南禅寺の開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門、京都五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇り、日本で最初の皇室の発願になる禅寺である。
この地には、もともと永観堂(正式には禅林寺)の境内であったが、禅林寺は次第に衰退し、1264年頃には後嵯峨天皇が造営した離宮(禅林寺殿)となっていた。
1289年に亀山上皇がそこで落飾して法皇となり、1291年には離宮を寺にあらため、無関普門を開山として東福寺から招き、龍安山 禅林禅寺と名づけている。
南禅寺伽藍の建設は、二世住職の規庵祖円(1261~ 1313年)が指揮し、1299年頃には寺号を「太平興国南禅禅寺」と改めているので、南禅寺の歴史は700年以上前に遡る。
1334年、後醍醐天皇は南禅寺を京都五山の第一としたが、1385年に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけている。
1393年と1447年に焼失し、さらに1496年の応仁の乱でも伽藍を焼失して再建は難航したが、1605年徳川家康の側近である以心(金地院)崇伝(1569~1633年)が入寺してから再建が軌道に乗ったようである。
家康のお気に入りの崇伝が頑張ったせいか、江戸時代には、境内塔頭32院、諸山6院、末寺97寺、孫末寺588寺、曾孫末寺82寺という大勢力を誇る寺院となっている。
南禅寺には1628年に藤堂高虎が大坂夏の陣の後に建立した高さ22mの巨大な三門(重文)があり、この門は知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。
世渡りの名人藤堂高虎が、崇伝の関心を引くためにプレゼントしたと思われる山門を入った広い境内には、モミジが多く美しいが、その正面が釈迦三尊像をまつっている法堂(1909年再建)である。
法堂の右手をさらに進むと正面に大小の方丈(国宝)があり、その手前のモミジの紅葉が綺麗である。
方丈に至る通路の右には、1887年に完成した琵琶湖疎水が通る煉瓦造りのアーチ橋、「水路閣」があり、ここを流れる水は哲学の道の傍を流れる川に通じているらしい。
明治時代、南禅寺の中に煉瓦造りの水道橋を建設する計画が発表されると、寺の景観が台無しとなると反対意見もあったようであるが、今では南禅寺を代表する名所となっているのが面白い。
| Trackback ( 0 )
|