまに撃ち尽くしてしまうという欠陥があったので五二甲からは125発に増強されている。

しかし開戦1年後から運用された米軍のF4U コルセアは、12,7ミリ機銃を6丁、弾丸合計2300発、さらに20ミリ機銃2丁も登載していたので火力には圧倒的な差があったようである。



従って大戦中盤以降になると、米軍側が複数機による一撃離脱戦法へ変化したことと、零戦よりも高性能を誇ったグラマンF6FやF4U コルセア、P51ムスタングが登場したことで、海軍パイロットの精神力だけでは米軍機に対抗できなかったようである。


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