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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪城天守閣南側の楠木の傍に、石垣として使われなかった石(残念石)で造られたと思われるかなり大きな石碑がある。

大阪城の衛星写真



石碑には、秀吉が植えた樟樹(くすのき)が280年後の明治になって枯れたので、自分が植え替えた、これからも大切にして欲しいという意味のことが書いてあった。



石碑の日付は、明治31年(1898年)3月、建立者は大坂衛戍司令官陸軍中将小川又次となっているので小川中将を調べてみた。

小川又次(1848~1909年)は小倉藩の出身、1872年24歳で少尉任官し、1885年、37歳の時に陸軍大学校に入校している。

大阪城2の丸への入口、追手門(衛星写真左下)



陸軍大学校のドイツ人教官メッケルは、教え子の中では「児玉源太郎と小川又次が最も優秀である」と高く評価したという。

1894年10月には46歳で山県有朋率いる第1軍の参謀長(少将)として日清戦争に従軍し、その軍功により1895年には男爵に叙任されている。

本丸への入口桜門(衛星写真本丸から真下)



1897年には49歳で中将に昇進、第4師団(大阪)師団長に就任しているので、その直後にこの石碑を建立したらしい。

1904年から始まった日露戦争では、大阪第4師団を率いて出征し、同年9月の遼陽戦では師団長自らが戦傷しているので率先の人であったのか。

本丸への裏口極楽橋(衛星写真本丸の上)



1905年1月には陸軍大将に昇進し、翌年には功二級金鵄勲章を受賞したが、1907年予備役に編入され、1909年に61歳で逝去したが、陸軍大将正二位勲一等功二級子爵であった。

小川と陸軍大学同窓であった4歳年下の児玉源太郎は、日露戦争時には大山巌元帥率いる満州軍の総参謀長(大将)を務めている。



旅順攻囲戦においては、第三軍司令官乃木希典大将の指揮権に介入し、作戦を成功に導いたとされるが、兒玉の指揮権介入を事実として証明する一次資料は存在していないという。

このエピソードが広く知られるきっかけとなったのが、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の中の記述であるが、司馬氏の創作という見方が優勢である。



新しい視点と斬新な描写で「司馬史観」と呼ばれる歴史観を作るほど人気のあった国民的作家であるが、歴史家の立場からの批判も多かったという。

児玉は日露戦争の心労のせいか、戦争の翌年54歳という若さで小川よりも先に亡くなっているが、史上初の功一級金鵄勲章受章メンバー17名のうちの一人となり、陸軍大将勲一等功一級伯爵であった。

大阪城の空堀(衛星写真本丸の左下から下の緑の部分)



児玉の葬儀は大雨であったが、棺の傍にはずぶ濡れの乃木希典大将がずっと付き添っていたという。


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ポートアイランド南駅からの入口から入ると、すぐにフクシアコレクションのゾーンがあり、吊鉢に入った200品種のフクシアが温室の天井から無数に吊り下げられた花の異空間となっていた。



日本の花屋では,なまって「ホクシャ」と呼ばれていることもあるが、フクシアの原種は、メキシコから南アメリカを横断、ニュージーランドからオーストラリア南部そして西インド諸島までと広範囲に分布している。



Fuchsia(フクシア)は16世紀のドイツの医師&植物学者、Fuchs(フクス) の名前にちなむらしい。



ヨーロッパで生まれた数千種類に及ぶ園芸品種は、高温多湿の日本の夏向きでは無かったが、今は品種改良が進み耐暑性・耐寒性ともに優れた品種ができている。


室内の明るい環境で室温を日中18~25℃、夜13~15℃にコントロールして栽培すると、一年中切れ目無く満開を続ける特長がある花なので人気がある。



花は下垂して咲き、豊富な花色と形、様々な形に仕立てられること、挿し木によって容易に増やすことができるのがフクシアの特長である。



つぼみの状態で花を包み込んでいるガクは、開花すると基部が筒状で先端が四つに分かれて開き、ガクも着色して花弁のようにみえる。

花弁の色は、ガクの色とは必ずしも同じではなく、ガクは赤でも花弁は赤紫や白の二色の花に見える品種もあるので面白い。



フクシアゾーンの左の扉を入るとスイレン池があり、日本では珍しい熱帯性スイレンと巨大な葉で有名なオオオニバス、パピルスが植えられ、熱帯スイレンの花がアチコチに咲いている。



池の両側の通路には、50品種500本のエンジェルトランペットの樹木が所狭しと植えられていたが、寒さのせいか花に元気が無かったのが残念であった。

スイレン



エンジェルトランペットは、和名を曼陀羅花(まんだらげ)といい、トランペットフラワー、キダチチョウセンアサガオ、ダチュラと呼ばれることもある。

色は薄いオレンジや白、黄色、サーモンピンク等があり、全草に毒があるので誤って口に入れないように注意が必要である。



この花を始めてみたのは、17年くらい前ワイキキにあるロイヤルハワイアンホテルの庭であった。



ハワイの気候が原産地のブラジルに似ているのか、長さが30センチもある巨大なアサガオのような花が無数に咲いているのを見て仰天した記憶がある。


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神戸三宮から今年開港した神戸空港行きのポートライナーに乗って14分、終点の一つ手前の駅、ポートアイランド南で下りると駅のまん前が神戸花鳥園の入口であった。

ポートアイランド南の階段から見た神戸花鳥園



入場料1500円は少し高いと思ったが、折角出てきたので花鳥園の中に入ってみた。



今年2006年2月にオープンした神戸花鳥園は、総面積 約4ヘクタール 、空調温室面積は約1万6千㎡の広大な空間で、加茂グループ(加茂元照社長)が運営している。



加茂グループは、1957年開園した「加茂花菖蒲園」(静岡県掛川市)、1990年「富士国際花園」(静岡県富士宮市)、2001年「松江フォーゲルパーク」(島根県松江市)、2003年「掛川花鳥園」(静岡県掛川市)と現在5つものテーマパークを運営している巨大なグループである。



社長の加茂元照氏76歳は、1957年に大学院を中退、掛川市の実家に戻って、花菖蒲園を本格的に経営するようになったというので、花の栽培をビジネスとして50年というベテランである。



加茂氏は、現在5つの園を運営しているが、コンセプトは日本伝統の「花鳥風月」を生かした「花と鳥との触れ合い」である。



神戸花鳥園の温室設計はオランダ、ガラスはドイツ、フレームはオランダ、メッキはベルギー、遮光カーテンはスウェーデン、温室のコンピュータ制御はデンマークとヨーロッパ企業の製品を使用しているせいか他の温室テーマパークとは一味違う雰囲気がある。



植物への栄養と給水は、米国の制御システムが採用され、栄養素4種と微量要素27種に雨水を混合して個々の鉢に給水している。

ベゴニアの大輪の花



又、各鉢にはオーストリア製の水分を監視するセンサー付きのバルブが設置され省力化の工夫がされているらしい。

ベゴニアの花



温室内の植物は、すべて生き生きと茂っているので花の栽培50年という加茂氏のノウハウが如何なく発揮されているのであろう。

消毒は、害虫の天敵を使うバイオロジカルコントロールと、害虫を不妊にするホルモン系の薬、および、でんぷんを主体にした害虫の気孔を塞ぐ液体によるケミカルコントロールを行い殺虫剤は使用していないという。



第三セクターやテーマパークが赤字で次々と失敗する時代に、これほど大規模な花鳥園を50年間も運営してきた加茂氏のノウハウを赤字の自治体は見習って欲しいものである。



それにしても1万6千㎡もある温室の空調エネルギーとメンテナンスには、膨大なコストがかかると思うが、入場料1500円で本当に赤字にならないのであろうか。




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今日が会社の仕事納めであったので、昼休みに近くの神社、仏閣を訪ね、年越しの準備状況を見物してきた。

最初に尋ねた坐摩(通称は「ざま」であるが、正しくは「いかすり」)神社は鳥居に神社の幟を立てて、本殿への参道に夜中の初詣客のための提灯を設置してある。



この神社を氏神とする企業は周辺に多いようで、摂社の前には企業の名前が入った提灯がズラリと設置されている。



しかし、門松は飾られておらず、本殿には干支の絵馬も掲げられていないので正月気分はもう一つであった。



次に寄った難波神社は、御堂筋側の塀に絵馬を架け、本殿の横にも注連縄で巨大な「亥」の文字を書いた絵馬を掲示していたので、かなり力が入っている。



この神社だけが御堂筋に面した場所にあるので、フラリと立ち寄る初詣客を狙っているのかも知れない。

御堂筋から道一つ西に入った場所にある御霊神社は最も質素で、鳥居の前は普段通りで正月らしい飾りは何も無かった。



本殿への参道には細い注連縄が仮設されているだけと簡素なもので、良く見ると、環境保護のためにお焚上げを控えると書かれた看板が出ている。



次に御堂筋の語源にもなっている北御堂に立ち寄ると、一段高くなった山門の南側に釣鐘があり、そこに至る仮設の階段が出来上がっていた。



恐らく除夜の鐘を撞く信者のために準備されたものであろうが、この仮設階段が無ければ北御堂の梵鐘がどこにあるのか全くわからなかった。

写真の山門の左端に釣鐘がある



最後に南御堂(真宗大谷派別院)に入ってみると、このお寺の鐘堂は境内の南側の目立つ場所にあり、りっぱな梵鐘が吊られている。



さらに奥には今は使われなくなった豊臣時代の古い梵鐘も置かれていたが、これはすでに文化財となっているので今は使用されていない。



大阪には初詣客全国第6位、226万人を集める巨大ブランド神社、住吉大社があるので、市内の神社は初詣客用の準備にあまりお金をかけるわけにはゆかないのであろう。

御堂筋をかなり歩いてみたが、門松を飾った企業は全く見当たらなかったので、時代が変わったということか。

最近では珍しくなった門松(大阪城桜門前)




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1612年、大阪の町人・安井道頓は従兄弟の道トらとともに豊臣氏の命で東横堀川から木津川に通じる水路の開削に取りかかったが、安井道頓は大坂夏の陣で豊臣方につき討ち死にしている。

今の東横堀川と道頓堀の接続部分



その後、安井道トが遺志を継いで1615年に堀を完成させているので、道頓堀は完成から既に391年の年月が経過している古い運河である。

道頓堀の東端を西から見る



完成した運河は、当時大坂の藩主であった松平忠明によって道頓堀と名づけられたという。

道頓堀の東端から西を見る



今も賑わう道頓堀の南側には、1660年代から劇場ができはじめ、中座、角座、竹本座、浪花座、弁天座、朝日座などで歌舞伎や人形浄瑠璃が演じられ、江戸初期から既に大阪を代表する繁華街であったらしい。

戎橋から見た道頓堀



道頓堀にかかる戎橋は、平成19年の春を目指して現在架け替え工事中であるが、そこから太左衛門橋までの両岸に、「とんぼりリバーウォーク」という名称の遊歩道(ボードウオーク)が整備されている。

昼間のリバーウオーク



とんぼりリバーウォークでは、今年12月の夜間に「とんぼりリバースペースイリュージョン」という光と音楽のイリュージョンが開催されていた。



1914年、大正天皇が来阪された時に安井道頓と安井道卜両名の功績を称え従五位が追贈されている。



その翌年の1915年に道頓堀完成300周年を記念して、当時の大阪府知事であった大久保利武が道頓堀川各町から醵金を募り、安井道頓・道ト紀功碑を建てたという。



地下鉄「日本橋駅」から堺筋を北に歩き、日本橋を渡った右側に巨大な石碑である「安井道頓・道ト紀功碑」が見えてくる。



旧安井邸があった場所に建立されたその碑石は、高さ約3m、幅約1mの直方体で大阪城石垣の残念石を使ったものという。



大阪府知事、大久保利武は大久保利通の三男であったが、利通の長男大久保利和に子供がいなかったので大久保本家を継いでいる。

道頓堀に架かる現在の日本橋



父親の大久保利通に外見も性格も良く似ており、松方正義は「大久保さんはちょうど利武君をもう少し大きくしたような人であった」と言っていたらしい。

石碑の裏側



しかし、この石碑が建てられてから既に90年以上が経過しており、石の風化がかなり進んでいるようであった。


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男子ダブルス決勝の練習が始まり、頭が薄くなりかけた選手がJTAランク3位の岩渕 聡、パートナーがランク4位の本村 剛一ペアである。

岩渕



決勝の相手はJTAランク34位の佐藤 博康、同14位の黎 明ペアで、ランキング通り岩渕、本村組が順当に勝っている。



岩渕は、このイザワオープン男子シングルス、ダブルスで過去それぞれ3回優勝、本村はシングルスに6回、ダブルスに1回優勝しているので、二人ともダブルス優勝回数を1回づつ伸ばしたことになる。



岩渕、本村ペアは、翌日のシングルス決勝では敵味方に分かれて対戦し、6-4、6-2で岩渕が優勝、賞金130万円と東芝液晶テレビを獲得している。

この結果をスポーツニュースのサイトで探してみたが、イザワクリスマスオープン男子シングルス決勝は、メジャーなニュースサイトで報道されていなかった。



31歳、身長174cm左利きの岩渕の世界ランキングは、291位、ほぼ同じ身長の本村は33歳、世界ランク294位なので、メジャーな報道には値しないということか。

試合を見た帰りには、ポートライナー三宮駅の外のデッキにある新しいエレベーターで地下に降りて、先日オープンしたミント神戸の地下でお茶を飲むことにした。



神戸新聞会館地下街は、JR三宮駅東口からサンチカタウンへ至る地下道の途中から東側に分岐して旧神戸新聞会館に通じる地下街であったが、95年の震災で被災している。

その地下街が、新しくオシャレなミント神戸の地下街として10月に復活したらしい。



JR三宮駅に近い入口の左側に、神戸北野町で人気のセ・エム・アッシュというパン屋の中にイートインコーナーがあったので入ってみた。



神戸で人気の高いクロワッサン生地のパンは1個250円と高いが、さすがにパンの激戦区で評判というだけあって結構美味い。

しかし一緒に頼んだ300円コーヒーはかなり不味く、淹れてから時間が経ったもののようで、折角のパンと合わなかったのが残念であった。



震災で潰れた新聞会館の地下街が、以前と同じようにやっと復興してくれたのは、神戸に12年も住んでいた私には嬉しいニュースである。

帰りには「そごう三宮店」に寄って、神戸御影に本店のある洋菓子店「御影高杉」のケーキを買って帰ることにした。

ケーキ



この店のシェフの高杉氏は、1997年のテレビ番組、『テレビチャンピオン~全国クリスマスケーキ職人コンテスト』での優勝者で、甘さを控えた深い味が評判である。


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イザワクリスマスオープン2006年の女子シングルス決勝は、JTAランク10位の米村知子と同14位の佐伯美穂の戦いとなった。



米村知子は今年26歳、イザワクリスマスオープン2004、2005年のシングルスに2年連続準優勝している。

米村



彼女のHPを見ると、今年1月にハワイで結婚しているので、現役アスリートには珍しい人妻であった。

試合後の米村



細い体をムチのようにしならせて打つ強烈なサーブは、男性のサーブと大差が無いのではと思うほどで、第二サーブのスピードもあまり落ちないのが彼女の特長であろう。

米村の両手打ちバックハンドストロークは、ボールがネットすれすれを猛スピードで通過して相手のコートの深いところに突き刺さる強烈ショットである。



フォアハンドストロークも、クロスに強烈なリターンエースを何発も叩き込んでいたので、相当な威力を持っているが、細い体で良く打てるものである。



佐伯美穂は今年30歳、イザワクリスマスオープン2004年のシングルスに一度優勝している選手である。



佐伯は、1999年の全豪オープン2回戦で第12シードのアンナ・クルニコワと対戦し、31本ものダブル・フォールトを連発したクルニコワを攻め切れず敗退したという珍しい記録を持っている。

佐伯は、足の故障のため同年に現役引退をしているが、翌年復帰し、全日本テニス選手権の混合ダブルスで優勝を果たしている。



その後、2003年全日本テニス選手権女子ダブルスで優勝、2004年は女子シングルス決勝で優勝を飾っている。

身長168cmの佐伯美穂も細いが、彼女のフォアハンドはインパクトの時に体を思い切りねじって打つ独特のフォームが特長である。



この日、彼女の左の太ももに痛々しいテーピングがしてあったので、体調は万全でなかったのかも知れない。

試合は6-2、6-2と米村の圧勝であったが、細い体の若い女性が、男まさりの強烈なボールをネットすれすれで打ち合う試合は壮絶であった。



映画「ハムナプトラ2」の中で、女性同士が剣を持って王の前で戦う有名な場面があるが、まさにそのシーンを彷彿とさせるような凄い戦いを目の前で見せて貰った。

それにしてもパワフルなだけで地味な男子の試合に比べると、鍛え抜かれたスリムな体をした女性同士の試合には華がある。


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公式オープントーナメントとしてクリスマス時期に開催されるイザワ・クリスマスオープン・テニストーナメントは、1989年より開催され今年で18回目を迎えるという。



若手育成・世界へのジャンピングボードとして伊達公子、沢松奈生子、浅越しのぶ等、数多くの選手がこの大会で活躍し、その後世界へと羽ばたいている。

今も世界で活躍している杉山愛、森上亜希子、中村藍子等、日本のテニス界をリードするトッププレーヤーたちもこのクリスマスオープンに出場し、輝かしい戦績を残している。

女子シングルス決勝の会場



本戦は、男女シングルス各32名、男女ダブルス各16組が、賞金総額1300万円の頂点を目指して戦うトーナメントである。

ちなみにシングルス1位の賞金130万円、2位が65万円、3、4位が34万円、8位までが18万円、16位までが10万円、17位以下にも全員5万5千円の参加賞があるらしい。

優勝表彰式



当然世界には上があり、ウインブルドンの優勝賞金は、男女同額で各1億2000万円というから、世界中からテニスの強豪が集まるわけである。

イザワオープンのダブルスは、シングルスの選手がダブって出場することができるせいか、優勝賞金39万円、準優勝19万円とささやかなものとなっている。

イザワクリスマスオープン2006年の本戦は、12月18日(月)~24日(日)まで神戸のポートアイランドのワールド記念ホールで開催されている。



本当は、22日(金)の男女シングルス、ダブルスの準決勝4試合が一番面白いのであるが、仕事があるので平日の観戦はサラリーマンには難しい。

そこで女、子シングルス決勝と男子ダブルスの決勝がある土曜日に大阪から神戸まで出かけて行った。



三宮からポートライナーに乗り換えて10分、市民広場駅で降りて西に歩くとラグビーボールを半割にしたようなワールド記念神戸ポートアイランドホールがある。

ホールの入口には、イザワクリスマスオープン2006年の看板があり、入場するとアリーナにカーペットを敷いたテニスコートが設えてあった。



私も淡路島テニス合宿の際に、カーペットコのートでテニスをしたことがあるが、カーペットに足がひっかかり非常に走り難かったことを憶えている。

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秀吉の晩年に秀頼が誕生したことで、秀吉は一旦関白職を譲った豊臣秀次に対して疑心暗鬼となり、とうとう秀次を切腹させる事件が起こっている。

大阪城天守閣



その際に木村重成の父親、木村重茲(しげこれ)は、家老として仕えた秀次を弁護したことから、罪に問われ1595年に自害している。

子の木村重成は、母親の宮内卿局が秀頼の乳母であったことと、当時2歳であったために罪に問われることはなかったらしい。



成長した木村重成は、同い年の豊臣秀頼の小姓として仕え、秀頼の唯一の幼馴染となっている。

昔から乳母の子供は、乳母子(めのとご)と言い、主君と一緒に育てられ、主君が成長した後には、側近中の側近となるのが武家の習慣である。

大阪城の正門となる桜門(正月が近いので門松が飾られている)



豊臣秀頼は、成人後の木村重成を厚く信頼し、重成が元服すると豊臣の重臣として重要な会議にはすべて出席させたらしい。

豊臣秀頼の側近となった重成は、18万石の大名の子息らしく少しも粗暴なところが無く、礼儀作法もしっかり身につけていたという。

石碑の拡大



又、武術に長け、弱冠23歳にして真田幸村48歳・後藤又兵衛55歳・明石全登49歳という歴戦の猛者に混じって大坂方の主要七将の一人に選ばれている。

若い重成は、年長の後藤又兵衛に「自分は若輩ゆえ経験が乏しいので戦闘に際しては存分にお引き廻しを」と謙虚に挨拶し、後藤又兵衛を感心させたという。

大阪城、太鼓櫓前の残念石



1614年、若い木村重成は大坂冬の陣で、玉造口を守備して佐竹勢・上杉勢と勇敢に戦い多くの武勇伝を残している。

大坂冬の陣における講和時には、正使として徳川家康と対面しているが、その際に家康が木村重成の言動に感心したという記録が残されている。

西側から見た石碑



1615年、大阪夏の陣の際には、大坂城外の若江・八尾に出陣し、藤堂勢・井伊勢と戦って遂に23歳の若さで覚悟の戦死を遂げている。

その直後に大阪城も落城し、重成と一緒に育てられた同い年の秀頼も自害して果てている。

大阪城天守全景



家康の許に届けられた重成の首級には、香が炊き込められており、その覚悟に徳川方の諸大名が感動したという話が残っている。

この石碑建立の14年後となる1910年から1940年までの間に、木村重成を主人公にした映画が6本も作られているので、昔は滅亡した豊臣家の悲劇のヒーローとしてかなり人気の存在であったらしい。

石碑の裏側



この石碑は、大阪冬の陣、夏の陣で主家のために華々しく戦い、覚悟の戦死を遂げた若い木村重成を、尽忠報国、国威発揚のシンボルとして称え、日清戦争後の戦意向上に役立てようと建立したのであろう。


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中之島にある東洋陶磁器美術館の東側に、土佐堀川の方角を向いた「木邨長門守重成表忠碑」と彫りこまれた巨大な石碑がある。



そもそもこれほど巨大な石を、どうやってここまで運んできたのかが不思議であるが、石の材質を見ると大阪城の石垣に使われているものと酷似している。

恐らく小豆島などの石切り場から大阪城まで運ぶ途中、何らかの理由で土佐堀川の中に沈んでしまった石材を引き上げたものであろう。

大阪城大手門の石垣



大阪城の石垣は、殆どが瀬戸内の島から切り出され、海から川を遡って今の京阪天満駅の辺りまで、水中に沈めた状態で運ばれたようなので、途中事故で沈んでしまった石材も多かったという。

大阪城の石垣の調査



これらの石材は、目指す石垣になれなかったので残念石と呼ばれ、土佐堀川の中から数多く見つかっていて、江戸期以降、川底から引き上げられて石碑の材料として大いに活用されたらしい。

残念石は、今の大阪城内にもあり、天守の石垣の前にあるものは小豆島に残された残念石を昭和56年になってからわざわざ運んできたものという。



木邨(村)長門守重成碑の設置された時期は、明治29年(1896年)と彫りこまれているので、日清戦争が終了した翌年である。



木村重成は、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いにも参加し、豊臣秀吉より越前府中に12万石を与えられた木村重茲(しげこれ)の次男であったという。

その後、重成の父親木村重茲は、豊臣秀吉の後継者となった秀次付の家老となり、文禄の役では朝鮮に渡海し活躍している。

大阪城



木村重茲は、朝鮮での武功を賞されて、大阪と京の中間という重要な場所にある淀城に、18万石に加増されて移り又、妻は豊臣秀頼の乳母に抜擢されているので秀吉の信頼は相当に厚かったのであろう。

従って木村重成は、豊臣体制の中において秀吉が最も信頼する名門の子息だったのである。

その木村重成の石碑が、何故こんな場所に残っているのかを考え、その理由を明日のブログに書いてみたい。

追記、その後石碑の由来が判明しましたので、こちらもどうぞ。       その続きもあります。



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神戸のルミナリエに対抗して年末、中之島公園を中心に開催される光によるイベント「OSAKA光のルネサンス」は今年で4回目となる。



26日間に渡って開催されるイベントの昨年の来場者数90万人は、13日間開催の神戸ルミナリエと比べると、とささやかなものである。

ちなみに、先週12月16日のルミナリエの入場者は、たった1日で62万人というので光のルネサンスは完敗である。



確かに会場の光の豪華さも、ルミナリエと比べると10分の1くらいで丁度、入場者数に比例しているようである。

大阪市役所の南側は、遊歩道の両側にあるケヤキ並木に光の装飾をちりばめた「光のフェスティバルゾーン」となっている。



ここでは光が固定されたルミナリエと違って、音楽にあわせてイルミネーションが点滅するショーをやっているのであるが、26日間の会期の中の僅か10日間だけの期間限定ショーなのである。

ショー自体はオレンジ、白、ブルーの発光ダイオードが順番に点滅したり、同時に点灯したりと結構面白いが、30分毎に15分のショーという出し惜しみプログラムなので、ショーを見逃すと30分も寒空で待たされることになるのが難点である。



私は、寒空で待たされることを予想して、事前に会社の近所で暖かい焼き芋を買ってから会場に到着したので、ショー待ちの間に焼き芋を食べて寒さを凌いでいた。

これから会場に足を運ばれる人は、焼き芋持参を含めた何か寒さ対策が必要であろう。



市役所の東にある中之島図書館では、ギリシャ建築のような建物の壁に映像を写す「ウオールタペストリー」というイベントをやるという。

しかし、これも土日以外は午後8時以降の上映となるので、あまり早く行くと寒空の中、上映時間まで長く待たされる出し惜しみプログラムとなっている。



中之島図書館の東には、ライトアップされた中之島公会堂があり、そこから東側、東洋陶磁器美術館の北の遊歩道も光のルネサンス会場であったが、イルミネーションが暗くて全く寂しい通りであった。

光のファンタジーゾンと命名された東洋陶磁器美術館の北から、難波橋の橋の下までは、大阪芸大学生の光のアート作品が展示してあったが、展示作品が少ない上に学生の素人作品なので迫力が全然無い。



中之島バラ園の真中には、「ローズライトガーデン」という光のタワーが設置されていたが、会場が広すぎるせいか神戸ルミナリエの迫力には遠く及ばないのが残念である。



バラ園の東にある剣先グラウンドには、特設ステージが設置され、クリスマス気分を盛り上げるイルミネーションと音楽が楽しめるという。



しかし、ここまでの「光のルネサンス」会場を見た限り、ルミナリエとは比較にならないショボイ内容であることが良く判ったので、一段と冷えてきた会場を後にすることにした。



今回、光のルネサンス会場に初めて来て見たが、広い中之島会場を生かしきれていない、出し惜しみが過ぎる残念なイベントであった。

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中之島にある大阪市役所の東側には住友家の寄付した中之島図書館、その東には岩本氏の寄付した中央公会堂があり、さらに東側には東洋陶磁器美術館がある。

中之島図書館



東洋陶磁器美術館に因縁のある安宅産業株式会社は1904年に創業され、1977年に伊藤忠商事に吸収合併されて消滅した総合商社である。

中央公会堂



安宅産業は、戦前から戦後にかけて10大総合商社の一角として最大年間売上高2兆6千億円を誇る大企業であった。

東洋陶磁器美術館の南側



1942年、陸軍とのいざこざに嫌気がさした創業者の安宅弥吉は、社長を退任、後任に次男の安宅重雄氏を指名している。

長男の英一氏ではなく、10歳年下である次男の重雄氏を社長としたのは、英一氏が当時の金額で毎月1万円以上も趣味に浪費していたのが原因だったらしい。

美術館のエントランス



戦後になって安宅産業内に権力争いがあり、英一氏を担ごうとするグループの圧力で重雄氏は退任、後任として神田正吉氏が社長に就任している。

実は、戦後公職追放をおそれた安宅家は、85%以上を保有していた株式をこの時までに殆ど手放しているので、法的には安宅産業の支配権を手放していたのである。

エントランス前にある関 一 大阪市長像(今の大阪市長の祖父に当たる)



1955年、社内の権力争いのせいで創業家の長男英一氏は、株式を手放していたのにかかわらず突然安宅産業の会長に就任している。

その際、社業は社長が行うが、人事権は英一会長が持つとされ、会社の金を使って会長が趣味としている美術品のコレクションを続けても、社長以下から文句が出ない会長の権力体制が確立している。

美術館の北東にある遊歩道



それ以降、英一会長は会社の金を湯水のように使って、当時世界最大と言われた東洋陶磁器のコレクションを完成したのであるが、トップの姿勢を見ていた安宅産業社員のモラルは地に落ちていたようである。

1975年、一部の社員が担当していたカナダの精油所プロジェクトが破綻し、安宅産業は倒産、1977年に伊藤忠商事に吸収合併されている。

美術館の西南角



今考えると、創業家の長男というだけで人事権を持つ会長に据え、会社の金を自由に使って趣味のコレクションを続けさせていた安宅産業は、いずれ破綻することになったのであろう。

安宅産業の倒産後、当時の大島靖大阪市長が「コレクションの美術品は住友銀行が担保に取っているのだから、散逸させないで大阪に寄付してくれないか」と呼びかけたらしい。



その際、住友銀行は住友グループ21社と協力して安宅コレクション購入資金152億円をかき集め、コレクション全てと美術館を建てて大阪市に寄付している。

それが、この大阪市立東洋陶磁器美術館なので、安宅英一氏は父親の創業した会社を潰して代わりに美術館を残したことになる。

倒産した安宅産業の社員にはお気の毒であるが、大阪市民にとっては、世界的な陶磁器コレクションをいつでも見ることのできる美術館を残してくれた英一氏に感謝すべきであろう。



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阪急電車の蛍池駅で下り、大阪モノレールに乗り換えたが、その大阪モノレールは営業キロ数で世界最長とギネス認定されているという。



空港ビルの中にはカード会社のラウンジがあり、ゴールドカードと航空券を持った人はラウンジで無料のコーヒーやドリンクを飲めるので、ちょっと寄ってみた。

ラウンジ室中の壁際には、パソコンが5,6台置いてあり、若いビジネスマンがそこを占領して無料のインターネットを楽しんでいる。

モノレール内部



セルフサービスのコーヒーは、まあまあの味で、新聞や雑誌を読みながら、飛行機に搭乗するまでの時間をゆっくりと潰すことができた。

ラウンジを出て、ANAのカウンターで搭乗券に引き換え、セキュリティチェックを通って搭乗待合室に下りる。

前回、ペットボトルの中身をチェッカーでチェックされたが、今回そのチェックが無かったのは何故であろう。



乗る飛行機は、カナダのボンバルディア・エアロスペース製のプロペラ機DHC8-400である。



DHC8-400は、全長32,8m、全幅28,4m、乗客74人、速度650km/h、航続距離2000km、最大離陸重量28トンという仕様で、運行騒音が静かなのが特長らしい。



この日、大阪上空を飛んだ飛行機の中から、東大阪市の徳庵近くの化学工場が燃える火災の煙を見た。



アルミ粉末が爆発燃焼し、2人のケガ人を出したらしいが、死者が出なくて幸いであった。



アルミ火災に水をかけると爆発燃焼するので、砂を使った消火をしたために鎮火に手間取り火災が長時間続いたらしい。



天気が良かったので、淀川にかかる4つの橋や、鶴見区の花博跡地公園、大和盆地の古墳(馬見古墳群)も見ることができた。



飛行機が着陸する寸前に地面に機影がクッキリと写り、その影が次第に大きくなっていゆくのが面白い。




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御堂筋に面したベネトンから、西に100m入った交差点の北にあるオーガニックビルは、昆布のえびすめで有名な小倉屋山本の本社ビルである。



1993年に竣工した9階建て、延面積7千㎡のビルは今も周囲を圧倒する存在で、1994年度通産省グッド・デザイン賞(施設部門)を受賞している。



恐らく、大阪中を探しても、これほど奇抜なデザインのビルは無いのではと思うくらいに変わった形状をしているが、老舗の小倉屋山本が良く採用を決断したものであるとその勇気を称えたい。



ところでオーガニックビルにはビルオーナー、小倉屋山本の看板が掲示されていないのは何故であろうか。

基本デザインは、ニューヨーク在中のベネッツアのアーティスト「ガエタノ・ペッシェ」。



ガエタノ・ペッシェは1939年イタリアに生まれなので今年67歳、ヴェネツィア大学で建築と工業デザインを学んでいる。

1983年よりニューヨークに移住し、インテリア、建築、家具、工業デザインと幅広い分野で活躍しているデザイナーである。

ガエタノ・ペッシェがデザインした椅子



ガエタノ・ペッシェは、外壁に植木鉢が飛び出した巨大な陶器のパネルを横に22列、垂直に6段並べ、合計132個の形が微妙に違った植木鉢がビルの外壁から飛び出すデザインをひねり出している。



その外壁に付いた植木鉢の中に、種類の違う植物が132種類入り、1993年の竣工以来、13年間今も立派に維持されているのが素晴らしい。



小倉屋山本は兵庫県淡路島に生また初代山本利助が、1848年にのれん分けを許され、新町橋のたもとに昆布店を創業、今年で158年の歴史を誇る老舗である。

利助の創業は1957年にベストセラーとなった小説『暖簾』に詳しいが、作者の山崎豊子は、3代目山本利助の実妹というので吃驚する。



1924年に生まれた山崎豊子は、彼女が生まれる76年前に創業した初代利助の苦労話を小さい頃から繰り返し聞かされて育ったのであろう。

彼女は京都女子大を卒業して毎日新聞社に入社、当時、学芸副部長であった井上靖のもとで記者としての訓練を受けている。



その勤務のかたわら小説を書きはじめ、「暖簾」でデビュー、翌年「花のれん」により第39回直木賞受賞して作家生活に入ったという。



その後「白い巨塔」、「華麗なる一族」、「不毛地帯」、「大地の子」、「沈まぬ太陽」等を執筆、日本を代表するベストセラー作家となっている。


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高知市の帯屋町筋を西に城の方に戻ると、「土佐二十四万石博」の会場のある堀の前に土佐藩の家老であった五藤家の屋敷が今は本屋になっていた。

堀から見た高知城の天守



NHK大河ドラマ「功名が辻」の中に、武田鉄矢扮する五藤吉兵衛為浄、その弟の小倉久寛扮する五藤吉蔵為重という兄弟の重臣が出てくるが、その末裔は明治維新まで山内家の家老として連綿と続き、さらに現在もこの地で書店を経営しているようである。



五藤吉蔵為重は山内一豊と土佐に入り、安芸で土居付き(城持ち)家老として明治維新まで続いたらしい。



その書店の前を県庁前まで歩き、そこから南に進むと旅館「三翠園」の横に旧山内家下屋敷長屋展示館がある。



この長屋の立つ敷地は、幕末に山内容堂の下屋敷が設けられた場所で、明治維新後、一時山内家の私邸となったが、戦後隣接する旅館「三翠園」に売却されている。

入口には三翠園の看板



1978年、長屋は三翠園から高知市に譲渡され翌年、国の重要文化財に指定され無料公開されているので中を覗いてきた。

内部



建築後140年余りが経過しているが、江戸期の武士の長屋生活を垣間見ることができる貴重な文化遺産であると思うのでこれからも長く保存して貰いたいものである。

旧山内家下屋敷長屋展示館の南はすぐに鏡川の流れとなるが、その川岸の小高くなった場所に山内神社がある。

鳥居



山内神社は1806年、10代藩主により初代藩主の一豊とその夫人の見性院(千代)、2代藩主忠義を祀るために高知城内に造営された藤並神社に始まる神社である。

境内



1871年、土佐藩最後の藩主で、初代知藩事となった山内豊範が、藤並神社の御旅所であった現在地に社殿を造営し、その後1935年には「別格官幣社山内神社」として創建された。

1945年戦火により焼失したが、1970年に社殿を再建して藤並神社を合祀し、土佐藩歴代の全ての藩主を祀る神社となっている。

本殿



その山内神社社殿の前を通り、西の裏門を出ると、進鉄筋コンクリート造の山内家宝物資料館がある。

裏門



高知城内にあった山内家伝来の資料は、維新の後に東京と高知の蔵に移されて管理されていたが、関東大震災や戦時空襲により一部が焼失したらしい。

そこで現存する美術工芸品、古文書、書籍類など山内家伝来の資料約6万7千点は、すべて高知県に移管され1995年、大名が伝えた江戸時代の歴史や文化に触れる資料館としてここで順次公開されているという。

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