川口居留地が設置されると同時に、大阪市内に散在していた遊所をこの松島に集め「松島遊郭」を造ったのは第4代大阪府知事渡辺昇(1838~1913年)であった。
木津川と江之子島(右)
渡辺昇は、肥前大村藩の勘定奉行や用人を務めていた上級武士の2男として生まれ、1857年、江戸に出て斎藤弥九郎道場で剣術を習っていたときに桂小五郎(木戸孝允1833~1877年)と出会っている。
1862年には桂の後をついで斎藤弥九郎道場の塾頭となっているのでかなりの腕前だったようで、同時期小石川に道場を開いていた近藤勇(1834~1868年)のもとにも足を運び、近藤とは親友であったという。
1881年地図
後に渡辺が倒幕活動に入り京都に潜伏したとき、土方歳三副長(1835~1869年)が再三近藤に渡辺の逮捕を進言しているが、近藤局長は一貫して親友に手を出すことを禁じたために幕末の動乱を無事に生き延びている。
江之子島から居留地に架かる木津川橋
1863年に一旦大村に帰郷、1866年には坂本竜馬(1836~1867年)と共に奔走し、ついに薩長連合実現の快挙を成し遂げているが、直後に竜馬は暗殺されるのである。
木津川橋の石碑
明治以降は司法畑を歩み、1870年(明治3年)に弾正台(検察庁)の大忠(検事長)、翌年には盛岡県権知事を経て大阪府参事に就任している。
1885年地図
当時の大阪府知事は、貴族の西四辻金業であったが、ほどなく知事在職のまま明治天皇の侍従として転勤したために渡辺昇が大阪府権知事(副知事)に昇進、1871年8月から1880年(明治13年)5月までの約9年間、33歳から42歳までの間、実質的な大阪府行政のトップであった。(渡辺が正式に大阪府知事に就任するのは明治10年)
1913年のパノラマ地図
従って、先日の選挙で当選した橋下新知事の38歳という年齢は、全国最年少ではあるが、大阪府知事としての最年少記録ではない。
1913年の地図
もともと大阪の中心である本町橋の東、西町奉行所跡地にあった府庁舎を、葦の生えていた西の辺境とも言える江之子島に移転することを決めたのは当時の渡辺権知事で、1874年(明治7年)に新府庁舎が完成している。
豊臣時代から開発が進み、これ以上発展の見込みの無い船場を捨て、世界の最新情報が集まる外国人居留地の隣に府庁舎を移すことで世界の新技術を取り込み、さらに開発の遅れていた大阪西部を市街地として開発しようという青年らしい意気込みを感じる。
木津川と木津川橋と江之子島(左)
工事費用は、府民の寄付と、先輩、木戸孝允の協力による官費でまかなっているが、この府庁舎は西の居留地向きに建てられたために、府民から船場にケツを向けていると不評であったという。
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