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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



新撰組が岩城升屋に到着して暫くすると、出直してきた不逞浪士5人が現れ、新撰組の姿を見るといきなり日本刀を抜いて切りかかったというので、彼らは相当腕に自信があったのであろう。

新撰組大坂屯所であった萬福寺の山門



このとき岩城升屋の店先で、新撰組と浪士合わせて9人が日本刀を抜いて激しく戦い、すぐに新撰組の若い隊員の一人が転んで完全に受身となった瞬間、浪士の一人が振り下ろす刀を、山南が自分の刀でとっさに払って隊員の命を救っている。

今の松屋町筋(新撰組が駆けてきた通り)



しかしこの受け太刀で、山南が使っていた刀が切っ先から33センチのところでポキリと折れ、スキを見つけた浪士が山南の左肩から左腕まで一太刀浴びせかけたので山南は重傷を負っている。

今の高麗橋(渡ってすぐ左が岩城升屋)



それでも新撰組の4人はひるまず戦い、結局浪士3人が即死、残る2人も負傷して逃亡しているが、新撰組は山南以外無傷であったというので、真剣勝負の新撰組は強かったらしい。

山南が負傷し、若い隊員2人には相手を即死させるだけの力は無かったと思われるので、浪士3人を切って即死させたのは土方だったのではなかろうか。

高麗橋が架かっている東横堀川



この事件の後から新撰組ナンバー2としての土方副長の立場は不動のものとなり、土方から隊員への厳しい統制が徹底するようになったようである。

山南が使っていた折れた刀は、土方が拓本を取って知人に送ったものが現存しているので、このストーリーにはかなりの信憑性があるが、細かい部分は私の創作である。

今の高麗橋筋(左が越後屋跡地)



一方、この事件まで新撰組ナンバー2であった山南敬助は、傷がもとで新撰組の中での居場所がなくなり、その思いが余って新撰組を脱走したという説があり、翌年には沖田総司の介錯で切腹している。

さて岩城升屋であるが、明治になってから岩城呉服店と改称して営業を続けていたが、1884年江戸期に越後屋を凌駕していた東京店が閉店、1886年(明治19年)には大阪高麗橋店に続き京都店も閉店し、岩城升屋は11代で店を畳んでいる。

左側が岩城升屋の跡地



大阪春秋33号の後藤賢一郎氏は、岩城呉服店が閉店したのは、三井のように政商になれなかったせいかと書いているが、大丸、高島屋などのように生き残った店もあるので岩城升屋の倒産の裏には他の要因があったのであろう。


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