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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



晩秋の恒例行事となっている京都の紅葉シリーズ。今年は曼珠院(まんしゅいん)の紅葉を紹介しましょう。・・・叡山電鉄の修学院駅で下り、東に歩いて15分、一乗寺葉山地区から見た京都市内です。

曼珠院は、もともと比叡山にあった東尾坊が、1110年頃に京都北山(鹿苑寺金閣の近く)に移って曼珠院と改名され、足利義満の時代に相国寺の南に移っています。・・・曼珠院道。

その後、代々皇族が門主となる門跡寺院となり、1591年には織田信長が寺禄328石を寄進しています。・・・曼珠院とある石塔。

1611年には徳川家康が200石加増したようです。・・・右の道を先に進みます。

現在の曼珠院は、江戸時代初期の1656年に八条式部卿智仁親王の子息、良尚法親王によってこの地に移っています。・・・勅使門。

1665年、徳川家綱がさらに200石を加増し、寺高728石の寺院として明治維新まで続いたようです。手前のモミジは、黄色と赤のツートンカラー。

この曼珠院、妙法院、青蓮院、三千院、毘沙門堂は、他の寺院よりも寺格が高い「京都の天台五ケ室門跡」と言われています。・・・その先の黄色のモミジにも赤い葉。

また、比叡山にあった東尾坊の始祖が菅原氏だった関係で、曼珠院は北野天満宮を管轄下に置き、明治維新までその事務百般を執行していたとか。・・・黄色と赤の拡大

勅使門の両側のモミジは、すこし落葉していましたので、ちょっと時期が遅かったのかも知れません。

つづく

参考文献:古寺巡礼京都 曼珠院 野口武彦 山口円道著



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クリント・イーストウッド主演の映画「人生の特等席」を見てきました。イーストウッドは、先日見た映画「あなたへ」に主演した高倉健(81歳ですが早生まれ)と同じ82歳。

大リーグのスカウトとして生涯を捧げてきた男と、弁護士として活躍している娘ミッキー(33歳という設定)が、親子の絆を取り戻していくという話です。

映画「あなたへ」と「人生の特等席」2作品が上映された今年は、めったに無い日米高齢俳優の当たり年となりました。・・・娘ミッキー役のエイミー・アダムスの実年齢は38歳ですが、33歳の娘役を好演していました。

映画「あなたへ」で、高倉健が演じていた嘱託刑務官の設定年齢は、恐らく60歳代前半でしょう。映画「人生の特等席」でのイーストウッドの大リーグスカウト(33歳の娘を持っている)も、同じくらいではないでしょうか。

二人とも実年齢よりかなり若い役を演じているので、それを感じさせない演技が見どころでしょう。娘にチョッカイを出した若い男を電光石火で締め上げるイーストウッドのアクションがそれでした。

この作品の監督は、イーストウッドから映画製作を学んだロバート・ローレンツ。

高倉健の「あなたへ」のラストシーンは、日本的にちょっとウエットでした。一方「人生の特等席」は、ハッピーエンドとなっていて、見た後に爽快感が残ったので、脚本はアメリカの勝ちでしょう。

ただし、「あなたへ」に出てくる日本の景色は美くしく、「人生の特等席」に出てくるアメリカの景色よりも良かったので、カメラマンの仕事としては、日本の勝ち。

主役の高倉健とイーストウッドの演技は、甲乙つけがたく互角としておきましょう。81歳以下の人は、82歳のイーストウッドが頑張っている映画を見て、元気を貰って欲しいと思いました。

 



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秋も深まり、シーサイドコスモ遊歩道までの途中に見かけた林の紅葉がかなり進んでいます。

これはナンキンハゼ(南京櫨)でしょう。

これもナンキンハゼですね。

今の季節に咲くツバキを見ることができました。

シーサイドコスモに到着。夢洲のコンテナふ頭には、大型コンテナ船が接岸中。

コンテナを数えてみると、後方が4列、前方12,5列。合計16,5列。かなりの大型船ですね。

大関門から海上保安庁の巡視船が戻ってきました。純白の塗装が眩しいくらいです。

イチョウ並木です。かなり黄葉が進み、もうじき落葉でしょうね。

ついでに昨夜(十三夜)の月を紹介しておきましょう。普通のカメラを使って月をこれだけクリアに撮れる日は少ないと思います。

晩秋の写真スケッチでした。



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淡路夢舞台公園を見たあと、大阪に帰る途中にある淡路ハイウエイオアシスに立ち寄ってみました。明石海峡大橋

高台にあるオアシス館前の広場

そこからの眺め

右側に目をやると、大阪南港のコスモタワー(旧WTC)とATCが見えていました。

こちらは新神戸から神戸三宮方向の眺め。1995年の地震から17年、神戸は立派に復興したようです。

さて、温室のようなオアシス館の中に入ってみましょう。

ゆったりと休憩できるアトリウムがありました。

ショップを抜けて山側に出ると、こんなテラス席もあります。天気の良い日はこちらの方が気持ちよさそうです。

ショップの中。右側が淡路近海でとれた一夜干しなどの海産物が並ぶ「海の幸市場」です。

ここでは淡路名産の玉ねぎを調達し、大阪に帰ることとしました。



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淡路島の歴史の続きを池田忠雄が淡路から転封された岡山城の菊の花と一緒に紹介しましょう。

1615年、池田忠雄が転封した後の淡路は、大阪冬の陣で戦功があった、蜂須賀氏の支配下に入っています。

蜂須賀至鎮は、家老の稲田稙元を城代として由良城に入れ、以降稲田氏が淡路を管理するようになっていますが、もともと稲田九郎兵衛稙元は、蜂須賀小六正勝の客分という立場だったのです。

その稲田氏の知行高は、1660年に淡路7318石、阿波7039石など合わせて1万4千石と、大名並みとなっていました。

1666年、幕府は外様大名の蜂須賀氏を牽制する意味で、稲田氏を淡路城代とするよう指示、稲田氏は淡路島で裁判、警察権を持った最高行政職となったのです。

この時点から阿波蜂須賀家と淡路稲田家の対立が始まり、幕府の統制が無くなった1870年(明治3年)に淡路島で稲田騒動が勃発しています。

稲田騒動とは、明治2年の禄制改革の際、藩士を士族と卒の二階級に分けることとなり、稲田家の藩士が蜂須賀家陪臣であるという理由から卒に編入されたことに起因する騒動です。

明治3年5月、蜂須賀の家臣が稲田の家臣屋敷を襲い、死者37名を出す惨事となっています。

明治政府は、淡路をそれまでの徳島県管轄から外して兵庫県管轄とし、稲田家家臣団を北海道に移住するよう命じています。

稲田家家臣団の北海道での苦労は、2005年公開された「北の零年」(渡辺謙、吉永小百合主演)として映画化されたので、それを見た人も多いのではないでしょうか。

参考文献:淡路地方史 大江 恒雄著



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1221年の承久の変では、淡路島が後鳥羽上皇の宮方に組したため、それまでの守護に代わって細川師氏が淡路、摂津、丹波の守護となっています。・・・淡路夢舞台公園にある奇跡の星の植物館、古典菊の世界展で出品された珍しい菊の花です。

淡路守護は、細川師氏から氏春、満春、満俊、持親、成春と続き、成春の代に応仁の乱が起こっています。

成春は細川勝元の東軍に付き、後に将軍足利義尚の御供衆となっています。

成春の死後は嫡男の尚春が継ぎますが、尚春は1519年、三好之春に殺害されて淡路細川家は滅び、淡路も群雄割拠の乱世に突入しています。

その後の淡路では、由良の安宅(あたぎ)氏が有力となり、三好長慶の弟の冬康が安宅氏を継いでいます。

安宅冬康は、三好実休、十河一存と並ぶ三好三人衆として知られていましたが、松永久秀の讒言によって1563年に暗殺されています。

安宅冬康の嫡男、安宅信康は、その後毛利氏についていましたが、1581年頃から淡路は羽柴秀吉の家臣、仙石秀久の領地となっています。

秀吉時代の淡路には、脇坂安治、加藤嘉明なども配置されていましたが、関ヶ原の後の1609年、脇坂氏は伊予大洲へ、加藤氏は伊予松山に加増転封されています。

1610年には池田輝政の領地となり、三男の忠雄が淡路6万石を継ぎますが、輝政の死の後に忠雄が岡山藩主として岡山に移っています。

淡路地方史 大江 恒雄著



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1184年、一の谷の合戦に敗れた平家は、四国の屋島に落ちる途中、大鳴門橋から4キロ東にある淡路島福良湾に浮かぶ煙島に7日間滞在しています。・・・奇跡の星の植物館の古典菊の世界展の菊の花

ここで鎌倉方の熊谷直実に討たれた平敦盛が荼毘に付され、その煙が波の上に長く延びたので煙島と命名されたとか。

平通盛の妻で宮中一の美人と言われていた小宰相の局も、一の谷で平通盛が討ち取られたと聞き、福良湾からほど近い鳴門で入水自殺しています。

その遺体は、鳴門大橋から2km北、淡路島阿那賀の海岸に流れつき、里人が埋葬、お局塚として現存しています。

また淡路には、一の谷での源氏の大将、義経の愛人静御前の伝説も残っています。

静御前が義経と一緒に逃亡した吉野から鎌倉に送られたことは先日紹介しました。

京都に戻った静御前は、しばらく一条能保夫人(頼朝の妹)の庇護を受けていましたが、俗事から離れることを希望して一条家の所領だった淡路の志筑庄(現在の津名港付近)に転居したといいます。

志筑庄の福田寺には、「問う人も なくて静かの 墓の辺に 哀れをそふる 松風の音」という和歌をしるした静御前の絵姿が残っているといいます。

その福田寺から西に200m、南北朝時代とされる印塔が2塔あり、右が静の墓、左が義経の供養塔と伝わっているそうです。

参考文献:淡路地方史 大江 恒雄著

 



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古事記には、イザナギノミコト、イザナミノミコトが天の浮き橋に立って天の沼矛で(海の)漂える国を集めようとして、その矛の先から滴り落ちた塩が積もってできたのが「おのごろ島」とあります。・・・百段苑から見た奇跡の星の植物館の全景

イザナギノミコト、イザナミノミコトは、おのごろ島に天降って順に淡路、伊予(四国)、隠岐、筑紫(九州)、壱岐、対馬、佐渡島、最後に秋津島(本州)の大八島(おおやしま=日本)を生んだとあります。・・・奇跡の星の植物館へのアプローチ

つまり国の始まりが淡路島と言われる由縁です。・・・トロピカルガーデンのヘゴシダ

この古事記の記述は、大和朝廷が河内へ進出したとき、すぐ目に付いたのが西の海の先に横たわる淡路島だったからではないでしょうか。・・・ジャングルの中に迷い込んだようなトロピカルガーデンの展示

古事記には「おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 自凝(おのごろ)島 檳榔(あじまさ)の島も見ゆ さけつ島見ゆ」という仁徳天皇の国見歌があります。・・・ひっそりと咲いているランの花

その意味は、「押すように眩しく太陽が照る難波から船を出し、当時の日本の国を見ると、淡島(淡路島)、自凝島(おのごろ島)、ビロウの生えている島が見える、また一つぽつんと離れた島も見える」ということでしょうか。・・・トロピカルガーデンのラン

河内王朝初代とされる応神天皇にも淡路島に関連する和歌が残されています。・・・とフラワーショースペース。この区域が最も天井が高いのでダイナミックな作品の展示が可能です。

日本書紀には、反正天皇が淡路宮で生まれたという記述もあります。・・・フラワーショースペースでは、空宙百華園「豊饒の大地」と呼ぶ展示がしてありました。辻本智子さんと向山潔さんとのコラボレーションとか。

河内王朝の応神、仁徳、履中、反正、允恭天皇の五代は、淡路島と特別な関係にあったのではないでしょうか。・・・出口へのアトリウム

参考文献:淡路地方史 大江 恒雄著

 



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夢舞台には、奇跡の星の植物館という大温室があります。

建物設計は文化勲章の安藤忠雄氏、展示プロデューサーは辻本智子氏です。

奇跡の星の植物館では、エントランスからエレベーターで一気に3階の空中廊下に上がり、そこを奥に進みます。

トロピカルガーデンと呼ばれる展示区域の巨大なヘゴシダが見事です。

最も奥にあるプランツギャラリーと呼ばれる展示区域。大木となったアロエが出迎えてくれます。

展示室3は、花と緑のある暮らしと呼ばれる日本庭園

そのなかの見事な盆栽

障子に囲まれた日本庭園の菊の展示

日本庭園の菊の展示

つづく



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昨年文化勲章を受章した安藤忠雄氏が設計した淡路夢舞台を訪ねてみました。その建築美のいくつかを紹介しましょう。この場所からは、水平線と建物上に設置したパイプの高さが見事に揃っています。

空中にある庭園の池の底にはホタテガイの貝殻が置かれ、周囲は回廊のようになって柱の列が配置されています。

エレベーターから出ると、百段苑を見下ろすポイントがあります。

百段苑から見た大阪方向

百段苑から見た神戸方向の眺望。中央がエレベーターの入った塔

エレベーターの入った塔と百段苑

地中から突き出たように見える建築群

ホテル階へ降りるエレベーターの乗り場からの眺望。ここでも外壁と水平線の高さが一致しています。

ホテルに通じる階でエレベーターを下りると、こんな不思議な光景が広がっています。



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ウエスティンホテル淡路には、5年前に宿泊したことがありますが、久しぶりに昼食のために立ち寄ってみました。ロビーのコーヒーショップ

ロビー階エントランス直上部分の花弁の形をした椅子

今回は、ビュッフェレストラン「コッコラーレ」で昼食となりました。

客席の外は、安藤忠雄氏デザインの建築、右側には国営明石海峡公園が広がっています。

このレストランは、ランチビュッフェが2500円と大阪市内のシティホテルよりも割安です。

「白身魚の岩塩包み」という手の込んだ料理もありました。

トイレに向かう途中の廊下には、鉛筆画の作品が多数展示されていました。

どれもなかなかの力作です。

これは2002年サッカーワールドカップ(日本韓国共同開催)の際、このホテルに宿泊したイングランドチームから寄贈された寄せ書きです。ベッカムのサインもあります。あれからもう10年が経ったことになります。



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淡路夢舞台公園には、今から5年前にも来たことがありますが、(ブログの記事も残っています)久しぶりに散歩してみました。

夢舞台公園の高台には、この建物の中にあるエレベーターを使って楽に登ることができます。

エレベーターを出たところからの景観です。中央やや右がウエスティンホテル淡路。その先には関西空港が見えています。

これがズームアップして見た関西空港です。ゲートタワービルと連絡ブリッジがなんとか確認できます。

実は、ここから大量の土砂が掘削され、対岸の関西空港の埋め立て用に使われたのです。この夢舞台公園は、その採掘現場の跡地を緑の土地に戻すために計画されたとか。

ここからは、神戸の中心部も良く見えています。

梅舞台公園のすぐ海側は、国営明石海峡公園。そこの並木が紅葉しはじめています。

これが百段苑に登るエレベーターの乗降口です。

関西空港と神戸市の間には、大阪南港のコスモタワー(左)と関西電力発電所の煙突(右)が見えていました。こうして見ると意外と近いようですね。



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岡山後楽園の北側にある川を渡ると、両備グループの財団法人(両備文化振興財団)が運営する夢二郷土美術館があります。・・・左が後楽園、川を挟んだ右に岡山城

そこで、竹久夢二(1884〜1934年)について書かれた「竹久夢二正伝」から、面白いエピソードをいくつか紹介しましょう。・・・後楽園の庭園

恋愛遍歴で有名だった夢二をめぐる3人の女性は、妻となった「たまき 」(1882〜1945年)、絵画の弟子の「彦乃」(1896〜1920年、代表作黒船屋のモデル)、美術学校のモデル「お葉」(1904〜1980年)などが知られています。・・・後楽園北側を流れる川

しかし夢二作詞の宵待草のヒロインは、この「たまき」、「彦乃」、「お葉」ではなく、元福山藩士長谷川康の娘「カタ(賢)」で、夢二が宵待草(待てど暮らせど)の画題で描いた少女はカタとそっくりだったとか。・・・夢二郷土美術館

明治45年(夢二、29歳、数え年以下同じ)に京都府立図書館で第一回夢二作品展があり、137点中84点が売品でしたが偶然来日していた米国ボストン博物館長が来場し、作品を買い上げたそうです。その夢二作品は、今もボストン博物館に収納されているのかも知れません。・・・夢二郷土美術館の正面

有名人となっていた竹久夢二には、夢二ファンを名乗る若い女性の来訪が絶え無かったそうですが、絵を売るために渡った米国滞在中(48歳)モデルとして採用した現地の女性にチョッカイを出して問題になったことがあったとか。どうやら米国人女性には持てなかったようです。・・・夢二郷土美術館も入り口、中の写真はありません。

米国からヨーロッパに向けて旅立った夢二(49歳)は、ドイツでの講習会で「日本画は、心の中にものを見て、ものの発生状態をたどるから面ではなく線による表現となり、線が動的、求心的、時間的となるがため内在生活の端的表現に通じる」と日本画の特性を哲学的に説明しています。はたしてドイツ人に理解されたのでしょうか。・・・夢二郷土美術館の前

竹久 夢二は、米国滞在中から体調を壊し、ヨーロッパから帰国(50歳、昭和8年)後、台湾に旅をしてさらに病状が悪化、昭和9年1月に結核と診断されて信州の富士見高原療養所に入院しています。・・・夢二郷土美術館前のレストラン「ひじり庵」

同年9月にその高原療養所で亡くなっています(51歳)が、14年前に亡くなった愛人「彦乃」が同じ病気だったので、彼女から感染したと考えている人もいるようです。・・・レストラン「ひじり庵」での昼食。これに天麩羅とデザートが付いて1260円でした。

参考文献:竹久夢二正伝 岡崎まこと著



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昨日の夕方、なにわの海の時空館まで散歩してみると、西の空には雲一つなく、月齢2.5の月が明るく輝いていました。

この日は、空気の透明度が高く、月の表面の光っていない部分までよく見えます。月がこれほどクリアに見える日は珍しいのではないでしょうか。

日没後の太陽は、はるか水平線の下にあり、その太陽に照らされている部分だけが強烈に光っているのが判りますね。

太陽に照らされた部分が明るすぎるので、露出時間を少なくしてみました。これくらいが地球照撮影にちょうど良いようです。データーは、ISO400、f:5、1.6秒でした。

暫くすると、すっかりと日が暮れて、周囲の星の姿が見えていきました。

拡大してみましょう。太陽の光を反射した地球からの光(地球照)で照らされた部分が良く判ります。しかし、露出時間を抑えないと月が動いてブレてしまうので難しいところです。

月はやや右下に向かって沈み、なにわの海の時空館のドームに隠れそうです。データーは、ISO1600、f:7.1、露出時間2秒です。

月は、地球照で見えている部分を除き、 海の時空館のドームの後ろに隠れてしまい、ほとんど月食状態になっています。

月食状態となった月をワイドで見てみると、かなり暗い星も写っています。月の左下に薄いオレンジ色で光っている星は、どうやら火星のようです。



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先週、吉野でイロハモミジの紅葉を見ることができました。これから2週間くらいが紅葉の見頃となるようです。

さて、吉野と言えば、ユネスコ世界文化遺産に登録されている国宝蔵王堂です。高さ34mの木造建築を支えている柱には、梨やツツジの巨木も使われています。花矢倉展望台からの蔵王堂

その蔵王堂では、2012年12月9日まで、本尊の秘仏「蔵王権現」が特別開帳されています。この時期見逃せば、次の開帳まで見ることができないので、吉野は、この秋の紅葉狩りスポットとして外せません。国宝仁王門まわりの紅葉はこれから。

拝観した蔵王権現(重要文化財)は、仏教寺院の本尊としては珍しい、高さ7m近い憤怒の表情をした三位一体の巨像でした。蔵王堂前の様子

蔵王堂の次がユネスコ世界文化遺産登録の吉水神社です。左手の建物には、1185年の義経と静御前、1336年の後醍醐天皇、1594年の豊臣秀吉に関係する歴史的資料が保存展示されています。

吉水神社からさらに奥に歩いて1時間、ユネスコ世界文化遺産に登録された吉野水分神社(重要文化財)があります。

豊臣秀吉がここで祈願した直後に秀頼(1593~1615年)が誕生、それが縁となって豊臣家による社殿の寄進があったそうです。江戸時代の本居宣長(1730~1801年)も、父親がここに祈願したことで誕生したと聞き、宣長は3度も参拝に訪れています。・・・吉野水分神社の本殿

吉野水分神社からさらに奥に歩いて15分で高城山展望台です。そこの紅葉は見事でした。

高城山展望台からさらに奥に歩くと、金峯神社の鳥居が見えてきます。鳥居から先の参道両側の樹木は伐採され、桜の若木が植樹されていましたので、10~20年後くらいには見事な桜並木となりそうです。

ユネスコ世界文化遺産に登録されている金峯神社の拝殿。この石段の右手から奥に続く道をさらに20分ばかり行くと西行庵です。

今から約1000年前に藤原道長が、870年前に西行が、830年前に義経が、680年前に後醍醐天皇が、420年前に豊臣秀吉が訪れた吉野の奥は深いということでしょう。

 



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