野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日の記事の続きを、東京ディズニーランドのエレクトリカルパレードの写真と一緒にどうぞ)待つ事10分、男女6人ずつの若者とディズニーキャラクターが出演して20分程度のショーが始まり、なかなか見ごたえのある楽しいショーだった。

 

 

 

そのショーのあとでシンデレラ城を抜け、ライオンキング劇場で「ライオンキングの伝説」というアトラクションを見ることにした。

 

 

 

そこで、「ハクナマタタ」という明るく軽快な歌がでる場面があり、お客も一緒に唱和し、皆楽しそうであった。(この歌はライオンキングの中で最もポピュラーな歌で、なんとかなるさ気楽に行こうよ、というような意味らしい)。

 

 

 

劇場を出て、2時40分からのパレードを見るためウオルト・ディズニー像のある空地に移動、待つことしばし、3時丁度からパレードが始まった。米国人は時間にルーズという先入観があったが、他のテーマパークやバス、タクシーなど、どこでも時間は厳密に守られていた。

 

 

 

軽快な音楽に合わせ、ディズニーのキャラクター達がフロートに乗って踊りながらパレードし、所々でフロートから降りてお客と握手したり、触れ合うのは微笑ましい。

 

 

 

特に幼い子供やお年寄り、身体障害者は優先席で直接キャラクターと触れ合えるように運営されているのはさすがと思った。

 

 

 

パレード直前に私のすぐ前にいた黒人の子供がゲロを吐くハプニングがあったが、パレードに夢中になっている間いつのまにか掃除され、きれいになっている。

 

 

 

その掃除は私がまったく気がつかない間に完了しており、この素早い対応はさすがWDWであった。

 

 

 

パレードの後、インフォーメーションでエレクトリカルパレードについて係員に聞くと、パレードは残念ながら金曜日と土曜日の晩だけとのこと。(今回のTDLで、やっとそのパレードを見ることができました)

 

 

 

そこでスワンホテルまで戻って一息入れ、夕方からボードウオークに出てピザを食べ、そこにあるベーカリーとコンビニで買い物をした。

 



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10年前、ウォルト・ディズニー・ワールド(WDW)マジックキングダム(以下MK)に行った際の日記が見つかりましたので、東京ディズニーランドのミュージカルショー、ワンマンズ・ドリームⅡの写真と一緒に紹介しましょう。

 

 

 

スワンホテルの正面玄関の左側にあるWDW内の無料シャトルバス乗り場で待つ事15分MK行きのバスが来た。(これらの無料バスは、各テーマパーク毎に15分間隔くらいで運行されていた)

 

 

 

ドルフィン、ヨットクラブ、ビーチクラブの各ホテルを経由し約15分でMK到着である。

 

 

 

家内が、正面入り口のすぐ上に駅のある列車に乗りたいというので列車でミッキーのツーンタウン駅まで行き、ファンタジーランドを少し見た。

 

 

 

朝食のすぐ後なので、トイレに行きたくなり、トイレを探すがなかなか見つからない。ここWDWでは、トイレは多くの場所に配置されているが、トイレの建物と表示は目立たないように工夫されており、最初はそれを見つけるのに少しとまどった。

 

 

 

トイレの中は広くて清潔で、便器の数も多く、行列ができている光景は一度も見なかった。

 

 

 

便器は、どこもセンサーによる自動洗浄装置がついていて、手を洗う場所には水石鹸と必ずペーパータオルが常備されている。

 

 

 

WDW以外のテーマパークでも感じたのであるが、待つ時間を退屈させない工夫が至る所でみられる。(この点ではTDLはまだまだです)

 

 

 

その後同じ駅からもう一度列車に乗って最初の正面入り口まで戻り、MKを丁度1周したことになる。

 

 

 

駅を降りてメインストリートをシンデレラ城まで歩くと人が場所取りをしている。案内を見ると、あと10分でディズニーキャラクター出演のエブリディアホリディのアトラクションがあるようだ。 

 

明日につづく



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先日、忘年会の前に淀屋橋から心斎橋まで散歩してみましたので、開催中の御堂筋イルミネーションと夜の御堂筋をご紹介しましょう。

 

 

 

今年の御堂筋イルミネーション北側の終点は、北浜3丁目交差点で、今年はイチョウの幹だけでなく、一部イチョウの枝にもLEDライトが点けられていました。 

 

 

御堂筋に面したいくつかのビルもイルミネーションの協賛をしていて、これは御堂筋オドナビル南側のイルミネーションです。  

 

 

こういう光のオブジェもところどころに置いてあります。  

 

 

御堂筋に面した大阪ガス本社の玄関には、夜間点灯されているガス灯があり、電灯が普及する前の街灯は、この明かりだったと聞いています。  

 

 

 

明治安田生命御堂筋ビル南側にある幻想的なイルミネーション

 

 

 本町通りとの交差点にある御堂ビルのイルミネーション

 

  

セントレジスホテルがある本町ガーデンシティビル前のイルミネーション

 

 

 今年の御堂筋イルミネーションは、北久宝寺町3丁目交差点まで、そこから地下鉄心斎橋駅までの途中には、ひときわ明るいベネトンのショップがあります。 

 

 

心斎橋筋にある新しいユニクロ心斎橋店のイルミネーション(これはコマのイメージ?)、さて今年最後の忘年会会場は、もうすぐそこです。

 



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東京ディズニーランド(TDL)のエレクトリカルパレードの写真と一緒にディズニーランドの歴史を紹介しましょう。

 

 

 

1950年代以降、ウォルト・ディズニー(1901~1966年)制作という言葉は、質の高いファミリーエンターテイメントとして次第に世界に認知されるようになっています。

 

 

 

「白雪姫」で成功したウォルトは、1952年、ロスアンジェルスの近郊アナハイムに家族で楽しめる良質な遊園地ディズニーランドを建設する会社を設立しています。

 

 

 

1955年7月にオープンしたディズニーランド(面積0.73平方キロ)は、開園後7週間で百万人の入場者を迎え大成功しています。

 

 

 

またディズニーランド開園後の5年間は、ウォルト・ディズニープロダクションの大躍進の時期で、1950年代はじめ600万ドルだった総収入が1955年には2700万ドルに、1950年代の終わりには7000万ドルに伸びています。

 

 

 

しかし、ウォルトは、夢のディズニーランド周辺に次々と進出する派手なモーテルやレストランの光景を見てがっかりしたようです。

 

 

 

1958年、アメリカ東部にもうひとつのディズニーランドを建設する土地を決める調査がスタートしています。

 

 

 

1964年にオーランド周辺の土地を購入することに決定、122平方キロ(東京山手線内側の2倍)の土地を確保、ディズニーワールドの建設が始まりますが、その途中の1966年にウォルトは肺がんで亡くなっています。

 

 

 

しかし、ウォルト・ディズニー社を共同経営していた兄、ロイが弟の意思を引き継ぎ、1971年にウォルト・ディズニー・ワールドとして開園を迎えています。

 

 

 

1977年、東京ディズニーランドの計画が発表され、千葉県浦安市に東京ディズニーランド(面積たったの0,5平方キロ)が1983年に開園、2010年8月には5億人目の入場者を記録しています。

 

 

参考文献:ボブ・トマス著、玉置悦子、能登路雅子訳「ウォルト・ディズニー」



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東京ディズニーランド(TDL)のワンマンズ・ドリームⅡは、ウォルト・ディズニー(1901~1966年)の生涯を彼が造り出した作品を通じて描いたミュージカルショーです。

 

 

 

そこでTDLで見た、ショーの写真と一緒に、ボブ・トマス著「ウォルト・ディズニー」の中からいくつかのエピソードをご紹介しましょう。

 

 

 

まず、ワンマンズ・ドリームⅡに最初に登場するミッキーマウスは、1928年に公開された映画「蒸気船ウイリー」の中に登場している82年も前のキャラクターです。

 

 

 

最初のミッキーは、黒目の部分が多く、表情に人間味が無かったのですが、1939年にキャラクターデザインが変更され、今の愛らしい顔立ちとなったようです。

 

 

 

ウォルト・ディズニーは、尊敬していたチャップリンからミッキーの性格のヒントを得たといい、最初の作品ではウォルト・ディズニー自身が声優を務めています。

 

 

 

しかし、ウォルト・ディズニーの演じるミッキーは、ウォルトの性格そのままだったので、アニメーター達は演技中のウォルトの表情をカメラに撮ってミッキーを仕上げていたといいます。

 

 

 

またウォルトの妻リリーは、ミッキーの性格の中に多くのウォルトの要素があることを告白しているので、ミッキーマウスは、ウォルト・ディズニーの分身なのでしょう。

 

 

 

後にウォルトがチャップリンと合ったとき、チャップリンがディズニーアニメのファンであることが判り、感激したようです。

 

 

 

その際に、チャップリンから作品の著作権は他人に渡さないよう忠告されたことを守ったことで、ウォルト・ディズニー社の快進撃が始まっています。

 

 

 

 

1932年には間抜けのグーフィー、1934年にドナルドダックが登場、1937年には150万ドルの製作費をつぎ込み大ヒットした「白雪姫」を公開しています。

 

参考文献:ボブ・トマス著、玉置悦子、能登路雅子訳「ウォルト・ディズニー」



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今回、浦安ブライトンホテルの宿泊は、朝食付きプランだったので、朝7時から利用できる1階のレストラン「カシュカシュ」に

入り口

 

 

 

公式HPには、ホテルのメインダイニング「カシュカシュ」は、イタリアンやフレンチをベースに、新しいおいしさを追求するシェフのオリジナル料理とあります。

シェフの姿

 

 

 

「カシュカシュ」には、オープンサンドのベースとなる3種類のパン。

この上にベーコン、卵焼き、ロミロミサーモン、カプレーゼ、ジャーマンポテト、グアカモーレなどをトッピングとあります。

  

 

 

こちらが料理のコーナー、左側に写っているはロミロミサーモン、その左にモンカプレーゼ、グアカモーレ、ジャーマンポテトとありましたが写真はありません。

 

 

 

サラダコーナーは普通でしょう。

 

 

 

パンコーナーのシナモンデニッシュは当たり、クロワッサンは外側のパリパリ感が無く、ちょっと外れでした。

 

 

 

ホテルの朝食バイキングには珍しいアメリカンチェリーがあり、久しぶりに美味しいチェリーを口にしました。

 

 

 

頼めば、味噌汁付きの和食セット(無料)も持ってきてもらえます

 

 

 

東京ディズニーリゾートのパートナーホテルの一つだけあって、若いカップルや小さな子供のいるファミリーの利用が多いようです。

 



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ディズニー教の東京別院、東京ディズニーランド(以下TDL)詣で使ったホテルは、TDLのパートナーホテルの一つ、浦安ブライトンホテルです。

 

 

1993年の開業から17年が経過しているので、新しいホテルではありませんが、中に入るとそんなに古さを感じることはありませんでした。メインエントランス

 

 

22階建て、客室数185室の浦安ブライトンホテルは、JR新浦安駅の目の前、陸橋を渡った左手にあり、駅までのアクセス通路には屋根があるので雨の日でも安心です。

 

 

新浦安駅からの入り口は、ホテル2階に通じていて、そこから円形のロビーラウンジを見わたすことができます。

 

 

このホテルとTDLとの間には、無料のシャトルバスが出ているので、運行時間に合わせて移動することができれば実に便利なホテルです。フロント

 

 

今回泊った客室ルームフォレストの広さは42㎡、部屋の窓側にディーベッドが置かれていて、このクラスのホテルでは広い方だと思います。

 

 

2台あるメインベッドの幅は120センチ、部屋には加湿器とフットマッサージ機があり、適度に加湿した部屋で、足の疲れをほぐしてぐっすりと眠ることができました。

 

 

最近では独立したトイレのあるホテルが増えてきましたが、ここでは洗面、トイレ共用のサニタリーゾーンとなっていたのが残念でした。

 

 

しかし、透明ガラス壁で隔てられたバスルームの中にある浴槽は大きく、シャワーのある広い洗い場が快適でした。

 

 

最後に冷蔵庫、中に商品が入ってましたが、空の状態で使えるようになっていればもっと良かったと思います。

 



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 ディズニー教の東京別院、東京ディズニーランド(以下TDLとします)では、菩薩に仮装して練り歩く仏教の「練供養」に良く似たパレード、「ホワイトホリディパレード」を毎日やっています。

  

 

 

 仏教の練供養は、読経の声と共に、天人に先導された25菩薩が歩いてパレードしますが、TDLでは軽快な音楽と共に人気キャラクター達が乗ったフロートと、ダンサー達が次々と繰り出してきます。

  

 

 

 このパレードは、菩薩に相当するフロートのキャラクターよりも、練供養の天人に当たるダンサーの軽快な踊りとその表情が見ものです。

  

 

 

 ダンサー達がリズムに乗り、息をピッタリ合わせて踊っていることは、この写真に写っている4人の足元が一斉に地面から離れていることでも判ります。

  

 

 

御本尊のミッキー 菩薩は、全員と目が合うよう上手に気配りしていましたが、このサービス精神がディズニー教の特長でしょう。

  

 

 

 この日は、気温10度と少し寒かったのですが、若いダンサー達は笑顔で観客を楽しませてくれていました。

  

 

 

ディズニー信者は、このダンサー達の派手な衣装と軽快なステップ、フロートに乗ったディズニー菩薩を見て、明日からの活力を得るのでしょう

 

 

 

 教祖が創造したキャラクター、チップ菩薩とデール菩薩のクリスマスバージョン

 

 

 

基督教で御馴染のサンタクロースも取り込み、信者達はディズニー教の東京別院に来て良かった、有難いという気持ちになるようです。

 

 

 

仏教の練供養とディズニー教ホワイトホリディパレード、信者を喜ばせるための共通性に驚かされます。



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教祖ディズニーが創造したディズニー教の東京別院、開業から27年で入場者数5億人を突破した東京ディズニーランド(以下TDLとします)を拝観してきましたので、ご紹介しましょう。

  

 

 

さすがにTDL、午後3時からの入場でも長蛇の列、山門(ゲート)を入るだけでも10分くらいかかったでしょうか、TDLの門前町、ワールドバザールに向かう観客の群れ。

  

 

 

ふと横を見ると、ミッキーマウスがキャラクター・グリーティング中です。ディズニー教の御本尊と触れあえて皆さん嬉しそうですね。

  

 

 

ワールドバザールの中、年間入場者数2500万人を平均すると、地方都市人口並みの約7万人が毎日狭い園内に滞在することになるので、これくらいの混雑は普通でしょう。

 

 

そこを通りぬけると、正面にはTDLの本堂、シンデレラ城が見えてきます。  

 

 

本堂までの途中に、今の時期ならではの御本尊像が置かれた記念写真ポイントがあります。

 

 

 

実は、10年前にフロリダ州オーランドにある総本山、ウオルトディズニーワールド(以下WDWとします)に行ったことがありますが、そこにこれと全く同じデザインの本堂がありました。

 

 

 

本堂は、夜のほうが幻想的で綺麗ですね。

 

 

 

シンデレラ城の中を抜けた裏側は、ファンタジーランドエリア、白人のスタッフが人形のような笑顔を作り、ディズニー教の布教をしていました。

 

 

 

ディズニー教のパワー、恐るべし。

 

つづく



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1256年、親鸞(1173〜1262年)は、関東で布教活動していた(玉日姫との間にできた?長男)善鸞を、教義を勝手に解釈したと義絶しています。

 

東本願寺の堀

 



本願寺の2世は、一旦善鸞の子、如信(親鸞の孫1235〜1300年)となりますが、3世以降は、(親鸞と恵信尼との間にできた)覚信尼(1224〜1283年)の系統に移っています。

 

東本願寺の境内

 

 

親鸞といえば悪人正機説「南無阿弥陀仏と称えれば、善人ですら往生を遂げられるのだから、悪人においては往生間違いない」が有名ですが、近年の研究によれば、親鸞の独創ではなく法然(1133〜1212年)も言っていたことが明らかになっています。

 

修理が終わった東本願寺の御影堂


  

しかし、釈迦の戒律がありながら、公然と妻帯したことは、法然や他の僧にはできなかった親鸞の革新性で、僧の妻帯は、外国(中国やタイなど)では今も認められていないようです。

 

東本願寺御影堂の軒

 

 

 

妻帯を認めた在家仏教は、親鸞に始まり、本願寺3世覚如(覚信尼の孫、親鸞のひ孫)、4世善如(覚如の孫)が継ぎ、綽如(5代)、巧如(6代)、存如(7代)、8代蓮如すべて親子で相続しています。

 

東本願寺御影堂の軒

 

 

 

男子13人、女子14人の子をもうけた8代蓮如(1415〜1499年)の時代、浄土真宗は一挙に拡大、蓮如は本願寺中興の祖と呼ばれています。

 

蓮如の誕生地、元大谷崇泰院(知恩院の塔頭)

 

 

 

 さらに11世顕如(1453〜1592年)は、摂関家に次ぐ有力貴族、三条家から妻を迎え、大坂石山本願寺によって大発展を遂げています。

 

山科にある蓮如の廟所

 

 

もう一つの親鸞の独自性は、それまでの仏教は、天下泰平(国家、天皇家、共同体など)への祈祷を第一としていたのに対し、親鸞は悩める個人を第一としたことです。

 

知恩院の塔頭にある親鸞の廟所

 

 

 

歎異抄に「阿弥陀仏の願いをよく考えて見ると、ひとえに(ものすごい罪業を持っている)親鸞一人のためであった」とあるように、その仏教が個人救済の宗教であることを自覚し、布教したことは親鸞の革新性でしょう。

 

知恩院のモミジ

 


その浄土真宗は、11世顕如の長男教如(東本願寺)と3男准如(西本願寺)が対立、それぞれが徳川氏と豊臣氏の武力を背景に二つに分裂しています。


参考文献:親鸞再考 松尾剛次著



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法然(1133〜1212年)の専修念仏の教えは、厳しい戒律修行で知られる比叡山延暦寺や興福寺からその布教停止を訴えられていましたが、当時の実力者九条兼実(1149~1207年)などが法然に帰依していたために実行されませんでした。

 

手前が西本願寺総門

 

 

 

ところが1206年、後鳥羽上皇(1180〜1239年)が熊野詣に出ていた留守中、上皇の寵愛を受けていた女房2名が御所を出て、法然の弟子の遵西等の念仏法会に参加した事実が上皇の耳に入ったのです。

 

西本願寺の御影堂門

 

 

 

若き上皇(当時27歳)は、寵愛する女房が遵西等と蜜通したのではないかと激怒、翌1207年に、遵西等4名の僧に死罪、法然は土佐、親鸞は越後に流罪を命じられています。

 

西本願寺の御影堂

 

 

 

しかし、九条兼実等のとりなしで法然(当時75歳)は、配流先が讃岐に変更され、後に箕面の勝尾寺で4年間を過ごし、やっと上皇の許しが出て京都に戻りますが、直後に亡くなっています。

 

西本願寺の阿弥陀堂 

 

 

一方、越後に流罪となった親鸞は、玉日姫(正妻)とは別の妻、恵信尼を連れて配流地に向かい、赦免されるまでの5年間を越後で過ごしています。

 

 

 

赦免後、親鸞は一旦京都に戻りますが、法然と玉日姫の死を知り、京都にとどまる理由が無くなったため、関東に向かったと「親鸞再考」の著者、松尾剛次さんは書いています。

 

東本願寺の巨大な御影堂

 

 

 

しかし、親鸞は、(9年後に「承久の乱」をひきおこす)後鳥羽上皇の激しさを知っていて、上皇の影響が及ばない関東で布教するほうが良いと判断したのではないでしょうか。

 

東本願寺の御影堂門

 

 

1221年、乱を鎮圧された後鳥羽上皇は、隠岐中ノ島に配流されますが、親鸞は引き続き関東で布教を続け、第3代執権北条泰時(1183~1242年)から鎌倉明王院一切経の校訂に招かれるなどの成功を収めています。

 

隠岐中ノ島の後鳥羽上皇御火葬塚

 

 

1235年、混乱が収まった京都に戻った親鸞(63歳)は、1262年に亡くなるまでの27年間、関東の門弟の求めに応じて典籍を筆写したり、教義の疑問に答えたりしながら精力的に活動を続けていたようです。

 

つづく

 

参考文献:親鸞再考 松尾剛次著



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 11月19日の御堂筋は、イチョウの葉にまだ緑色が残り、やわらかな日陰をつくってくれていました。

 

歩道から見上げると、少し黄色くなった葉がビルの窓に写って、まだ始まったばかりの秋を教えてくれます。

 

これは、12月17日になっても落葉せずに頑張っているイチョウで、イチョウにも気の早いものやノンビリしたものなど個性があるようです。

 

12月3日、曇り空でしたが、北御堂に上がり、その門の先に見える散る寸前のイチョウの黄葉を撮っておきました。

 

同じ日、北御堂の石段の上から見た御堂筋で、やはり散る寸前のようです。

 

それから4日後、昼休みに淀屋橋の日銀前を通ると、イチョウの足元に落葉がかなり積もっているのを見つけました。

 

近寄って見ると、下に植えられたツツジの葉が見えないくらいに積もっています。

 

大阪に残る数少ない明治時代の石造建築と、イチョウの落葉です。

 

日銀前にあるイチョウは、12月17日になっても黄葉したまま屹立している株が残っていました。

 



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範宴(親鸞、1173〜1262年)の生きた平安末期から鎌倉初期という時代には、日本の歴史に残る有名人が綺羅星のごとく出現しています。

 

円山公園の紅葉

 

 

 

 親鸞にとって最も重要な人物、浄土宗の宗祖、法然(1133〜1212年)は、親鸞よりも40歳年長、鎌倉幕府を開いた源頼朝(1147〜1199年)は、親鸞よりも26歳年長ですが同時代の人物でした。

 

法然を宗祖とする知恩院には円山公園から直接入れます

 

 

 

法然(正しくは法然房源空)専修念仏の教えとは、「南無阿弥陀仏」という念仏さえ称えれば、僧でも俗人でも、善人でも悪人でも、女犯の戒律を守った人でも犯した人も、すべて極楽往生できるというものでした。

 

知恩院の紅葉

 

 

 

1201年、六角堂で夢のお告げを受け、元気を取り戻した範宴(親鸞)は、法然(当時69歳)のもとに入門、これを機に法然より、善信房綽空(しゃっくう)の名を与えられています。

 

知恩院前の修行僧

 

 

 

法然には、綽空(親鸞)以外にも数多くの優れた弟子がいて、五摂家の一つである九条家の祖、九条兼実(1149~1207年)のような高級貴族の帰依も受けています。

 

親鸞を宗祖とする西本願寺の唐門(国宝)

 

 

 

ある時、九条兼実が法然のもとに来て、「自分のような俗な人間と、法然のように戒律を厳しく守る人間では、同じ「南無阿弥陀仏」と称えても差があるのではないか」と聞いたそうです。

 

唐門の彫刻

 

 

 

法然は、「阿弥陀仏の誓願には、出家在家の区別も、善人悪人の区別もない」と答えています。

 

唐門の彫刻

 

 

 

すると兼実は、「相違が無いというのであれば、弟子のひとりを自分の娘(玉日姫)と結婚させ、その証拠を示して欲しい」と言ったそうです。

 

唐門の彫刻

 

 

 

そのとき法然は、迷わず綽空(親鸞)を指名したそうです。綽空は一旦固辞したのですが、法然の命とあって、玉日姫との結婚を受けたと松尾剛次さんは書いています。

 

外から見た知恩院の紅葉

 

 

 

入門から5年後の1205年頃、綽空は夢のお告げがあったとして、善信房親鸞と改名していますが、妻帯しても極楽往生できると、確固たる自信を得たのではないでしょうか。

 

つづく

 

参考文献:親鸞再考 松尾剛次著



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昼休みに淀屋橋から本町まで散歩していると、11月中旬からはじまるイチョウの黄葉の変化が楽しめます。11月19日の御堂筋今橋交差点付近

 

こちらは11月30日の御堂筋、この日前後が黄葉の盛りだったようです。

 

その3日後、12月3日の御堂筋高麗橋交差点、早くもかなりの落葉が始まっています。

 

12月17日、高麗橋交差点から少し手前の御堂筋ですが、イチョウは殆ど落葉してしまっています。

 

御堂筋を少し南に下った11月19日の伏見町交差点付近、イチョウの葉にまだ緑色が残り、落葉もわずかです。

 

11月30日ともなると、道修町交差点付近の空は黄色いイチョウの葉で埋め尽くされていました。

 

それからわずか3日後、12月3日の瓦町交差点付近、イチョウの落葉が進み、彫刻の周囲は落葉でいっぱい。

 

2週間前(11月19日)御堂筋のイチョウは、まだ緑の葉だったのですが、

 

しかし、12月17日になっても、まだ頑張っている株が残っているのです。

 



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京都にある西本願寺と東本願寺の建物に共通するのは、本堂(阿弥陀堂)よりも大きな、宗祖親鸞を祀る御影堂があることです。

 

西本願寺の御影堂

 

 

 

 

その親鸞(1173~1262年)のことは、当時の記録に少なく謎の多い人物ですが、松尾剛次さんが「親鸞再考」という本にその実像を描いていますので、東西本願寺の建物と一緒にご紹介しましょう。

 

西本願寺の阿弥陀堂

 

 

 

 

親鸞の父親は、下級貴族(従六位)の日野有範、母親は源義家流の源氏の出とされています。

 

西本願寺 

 

 

 

下級貴族の子供だった親鸞(9歳)は、後の天台座主・慈円(九条兼実の実弟)という大物のもとで得度し、範宴(はんねん)と称しています。

 

西本願寺

 

 

 

慈円は、1191年に聖徳太子の墓(現在の大阪府南河内郡太子町にある叡福寺)に詣でた記録があり、その際に弟子の範宴(親鸞19歳)が同行、そこに3日間参籠しています。

 

叡福寺

 

 

 

そのとき聖徳太子が範宴(親鸞)の夢枕に現れ、「汝の命はあと10年しかない」と告げたといい、夢のお告げが信じられていた時代の範宴は、自分の死期について相当悩んだようです。

 

聖徳太子磯長陵

 

 

 

そのお告げの死期が迫った1201年、範宴(親鸞29歳)は、聖徳太子の建立とされる六角堂(本尊は救世観音、京都市中京区)で後世の極楽往生を祈る百日参籠に入っています。

 

 

 

その95日目、夢に救世観音(聖徳太子)が現われ 「修行者が女犯の戒律を犯したとしても、私が女性となって犯され、臨終に際しては極楽に導こう」と告げたようです。

 

六角堂本堂

 

 

 

10年前の夢で告げられた死期が迫っていると思いこみ、(それと、どうやら女犯の戒律を犯していたことに)悩んでいた範宴(親鸞)は、この夢で元気を取り戻し、叡山と決別して法然のもとに入門しています。

 

つづく

 

参考文献:親鸞再考 松尾剛次著



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