野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



南禅寺の開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門、京都五山の上におかれる別格扱いの寺院で、日本の禅寺のなかで最も高い格式を誇り、日本で最初の皇室の発願になる禅寺である。



この地には、もともと永観堂(正式には禅林寺)の境内であったが、禅林寺は次第に衰退し、1264年頃には後嵯峨天皇が造営した離宮(禅林寺殿)となっていた。



1289年に亀山上皇がそこで落飾して法皇となり、1291年には離宮を寺にあらため、無関普門を開山として東福寺から招き、龍安山 禅林禅寺と名づけている。



南禅寺伽藍の建設は、二世住職の規庵祖円(1261~ 1313年)が指揮し、1299年頃には寺号を「太平興国南禅禅寺」と改めているので、南禅寺の歴史は700年以上前に遡る。



1334年、後醍醐天皇は南禅寺を京都五山の第一としたが、1385年に足利義満は自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として五山のさらに上に位置づけている。



1393年と1447年に焼失し、さらに1496年の応仁の乱でも伽藍を焼失して再建は難航したが、1605年徳川家康の側近である以心(金地院)崇伝(1569~1633年)が入寺してから再建が軌道に乗ったようである。



家康のお気に入りの崇伝が頑張ったせいか、江戸時代には、境内塔頭32院、諸山6院、末寺97寺、孫末寺588寺、曾孫末寺82寺という大勢力を誇る寺院となっている。



南禅寺には1628年に藤堂高虎が大坂夏の陣の後に建立した高さ22mの巨大な三門(重文)があり、この門は知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。



世渡りの名人藤堂高虎が、崇伝の関心を引くためにプレゼントしたと思われる山門を入った広い境内には、モミジが多く美しいが、その正面が釈迦三尊像をまつっている法堂(1909年再建)である。



法堂の右手をさらに進むと正面に大小の方丈(国宝)があり、その手前のモミジの紅葉が綺麗である。



方丈に至る通路の右には、1887年に完成した琵琶湖疎水が通る煉瓦造りのアーチ橋、「水路閣」があり、ここを流れる水は哲学の道の傍を流れる川に通じているらしい。



明治時代、南禅寺の中に煉瓦造りの水道橋を建設する計画が発表されると、寺の景観が台無しとなると反対意見もあったようであるが、今では南禅寺を代表する名所となっているのが面白い。


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天王寺区にある浄土宗の一心寺の正式名称は、坂松山高岳院一心寺といい、天王寺公園に隣接した上町台地西の崖線上に建ち、広い境内を有している。

モダンなデザインの山門



1185年、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然(1133~1212年)が四天王寺西門の西にある坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、住んだという。

本堂



その後、後白河法皇(1127~1192年)が四天王寺参詣の際に訪れ、法然と共に草庵の下の海に沈む夕日を眺め、極楽浄土を思い浮かべながら念仏を唱えた(日想観を修すという)場所である。

境内から山門を見る



しかし、その後400年間に渡って頽廃しているが、1596年、三河の僧侶「本誉存牟上人」が寺を再興してから一心寺と呼ばれるようになっている。

納骨堂



同じ三河出身というせいか、1614年の大坂冬の陣、1615年の大坂夏の陣では、徳川家康の本陣が茶臼山に隣接したこの寺に置かれ周辺は戦場となっている。

納骨堂の南側



一心寺の南側には、道路を隔てて家康本陣として有名な茶臼山があるが、家康自身は住居としての設備が完備した一心寺に宿泊、滞在していたのであろう。

本堂の南側



一心寺の北、逢坂を挟んだ向かい側が真田幸村が戦死した安居神社なので、幸村が家康の本陣に肉薄していたことがよくわかる。

念仏堂



一心寺の境内には、大坂夏の陣で毛利勝永軍と戦って打ち死した上総国大多喜藩主、本多忠朝(1582~1615年)の巨大な五輪の塔がある。



徳川四天王(酒井忠次 本多忠勝 榊原康政 井伊直政)の一人、本多忠勝の次男、忠朝は、冬の陣で酒を飲んでいたため敗退して家康に叱責され、夏の陣では「戒むべきは酒なり」と言い残して善戦むなしく討ち死にしたため、今も「酒封じの神」とされている。

酒封じの願いが書れた「しゃもじ」



父の本多忠勝は、家康家臣団中第2位の10万石で1590年上総国大多喜に入り、関ヶ原の戦いの後、1601年、伊勢国桑名15万石に移されると、大多喜領5万石は次男の本多忠朝に与えられていたのである。

法然を祀る開山堂



一方、「忠勝」の長男「忠政」は、大阪夏の陣の2年後に15万石の姫路城主となるが、嫡男「忠刻」が早世したために次男「政朝」が姫路城主となり、「政朝」が1637年に亡くなると、姫路藩第3代藩主に「酒封じの神」「忠朝」の長男「政勝」が就いている。

一心寺の南門



1639年、「政勝」は大和国郡山藩に移り、本家「政朝」の息子「政長」を養子に迎えるが、実子「政利」への相続を希望したために1671年に亡くなると本多家にはお家騒動(相続問題)が起こっている。

一心寺の墓地から見た通天閣



一心寺で「酒封じの神」となった「本多忠朝」の長男「政勝」は、1637~1671年までの34年間、本多宗家の当主となり大和郡山藩15万石の藩主を勤めていたので父「忠朝」も喜んでいたことであろう。


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阪急西宮ガーデンズの5階にあるシネマ入口の先に、阪急ブレーブスの歴史を紹介する阪急西宮ギャラリーがある。



入口を入ると正面の壁に野球殿堂入りした球団関係者5名と選手8名合計13名の人のレリーフが展示され、業績が記録されていた。



その左側には、1975年日本シリーズ優勝のチャンピオンフラグが誇らしげに展示されている。



ブレーブスを代表する名選手、通算284勝した山田久志投手、1065盗塁の福本豊外野手、2055安打の加藤英司内野手が使ったグローブやバット、トロフィーなどを展示している。



またギャラリー中央には、1983年当時の西宮北口駅と、阪急西宮球場周辺の様子を再現したジオラマ模型が置かれていたが、阪急西宮ガーデンズとなるまでの街の変貌ぶりには今昔の感がある。



さらに奥の壁には、1907年の創立から現在に至るまでの阪急電鉄の歴史展示パネルと、阪急電車の映像がエンドレスで流れるモニターが置いてあった。

阪急西宮球場



大阪難波のなんばパークスの「南海ホークスギャラリー」よりも、こちらの方が充実した展示となっていたが、大阪難波球場が、なんばパークスに生まれ変わったのと良く似たパターンとなっていることに驚かされる。



なんばパークスの屋上庭園は、今では大阪名所となっているが、阪急西宮ガーデンズにも、広さ9000平方メートルの屋上庭園(スカイガーデン)がある。



なんばパークスの屋上庭園は階段状になっていて、山の斜面を歩く感覚を味わえるが、こちらは噴水のある広場の周囲に庭園を配置している。



その広場の東側にあるステージの北側が、かつて阪急西宮球場のホームベースがあった場所で、床にそのプレートが嵌め込まれていた。



ホームベースプレートの北側の屋上には、スウェーデン製の遊具やオランダ製のペダルカーコースなど、子供を遊ばせるコーナーがあり、家族が楽しめるようになっていた。



住宅地が近い西宮ならではであろうが、「なんばパークス」には無い施設である。


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地下鉄難波駅で下り、大阪シティエアターミナル(OCAT)の東から四ツ橋筋を道頓堀川の北、堀江まで散歩してみた。



OCATの東側、四ツ橋筋との間には31階建、高さ144mの巨大なマルイト難波ビルが工事中で、2009年6月の完成目指して外観は殆ど出来上がっている。



このビルの低層階は、6階まで店舗、7~20階が事務所、21階から31階までがホテル(ホテルモントレグラスミア大阪)になるという。



マルイトと言えば、サラリーローンを連想するが、現在はその事業を売却して不動産会社に転換しているようである。

同社のHPによれば、全国に17箇所のホテルを運営するホテルモントレグループと、全国11箇所のゴルフ場も保有している株式会社隨縁リゾートもマルイトの関連会社である。

従って、高層階に入居するホテルは、大阪駅前のホテルモントレ大阪とOBPにあるホテルモントレ ラ・スール大阪に次ぐ大阪3ヶ所目のホテルとなるようである。

四ツ橋筋



この場所は、JR難波駅、地下鉄3線(四つ橋線、御堂筋線、千日前線)、私鉄2線(近鉄戦、南海線)が乗り入れる、大阪屈指の交通至便な場所であるが、さらに2009年3月には阪神なんば線が開通するために、神戸三宮方面へのアクセスがぐっと良くなる。



また隣接するOCATからは、伊丹空港、関西空港へのバスや、各地への高速バスが発着しており、北側には阪神高速の出入口「湊町リバープレイス」(なんばHatch)があるので車でのアクセスも非常に良い。



湊町リバープレイスから道頓堀川に架かる深里橋まで来ると、「なにわ探検クルーズ」の湊町船着場が見えるが、もともとこの場所は、市電が完成するまで大阪市内交通の主力であった渡船の船着場があった場所である。



深里橋を渡ると、橋の西にレストラン・バーやエスニックダイニングが入っている商業施設「キャナルテラス堀江」東棟が完成していて、街の風景が一変していた。



さらに、「キャナルテラス堀江」の北側駐車場には、2012年完成という地上30階の複合ビルの建築計画が発表されているが、サブプライム問題で計画の進捗が危ぶまれる。



この場所は、旧加賀藩の蔵屋敷跡で、1902年(明治35年)に住友倉庫が取得していた歴史のある土地であるが、堀江地区はこれから様変わりしそうである。


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京都東山にある永観堂(正式名 聖衆来迎山 無量寿院 禅林寺)の紅葉はかなり有名であるが、905年に成立した古今和歌集に既に詠まれていたとは知らなかった。

春の永観堂



弘法大師空海の弟子真紹(797~873年)は、「禅林寺」の寺名を下賜され、河内長野市にある観心寺で3年間国家護持を祈っていたという。



しかし観心寺は、不便な山中にあったことから、853年になって京都東山にあった藤原関雄(805~853年)の山荘を購入して新たに堂宇を整備している。



永観堂(禅林寺)が東山に移転する前は、かつてブログで紹介したことがある観心寺にあったとは驚きである。



古今集には、山荘の主人であった藤原関雄の「奥山の 岩垣もみじ 散りぬべし 照る日の光 見る時なくて」という和歌が残されていて、1150年も前からこの辺りのもみじは有名であった。



和歌は、「山荘の紅葉は、色づくけれど光をあびることなく、散ってしまう…藤原氏の末端にいる自分も、栄光とは無縁に死んでゆくのだろうなあ」と人生の無常観を詠んでいたのである。



今から1150年以上前の人が見て、無常観を感じた紅葉を今も見ることができる永観堂のような場所は、世界広しといえども多くないと思う。



秋に変色しただけの只の葉っぱが、日本人の琴線に触れるのは、このような千年も前の人の遺伝子を我々がしっかり受け継いでいるからであろう。



真言宗禅林寺の本尊は、創建以来大日如来であったが、第七世法主の永観律師(1033~1111年)によって阿弥陀仏を本尊とする浄土念仏の道場に変わり、この頃から禅林寺を永観堂と通称するようになっている。



約3千本のカエデの紅葉が見られる永観堂の中では、放生池の周辺の紅葉が最も見応えがある。



京都五山の上という大寺院、南禅寺の境内は、もともと永観堂の一部であったが、永観堂の衰退によって1264年には後嵯峨天皇が造営した離宮(禅林寺殿)となっている。



その離宮が南禅寺となって次第に発展するたびに永観堂は衰退しているが、1467年の応仁の乱では南禅寺と共に焼失している。

再建された唐門



戦後(京都での戦争とは応仁の乱のこと)さらに江戸期に入り、永観堂の堂宇は順次整備されたが、最盛期であった千年前の伽藍には到底及ばないようである。

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西日本最大のこのショッピングセンターは、明日11月26日にグランドオープンするが、地元の西宮市民向けにプレオープンしているというので、阪急西宮ガーデンズまで出かけてみた。



西宮北口駅の改札を出て、阪急西宮ガーデンズの案内看板を持ったガードマンの指示に従い先を急ぐと、駅の改札口と同じ2階のレベルに歩行者デッキがあり、ムービングウォークまでついている。



阪急西宮ガーデンズのメインエントランスは、歩行者デッキが取り付く2階にあり、ホールの北側がガラス貼りとなっているので非常に明るい空間である。



ホールの右には、阪急百貨店の入り口があり、1階から4階までが阪急百貨店ゾーンとなっていたが、ホール奥のエスカレーターに乗ってショピングモールエリアに入ってみた。



ショピングモールには、全部で270店舗が入店しており、全部をゆっくりと見て回るには、1日ではとても無理と思う。



とりあえず目当てにしていたプレゼント用の洋服だけを購入し、ぐるりと一周できるショッピングモールを回ってみたが、モールの通路は広く、吹き抜け空間を多く取っているためか、明るく開放的なのがここの特長である。



また歩き疲れた客が休憩できるよう、共用部のいたるところにベンチや椅子が配置されているが、後で調べてみると、阪急西宮ガーデンズの店舗面積10万7000平方メートルは、全国でも3番目の広さという。



途中、モールの4階にあった85種類の寿司が注文できる回転寿司「大起水産」に入って、テーブル席でゆっくりっと寿司を楽しんだ。



寿司の後、3階の喫茶店「ハーブス」に寄ってケーキとコーヒーで口直ししたが、ここのケーキは大きくて、食後に1人1個のケーキを食べるのは至難の業である。



しかし、有難いことにコーヒーのお代わりができるので、コーヒーの追加を頼み、少し時間をかけてケーキーを残さないよう平らげたのである。



阪急西宮ガーデンズは、建物の規模が大きいだけに、年間の来場者2000万人、平均すれば毎日5万5千人の来客を見込んでいるというので凄い。


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真田山陸軍墓地の中で最古の墓石は、1870年(明治3年)に建てられた長州奇兵隊隊士下田織之助のもので、下田は明治維新後陸軍兵学寮(士官学校)の生徒となっていたが大阪で病死したことが墓石に刻まれている。

下田織之助



130年以上を経た和泉砂岩で作られた墓石の風化は著しいが、整然と並ぶ墓石群は他の墓地に例をみないくらいに荘厳である。



西南戦争(明治10年)までの墓石には、自殺や獄中での死亡の事実まで克明に記録され、本人の名誉や遺族の気持ちを忖度していないのは、当時の陸軍が事実をそのまま記録する姿勢であったのであろう。

一方、後の太平洋戦争時の日本軍では、兵士の名誉と遺族の気持ちを考慮して、自殺者や病死者を戦闘での死亡と虚偽に記録した例が多いが、戦争の真実を伝えるのはこの墓地の古い記録のほうである。

西南戦争から日清戦争までの墓石には、死因が刻まれていて、脚気による死者が圧倒的に多いことに気がつく。



1887年、脚気の原因が、食事にある(ビタミンB1不足)と考え、大阪鎮台の兵士に麦飯を給食し脚気患者を激減させたのが大阪鎮台の陸軍軍医 堀内利国(1844~1895年)で、堀内の墓石もここにある。



しかし、陸軍軍医の主流派であった軍医総監、石黒忠悳(1845~1941年)は、脚気は細菌が原因であるとして堀内の麦飯給食案を却下している。

石黒派であった森鴎外(1862~1922年、1893年陸軍軍医学校長)も兵士に麦飯を給食することを禁止したため、陸軍兵士の日清戦争(1894~1895年)での脚気死亡者は、4000人と戦死者(約300人)の10倍以上に上っている。

西南戦争以前の墓石群



頑固な森鴎外は、第2軍軍医部長として従軍した日露戦争(1904年~1905年)においても麦を戦地に送ることを禁止したため、日露戦争での脚気死亡者2万8千人、脚気患者25万人(戦死者4万7千人)という悲惨な結果を招いているが、鴎外は死ぬまで細菌が原因という自説を曲げなかったのである。

日清戦争の墓石群



一方、海軍では高木兼寛海軍軍務局長の指導で1892年頃から麦飯給食が実施され、日清日露戦争での脚気による海軍兵士の死者を殆ど出していないが、麦飯給食を禁止した森鴎外は、1907年に軍医としての最高ポストである軍医総監(中将)に就任している。

将校の墓石



過ちを何度も繰り返してきた人間は、過去の歴史を正しく学び、同じ過ちを繰り返さないよう、このような歴史遺産を大切に保存しなければならない。


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四天王寺の六時堂の前、亀の池に架かる橋の上の石舞台は、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台とともに「日本三舞台」の一つとされ、国の重要文化財である。



この舞台では毎年4月22日の聖霊会(聖徳太子の命日法要)の日に雅楽(重要無形文化財)が終日披露され、四天王寺の中で最も神聖な場所とされているが、ここに独特のおごそかな雰囲気を感じるのは私だけでは無いようである。

石舞台は四天王寺の中心



寺伝によれば、1623年に六時堂とともに木造から石造で再建されたとされるが、石舞台の碑文には、講元4名、講中70名の名前とともに1808年(文化5年)と記されているので、寺伝と185年の食い違いがある。



舞台講がある橋の勾欄には、1887年(明治20年)と記され、舞台講世話係5名と講中260名の名前があるが、舞台講とは四天王寺雅楽の維持のため江戸時代初期に組織された大阪の木材業者の講組織で、現在も存続しているという。



以前は、寄棟造りの舞台講詰所があり、雅楽の際には舞台講様として特別待遇の席が設けられるほどの勢力があったようである。

住吉大社の石舞台



1808年(文化5年)の講元4名のうち、志方平兵衛の店は、「志方重」という屋号で昭和35年頃まで続いた材木屋、枌屋重兵衛は、中央区にある「そげ重商店」のご先祖で、残り2名のその後はよく判らないらしい。

亀の池の亀



枌屋重兵衛の枌(そぎ)とは、そいだ板のことで、ソギがなまってそげ重商店となったようである。



そげ重商店のHPを見ると、大阪城築城の豊臣秀吉の時代、東横堀川から材木を荷揚げする場所が材木町と名づけられ、多くの材木屋が軒を連ねていたが、その材木町に今もあるのが「そげ重商店」と歴史を誇っている。

四天王寺の五重塔



1688年(元禄元年)創業者が、大阪の運河であった東横堀川の舟運を利用して諸国から木材を集め、この材木町で販売をしたのが始まりというので、大阪市内でも屈指の老舗であろう。

東横堀川



200年前(1808年)に再建された四天王寺石舞台の講元であった枌屋重兵衛の末裔は、現在も大阪に健在で、業種は変わったようであるが創業から320年という伝統ある会社の暖簾を守っているというので凄い。

参考文献:大阪春秋「長堀浜日記」伊勢戸左一郎より


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南海ホークスの本拠地大阪球場跡地に建つ、なんばパークスの9階は大部分がパークスガーデンとなっているが、9階エレベーターホールが南海ホークスメモリアルギャラリー(以下ギャラリー)となっている。

屋上右側の外壁が円形の建物がギャラリー



このギャラリーは、オープン当初7階にあって、展示品も豊富で工夫されていたようであるが、9階に引っ越しと共に非常に簡素なギャラリーに変身していた。



南海ホークスは、南海軍として戦前の1938年に結成され、1949年にパ・リーグに加盟、1950年には本拠地となる大阪球場が完成している。

1951年からリーグ3連覇、1955年もリーグ優勝をする強力チームであったが、日本シリーズではいずれも巨人に敗れている。

ギャラリー内部



しかし、1959年に立教大学から杉浦投手が入団、7度目のリーグ優勝後の日本シリーズで杉浦が4連投して4連勝、巨人を下して日本一に輝いているが、今考えればとんでもない投手起用である。

杉浦のユニホーム



その杉浦が監督時代に着たユニホームや、1959年のチャンピオンフラグが誇らしげに展示されていた。



それ以外の展示品は少なく、選手の顔写真が掲示されたパネルと、エンドレスで試合のビデオを流すテレビが置かれているだけで、あまり力がはいっていないように思った。



南海ホークスは、1964年にもセ・リーグの阪神との日本シリーズを制し、2度目の日本一に輝くなど一時は非常な強力チームであった。



1960年代後半から低迷がはじまり、1969年野村克也が選手兼任で監督に就任してから1973年に1度リーグ優勝しただけで、野村は1977年に途中解任されている。

門田のバット(左)



このときのごたごたは、今も尾を引いているようで、なんばパークスの南海ホークスメモリアルギャラリーに野村に関する展示は一切無いのである。



野村の解任の後を追うように江夏豊、柏原純一がチームを去り、チーム力が大きく低下、1986年に杉浦忠が監督に就任したが低迷に歯止めがかからず、バブル絶頂の1988年に球団はダイエーへ売却されている。

ギャラリーの外はガーデン



丁度その頃、得意の絶頂にある超ワンマン中内功オーナーと接することがあったが、密かに危惧した通り、中内氏の行動はダイエー倒産の原因となったのである。


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昼休み、久しぶりになんばパークスに出かけ、屋上にある階段状のパークスガーデンの様子を見てきた。

シースルーエレベーターからの展望



HPによれば、「パークスガーデンは樹木や花の自然と公園に面する店舗と広場とが一体となって、人々に豊かな体験や感動を提供する公園です」とある。



エレベーターで一気に8階の屋上まで上がると、ベンチ、遊具などが設置された広がりのある公園があり、平日の昼間なので訪れる人はまばらである。

9階までの屋外階段を上り、北を眺めると、エレベーター最上部に乗った巨大な半楕円球の白いオブジェが感動的である。



キャニオンの内部に突き出たガラス張りのトックリのような部分の屋上も覗くことができるが、買物客でここまで来るほど時間に余裕のある人は少ないのではなかろうか。



2003年10月と2007年4月に別けて完成したガーデン面積は、11500平米(緑地が5300平米、通路・広場が6200平米)というから結構広い。

比重0,8の人工軽量土壌(平均深さ55センチ)に植えられた植物は、約300種、約7万株というから凄いボリュ-ムである。



パークスガーデンは、人々が自然と触れ合い、憩え、癒される都会のオアシスとしたいというコンセプトがよく判る立派なガーデンに育っていた。

第一期で先に完成していた段丘状の園路を回遊しながら、下に下りて行くと、植えられた植物はしっかりと根づき、もう紅葉が始まっている。



途中、池の中に置かれたオブジェが水面に反射して綺麗である。



2階まで下り、高島屋への広い連絡通路を進むと、花を植えた荷車が何台かさりげなく置かれていたが、こういう工夫が買い物客の心を和め、財布の紐も緩めることになるのかもしれない。



荷車の先には、恒例のクリスマスツリーも飾られ、いよいよ年末も近い。


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桜田門外の変の首謀者高橋は、切腹を思い止め迷惑顔の茶店の主人に「近所に武士の家は無いか」と問うと、大黒堂の東に寺侍の小川欣司兵衛の住居があるという。

大黒堂



現在の大黒堂は、1849年に再建された記録があるので、高橋が走りこんだ当時にはまだ再建から11年しか経っていない新しい堂であった。

四天王寺西門内側の高橋父子原瘞処の碑



切腹のために一度短刀を腹に刺した高橋多一郎は、やっとの思いで小川欣司兵衛宅にたどり着くが、在宅していた小川も、突然やってきて切腹させろという高橋を、なんとか思い止まるよう説得している。

小川欣司兵衛宅の跡地?英霊堂



しかし、高橋父子の必死の頼みに負け、最後は二人を座敷に案内しているが、高橋が後始末料として62両(1両が3万円とすれば180万円くらいか)を差し出したことと、座敷を貸したことに関連はあったのであろうか。

四天王寺の地図



高橋は、小川の座敷で短刀を再び刺してようやく切腹を遂げ、息子の荘左衛門もその後から切腹、父は47歳、息子は19歳であった。

高橋父子の墓は、直後に小川によって元三大師堂(重要文化財)の南に建立され、高橋の霊に恨まれる覚えでもあったのか「怨霊消滅」と書かれていた。

怨霊消滅



高橋父子の墓石は石が粗悪であったのか、1987年に水戸市の有志によって建て直されていた。

建て直された墓の裏



墓の左には、中川宮(1824~1891年)の筆による「闔門殉難」(鎮魂という意味か)元治元年(1864年)建立の石碑、右には明治12年(1880年)建立の「高橋君原瘞地の碑」(最初の埋葬地)の石碑が建っている。

闔門殉難の碑(高橋墓石と同時代のものであるが、石の材質が良いのか、しっかりしている)



1862年5月、将軍後見職に就任した一橋慶喜(徳川斉昭の息子)は、井伊直弼が行なった大獄は専断であったとして井伊家の石高10万石の削減を申し渡している。

高橋君原瘞地の碑



また弾圧の取り調べをした幕吏は処罰、大獄で幽閉されていた者達は釈放され、桜田門外の変・坂下門外の変における遭難者を一斉に大赦したのである。

墓の全景



高橋多一郎の逮捕を躊躇していた元大坂東町奉行、一色直温が恐れていたことが現実となったのであるが、一色直温は、幕政の崩壊まで処罰もなく要職を歴任している。

参考文献「幕末・京大坂 歴史の旅」(松浦玲著)

大坂での高橋多一郎については、11月16~18日のブログに記事があります。


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今年で6回目の開催となるOSAKA光のルネサンスは、昨年来場者が115万人を超え、毎年少しずつ盛り上がっているようである。

会場



今年の開催期間は、12月1日からクリスマスの25日まで25日間、17:00~22:00、12日までは点灯のみであるが、13日から25日までが光のパフォーマンスをするメイン期間である。

会場



大阪市庁舎周辺の「光のフェスティバルゾーン」では、ノルウェーから贈られる巨大ツリーの「ザ・ワールドリンキングツリー2008」や、光のアーケード「中之島イルミネーションストリート」などが例年通り実施の予定という。

会場となる中之島図書館



昼休みに中之島まで散歩してみると、今日から大阪市庁舎の南で11月30日までOSAKA光のルネサンス2008の準備工事が始まっていた。



ついでに中央公会堂から「大阪市立東洋陶磁美術館」前の広場まで足を伸ばしてみると、この区域の工事は未だのようである。



折角なので、京阪中之島新線のなにわ橋駅の出口から中央公会堂の写真を撮って、御堂筋まで引き返す。



淀屋橋を渡ってふと西側を見ると、土佐堀通の両側には大阪市内では珍しいポプラが植えられていることに気が付いた。



住友生命淀屋橋ビル前のポプラの黄葉をクローズアップで撮ってみたが、自然の造形は綺麗である。



御堂筋に戻って淀屋橋から本町まで歩いてみると、こちらはイチョウの黄葉が盛りで、今が見頃である。



御堂筋のイチョウは季節によってそれぞれ色を変えて楽しませてくれるが、今の季節が最高ではなかろうか。



大阪では、わざわざ郊外まで足を運んで紅葉狩りしなくても、ビジネス街で黄葉狩りができるのである。



御堂筋のイチョウは、北西の季節風によってこれから落葉が進み、12月になると丸裸になってしまう。



竹内マリアの「人生の扉」の歌詞ではないが、色づく御堂筋のイチョウをこの先いったい何度見ることができるのであろうか。


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47歳と19歳の高橋父子は、生国魂神社前にあった島男也(1809~1861年)の屋敷から逃走しているが、島の「男也」という名は自分で付けたもので、本名は「石井八郎」とごく平凡な名前であった。

島男也旧居の石碑



島は、笠間藩(牧野家)を脱藩後に諸国を遍歴し、大納言中山忠能に仕えたこともあるが、結局この時に捕らえられて江戸伝馬町の牢に送られ52歳で牢死している。

高橋多一郎が北郡奉行のときに郡吏となった川崎孫四郎(1826~1860年)は、体を張って上司の逃走を助けたようで、最後はここで自刃している。

高橋多一郎の逃走経路、源聖寺坂



高橋多一郎は、島の屋敷から源聖寺坂の下まで370m、そこから松屋町筋を南に840m、さらに清水坂から坂を上って四天王寺の中まで490m、延べ1700mもの距離を逃げている。



さらに四天王寺の境内を逃げる途中、切れた草鞋を買おうと塔頭寺院秋野坊の北にあった茶店、春日屋まで来るともう外に捕吏が迫っていた。

松屋町筋



この辺りで、奉行所の捕吏が何となく躊躇している状況が伺えるが、大坂東町奉行であった一色直温の後の談話によれば、穏便に管轄外に出てもらうよう密かに担当与力に指示していたようである。

高橋多一郎が逃げ込んだ中之門



つまり、ここから5キロ南の大和川を越えれば、堺町奉行所の管轄に変わるので、大坂町奉行所の捕吏の追求は及ばないのである。

幕府の中でさらなる出世を目指していた大坂東町奉行、一色直温(翌年、幕府の勘定奉行に栄転)にしてみれば、井伊直弼が暗殺され幕府が混沌とするなか、幕政に影響力の大きい徳川斉昭の側近を逮捕し、斉昭から恨まれることは避けたかったのであろう。

高橋多一郎の墓は大黒堂の裏



しかし、斉昭はこの半年後に蟄居のまま60歳で亡くなり、井伊直弼による安政の大獄での罪人や、桜田門外の変の関係者が赦されるのは、2年後の1862年となる。

元三大師堂



逃げられないと勘違いした高橋多一郎は、奉行所の捕り方に捕まる前に切腹しようと草鞋を買いに入った茶店で腹に短刀を突き立てるが、吃驚した春日屋の主人から、「店での切腹は困る」と言われている。

元三大師堂前から高橋の墓が僅かに見える



町人を保護する元水戸藩北郡奉行、誇り高き水戸藩の元奥右筆頭取、脱藩したとはいえ水戸藩改革派のリーダーである高橋多一郎は、茶店の主人の一言で茶店での切腹を思い止まるのである。

つづく

参考文献「幕末・京大坂 歴史の旅」(松浦玲著)


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幕末の大事件、「桜田門外の変」の首謀者、高橋 多一郎(1814~1860年)は、息子の荘左衛門と共にかねて共闘を約束していた薩摩と合流するために井伊暗殺の直前に大坂に向かい、事件後に生国魂神社前に潜んでいたことを知る人は少ない。

生国魂神社の鳥居



井伊直弼暗殺の3日後に高橋は、部下であった元水戸藩士川崎孫四郎(1826~1860年)等を潜ませていた大坂に入るが、島津斉彬の急死で改革志向がダウンしていた薩摩藩は動かず、井伊直弼暗殺で幕府が大混乱する状況にならないのである。

元水戸藩士川崎孫四郎の石碑の由緒(右側、生国魂神社前)



井伊直弼を首班とする幕府の組織が、井伊直弼が暗殺されてもびくともしなかったのは高橋 多一郎の想定外で、むしろ幕府は、犯人検挙に組織を総動員しており、大坂奉行所の探索が非常に厳しくなっていた。

生国魂神社近くにある源聖寺坂の説明



水戸藩改革派としては、リーダーの高橋 多一郎を、安全な場所に避難させることが緊急の課題となり、高橋の大坂潜伏には、坐摩神社の神官佐久良東雄と元笠間藩士で剣術師範の島 男也(しま おなり)が協力している。

坐摩神社



暗殺から20日後の朝、生国魂神社の鳥居の前にあった剣術師範の島 男也の自宅に潜んでいた高橋 多一郎と息子の荘左衛門は、大坂東町奉行所の探索網にひっかかり、島の自宅が奉行所の捕り方に囲まれることになる。

生国魂神社前の島 男也石碑(右側)



この剣術師範島 男也の旧居跡、川崎孫四郎の自刃の所という石碑が今も生国魂神社の鳥居の前、生国魂公園の北西角に建っている。

148年前に高橋父子が逃げた生国魂公園と生国魂神社の前の道路



高橋父子は、島と元部下の川崎孫四郎が奉行所の捕り方と必死で防戦する中、生国魂神社の前を南に向かって逃げ、源聖寺坂を西に下るのである。

生国魂神社南の源聖寺坂



坂を下った松屋町筋の北に源聖寺があるので源聖寺坂と呼ばれる坂は、途中から北に緩くカーブしながら松屋町筋まで続いていて、石段と石畳が敷かれた大阪を代表する美しい坂である。

源聖寺坂



高橋父子は、さらに追ってくる捕吏を撒くために、松屋町筋を南に下り、途中にある清水坂を再び東に向かって谷町筋まで上るのである。

清水坂



この清水坂は、坂の南側に清水寺があるので命名されたようで、京都にある清水寺の音羽滝と良く似た玉出滝があるので有名である。

つづく

参考文献「幕末・京大坂 歴史の旅」(松浦玲著)


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日本の歴史の中で、1860年に起こった「桜田門外の変」は、幕府の現職大老(今の感覚では内閣総理大臣)井伊直弼が水戸藩浪士によって暗殺されるという大事件であった。

高橋多一郎潜伏地の前は生国魂神社



暗殺の首謀者、水戸藩士の高橋 多一郎(1814~1860年)は、1839年に家督を継ぎ、1841年には徳川斉昭に才能を認められて斉昭の側近である奥右筆(秘書)に任命されているので、藩主からの信頼は厚かったようである。

高橋多一郎が潜伏していた生国魂神社前の公園



1844年、幕府から斉昭が隠退・謹慎処分を受けると高橋も蟄居させられているが、1849年に斉昭が許されると高橋も復職し、1855年には北郡奉行から奥右筆頭取(秘書部長)に進み、水戸藩の改革派の中心人物となっている。

高橋多一郎が生国魂神社前から逃げ下った坂



1858年、井伊直弼と対立した斉昭が蟄居を命じられると、水戸藩の改革派は朝廷工作を行い、朝廷から「戊午の密勅」を受けているが、その写しを江戸から水戸に届けたのは高橋多一郎である。

坂の下部



1859年、斉昭が幕府から永蟄居処分を受けるが、井伊直弼に対する高橋の恨みは大きなものになり、高橋は、金子孫二郎や薩摩藩士有村雄助と共に関鉄之介(1824~1862年)らを組織して井伊大老の暗殺計画を立案している。

逃げる高橋多一郎が再び上がった坂



暗殺実行グループ18名を率いた関鉄之介は、高橋 多一郎が水戸藩北郡奉行であった際の部下で、北郡奉行与力であったが、高橋によって北郡務方に抜擢され、大子郷校の建設と農兵の組織を行いながら水戸藩改革派の拡大を進めた逸材であった。

高橋の計画は、井伊大老暗殺後の混乱に乗じ、大坂の薩摩藩兵が京都に入り、京都所司代を制圧して、朝廷の権威を回復するという壮大なもので、この計画が成功していれば大政奉還は7年間も早くなっていた可能性がある。

高橋多一郎が逃げ込んだ四天王寺



関は、井伊直弼暗殺の後、薩摩藩などを頼って近畿・四国方面の各地を逃げ回り、水戸藩領へ向い、水戸藩領内を転々と潜伏した後、越後へと逃れたが湯沢温泉で遂に捕らえられ、江戸小伝馬町の牢において斬首されている。

高橋多一郎が切腹した場所?に建つ英霊堂(高橋とは関係ない)



桜田門外の変の首謀者、高橋 多一郎は、大坂の薩摩藩と協力するために、事件当日には大垣に泊まり、事件の3日後には大坂に到着している。

高橋多一郎の墓は四天王寺元三大師堂の南側にある



高橋 多一郎は、事件の20日後に大阪で切腹、その墓が大阪の四天王寺の中にあることを知る人は少ないが、その詳細については「次回に続く」としておこう。


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