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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事の続きです。まず禁門の変については以前このブログで紹介しましたので、今回は真木和泉(1813 ~1864年)の切腹に焦点を当てて紹介しましょう。十七烈士の墓に至る道しるべ(右)

旧暦の7月19日に京都御所での戦いに敗れた長州方の兵達は、次々と天王山の麓に集結、午後2時頃には200名にもなったといいます。

長州藩士宍戸九郎兵衛は、一旦長州に退いて再起を図るべしと進言しますが、真木和泉は「自分は今回の首謀者であり御所を砲撃した責任を取ってここに残り、しんがりを勤め死を選ぶ」と言ったそうです。十七烈士の墓

周囲から真木和泉と生死を共にしたいと懇願する者が相次ぎますが、大部分は説得されて長州に向かい、その夜、真木と残った少数の兵だけが天王山山頂付近に陣を移して大篝火を焚き、大軍がいるかのように装って幕府軍の追撃を食い止めています。天王山の山頂は標高270m

翌7月20日の朝、幕府側の使者(大和郡山藩の家老)が真木和泉を訪ね、天王山から退去するよう伝えますが、真木は決戦をしたのちに自刃すると宣言、使者に酒を与えて返したといいます。墓石の正面下部右端に筑後 真木和泉守平保臣とあります。切腹時の年齢は右から真木52歳、千屋28歳、松山28歳、岸上28歳、廣田28歳、能勢22歳、小坂22歳、加藤32歳、安藤22歳(いずれも数え年)

そのあと真木和泉は、静かに髪の乱れを直して辞世の句を短冊にしたため、それを残留者の中で最年少だった加屋四郎に託そうとしますが、加屋が断ったので別の人物(五條出身の大沢一平)に託し三条実美に届けています。(この短冊は久留米水天宮に現存)墓石の左側面に肥後 加屋四郎藤原時雄とあります。切腹時の年齢は右から池尻25歳、松浦29歳、松田38歳、加屋21歳

その翌7月21日、幕府方の合津兵が新撰組を先鋒として天王山にかかると、山上から銃撃を受けたために一旦退却して山麓に放火、その後急に静かになった山頂に恐る恐る向かうと、中央に旗を立て甲冑を脱ぎ、決別の杯を酌み交わした17名全員が見事に割腹していたといいます。墓石の右側にある名前と切腹時の年齢は、中津30歳、酒井不明、宮部26歳、西嶋32歳以上17名、真木以外は20~30台前半の若者だったのです。

17人の遺体は、会津藩が宝積寺の三重塔前に埋葬しますが、墓参の庶民が詰めかけたので庶民の墓参を禁止して奥の竹林に改葬、4年後の明治元年(1868年)になってから遺骨を竹林から集め、割腹した山頂近くの土地に改葬し、17烈士の墓碑を立てています。宝積寺の三重塔(重要文化財)前

真木和泉の子真木主馬が久留米藩主有馬頼咸の命で建てた墓碑裏の左側には、明治元年戊辰九月 従二位権大納言 藤原季知とあります。藤原季知とは、真木和泉と一緒に長州に都落ちした7卿のうちの一人、三条西季知のことで、真木和泉より1歳だけ年長でした。

ところでこの17名という数字は、4年前にあった桜田門外の変で井伊直弼暗殺に加わった人数と一致していますが、真木の意図があったのか、はたまた偶然でしょうか。切腹した場所は天王山二之華表下

参考文献:真木和泉 山口宗之著

 

 

 

 

 



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1582年にあった羽柴(豊臣)秀吉と明智光秀の山崎の合戦から282年後となる1864年、禁門の変が起こり真木和泉守保臣(1813 ~1864年)をはじめとする17名の長州方が天王山の山中で自刃しています。そこで天王山山頂までの道と禁門の変における長州方の主役の一人、真木和泉について紹介しましょう。大山崎町観光案内図にある十七烈士の墓(中央やや右)

真木和泉は、久留米藩(有馬家21万石)久留米水天宮家(水天宮については後日アップの予定)に生まれて神職を継ぎ、20歳で朝廷から勅許を得て、従五位下和泉守の官位を得ています。十七烈士の墓に至る宝積寺の山門

官位を得た真木和泉は、朝廷の直臣という意識を強く持つようになり、国学や和歌、尊王を旨とする水戸学に傾倒し、1844年に水戸への遊学もしています。天王山の中腹にある宝積寺の山門の仁王像は重要文化財

久留米に戻って藩政改革に参与していますが、藩主有馬頼永の急死によって改革は失敗、1853年に神職を解かれ、弟が継いだ水田天満宮に近い寓居に幽閉されています。禁門の変の際、長州方は麓の離宮八幡社とこの宝積寺に陣を敷いています。その本堂

寓居では塾を開き、近在の子弟を教えていましたが、1862年島津久光の上京の噂を聞いて久留米を脱出、久光が上京すると京に上って勤皇グループの思想的リーダーとして活動しはじめています。その際に従五位下和泉守の官位が役立ったようです。十七烈士の墓に至る山道

しかし、同年の寺田屋事件の際に京都薩摩藩邸に拘留され、さらに久留米に護送幽閉の身となりますが、朝廷から久留米藩主に赦免の通知があり許されています。十七烈士の墓は、酒解神社鳥居の奥

1863年、朝廷の信頼を背景に久留米藩親兵頭取となり、兵を率いて上京の途中、長州藩のオランダ船砲撃を見て藩主毛利敬親と面会、攘夷を朝廷に建策するよう勧めています。鳥居の奥にある旧山崎天王社(明治以降は酒解神社)の本殿

その後京都に入り、桂小五郎、三条実美等と孝明天皇をかついだ倒幕親征計画を立案、在京の諸大名に次々と面会して親征の必要性を説いて回るなど一躍時の人となったのです。天王山山頂

ところが朝廷内でクーデター「八月十八日の政変」が起こり、倒幕親征の引き金となるはずだった孝明天皇の大和行幸が中止となり、已む無く三条実美、三条西季知ら7卿を守って長州へ下っています。山頂にあるハイキング地図

真木和泉は、翌年(1864年)三条実美、三条西季知ら7卿と共に長州藩藩主に会い、兵を率いて上京することを建策、長州藩の内部にも久坂玄瑞、来島又兵衛等が同調したことで、藩主毛利敬親は真木和泉に軍議の総裁を託し、長州兵を上京させることを決定、禁門の変への扉が開かれたのです。

参考文献:真木和泉 山口宗之著

 



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今から430年前の天正15年(1582年)6月13日(新暦では7月12日)、天王山の東側で明智光秀(55歳)と、羽柴秀吉(後に豊臣姓、47歳)が戦った山崎合戦があったことを思い出したので、6月のある日、天王山まで行ってきました。山崎合戦之地の石碑

天王山は、鎌倉時代頃から山頂近くにあった牛頭天王(素盞嗚尊)を祀る山崎天王社に由来していて、この山崎天王社は、久しく祭祀が途絶えていた自玉手祭来酒解神社(明神大社)とされ、明治になってからそれに改称されています。 さて、山崎の合戦の勝因は、備中高松から山崎までの187kmを僅か8日間で走破した羽柴秀吉軍2万の「中国大返し」にあるというのが定説となっています。登山道にある秀吉の中国大返しの陶板画

秀吉は、諸将に6月13日に山崎に進出するよう命じ、先陣の高槻城主高山右近が12日に天王山の麓の山崎に入り、茨木城主中川清秀が同日夜間に天王山を占領、翌朝山上の松の大木に軍旗を掲げたといいます。旗立松の説明

天王山の争奪戦は無かったようですが、秀吉軍は敵の布陣を高所から探ることができ、また背後から急襲されることを考えずに敵に当たることができたので、「天下分け目の天王山」だったのでしょう。登山道にある合戦前の布陣を描いた陶板画

13日は、朝から強い雨が降っていましたが、光秀軍は淀川に流れ込む円明寺川左岸の線に兵力を増強して決戦に備え、秀吉軍も13日朝から円明寺川右岸へ進出、同日昼頃に神戸信孝、丹羽長秀軍が到着したため、秀吉は午後3時過ぎに山崎に進出して攻撃開始を命令しています。攻撃開始後の様子を描いた陶板画

秀吉軍は、摂津の諸将と神戸信孝、丹羽長秀軍が加わって総勢4万、一方の光秀方は、1万6千人だったと言われています。現在地とあるのが旗立松のある場所、小泉川は円明寺川のこと。

円明寺川の中央付近では、明智方主力の斉藤利三(春日の局の父親)隊が川を越えて進撃、一時秀吉軍を圧倒しますが、円明寺川の上流と下流部分で明智方が敗退、明智軍は両翼を脅かされる状況となっています。写真中央付近が山崎合戦の戦場。円明寺川は写真を左右に横断している名神高速京滋バイパスのすぐ手前を今も流れています。

秀吉側は、中央の強敵にわざと敗退している間に両翼から敵の背後を突く戦略を取ったようで、午後6時過ぎに明智方は総崩れとなって脱走者が続出、光秀が背後の勝竜寺城に退いた際に同行する者は僅か千人しかいなかったといいます。山の樹木の先が淀川、その先の小山は石清水八幡宮のある男山

光秀は、近臣数名を連れて夜暗に乗じて城を脱出、本拠地の近江坂本を目指しますが、京都の南方、小栗栖で落ち武者狩りに遭い最後を遂げています。本能寺の変から僅か11日後のことでした。天王山から見た大阪方向。中央やや左にあべのハルカスビルが見えています。

47歳の秀吉が天下を取るきっかけを掴んだのが、この山崎合戦だったのです。

参考文献:天王山の戦い (天王山―先制の利)安井久善 著



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さて、黒川温泉から別府港に戻り、「フェリーさんふらわあ」に乗船して大阪に向かいます。

フェリーの中では、「フェリーさんふらわあ」の元船長だったNさんから星座についての講演があり、久しぶりに学生に戻った気分を味わいました。

翌朝早く目を覚まし、甲板に出てみると、フェリーが明石海峡大橋を通過するところでした。対岸は神戸市

明石海峡大橋を真下から眺めることができる瞬間を1枚撮っておきます。対岸は淡路島

暫くすると、関電南港火力発電所が見え、終点が近いようです。

フェリーは、大阪港の大関門を入らずに、手前から右に曲がります。

大阪府咲洲庁舎(旧コスモタワー)前のフェリー岸壁が見えてきました。

南港にあるもう一つのフェリー埠頭、南港フェリーターミナルに入るフェリーを見ながら、「フェリーさんふらわあ」は、コスモフェリーターミナルに接岸し、今回の2泊3日黒川温泉の旅が終わりました。



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黒川温泉のパンフレットによれば、お湯の質に合わせた湯めぐり方法があるようです。黒川温泉のメインストリート川端通り。

まず、一番目のお湯は、身体を馴らすために単純弱酸性の温泉が良いようです。この辺りは、有馬温泉に似ていますね。

2番目に入るのは、血行促進と美白効果のある硫黄泉か新陳代謝を促進し皮膚の洗浄効果がある炭酸水素塩泉が良いそうです。ふじ屋

3番目は、仕上げということで保温効果が高く湯冷めしにくい、ナトリウム塩化物泉か硫酸塩泉が良いようです。 いこい旅館

さて、この辺りで残り時間が少なくなってきました。そこで2番目に入ったのがこの「夢龍胆」(ゆめりんどう)です。

田の原川に向かった斜面にあるために目立ちませんが、収容人員114人、黒川温泉では大型の旅館です。

中途半端な時間だったため、ロビーはがらがら。とりあえず受付で入浴料500円を支払い浴場へ急ぎます。エントランス

やまびこ旅館の露天風呂には洗い場がありませんでしたが、夢龍胆には露天風呂の隣に洗い場のある内湯があります。浴室の手前にある休憩室

また田の原川のせせらぎが聞こえる露天風呂も、やまびこ旅館の狭い仙人風呂(広い仙人風呂は、入っていないので比較できません)よりも上でした。ここが露天風呂の入り口

黒川温泉の露天風呂2か所に入っただけなので、ほかの温泉は判りませんが、夢龍胆の風呂はなかなか良かったと思います。この風呂を上がったところでバスの集合時間となり、黒川温泉を後に別府に戻ることになりました。

つづく



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少し前になりますが、大阪からフェリーに乗って阿蘇山の北に位置する黒川温泉に行ってきました。ここでは、24軒ある温泉旅館から、好きな露天風呂を選んで入浴することができます。(但し有料です)やまびこ旅館の正門

ところが、初めての温泉なので、どこの風呂が良いのか判りません。ガイドさんも「どの温泉も素晴らしいです」の一言だけで、教えてくれません。エントランスにある足湯

そこで、「できるだけ広い露天風呂のあるところ」、ということで教えてもらったのが「やまびこ旅館」でした。この温泉の泉質は保温効果が高いことで知られています。

ここは、仙人(千人)風呂と命名されているくらい広いと聞いたので、わくわくしながら行ってみると、仙人風呂には大小と2つあり、この日の男性風呂は、狭い方に当たっていました。

とりあえず狭い仙人風呂に入って、次の露天風呂に入りなおすことにします。やまびこ旅館の宿泊棟

田の原川に架かった出逢い橋を通って、黒川温泉のメインストリート川端通りに向かいます。

この黒川温泉では、1983年に「入湯手形」を1枚1000円で発行、その手形で24軒ある旅館の露天風呂巡りができるようにしたことで人気がアップしたようです。川端通りにあるみやげ物屋

今では知名度が上がって全国区の人気温泉となったため、入浴手形は1200円に値上がりし、入れる露天風呂は3個所だけとなってしまいました。途中にあるふもと旅館

但し、殆んどの旅館の露天風呂は、500円で入ることができるので、2か所だけなら入浴手形は割高です。この地蔵湯は、地域の人に解放された共同温泉で、入浴料200円と格安。

さて次の温泉をどこにするか、川端通をさらに先に進みながら考えました。

つづく



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昨日の記事の続きです。曇天の夕方、梅雨の季節に咲く花を求めて長居植物園に行ってきました。ヘメロカリス

ヘメロカリスがユリ科の植物であることが良く判ります。

こうして見ると、ユリそのものですね。

ユウスゲ(夕菅)もヘモロカリスの仲間です。

黄色がベースとなった品種が多いようですね。

この朱色の花も、付け根だけは黄色です。

ここからはガラリと変わって、梅雨の季節の咲く「フェイジョア」の花。フトモモ科のフェイジョアは、果実が食用になります。夕方暗くなってきたので、ピントが甘くなっています。

クリの雄花。この花の付け根にある雌花が秋に結実して栗となります。

近くで見かけたアオスジアゲハです。

梅雨の晴れ間、ちょっと植物園に出かけてみると、面白い発見があります。

 



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梅雨の季節に咲く長居植物園のヘメロカリスを見てきました。曇り空の夕方だったので、色が冴えません。

ヘメロカリスという名前から海外原産という印象を受けますが、実は日本や中国原産のユウスゲやカンゾウ類がヨーロッパなどに導入され、そこで品種改良された園芸品種です。

ヘメロカリスの名前は、ギリシア語で「一日」を意味する「へメロ」、「美」と言う意味の「カロス」の2語から来ています。

名前の通り、花が一日しかもたないことから、別名「デイリリー」とも呼ばれています。

大きさや花色などがバラエティーに富んでおり、性質も丈夫なので海外では色々な場所に植えられていますが、日本では海外ほど多く利用されていません。

その理由は、この毒々しい花色にあるのかも知れません。

大輪のものは、直径20cmを越し、咲き方も一重咲き、八重咲き、花びらの細いもの、幅のあるもの、先端が尖るもの、丸くなるもの、フチにフリルがあるもの、様々なバリエーションがあります。

花は一斉に咲かず、1-2輪ずつ咲き、一日で萎んでしまいますが、次々と開花するので、長い期間花を楽しむことができるのもヘメロカリスの特徴です。

野生種は、約10種類が日本を含む東アジアの暖帯-温帯に分布、一方園芸品種は、2万種以上もあると言われます。日本原産のユウスゲ

参考:ヤサシイエンゲイ

つづく



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奈良の春日大社神苑「万葉植物園」の6月の花を紹介しましょう。絶滅危惧種ムラサキの花、蜜を吸っているキチョウ(黄蝶、モンキチョウではありません)

ガクアジサイの中央部、球形をした蕾のいくつかが開花し始めています。

ハナショウブも満開でした。

稀少植物の野花菖蒲。花菖蒲の原種で、この紫の花が品種改良され、多くの華麗な花菖蒲が出来たようです。

アジサイの名品、墨田の花火でしょうか。

柏葉アジサイ

アジサイ属のアマギアマチャのようです。

ガクアジサイの蕾は、緑、青、赤紫など色とりどりですね。そのうちいくつかは開花しています。

蕾が殆んど開花した青のガクアジサイ。自然のバラに青色が無いことから、バラ造りの盛んなヨーロッパでは、シーボルトが日本から持ち帰った青いアジサイが珍重されたようです。

シーボルトの妻、オタキサン(お滝さん)にちなんで、シーボルトはアジサイをオタクサと呼びヨーロッパに紹介しています。

 



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奈良県立美術館での藤城清治影絵展を見た後、春日大社の万葉植物園に行ってきました。野生種は、日本全国に1000株くらいという絶滅危惧種ムラサキの花とキチョウ(紋が無いのでモンキチョウではありません)

古代の日本では、この花の根を乾燥させて取った染料で衣服を紫色に染めたといいます。ハナショウブの蕾にとまるオオシオカラトンボ(シオカラトンボではありません)

この植物園は、5月初旬の藤で有名ですが、藤が終わると入場する人も激減するようです。静かな園内ではハナショウブが満開でした。

入場者が少ない植物園を、ゆっくりと見て回れるのは贅沢な気分ですね。白に紫のエッジのある花菖蒲

万葉植物園のハナショウブ園は、果樹園の近くと、藤園の池の周辺、2か所にあります。紫のハナショウブ

どちらも、花のすぐ近くまで接近して見ることができるのが、ここの良いところです。こんな感じ。

普通ハナショウブ園では、株が水中にあるため、これほど近くに寄って写真を撮るのが難しいのですが、この万葉植物園ではこの通り、すぐ近くから観賞できるようになっています。

万葉植物園には、多くの昆虫も棲息していて、ハナショウブの上に羽が退化したフキバッタの仲間が休んでいました。

藤の花の終わった万葉植物園は、ハナショウブ観賞の穴場ではないでしょうか。人のいない静かな藤園の中のハナショウブ

つづく



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梅雨の晴れ間、朝日を見ようと大阪港へ行ってみると、東の地平線上に薄い雲があり、ビルの間からの日の出は見ることができませんでした。

海上保安庁の巡視船は、早朝から勤務をしていました。

さて、「なみはや大橋」の上で雲が切れ、やっと出てきた太陽の前をトラックが通過しています。車の太陽面通過です。

この日、なみはや大橋」を歩いて渡る人が、太陽面を左から右へ通過する姿を見ることができました。

暫くすると、今度は右から左へ橋を歩く人が太陽面を通過しています。

大阪港で働く船も動き出したようです。船、ビルと橋、太陽と雲が写っています。

橋を渡るトラックも太陽の直下を通過してゆきました。

なみはや大橋の高さを超えた太陽の下には、頭が太陽の光で反射している人、その右にこちらに背を向けて太陽を見ているような人影が見えています。

日の出直後の早朝、この橋を歩いて渡る人が多いことに驚きました。

大阪港では、人間が太陽の前を歩いて通過する姿を簡単に見ることができます。

 



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ここからは5階のレストランを紹介しましょう。まず軽食とカジュアルメニューのカフェTriano、客席62席。広くて使いやすそうです。

カフェTrianoは、奥ゆきがあります。

5階の最後部にあるビュッフェレストラン。

5階レストランの外、窓際のプロムナード

カフェTrianoのステージでは、歌手の瀬口侑希さんのショーをやっていました。

豪華な食事が楽しめるというグリルMargaux。44席

車を乗せるエリアを使ったイベント会場

下船口前から奥を見ると、全長224mのすずらんの巨大さが判ると思います。

下船口。新日本海フェリーでは、今年10月の1か月間、合計年齢88歳以上の男女2名を30%割引きするペア88という割引企画があるようです。

すずらんの運行スケジュールは、敦賀を夜中1時に出発、翌日夜20時30分に苫小牧到着、又は苫小牧を夜中23時30分出発、敦賀に20時30分到着なので、車が無いと利用しにくいようです。(直行便)



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大阪港に入った、新日本海フェリーの「すずらん」(17382トン)の見学会記事の2回目です。

「すずらん」には、通常のプロペラと、その後ろにポッド(電動モーター直結)のプロペラがあり、2枚のプロペラが反対方向に回転する、二重反転プロペラ(CRP) POD推進方式を採用しています。

CRP POD推進方式の採用で、旧型フェリ-と比べるとCO2排出量を25%、NOX排出量を40%も削減できるそうです。全長224mもあるすずらんの客室廊下は長いですね。

6階のデラックスルームA(和室)は、一人28500~36500円(時期によって変動)

吹き抜けロビーの上、6階には大浴場があります。

これが大浴場の内部。奥は露天風呂(左)とサウナ(右)になっています。

6階にある映画や会議に使われるカンファレンスルーム

4~6階吹き抜け部の階段。4階が一番安いツーリストクラス、5階がステートクラス、6階がデラックスクラス、階ごとにランク別けされています。

舷側の通路も長い

つづく



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昨日、大阪港で新日本海フェリー(株)の新造船、「すずらん」の見学会があったので行ってきました。

敦賀から苫小牧までを結ぶこのフェリーは、全長224.5m、幅26m、総トン数17382トン、最高速力30ノット。大阪と九州を結ぶフェリー「さんふらわあ」よりも大型で高性能を誇るフェリーです。

「すずらん」は、先日完成したばかりの新造船、6月20日から敦賀と苫小牧航路に就航するそうです。見学会では、正面に見えるボーディングデッキを渡って船の4階にある乗船口から乗り込みました。

4階の乗船口から「すずらん」の内部に入ると、3フロア吹き抜けのロビーです。この日の見学者は、午前午後あわせて5000人とか。11時前でしたが船内はすごい混雑でした。

では、船内を紹介しましょう。4階にあるツーリストSという窓の無い1人部屋は、敦賀~苫小牧間が15500~20900円

4階のツーリストA、2段ベットの大部屋は、9300~15900円(価格は時期によって異なる)。この辺りから見学者が多過ぎて行列が前に進みません。

5階の最前部にあるフォワードサロンもこの通り、見学者で大混雑していました。

5階のステートルームAは、一人19500~26900円(価格は時期によって異なる)。この廊下も長蛇の列です。

ステートルームAの内部、ビジネスホテルのツインルームに似ています。但し、すずらんには大浴場があるので部屋にバスはありませんでした。

つづく



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梅雨に入っても、明け方の東の空に雲が少ない日もあります。そういう日には東の空が見えるポイントまで出かけ、日の出を待つようにしています。

影絵のように見える、あべのハルカスが、かなり高くなってきましたね。

この日は生駒山の上に雲があり、山の稜線から昇る朝日を見るのは難しいようです。

やっと太陽が雲の隙間から出てきました。

太陽は、クレーンの先端にくっついているように見えています。

ワイドで見てみましょう。大阪港、船、ビル(あべのハルカス)、太陽、生駒山、雲、金色の空と盛りだくさんのものが影絵のように写っています。

横からの朝日を受けるあべのハルカスです。

太陽はクレーンの先端から離れはじめました。

少し位置を変えたポイントから影絵のような風景を撮ってみました。

昨日紹介した藤城さんの作品はどれも素晴らしかったですが、影絵のような大阪の朝もなかなかのものですね。

 



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