中之島にある東洋陶磁器美術館の東側に、土佐堀川の方角を向いた「木邨長門守重成表忠碑」と彫りこまれた巨大な石碑がある。
そもそもこれほど巨大な石を、どうやってここまで運んできたのかが不思議であるが、石の材質を見ると大阪城の石垣に使われているものと酷似している。
恐らく小豆島などの石切り場から大阪城まで運ぶ途中、何らかの理由で土佐堀川の中に沈んでしまった石材を引き上げたものであろう。
大阪城大手門の石垣
大阪城の石垣は、殆どが瀬戸内の島から切り出され、海から川を遡って今の京阪天満駅の辺りまで、水中に沈めた状態で運ばれたようなので、途中事故で沈んでしまった石材も多かったという。
大阪城の石垣の調査
これらの石材は、目指す石垣になれなかったので残念石と呼ばれ、土佐堀川の中から数多く見つかっていて、江戸期以降、川底から引き上げられて石碑の材料として大いに活用されたらしい。
残念石は、今の大阪城内にもあり、天守の石垣の前にあるものは小豆島に残された残念石を昭和56年になってからわざわざ運んできたものという。
木邨(村)長門守重成碑の設置された時期は、明治29年(1896年)と彫りこまれているので、日清戦争が終了した翌年である。
木村重成は、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いにも参加し、豊臣秀吉より越前府中に12万石を与えられた木村重茲(しげこれ)の次男であったという。
その後、重成の父親木村重茲は、豊臣秀吉の後継者となった秀次付の家老となり、文禄の役では朝鮮に渡海し活躍している。
大阪城
木村重茲は、朝鮮での武功を賞されて、大阪と京の中間という重要な場所にある淀城に、18万石に加増されて移り又、妻は豊臣秀頼の乳母に抜擢されているので秀吉の信頼は相当に厚かったのであろう。
従って木村重成は、豊臣体制の中において秀吉が最も信頼する名門の子息だったのである。
その木村重成の石碑が、何故こんな場所に残っているのかを考え、その理由を明日のブログに書いてみたい。
追記、その後石碑の由来が判明しましたので、こちらもどうぞ。 その続きもあります。