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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



人口27万人を越える茨木市にある茨木城は、1336年頃に足利軍との戦いに備えて楠木正成が築いたとされ、城郭は現在の茨木小学校付近とされている。

茨木神社東鳥居



茨木城はその後永らく歴史に登場しないが、1572年織田信長の家臣、中川清秀(1542~1583年)が入り、清秀は本能寺の変の後に秀吉の家臣となっている。

1583年、秀吉軍と柴田勝家軍の賤ヶ岳の戦いで中川清秀は戦死し、嫡男秀政(1568~1592年)が茨木5万石を相続、後に播磨三木6万6千石に加増転封されている。

東参道



1592年文禄の役で秀政が戦死したために1593年、次男の秀成(1570~1612年)が中川家を継ぎ、1597年に豊後岡7万4千石に加増転封されている。

関が原で徳川方についた中川家は、豊後岡藩主として明治維新まで続いている。

1595年以降は、豊臣氏の家老・片桐且元(1556~1615年)が茨木城に入り、大坂の陣で豊臣氏が滅亡した直後に且元が急死したため、茨木は天領となり、茨木藩は廃藩となっている。

南参道



1622年に社殿を新築した茨木神社の東門は、茨木城の搦手門を移築したものと伝えられているが、廃藩となったために城の施設も他の建物に再活用されたのであろう。



最初の茨木城を楠木正成が築いたときに茨木神社は、現在の場所に移されたと伝えら1622年には従来の天石門別神社を奥宮とし、素戔嗚尊を本殿に遷して本社としたという。



JRの茨木駅から東に400メートルのところにある茨木市役所と市民会館のまえの道路をさらに東に進み高橋交差点を渡ると茨木神社と天石門別神社の鳥居(1902年)である。



石畳の参道を進むと正面に拝殿があるが、途中に東側から入る東門があり、門の外には参道と鳥居が置かれ、この鳥居には1665年の年号が入っていたのでこちらのほうが古い参道である。



境内の石灯籠には、正徳、享保、宝暦、安永、文化等の銘があるので、江戸時代を通じて寄進する人が絶えなかったようである。


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跡部 良弼(あとべ よしすけ1800? ~1869年)は駿府、堺の両町奉行をへて1836年(36歳くらいの若さで)大坂東町奉行となっている。

大阪城天守閣



良弼は、肥前唐津藩6万石の藩主であった水野忠光の六男で、成人した3人の兄は当時老中(在職期間1834~1843年)であった水野忠邦(浜松6万石)、信濃国岩村田藩主内藤正縄(1万5千石)、越後国椎谷藩主堀直哉(1万石)と皆大名であった。

良弼は、旗本跡部家に養子入りしているが、実兄の忠邦の威光を背景に傲岸で、周辺とのトラブルが絶えない誇りだけが突出した坊ちゃんタイプだったようである。

大阪城天守閣から見た極楽橋と鴫野橋



大坂東町奉行に在任中、米価が暴騰し、多数の餓死者を出しているが、これに対してなんらの打開策を立てないばかりか、豪商らによる米の買い占めを傍観している。

また、元与力であった大塩平八郎の救民計画を無視し、江戸に米の廻送を命じたため、大坂の米価はますます高騰、餓死者が続出しているので町奉行の資格に全く欠ける人物だったようである。

大坂城代が守る追手門



1837年2月、大塩は出世のために窮民を犠牲にする跡部や、贅沢に暮らしながら困窮者を救うことをしない豪商達に制裁を加えることを決意している。

当初、跡部の市中巡見の際に跡部を討ち取り、続いて豪商から金銀米穀を奪って貧民に分配する計画であったが、事前に計画が漏れたために早朝に天満郷に放火し、昼ごろには船場の鴻池や三井を焼き討ちしている。

大坂城の千貫櫓



事件発生とともに大坂東町奉行跡部も手兵を率いて出馬しているが、大塩方が発した大砲の音に驚いて落馬するという坊ちゃんらしい醜態を演じている。

大坂城代土井利位(1789~1848年)の率いる手勢が繰り出して大塩事件は鎮圧されたが、跡部は特に咎められることもなく、1839年兄忠邦の老中首座就任の直前に大目付に栄転、1841~44年の間、勘定奉行を務めている。

大阪城外掘り



この間には兄の懐刀であった鳥居耀蔵も勘定奉行をしているので、切れ者と坊ちゃんという全く性格の違う勘定奉行同士の確執があったようである。

天保の改革が失敗に終わり、実兄水野忠邦が失脚した後も跡部良弼の政治的命脈は続いているが、同じ勘定奉行であった鳥居と敵対していたために失脚を免れたらしい。


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旗本、矢部 定謙(やべ さだのり、1789~1842年)は、1831年に堺奉行、1833年に大坂西町奉行となり、東町与力であった大塩平八郎(1793~1837年)の建策を聞き、飢饉対策に努めた話は有名である。

大阪城天守閣から見た東町奉行所付近



定謙は、大塩平八郎の事件の前年1836年、石見浜田藩の密貿易(竹島事件)を摘発したことが認められたのか勘定奉行に転任しているが、翌年の大塩の乱のときには旧知の大塩を擁護する意見を吐いている。

最近発見された平八郎が事件の前に出した老中宛の手紙には、定謙の大坂西町奉行時代の不正を徹底して暴露していて国を乱すのは定謙のような人物であるとこき下ろしているので定謙は裏表のあるしたたかな人物だったようである。

大阪城追手門



この手紙の発見で従来大塩の事件は、飢饉の際に私腹を肥やす大坂の役人や豪商に一撃を加えることが目的とされていたのが、幕府中枢の勘定奉行の更迭を求める国家規模の改革を意図していたことが判明している。

これによって、大塩が事件の後も自決せずに大坂市中に40日も潜伏し続けたのは、老中から来る望みのあった矢部 定謙更迭の朗報を待っていたからであろうと推察されている。

追手門から続く多門櫓



定謙は、大塩の事件から4年後の1841年に江戸南町奉行となっているが、天保の改革(質素倹約の徹底)を強行すべきでないと老中首座、水野忠邦(1794~1851年)に進言している。

しかし忠邦の懐刀であった鳥居耀蔵(1796~1873年)によって、定謙が前奉行時代の非行をうやむやにしたと讒言されたために町奉行職の任を解かれている。

二の丸桜門前



翌1842年に桑名藩に預けられ、享年53歳で病没(桑名藩の記録)しているが、絶食して自殺したとの噂もある。

定謙が免職となると鳥居耀蔵が江戸南町奉行に就任し、耀蔵は町人に質素倹約を厳しく徹底したため、「まむしの耀蔵」と江戸市民より忌み嫌われている。

桜門から天守



さらに水野忠邦は、上知令を出して大名・旗本の領地を幕府の直轄地としようとしたが、大名や旗本が大反対したため実施される事は無く、将軍家慶からも上知令撤回を言い渡され1843年には退陣に追い込まれている。

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大坂町奉行は、禄高1千石以上3千石以下の旗本から選任されることになっていたが、実際には4千石以上の者や、2~300俵という禄の低い者も任命されていたようである。

大坂城天守閣



大坂町奉行は、老中の支配を受け、また大坂城代の監督も受ける立場であり、この職務を大過なく務めると、旗本でありながら大名を監査する大目付へ出世する道が開けていた。

大坂町奉行には任期は無く、禄高以外に役高として1500石、他に役料として600石が追加で与えられている。

東横堀川の取り付け口



役高1500石は、4公6民であれば600石、これに役料600石を加えると本来の禄高以外に1200石の加増となるので、1石4万円と仮定すれば今なら年4800万円の収入が上乗せされる美味しいポストだったようである。

天神橋



1722年以降、大坂町奉行の行政範囲は摂津、河内、和泉、播磨の4か国に拡大されているので、大阪府全域と兵庫県南部がすべて含まれ、守備範囲が広く権限も強大であったために、民政、裁判、警察の諸問題は必ず東西奉行2名が合議で決定することとされていた。

東西2つの町奉行所は、大坂を東西に別けて管理した訳ではなく、毎月交代の月番制を取り、月番の町奉行所が表門を開けて訴訟を受け付け、非番の町奉行は門を閉じて山積する事務を処理していたという。



東西町奉行所には町与力30騎、同心が50人づつ配置され、建前は1代限りの地位(御抱席)であるが、実質は世襲されていたようである。

町与力は、知行200石(後に4公6民と同じ手取りとなる蔵米80石=200俵)と敷地500坪、同心には10石(25表)3人扶持と敷地200坪が与えられている。

しかし、幕吏としての地位は低く、収入も1石=4万円と仮定すれば、与力でも年収320万円(月給27万円)程度であった。

天神橋の上から見た土佐堀川



町方与力は、どんなに功績を上げても与力の中の最高役格である支配与力になるだけで、それ以上の昇進はなく、昇給もなかったので、職務に精励する町与力は少数だったようである。


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大阪商工会議所の北側には「マイドームおおさか」ビルがあり、その前には江戸時代の西町奉行所の跡地を示す石碑が置かれている。



その説明文を読むと、この辺りには豊臣秀吉が築いた大坂城を防御する全長8キロの城壁である惣構(そうがまえ)があり、1985年の発掘調査でも確認されているという。

大阪城天守天守閣にある地図には城壁の内側を惣構としている



つまり、東横堀川を外掘りとし、そのすぐ東側に城壁があったことになり、城壁の内側こそが本来の大坂の街であり、城壁の外にある船場などは重要視されていなかったようである。

大坂冬の陣の陣形を見ると、惣構の外側の東横堀川を挟んで大阪方と徳川方が対峙している。



江戸時代には米蔵や代官所が建てられ、やがて大坂城で使う味噌の醸造所ともなり御塩噌蔵と呼ばれていた。

幕府直轄地大阪において、直接町民と接触した大坂町奉行は、東町奉行所・西町奉行所とも、最初は大坂城の京橋門外にあったが、1724年(享保9年)の大火の後、大阪西町奉行所だけが本町橋東詰のこの地(9600㎡)に移っている。



天保年間(1842年)の大坂地図を見ると本町橋を渡ったこの辺りに西町奉行所、さらに北上して土佐堀通を東に行ったOMMビルの南側が東町奉行所であったようである。

松屋町筋



明治になるとすぐに大阪府庁となり、西町奉行所の施設がそのまま使われていたというが、府庁は1874年(明治7年)に江之子島に移ったため1881年(明治14年)の地図には博物場と書かれている。



マイドームおおさかの前をさらに北上すれば、土佐堀川に架かる広い天神橋があり、今でも交通量はかなり多いようである。



天神橋から西に150メートル歩くと土佐堀川から南に分流する東横堀川の最上流部分である。

写真の左が東横堀川の取り付け部分



東横堀川は、1583年豊臣秀吉が大坂城の外掘りとするために開削した大阪最古の堀川で、425年前に秀吉がこの場所を見ていることはほぼ確実であろう。


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本町通と松屋町筋交差点を北上すると、大阪商工会議所ビルがあり、その南側の塀沿いに3体の銅像が並んでいる。



左から初代会頭五代友厚(1836~1885年)、第7代会頭土居通夫(1837~1917年)、第10代会頭稲畑勝太郎(1862~1949年)の像である。

初代会頭の五代友厚(在職期間1878~1885年)は、満49歳という若さで亡くなっているので銅像も少年のような表情をしている。



しかし国会図書館が公開している写真を見ると彼の表情にはもっと威厳があるので、五代が亡くなってから15年も後に制作されたせいであろうか。



土居通夫は、1869年(明治2年)、五代友厚の紹介で大阪府外国事務局御用掛となり、1872年(明治5年)、司法省に任官している。

以後、司法官として12年間、兵庫や大阪の裁判所を経て、大審院や大阪控訴裁判所を歴任、1884年(明治17年)官を辞して大阪府知事建野郷三の紹介で、鴻池の顧問に推挙されて実業界に入っている。

大阪梅田(スカイビルの上で黒雲が渦を巻いているのが珍しい)



翌年から勃興期にあたった近代産業の育成に積極的に取り組み、大阪株式や米穀取引所をはじめ、電力、紡績、電鉄および保険業等々の創立や経営に参画、特に第5回内国勧業博覧会の誘致の功績が大きい。

盟友であった五代友厚(明治18年逝去)亡きあと、1895年(明治28年)から、大阪商業会議所会頭となり、1917年(大正6年)に亡くなる直前まで会頭を続けていたため、1918年に建立された銅像も晩年の自信溢れる姿となっている。

淀屋橋(中央が大阪市役所)



稲畑勝太郎(在任期間1922~1934年)は、京都師範在学中の1877年(明治10年)フランスに留学、染色工学をまなんで帰国し、1891年京都に稲畑染料店(稲畑産業)を創業、のち大阪に進出して、軍服用カーキ色染めを創案している。

本町(中央丸紅本社と右大阪国際ビル)



稲畑産業(資本金92億円)は、今では電子部品と化学品のメーカーとして売上高4660億円、経常利益76億円という巨大企業に成長している。

銅像の銘板によれば、稲畑勝太郎が会頭を引退した1年後の1935年に銅像が建てられているので、生前(73歳)の姿をリアルに写しているのではなかろうか。

心斎橋(中央が日航ホテル)



これら3体の銅像は、戦時の金属類回収令によって供出させられて一時消失しているが、五代友厚像は1953年、土居通夫と稲畑勝太郎像は1956年に再建されている。


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江之子島大阪府庁舎は、西の居留地向きに建てられたために、府民から船場にケツを向けていると不評であったというが、実は江戸期の西町奉行所も西の東横堀川向きだったのである。

西町奉行所の跡地はマイドームおおさか



江之子島府庁舎の主となった渡辺は、府庁の職務を定め、学校などの教育機関を矢継ぎ早に設立し、さらに府議会を開設している。

商工業の発展にも辣腕を振るったといわれているが、明治初期の大阪は新政府への膨大な資金の上納、銀目の廃止、蔵屋敷の廃止、株仲間の解散、藩債の処分などで倒産が相次ぎ経済が落ち込んでいた。

江之子島の南に建つマンション



また江之子島府庁舎が完成した頃から川口居留地の外国人貿易商は大阪から次々と転出していったため、府庁舎を江之子島に置く理由が希薄になり、52年後の1926年には現在の中央区大手前に移転している。

しかし渡辺知事の政策で、大阪の西部の開発が一挙に進み、明治の前半には後に大大阪と呼ばれる大阪市街地の枠組みができあがっている。

大阪の西部



渡辺は1880年(明治13年)、大阪府知事から元老院議官に選ばれて中央に返り咲き、1884年(明治17年)初代会計検査院長、1887年(明治20年)には子爵に列せられている。

元老院議官となっていた渡辺は、1883年紀尾井坂・済寧館の開城式典において当時実力日本一と言われていた警視庁剣術師範、上田馬之助(1834~1891年)と試合をして見事勝利している。

北西部



警視庁剣術師範、上田馬之助は、竹刀で木板を貫通させることができたくらい凄い力を持っていたが斎藤弥九郎道場の塾頭をしていた渡辺のほうが上であったようである。

官を辞してからの渡辺子爵は、残りの人生を剣道の指導に捧げていたが、1913年(大正2年)に波乱に富んだ75歳の人生を閉じている。

現在の船場地区のビル群



渡辺知事とその後任の建野知事の時代、淀川の洪水のたびにコレラの大流行があったために、大阪府は淀川から大阪城本丸にある貯水池に水を上げ、そこから市内に上水の供給を1895年(明治28年)から開始している。

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川口居留地が設置されると同時に、大阪市内に散在していた遊所をこの松島に集め「松島遊郭」を造ったのは第4代大阪府知事渡辺昇(1838~1913年)であった。

木津川と江之子島(右)



渡辺昇は、肥前大村藩の勘定奉行や用人を務めていた上級武士の2男として生まれ、1857年、江戸に出て斎藤弥九郎道場で剣術を習っていたときに桂小五郎(木戸孝允1833~1877年)と出会っている。

1862年には桂の後をついで斎藤弥九郎道場の塾頭となっているのでかなりの腕前だったようで、同時期小石川に道場を開いていた近藤勇(1834~1868年)のもとにも足を運び、近藤とは親友であったという。

1881年地図



後に渡辺が倒幕活動に入り京都に潜伏したとき、土方歳三副長(1835~1869年)が再三近藤に渡辺の逮捕を進言しているが、近藤局長は一貫して親友に手を出すことを禁じたために幕末の動乱を無事に生き延びている。

江之子島から居留地に架かる木津川橋



1863年に一旦大村に帰郷、1866年には坂本竜馬(1836~1867年)と共に奔走し、ついに薩長連合実現の快挙を成し遂げているが、直後に竜馬は暗殺されるのである。

木津川橋の石碑



明治以降は司法畑を歩み、1870年(明治3年)に弾正台(検察庁)の大忠(検事長)、翌年には盛岡県権知事を経て大阪府参事に就任している。

1885年地図



当時の大阪府知事は、貴族の西四辻金業であったが、ほどなく知事在職のまま明治天皇の侍従として転勤したために渡辺昇が大阪府権知事(副知事)に昇進、1871年8月から1880年(明治13年)5月までの約9年間、33歳から42歳までの間、実質的な大阪府行政のトップであった。(渡辺が正式に大阪府知事に就任するのは明治10年)

1913年のパノラマ地図



従って、先日の選挙で当選した橋下新知事の38歳という年齢は、全国最年少ではあるが、大阪府知事としての最年少記録ではない。

1913年の地図



もともと大阪の中心である本町橋の東、西町奉行所跡地にあった府庁舎を、葦の生えていた西の辺境とも言える江之子島に移転することを決めたのは当時の渡辺権知事で、1874年(明治7年)に新府庁舎が完成している。



豊臣時代から開発が進み、これ以上発展の見込みの無い船場を捨て、世界の最新情報が集まる外国人居留地の隣に府庁舎を移すことで世界の新技術を取り込み、さらに開発の遅れていた大阪西部を市街地として開発しようという青年らしい意気込みを感じる。

木津川と木津川橋と江之子島(左)



工事費用は、府民の寄付と、先輩、木戸孝允の協力による官費でまかなっているが、この府庁舎は西の居留地向きに建てられたために、府民から船場にケツを向けていると不評であったという。


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明治初期、旧川口居留地の対岸にあった江之子島の南側は、木津川と尻無川に挟まれた松島があった場所である。

現在の松島橋



当時の尻無川は、木津川が今の松島公園の北から分流し、松島公園の西側を「みなと通り」に沿って南下し、大阪ドームの南側で現在の尻無川となるルートで流れていた。

木津川と尻無川に挟まれた1842年の地図にある松島



現在の尻無川は、大阪ドームまでの上流部分が埋め立てられたために、道頓堀川が木津川と合流する場所から木津川から分流し、西南に向かって流れるルートに変わってしまった。

木津川の左(西)が松島



川口居留地が設置されると同時に、大阪市内に散在していた遊所が集められ、松島には文明開化と同時に出来た遊郭があった。

1881年(明治14年)の地図



すぐに妓楼200余り、遊妓3千という大阪屈指の遊郭となり、その南には明治4年大阪天満宮の御旅所が移っている。

1884年(明治17年)の地図にある天満社旅所(左下)



したがって当時の天神祭りの船渡御は、120隻余りの大船団が堂島川、木津川、尻無川を下って松島の御旅所で一夜を明かし、翌日は逆に尻無川、木津川、堂島川を遡って還幸する長大なルートで行われていたという。

堂島川



当初の松島遊郭では、中央に植え込みがあり、両側の格子造りの店先に娼妓が並んで張見世していたというが、1913年(大正2年)の大阪パノラマ地図には中央の植え込みがちゃんと描かれている。



また松島の発展のため、難波神社の境内にあった文楽座がこの場所に移されているので当時の大阪の娯楽センターのような場所であったらしい。

文楽座は、明治16年になって御霊神社の境内に移り、松島の文楽座跡は巨大な劇場「八千代座」として改築され、連日歌舞伎が上演をされていたが明治34年に焼失している。

松島遊郭の跡地にできた松島公園



松島遊郭は、戦時の爆撃で焼失し、跡地が松島公園となったために、茨住吉神社の西側に1948年3月新たな松島新地ができ、1958年の売春防止法制定まで紅灯で賑わっていた。



松島新地には、昔の風情を偲ばす屋並みが今も続いている。


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私の会社では、3月末現在で満60歳となっている社員が全員一斉に定年退職する制度があるので、3月生まれの人は60歳と殆ど同時、4月生まれの人なら61歳に近い時期に定年を迎えることとなる。

会場となるビルの入り口



その定年退職の時期が近づき、私の所属する部門だけの定年社員歓送迎会が先日開催されたので、暮れなずむ御堂筋を本町から梅田まで歩いて参加してきた。

会場の前面道路



私の所属する部門では、団塊の世代が全て定年となる2年後に残っている現役社員は、たった18%、82%のスタッフが60歳以上という危機的な状態となることが判っている。

夜の土佐堀川



そこで、会社は定年に達した社員全員を定年前まで働いていた職場で、以前と全く同じ仕事をする嘱託として再雇用する方針を近年打ち出したのである。

中之島の日銀大阪支店



採用する期限は、厚生年金の支給が始まる年の3月末までなので、今年と来年の定年者は4年間、再来年以降は5年間の雇用契約となる。

夜の堂島川



さらに本人が希望すれば契約延長も可能ということで、現在勤続47年を越えるスタッフも数人働いているので、高齢者には優しい職場である。

エレベーターロビー



年収は、社員時代の半分以下となってしまうが、馴れた仕事が続けられるということで、今年私の部門で定年を迎える10名のうち、9名は残ることになった。

会場の隣はブライダルサロン



その10名の皆さんの社員としての送別会と、嘱託としての歓迎会を同時に実施するということで、定年歓送迎会としたのである。

高卒で42年間、大学院卒入社の人は36年間の社員人生だった訳であるが、10名の皆さんは思い出話、苦労話など語りたいことが山ほどあったと思う。

定年歓送迎会の会場



しかし定年歓送会という晴れ舞台に立って、短い時間の中で会社人生を総決算するスピーチはなかなか難しいものである。

会場の近く、北新地の明かり



仕事、趣味、家庭すべて充実していたとの自慢話は嫌われるし、先輩、同僚、後輩、家族にただ感謝の低姿勢もわざとらしいし、苦労話も白けるし、さて何をどう話そうか悩むところである。

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1691年(元禄4年)の地図には無いが、1698年(元禄11年)に後に川口居留地となる所から安治川を渡る全長72mの安治川橋が架けられている。

安治川橋のあった辺りの安治川



その橋は、1791年、1854年、1866年の洪水で流失しているが、そのたびに新しく架け替えられているので、江戸期の大坂では重要な橋であったのであろう。

1873年(明治6年)、江戸期の安治川橋の2~3百m上流に全長82m幅4,9mの新しい安治川橋が架けられているが、この橋は中央部分が旋回する可動橋で、方位を示す磁石の指針に似ていたことから磁石橋とも呼ばれている。

1881年(明治14年)の大阪地図には、「安治川橋又はジシャクバシとも」としてちゃんと描かれている。



磁石橋は、1885年(明治18年)の洪水時に流失した大江橋、渡辺橋の橋材が堆積し、上流の水位が上昇したために陸軍工兵隊によって爆破されている。

1905年の地図



その後、またすぐに復旧したようで、1905年(明治38年)の地図にはちゃんと載っていたが、再度の洪水で流されたのか1909年(明治42年)以降の地図には記載されていない。

1938年(昭和13年)頃には、安治川橋の下流に無料の渡船場が11箇所もあり、朝の5時から夜中の12時まで運行していたという。

1909年の地図



当時最も利用客が多かったのは、源兵衛渡しで、1日9千人、自転車1500台も利用していたという記録がある。

今も地名として残る源兵衛渡



この混雑を見た大阪市はトンネルを掘ることを計画し、全長80,6m、幅12,4m、両側に人用、自動車用に別れたエレベーターを持つ川底トンネルが1944年(昭和19年)9月に完成している。

今も残るエレベーター乗り場(左は人、右が使用していない自動車用)



戦後も暫くこのトンネルが使われていたが、1977年(昭和52年)頃から自動車用トンネルの利用は中止され、今では人と自転車のみが使っている。

一度このトンネルを通ったことがあるが、現在の利用者はかなり少なくないっているようであった。



安治川右岸からこのトンネルを使って左岸に出て、広い道路を渡ると商店街のアーケードが500mも中央大通りの地下鉄九条駅まで続いている。



この安治川トンネルの上部には、西九条から近鉄難波までの阪神なんば線の鉄道橋が架かり、2009年の春には開通するという。



この橋は2007年3月、アーチに組まれた状態で台船で運ばれ、満潮時に橋げたに乗せる珍しい工法で架橋され話題になったことがある。


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2004年10月に広州から一時帰国して人間ドック診察を受け、その直後の12月にも帰国時人間ドックに入っていたので3年間も人間ドックを利用していなかった。

採血コーナーの中には検査分析機



その理由は、半年に2回も受けたことや会社が紹介してくれたクリニックが遠かったり、混雑して待ち時間が長かったりで、良い印象が無かったからである。

しかし、さすがに不安となってきたので、健康保険組合の提携した人間ドックリストの中から自宅に近く、PET検診もできる最新設備を誇るクリニックを探して検診を受けることにした。



PETとは陽電子を利用した、CTの一種で、ガンの早期発見に威力を発揮する装置であるが、その効果にはまだ賛否両論があるようである。

今回の利用料は、通常コースにオプションコースを一つ加えた2万5千円としたが、PET検診(10万円以上)高価であったので今回はパスすることとした。

更衣室



9時半の受付であったが、9時頃に着いたのでカウンターに書類を出すと更衣室で検査着に着替えてくださいという。

更衣室は、フローリングが床暖房となっていて、いままでの人間ドックのロッカーよりもロッカーの幅が広くて使いやすい。



待合室の床は白い大理石貼り、周囲にフロア照明が光っている柱もガラス貼り、診察室の間仕切りもガラス貼り、天井は格子状で内部の配管等を白くペイントしている。



マガジンラックまでもが透明ガラスでできていて、木材を全く使っていない無機質の材料でできた空間は、どうしても清潔に見えてしまう。



さて、診察はすぐに始まって、あまり待つことも無くエコー、消化器、肺のレントゲンなど次々と進み、最後にドクターの講評を聞いて11時過ぎには終ったので2時間少しというスピード検診であった。

最後にトイレに入ると、床がガラスタイル、洗面カウンターと洗面器がガラス、便所の間仕切りもガラスで、ここも木を一切使っていない場所であった。



結果は、脂肪肝と糖尿病の疑いがありと厳しいものであったが、健康を維持するため年に1回この時期に人間ドックを利用しようと思う。


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大阪城梅林の梅の花を見た後で、大阪市立中央図書館に展示してあった1686年に出された老中文書の宛て先を調べてみた。

梅林の白梅



初代大坂城代は、1619年に内藤信正が就任し1627年に大坂定番(玉造口門・京橋口門定番)の制が創始され、それから数年後には大坂加番(山里加番、青屋口加番、中小屋加番、雁木坂加番)の制度もスタートしている。



大阪市立中央図書館の文書は、徳川綱吉が将軍となって3年後の貞享3年(1686年)、当時の老中4名、松平日向守信之、戸田山城守忠昌、安部豊後守正武、大久保加賀守忠朝から大坂城の警備陣に出されたものである。



内容は、目付2名を派遣するので良く相談するようにというもので、恐らく派遣された2名の目付が大坂城に持参した辞令のような公文書であろう。

目付とは今の業務監査役のような存在で、大阪城の警備陣が、幕府のコンプライアンス上問題が無いかどうかを監査にきたのであろう。

大阪城梅林の内部(3分咲きくらいか)



この文書の宛先は、大坂城代内藤大和守重頼、玉造口定番保科弾正忠正景、京橋口定番松平縫殿頭乗次、大番頭田中大隅守定格、大番頭森川下野守重高、大坂西町奉行藤堂伊予守の6名である。



城代の内藤大和守重頼(1628~1690年)は、徳川秀忠付の武将として大坂の陣の後2万1千石の大名となった初代内藤清成の孫で、大坂城代に就任したたためか、重頼の養子の内藤清枚は高遠(信州)藩3万3千石の始祖となっている。(当時58歳)

玉造口定番の保科弾正忠正景(1616~1700年)は、保科正光の弟、上総飯野家(幕末には2万石)の初代正貞の長男なので、正光の養子となっていた会津藩(28万石)の初代保科正之とは従兄弟という関係であった。(当時70歳)

玉造口の坂(左)



京橋口定番の松平縫殿頭乗次(1632~1687年)は、4千石の旗本であったが、後に頭角を現して6千石、さらに大坂定番就任で1万石が加増されて三河大給(後に奥殿)藩1万6千石の大名となっている。(当時54歳)

早咲きの蝋梅



大番頭の田中定格は、豊臣時代に10万石、その後徳川に味方して筑後柳川32万石の大名となった田中吉政の3男吉興の孫で、田中本家は吉政の嫡子に男子が生まれなかったために改易されている。

玉造口の外側の外堀(砲兵工廠時代に埋められ、戦後再築造されたので新しい)



もう一人の大番頭、森川重高は、徳川秀忠時代に老中を務めた下総生実藩(1万石)初代森川重俊の孫、重信の弟である。



興味深いのは、大坂加番の名前が見当たらないことで、1年の任期しかなかった加番は監査の対象から除外されていたのかもしれない。


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少し早いと思ったが、2月も半ばを過ぎたので今年も大阪城の梅林を訪ねてみた。



今回は、地下鉄の大阪ビジネスパーク駅から寝屋川に架かる新鴫野橋を渡って三の丸、さらに外堀を迂回して青屋門から二の丸に入るルートで梅林へ。

新鴫野橋から見た大阪ビジネスパーク



青屋門を潜ると南側がすぐ梅林となっているが、ここは江戸期を通じて大名が勤める大坂城4加番のうちの3加番(北から順に青屋口加番小屋、中小屋加番小屋、雁木坂加番小屋)の駐在所があった場所である。



梅林の中を南に向かって歩くと、早咲きの黄色い花をつける蝋梅は満開であったが、その他の梅の花はまだ蕾が固いようである。



それでも紅白の梅の早咲きの株には満開に近いものもいくつかあったので、結構楽しむことができた。



大阪城定番には2名の大名が任命され、さて、もう一人の加番は、極楽橋を渡った本丸の北側、山里丸を警備する山里加番で、4加番の筆頭格であったという。

蝋梅



梅林から内掘り側に出ると、雁木坂という美しい名前のついたスロープがあるが、そこを上った左側(東)が、玉造定番上屋敷の跡である。



大阪城の定番には2名の大名が任命され、玉造定番は玉造門と玉造口を、もう一人は京橋口定番として京橋門と京橋口を警備していた。

紅梅



大阪城の正門である追手門は、大阪城守備隊のトップである大坂城代の持ち場であった。

さらに、二の丸から本丸に入る桜門の警備は、大身の旗本が就任する大坂城大番の担当と警備地区がすべて明確化されていたようである。

雁木坂から見た梅園(満開まではまだ遠い)



江戸在府の大名、旗本にとってこれらの番役に就任するのは名誉であると共に、役料という特別手当も支給されるため、猟官競争もあったようである。

1648年頃、大坂定番を勤めていた保科・安部・米津・板倉・松平家に定番領として摂津・河内においてそれぞれ1万石の加増がなされているので、報酬もついた名誉なポストであった。

玉造門(正面)と定番上屋敷の跡(左)



特に西国大名に目を光らす大坂城代は、次に京都所司代を経て老中に就任するための重要なポストとなっていた。


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淀川の河口に形成された三角州の砂州は、古代から難波八十島と呼ばれていたが、安治川と尻無川に挟まれた九条島もその一つである。

安治川



それらの島々は次第に陸化し、やがて江戸時代になると河口周辺部の新田開発が急速に進み、九条島も1624年(寛永元年)ごろから干拓工事が始められるようになっている。

茨住吉神社は、寛永年間に社殿が造営されて、神社としての規模が整い、新田・河川の守護神として住吉大社の神が祀られたというので、380年の歴史を持つ神社である。



しかし、67年後の元禄4年の地図を見ると、九条村からかなり離れた場所に、鳥居と小さな祠があるだけの粗末な「いばら住吉」として描かれている。



茨の文字が住吉の前にあるのは、当時この地に日本固有のノイバラが多かったので、茨住吉とされたという説があるが、上流に茨木市があるようにノイバラは淀川に縁のある植物なのである。

境内



当時の九条島の小高い所には樹齢数百年の楠木があり、その傍に祀られていた小祠を改築しただけの神社ではなかったかと思われる。

この楠木は、戦時中まで生き生きと枝葉を伸ばしていたが、空襲で焼けて枯れてしまい、今は枯れ木のままの姿で境内の東側に置かれている。

市杵島姫神社の説明板の後ろが枯れた楠木



社殿造営から218年後の1842年(天保13年)の地図には、茨住吉神社の東側に九条村宮東という集落ができているのがわかる。



さらに1881年(明治14年)の地図には川口居留地から1キロほど南に小さな茨住吉社が描かれている。



1903年(明治36年)になると、神社の周囲の田畑は人家となり、大正・昭和初期にかけて西大阪の中心街・歓楽街として繁栄し、神社境内も昼夜参拝者の絶えることなく、当時の氏子は、四万戸を越えていたという。



しかし1945年の空襲で周囲の街と共に焼失してしまい、1965年になってから社殿が再建されているので見た目にはまだ新しい神社である。




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