野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



久しぶりに海遊館に行ってきましたので、その写真と文化文政期の老中水野忠成(ただあきら、1762~1834年)の生涯を紹介しましょう。

十一代将軍徳川家斉(1773~1841年)の初期、松平定信は寛政の改革(1787~1793年)で、役人と庶民に倹約を強要、思想統制令などもあって経済・文化は停滞しますが、水野忠成が老中を勤めた17年間(1817~1834年)は、非常な好況だったようです。

ウィキペディアなどでは、<忠成は徳川家斉の放埒を諫めることもなく、収賄と身びいきによる政治を行った政治家として、総じて後世の評価は低い>とありますが、彼はなかなかの苦労人で、前半は波乱の人生を送っています。

旗本岡野知暁の次男として生まれた忠成は、1778年に旗本水野忠隣の末期養子(6歳)となって水野家(2,000石)の家督を相続、十代将軍徳川家治の小姓となり、のちに徳川家治の養子、徳川家斉(一橋治済の実子)の小姓を勤めています。

当時老中だった水野忠友(1731~1802年)は、田沼意次の四男を養子としていましたが、徳川家治の死(1786年)で田沼が失脚、水野忠友は即座に田沼との養子縁組を解消し、分家の忠成(24歳)を婿として迎えています。

新しい将軍徳川家斉(当時14歳)に小姓として仕えていて、家斉のお気に入りだった忠成の将来性を抜け目のない水野忠友が先もの買いしたのでしょう。

水野忠成は、仕方なく2000石の旗本家を幼い実子に継がせて妻と離縁、水野忠友(3万石)の娘と再婚していますが、人情と出世の狭間で相当悩んだのではないでしょうか。

御三卿の田安徳川家から陸奥白河藩松平家の当主となっていた松平定信(1759~1829年)が1787年に老中となると、田沼派と見られていた老中水野忠友(57歳)は失脚しています。

それから7年後「白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼こひしき」と揶揄された松平定信が老中を離れると、隠居していなかった水野忠友が再び老中(1797年、西丸付)に返り咲いています。

従って、家督を相続していない水野忠成(36歳)の雌伏は、まだしばらく続いています。

つづく

参考文献:十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯 佐藤雅美著



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




長居植物園の隣にある自然史博物館に入ってみました。・・・博物館ホールから見た植物園のサルスベリの花

博物館の2階では、7月20日から10月14日まで、いきものいっぱい大阪湾展が開催されていて、65歳以上の市民は無料で入場できます。

中の展示の様子

大阪湾で採れるおいしい貝の展示です。しかし、左上のクロアワビを見つけるには至難の業でしょう。

大阪湾に飛来する鳥達の展示

大阪湾内に棲息しているスナメリクジラの骨格。

こちらは堺の泉北港に漂流していたマッコウクジラの骨格(全長9.1m、体重10トン)

左からオオセグロカモメ、ウミネコ、ユリカモメ。大阪湾では、オオセグロカモメとユリカモメは冬から春先、ウミネコは7月から12月までの飛来が多いとか。

大阪湾の埋め立て状況図、大阪湾は次第に狭くなっているので、これからの自然保護活動は大切ですね。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日没前にシーサイドコスモ遊歩道を散歩していると、対岸の夢洲コンテナふ頭にかなり大型のコンテナ船が接岸していました。

大阪港の出口、大関門と夕日。左がシーサイドコスモ遊歩道

大型コンテナ船といえば、先月の6月17日、商船三井が保有する大型コンテナ船MOL COMFORT号(2008年、三菱重工業長崎造船所製造)が荒天のインド洋で突然船体中央部が折れ、後半部が27日に沈没する事故が発生(乗組員26人は救助)しています。

このMOL COMFORT号は、総トン数86,692トン、全長:316m、全幅:45.6m、喫水:14.53m、搭載能力:8,110 TEUという大型船ですが、7月11日には残っていた前半分も沈没(積載していたコンテナ4400個)したそうです。

コンテナ船は、船体上部に大きな負担がかかるため、最近のコンテナ船には強度の高い鋼材を採用して軽量化と低重心化を図り、経済性を向上させているようですが、MOL COMFORT号の設計に無理は無かったのでしょうか。

TEUとは、20フィートコンテナに換算した搭載能力で、最近韓国の造船所で完成した大型コンテナ船は、搭載能力:18,270 TEU、全長:399m、全幅59mもあるとか。夢洲コンテナ埠頭の水深では接岸が難しいかも知れません。

さて、ITALIAと書かれた船は、イタリア船籍の「TAL USODIMARE」号で、総トン数は68,888トン、全長:285m、全幅:40m、喫水:12.7m、コンテナ積載能力:5,652TEU。大阪港に入るコンテナ船としては、かなり大型の船です。

「TAL USODIMARE」号は、夢洲コンテナふ頭の前で方向を変え、出口の大関門に向かいました。

大阪発釜山行のパンスターフェリーは、毎週月、水、金の15時10分発、釜山に翌朝10時に到着ですが、この日は19時頃に出港していました。

このパンスタードリーム号は、総トン数21535トン、全長160m、全幅25m。スタンダードルームなら大阪と釜山を往復する料金は2万円とか。韓国までの船旅も一度体験してみたいものです。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




7月24日、クルーズ船サン・プリンセス(Sun Princess)が大阪港天保山埠頭に寄港しましたので、接岸する直前の姿を紹介しましょう。

通常、天保山埠頭への接岸は、船の舳が安治川上流を向くのですが、この日のサン・プリンセスは、舳が出口方向(大阪港大関門)を向く、通常とは逆の接岸となりました。

サン・プリンセスは、1995年に就航した総トン数:77441トン、全長:261.3m、全幅32.25m、吃水8.1m、船客定員1950名、乗組員900名という大型クルーズ船です。

入港の直前から高校生ブラスバンドが出て、華やかな歓迎演奏を開始、クルーズ客もデッキに出て演奏に聞き惚れていました。

猛暑の中でレベルの高い演奏していたのは、去年の吹奏楽コンクール高校の部、大阪府大阪北地区大会で金賞を受賞している大阪市立扇町総合高等学校吹奏楽部「OHGIES」のメンバーでした。

船を岸壁に係留する太いロープ(ロープを編んだもの)は、ホーサーと呼ばれていますが、それを引き出すヒービングライン(投索)を船の横に開けた作業台から岸壁に向かって投げています。

岸壁の作業員によってヒービングラインに繋がれたホーサーが引き出されてきました。その端部が岸壁の赤いビットに固定されると、船のウインチが巻き取り、船体がしっかりと接岸されます。

サンプリンセスの接岸が終わると、天保山ハーバービレッジのデッキにいた見物客の方に向かって大阪市立扇町総合高等学校吹奏楽部「OHGIES」の演奏が始まりました。

プリンセス・クルーズ社は、同社が持つ大型クルーズ船15隻のうち、サン・プリンセスとダイアモンド・プリンセス(2004年就航、総トン数:114000トン)の二隻を日本発着のクルーズ船としてこれから運行させるようです。クルーズ旅行の有望市場として日本が評価されてきたのでしょう。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1614年、二代将軍徳川秀忠と江(浅井長政の三女)とのあいだに生まれた徳川和子(当時8歳)は、後水尾天皇(当時19歳)の女御(後に中宮)として入内することが決定しています。・・・真夏の花といえばサルスベリ

当時の天皇家には、五摂家をはじめとする藤原家からの入内が慣例だったので、徳川家からの公武合体の要求に朝廷内部はかなり紛糾したのではないでしょうか。・・・ピンクのサルスベリ

五摂家とは、朝廷の最高官となる摂政、関白の地位につける近衛、鷹司、九条、一条、二条の五家のことで、後水尾天皇の生母も近衛前久の娘(後陽成天皇の女御、中和門院)でした。・・・白いサルスベリ

1610年の後水尾天皇元服時の関白は、九条幸家(忠栄、当時25歳)で、その妻は、豊臣秀吉の養女の豊臣完子(当時19歳)です。・・・ヒマワリのツボミ

豊臣完子の父は、秀吉の甥に当たる豊臣秀勝(秀次の弟)、完子の母は、後に秀忠と再婚して徳川和子を生んだ江(浅井長政の三女、1610年当時38歳)でした。・・・真夏の花の代表は、やはりヒマワリでしょう。

つまり豊臣完子と徳川和子は、同母、異父の姉妹、義母(江)が徳川秀忠に縁づいていた九条幸家は、徳川の世になってからも公家と武家の貴重な仲介役になっています。・・・アメリカフヨウも真夏に咲く花

入内が決定した1614年当時の九条幸家と豊臣完子との間には、長男二条康道(8歳)と二男九条道房(6歳)など2男、2女があり夫婦仲は円満だったようです。・・・この大きさが魅力です。

九条幸家の長男(二条康道)は、1613年に五摂家の実力者、二条昭実(当時58歳)の養子となっていて、五摂家のうちの2家は、江の孫(豊臣完子の実子)が継いでいます。・・・少し小さいフヨウの花

徳川和子の入内は、大坂夏の陣や家康の死去、後陽成院の崩御、後水尾天皇の女性問題などで延期されますが、1620年に実現、1623年には二人の間に女一宮(後の明正天皇)が生まれています。・・・ヘメロカリスも真夏に咲いています。

信長に滅ぼされた北近江の戦国大名、浅井長政は、天皇(第109代明正天皇)、将軍(第4代徳川家綱)、さらに五摂家の2家(九条家、二条家)の当主が自分のひ孫となったことにさぞ驚いていることでしょうね。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




7月も後半となった暑い日、長居植物園の夏の花を見にでかけててみました。

ヒマワリなどの夏の花は、太陽とのツーショットが似合います。

直径20cmもあるアメリカフヨウも真夏に咲く花です。

アメリカフヨウと太陽のツーショット

こちらは小ぶりなフヨウの花

こちらもフヨウ。花弁に小さな昆虫が留まっていました。

アメリカフヨウと太陽

太陽の直射を受けたヘメロカリス

こちらもヘメロカリス



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




徳川時代の初期、家康、秀忠、家光、家綱という4代の将軍の死を見送った天皇(後に上皇、法皇)が後水尾天皇で、その中宮(皇后)が秀忠の娘(徳川和子)です。咲くやこの花館の熱帯スイレンと蓮の花と一緒にその人生を紹介しましょう。

後水尾天皇は、生涯に40人近い皇子女をもうけ、成人したのは男女13人づつ合計26人、このうち徳川和子が生んだのは2皇子、5皇女で、うち2皇子と1皇女が夭折、成人したのは4皇女(長女は明正天皇)でした。

1629年、徳川和子(23歳)は、後水尾天皇の譲位とともに女院(東福門院)となり、後水尾天皇の皇子4人を養子として養育、その中には後光明天皇、後西天皇、霊元天皇の3天皇がいました。

幕府から与えられた東福門院の化粧料は1万石、他に毎年、金1000両と銀300貫目、賄い用に米が1600石、召使い衆の切米が3700石という手厚いものでした。

このほか、緊急の出費時には兄の家光に金の無心をして送金させているので、東福門院は多くの養子や召使いを抱えても経済的には相当豊かな生活を送っていたようです。

幕府も4代将軍家綱(在位1651~1680年)の時代になると、倹約令を出して財政引き締めに乗り出し、京都の東福門院にも倹約を申し入れています。

しかし、当時の幕府幹部に東福門院を説得できる人物は無く、効果が無かったようです。幕府はこれに懲りたせいか、その後将軍家の娘を天皇家へ入れることはありませんでした。

東福門院(徳川和子)は、同居していた娘(女三宮)の死がきっかけとなって病気がちとなり、東福門院となって49年後の1678年に72歳で亡くなっています。

一方、夫の後水尾法皇は、2年後の1680年に85歳で崩御。この記録は1989年の昭和天皇崩御(89歳)まで、300年以上も破られなかった驚異的な長寿記録でした。

参考文献:千年の坂も踏みわけて 後水尾天皇 久保貴子著

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




1629年に譲位して上皇となった後水尾上皇は、1639年に幡枝(円通寺のある場所)に山荘を建て、修学院離宮が完成するまでそこに何度も滞在しています。・・・トーチジンジャーの花

今回は、その後水尾天皇の譲位のいきさつと、咲くやこの花館の7月に咲いている花を紹介しましょう。・・・ハイビスカス

1627年、後水尾天皇(32歳)は、高仁親王(徳川和子とのあいだの皇子で秀忠の孫)が4歳となる2年後に譲位することを幕府に伝えています。・・・アデニウム・オベスム(別名沙漠のバラ、キョウチクトウ科、アフリカ南西部原産)

後水尾天皇は、比較的自由に行動できる上皇の地位がどうしても欲しかったようです。しかし4歳の子供が皇位につくのは、後深草天皇(1243~1304年)以来380年ぶりのことでした。・・・サボテンの花

金地院崇伝が作成した禁中並公家中諸法度には、若い上皇の出現を想定しておらず、上皇に関する法度の条文は、衣服の規定だけだったのです。・・・サギソウ

秀忠の孫に当たる高仁親王への譲位は幕府に異存はなく、さっそく上皇が住む仙洞御所の造営が開始されています。・・・馬の顔のようなコマクサ(駒草、高山植物の女王、ケシ科、日本)

しかし、1628年春に高仁親王(3歳、満年齢では1歳半)が突然病没、どうしても上皇になりたい後水尾天皇は幕府に高仁親王の姉(女一宮、やはり秀忠の孫)への譲位を伝えています。・・・クロユリ

秀忠は、承知しなかったようですが、翌1629年秋に家光の乳母(春日局)が上洛し天皇と対面しています。・・・リリウム・プリムリヌム・プルマニクム(ユリ科、ビルマ・タイ原産)

天皇は、徳川家の力を背景に参内資格を強引に整えた春日局との面会を不快に思っていました。・・・エロディウム・バリアビレ(フクロソウ科、交雑種)

寛永6年(1629年)11月、後水尾天皇(37歳)は、女一宮(7歳、明正天皇)に譲位を敢行、後水尾天皇の中宮(皇后、秀忠の娘)が秀忠へ必死の弁明をしたせいか、幕府は認めざるを得なかったようです。

参考文献:千年の坂も踏みわけて 後水尾天皇 久保貴子著



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨日の記事の続き、円通寺の庭園と後水尾上皇(1596~1680年)をもう少し紹介しましょう。後水尾上皇は、1651年に落飾して法皇(56歳)となっていますが、文中では後水尾上皇とします。

幕府は、後水尾上皇の願いを入れて1655年に修学院離宮の造営を開始(1659年御殿が完成)、この幡枝離宮は勅願所となっています。・・・円通寺の駐車場

1678年(修学院離宮御殿の完成から19年後)、霊元天皇(後水尾上皇の第19皇子、1654~1732年)の乳母が妙心寺の第10世(景川宗隆)を幡枝離宮に勧請し、尼寺として創建されたのが円通寺です。・・・山門の内側

現存する円通寺方丈の枯山水庭園は、後水尾上皇が設計した幡枝離宮の庭園とされていますので、370年前に上皇が見たのと同じ比叡山と庭園を今も見ることができます。

当時の後水尾上皇は、比叡山が最も美しく見える土地を探し続け、最後に見つけた場所がこの幡枝で、そこに山荘を設けたといいます。・・・円通寺の塀と比叡山

国の名勝に指定されているその枯山水の庭園は、苔の庭を主体に周囲を刈込みの生垣(高さ1.6m)で囲っています。

方丈から見て庭の左側にある大小の庭石は、後水尾上皇が自ら配したといわれ、その三分の二は地中に埋まっているそうです。

刈込まれた生垣と立木の背後には屹立する比叡山があり、その比叡山が庭園の築山のようにも見えることで知られています。

そうした歴史を持つ円通寺庭園は、高層マンションの建築などで貴重な借景が壊されてしまうことが危惧されていました。・・・パノラマ写真

その問題を受けた京都市は、借景を保護するための条例(京都市眺望景観創生条例)を制定(2011年から施行)、円通寺もその条例の対象地となり、370年前に後水尾上皇が見たのと同じ景観をこれからの世代の人達も見ることができるようになっています。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




地下鉄烏丸線の国際会館駅から歩いて約30分、やっと円通寺まで510mの看板を見つけました。

108代天皇、後水尾天皇(1596~1680年)は、数え年85歳という長寿を全うした天皇として有名です。・・・円通寺の前に広がる畑の先には比叡山が見えています。

ちなみに後水尾天皇が数え年21歳(1616年)のときに徳川家康が、37歳(1632年)のときに秀忠が、55歳のときに家光が、85歳(崩御の3か月前)のときに家綱が亡くなり、四代に渡る将軍の死を見送った人物でした。・・・これが円通寺の山門です。

1620年、後水尾天皇は、徳川秀忠の娘(和子)を女御として受け入れ、3年後(天皇28歳)に皇女(明正天皇1623~1696年)をもうけています。・・・比叡山が築山のように見える円通寺の庭園です。

江戸幕府が制定した禁中並公家諸法度(1613年制定)のため、行動が大きく制限されたことに不満を持っていた後水尾天皇は、早期に上皇となることを願い、34歳(1629年)の若さで明正天皇(秀忠の孫、当時7歳の女の子)に譲位しています。・・・縁側から見た比叡山は、ほぼ真東の方向。

 

円通寺のパンフレットによれば、後水尾上皇が比叡山の最高の景色を探して、この地にたどり着き、幡枝(はたえだ)離宮を1639年に造営、その跡が円通寺となったとありました。・・・円通寺の庭にあった白いサルスベリ

幡枝とは、この土地が石清水八幡宮から枝分かれした分社、幡枝八幡宮のものであったからとされています。・・・円通寺から比叡山までの間には、高い建物の建築が規制されています。

ところで1639~1654年頃、上皇が幡枝離宮など洛北に御幸する際の京都所司代の警護は非常に厳重だったようです。・・・円通寺の塀と比叡山

「健康維持のため、御所からこっそり出かけてゆっくり養生したいのに、京都所司代の警護のせいで群集が集まりすぎる」という不満の書簡を後水尾法皇は大老酒井忠勝に送っています。・・・円通寺の南の山

参考文献:千年の坂も踏みわけて 後水尾天皇 久保貴子著



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




国立天文台のHPを見ると、大阪の日の出時刻は4時59分。天気がよさそうなのでシーサイドコスモ遊歩道を散歩してみました。

閉鎖されたなにわの海の時空館

シーサイドコスモ遊歩道の終点まで歩くと、大阪港を広く見渡せる場所があります。

地平線のすぐ上に薄雲がありますが、しばし日の出を待つことに。

地平線のすぐ上のビルの谷間から太陽が覗いてきました。7月20日の大阪港の日の出時間は5時2分頃。・・・左側に天保山の大観覧車が見えています。

夕陽で有名な大阪港ですが、この時期には、水平線すれすれから昇る朝日を見ることができます。

ほとんど真横からの朝日が、夢洲コンテナ埠頭と六甲山を照らしています。

この日は、オホーツク海高気圧が南下したせいで湿度が低く、秋の空のようでした。

湿度の高い今の季節には珍しいことですが、大関門の先に淡路島と明石海峡大橋を何とか見ることができました。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




所用があったので京都市左京区、宝ケ池まで行ってきました。地下鉄烏丸線の終点、、国際会館で下りて外に出ると、比叡山がかなり近く見えています。

この日、小雨がぱらつく曇り空でしたが、宝ケ池を目指して歩きました。下の写真は、京都議定書が成立したことでも有名となった国立京都国際会館です。

その前の道を400mくらい歩き、左側に広がる公園を見つけたので奥に進みます。そこが宝ケ池でした。池の向こうには国際会館と比叡山が見えています。

宝ケ池の周囲は、近所の皆さんが散歩できる遊歩道です。折角来たので、私も池の周囲を散歩してみました。

京都市情報館のHPには、<宝が池は,かんがい用の溜池として江戸時代中期につくられたもので,最初はわき水をせき止めただけの小さなものでしたが,しだいに堤を高め,江戸時代後期にほぼ現在の大きさになったとされています>とありました。・・・ゆっくり歩いていると、天気がだんだん良くなってきたようです。

<この付近は古くから景勝の地として知られていいますが,この地を公園化する計画が具体化するのは,昭和17年に防空緑地として都市計画決定されたことに始まります>・・・池の周囲にある低い山の姿が池に映っていました。

<昭和36年に,国立京都国際会館が北側隣接地に建設されることが決定してから,施設整備が大幅に進み(中略)現在の姿になっています>・・・パノラマモードで撮ると、こんな感じとなります。

宝ケ池を一周し、国際会館の南側を東に進むと、岩倉川に架かる橋があり、その先に比叡山が見えています。この橋を渡って北に200mも歩けば、地下鉄国際会館駅です。

所用を済ませた午後、空が晴れたので、もう一度宝ケ池に戻ってみました。池の向こうの比叡山がクッキリと築山のように見えていました。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




花ハス展が開催されている咲くやこの花館にまた行ってきましたので、そこに咲いていた7月の花を紹介しましょう。トーチジンジャーの花

オレンジ色のアジサイ?

ねむの木の花に似たカリアンドラ・トウイーティー(マメ科、ブラジル原産)

ニオイバンマツリ(ナス科、ブラジル南部、アルゼンチン原産)

ハイビスカス

ハイビスカスのメシベ

ハイビスカスのメシベ

パッシフローラ・ベロティー(トケイソウ科の栽培種)

ギンヨウアサガオ(ヒルガオ科、インド原産)



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




咲くやこの花館の富貴蘭展で、その普及に十一代将軍の徳川家斉が関係していたことを知りました。徳川家斉のことを少し調べてみたので同館のハスの花と一緒に紹介しましょう。

八代将軍徳川吉宗(1684~1751年)は、体の弱かった長男、家重(1712~1761年)に九代将軍を継がせていますが、将軍家の血脈を維持するために田安家(吉宗の二男)と一橋家(吉宗の四男)を創設しています。

長男を十代将軍家治(1737~1786年)とした家重も父親に倣って清水家(家重の二男)を創設、以降、将軍に後継者ができなかった際には田安家、一橋家、清水家(徳川御三卿)から次の将軍を出すことにしたようです。

その一橋家第2代当主の一橋治済(1751~1827年)は、一橋家初代宗尹の四男として生まれますが、兄が他家(越前福井藩)を継ぎ、他の兄も夭折したために1764年に一橋家を継承する幸運に恵まれています。

さて、吉宗直系の孫に当たる第十代将軍家治がもうけた男子二人はともに早世、御三卿から次の将軍を立てることになり、一橋治済に再び幸運がめぐってきます。

このとき御三卿の筆頭家、田安宗武(1715~1771年)に治察、定国、定信(いずれも吉宗の孫)3名の男子がいましたが、治察が田安家を継ぎ、定国は伊予松山松平家、定信は伊勢桑名松平家に養子縁組していました。

本来であれば、田安家から将軍後継者を出すべきですが、田安家の候補者が将軍家以外の家に養子縁組が決定していたことが問題となって田安家は落選、一橋家創設から41年後となる1781年、一橋家治済の長男、一橋家斉(吉宗のひ孫、1773~1841年)が選ばれ将軍家治の養子(世子)となり、6年後に15歳で第十一代将軍となるのです。

この状況を冷静に見ていた一橋治済は、長男家斉に、出来るだけ多くの側室を持って、多くの子供を作るよう命じたようで、家斉の子女は合計57人、このうち32人は5歳を待たずに早世しますが、残ったのは十二代将軍となった二男家慶を含め男子13人、女子12人という多数でした。

さて、徳川十三代将軍となったのは家慶の四男、家定(家斉の孫)ですが、家定には子供が無く、早くも家斉の直系は絶えています。

しかし、紀州徳川家から入った第十四代将軍の家茂は、紀州家に養子として入った家斉の六男、徳川斉順の長男なので家斉にとっては孫に当たるのです。

参考文献:徳川将軍家人物系譜総覧 別冊歴史読本



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




咲くやこの花館では、7月13~15日まで富貴蘭展が開催されていました。・・・会場の展示風景

その開場の掲示板に記載されていた「富貴蘭」のことを紹介しましょう。赤紫の花

富貴蘭は、東北地方より南に分布するフウランの変わりものを園芸化したものだそうです。・・・こちらは、咲くやこの花館の高山植物エリアに展示してある富貴蘭

また富貴蘭は、東洋ランの一部門ですが、日本での栽培史はカンランやシュンランよりも古く、長生蘭(セッコクの変わりもの)や錦蘭(ミヤマウズラの変わりもの)と同じ江戸時代中期に始まりました。・・・富貴蘭展の出品作品

花好きの十一代将軍、徳川家斉(1773~1841年)は、富貴蘭を好んだところから、各大名に命じて珍しい品種を集めさせたとのこと。・・・明るい高山植物エリアに展示してあった富貴蘭

江戸城で開かれた観賞会では、鉢植えに金や銀製の網をはり、息がかからぬように懐紙を口にあてて観賞したそうです。

やがて愛好者が増加、東京や京都では「富貴蘭連」や「富貴蘭社中」などがつくられ、裕福な商人などにも幅広く親しまれるようになったそうです。・・・高山植物エリア展示の富貴蘭

明治~大正時代は、関西が中心となって栽培され、今も関西の愛好者が多く「近畿富貴蘭会」によって銘鑑がつくられ、富貴蘭は現在、百数十品種もあるそうです。

富貴蘭は、通気性の良い富貴蘭鉢を用いて高植えし、葉、花・軸・付け・根先の色の千変万化と花の香りを楽しむそうです。・・・即売コーナーでは1鉢800円から販売されていました。

通気性の良い富貴蘭鉢に高植えされ、花を付けた富貴蘭が800円とは、格安だったのではないでしょうか。

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ