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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



兵庫県豊岡市は、赤穂浪士のリーダー、大石内蔵助の妻「理玖」(1669~1736年)が生まれ育った場所として記憶にインプットされていて、一度訪ねてみたい町であった。

豊岡駅前



明治維新まで続いた豊岡の京極家は、小大名であったために城は無かったが、隣の出石町には赤穂浪士切腹から3年後の1706年から明治維新まで出石藩主であった仙石氏の出石城跡が残っているので足を伸ばしてみた。

出石城直下の大手前通



出石町は、2005年に豊岡市と合併し、現在は豊岡市出石町となっているが、5万8千石もあった出石藩仙石家(1853年に3万石に減封)のほうが豊岡の京極家(3万5千石から1726年減封されて1万5千石))を上回る石高を誇っていたのである。

大手前通と大手辰鼓櫓(右)



豊岡駅から13キロ南東にある出石までは、コウノトリの里と呼ばれる田園地帯を車で20分くらい走るが、豊岡郊外の田園地帯は、かつて大石内蔵助の妻「理玖」も見た景色に違いない。



実は、本懐を果たした赤穂浪士のうち吉田忠左衛門(200石)と富森助右衛門が、当時大目付であった旗本、仙石伯耆守久尚(1652~1735年)の屋敷へ向かい、討ち入りの口上書を提出している。

大手前通



江戸幕府の大目付は、大名を監視して幕府を守る監察官の立場であったために大石が口上書の提出先として指示したようである。

大手前通



赤穂浪士の行動に感動した仙石久尚は、赤穂浪士を赦免するようにとの意見書を老中に提出しているが、将軍綱吉の判断で全員切腹となっている。

大手前通



仙石久尚家の本家は、信州上田城主の仙石氏であり、名物の「出石そば」は、1706年信州上田から移ってきた仙石家がこの転封の際に伝えてきたものといわれている。

今でも出石には「そばや」が50軒もある



折角なので、名物のそばを頂いてみたが、12枚の小皿に載ったシンプルな味のそばが850円と格安で、12枚でほどよく満腹できるのが良い。



出石藩は3代で本家の血統が絶え、旗本仙石久尚家の養子久近の子、久行(1753~1785年)が出石藩に入り、1779年に第4代出石藩主となっている。



従って以降の出石藩主は、赤穂浪士を赦免するようにとの意見書を出した仙石久尚家から出た系統が明治維新まで続いたのである。


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人口約8万7千人、兵庫県北部にある豊岡市までは、大阪から特急「北近畿」に乗って2時間半、新幹線「のぞみ」を使えば新大阪と東京に匹敵する移動時間がかかるのでかなり遠い町である。



駅前には、豊岡で放鳥されたコウノトリにちなむものがあちらこちらに見られるが、郊外を車で走ってみてもコウノトリと対面するのは難しいようである。

駅前のスーパー



しかし、豊岡をコウノトリの里にする運動は着々と成果を上げているようで、コウノトリ以外のアオサギやシラサギは至る所で見ることができた。



豊岡藩京極家は、京極高次の実弟で宮津藩主(12万石)となった高知の3男、高三の家系で田辺藩(舞鶴藩)を領していたが、理玖の生まれる前年の1668年、3万5千石(1726年に減封されて1万5千石)で豊岡藩に転封されている。



大石内蔵助の妻「理玖」(1669~1736年)は、京極家の筆頭家老石束源五兵衛毎公の長女として豊岡で生まれているが、石束家1200石は、京極家の筆頭家老を勤める名家であった。

理玖は、1687年に赤穂藩浅野家の筆頭家老、大石家1500石の嫡男内蔵助(1659~1703年)と結婚し、赤穂城内にあった大石邸へ移住している。

駅前



理玖と内蔵助は、1688年に長男(大石主税)、1690年長女、1691年次男、1699年次女をもうけ、仲良く平穏な暮らしをしていたようであるが、1701年に主君の刃傷事件で赤穂藩は取り潰しとなっている。

理玖は、豊岡の実家へ一旦帰るが、内蔵助が山科に住居を定めたので、1701年の夏、理玖も山科に移り、1702年の春に内蔵助、主税と離縁して山科から154キロ離れた豊岡に戻っている。



理玖は、離縁のあと1703年、内蔵助の三男にあたる大三郎を出産しているので、夫婦の仲は離縁の直前まで睦まじかったようである。

長女と次男は若くして亡くなったが、次女と三男大三郎が豊岡の石束家で無事成長し、大三郎は、1713年に浅野本家の広島に招かれて、父と同じ1500石で仕官している。



次女も浅野一族の浅野直道と結婚、広島に移った理玖は、落飾して香林院と称し広島藩から隠居料として100石を支給されていたので、浅野本家は分家の元家老、内蔵助の遺族を手厚く保護したようである。


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14階建、600室もあるホテルユニバーサルポートの客室は、スタンダードルームで28平米、デラックスが40平米、各階の両端にあるデラックスコーナーが46平米という広さである。



デラックスコーナーの客室は、エキストラベッドを2台追加して4人まで宿泊できるので、2人で宿泊する場合には結構広いスペースがある。



案内された部屋は南向きであったので、部屋の窓から安治川と対岸のビルを眺めることができるが、廊下の向かい側には、ユニバーサルスタジオを眺めることのできる北向きの部屋もあるようなので、部屋のグレードとしてはそちらのほうが上であろう。



このホテルの最大の特徴は、日本人向けに洗い場のついた浴室があることで、浴室と洗面カウンターとが透明ガラスの扉と窓で仕切られているので浴室が広く見える。



トイレは独立してあり、近づくと蓋が自動的に開くセンサー付ウオッシュレットが置かれているのが珍しい。



ベッドルームには長いソファーと安楽いすが置かれていたが、どうやらこのスペースにエキストラベッドが置かれるようである。



ソファーの前には20インチくらいの小さな液晶テレビが置かれたカウンターがあり、その下には冷蔵庫とカップと電気湯沸器が収納されていた。



このテレビは、離れて見るには小さすぎるので、ヒルトン東京ベイのように部屋の大きさに合わせて40インチ以上の大画面のものと取り替えて欲しいものである。

ベッドは、セミダブルタイプが2つ置いてあったが、欧米仕様のデラックスホテルのベッドよりも日本人客を意識してか比較的高さの低いベッドであった。



デラックスコーナの部屋には、窓が二つあり、もうひとつの西向きの窓から夕方の天保山ハーバービレッジの大観覧車と南港のWTCビルがよく見えた。



朝起きると、窓から安治川をのんびりと航行する船が見える非日常性が良く、6月に泊まったディズニーアンバサダーホテルの部屋よりもシンプルな内装であるが、使い勝手は上であったと思う。



同じテーマパークでも、ユニバーサルシティのホテルは、東京ディズニーランドの公式ホテルの半値以下で宿泊できるのであり難い。

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ホテルユニバーサルポートのレストランには、300名収容の「テアトロ」と、200名収容の「アクア」という2箇所の店がある。

2階のレストラン通路



イタリア語で劇場を意味する「テアトロ」は、サークル状に囲われた大型ブッフェカウンターで、シェフが調理する豊富なメニュー、作りたての料理が自慢というが、たまたま修学旅行生が専用で使っていたので中を見ることが出来なかった。

アクア



そこで、もうひとつの「アクア」の朝食ブッフェを摂ってみたが、水をイメージしたブルーの内装が売りのレストランである。



7時からオープンの「アクア」に、7時5分頃に入ったので、気持ちの良い女性スタッフからすぐに席に案内して貰うことが出来た。



しかし、200名を収容するにはアクア客席の面積は狭く、テーブルが窮屈な配置となっており、椅子も普通のダイニングチェアだったので、食事を楽しむ為の工夫がもう一つ欲しいと思った。

サラダ



結論から言えば「アクア」の朝食ブッフェは、東京ディズニーランド公式ホテルのヒルトン東京ベイを上回るグレードであったと思う。

暖かい料理



アクアの朝食ブッフェは、ブッフェの必須ポイントをすべて押えており、殆どのゲストは満足すると思うが、欲を言えばフルーツとパンのアイテムをもっと充実して貰いたいものである。

冷たい料理



特に、スモークサーモンが惜しげもなく並び、和食のアイテムも充実していたように思う。



チーズは、クリームチーズが3種類取り揃えてあり、和食コーナーのガラスの内側では、焼きたてのパンを作っているベーカリーまである。

ベーカリー



隣の「テアトロ」が使えなかったせいで、アクアは、すぐに満席状態となり、さらに南東向きの大きな窓から強烈な朝日が差し込んだためにレストランの中はかなり暑くなってしまった。

パン



しかし、早く入場したので朝食ブッフェと、セルフサービスのコーヒーをゆっくりと楽しむことができたが、冷房だけは強化して欲しいと思う。

トイレのカウンター



「アクア」は、7時20分頃に満席状態となり、7時40分頃には空席待ちの長い行列ができていた。


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ユニバーサルスタジオの直近にある公式ホテル、ホテル京阪、ホテル近鉄、ホテル京阪ユニバーサルタワー、ユニバーサルポートの4つのホテルは、立地条件が抜群に良いため、宿泊料金も高値が続いていたが、最近になってかなり格安で宿泊できるようになってきたようである。



オフシーズンには、格安で宿泊できるようにしておけば、プライスに敏感な関西のリピーターの利用者が今後も増えてゆくのではなかろうか。

ホテルユニバーサルポートは、ユニバーサルシティ駅から、ユニバーサルシティとは反対側の南側階段を下り、少し歩いた所にあるので、ホテル京阪、ホテル近鉄、京阪タワーよりも立地条件は少し悪いが、4つのホテルの中では最も新しい2005年6月に完成したホテルである。



駅から横断歩道を渡ると、壊れたゲートのオブジェが置かれ、床に恐竜の足跡の窪みができているので、恐竜がホテルを襲ったというストーリーを持たせた入り口が特長である。



この入り口から入ると、恐竜をモチーフとした 「THE REX ENTERTAINMENT PLACE」となるが、床と壁に恐竜のフィギュアを配置したこの不思議なゾーンは、今年7月にオープンしたばかりという。



そこを抜けると、広いロビーがあり、ロビーの中には、床と同じ高さに浅い池があるので、注意しないと足を踏み込んでしまいそうである。



ロビー中央にはフロントがあり、その後ろに熱帯魚の水槽を置いているのが面白い。



14階建、600室もあるホテルは、横に長いせいか、エレベーターの乗り場がフロントを挟んで2箇所あり、そこからエレベーターに乗ると、青くライティングされたエレベーターの中は、海の中にいるようである。



ホテルの中央エントランスの外にでてみると、ホテルのロゴが白く浮かび上がって、ユニバーサルシティの非日常的な雰囲気を出している。



ホテルの海側に廻って見ると、大阪の夜景が綺麗であるが、ホテル宿泊客の中でも、ここまで足を伸ばす余裕のある人は少ないのではなかろうか。




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20万の大軍を擁する徳川秀忠は、力攻めで一気に大坂城を攻撃することを主張したが、父親の家康は、それを許さなかったようである。

大阪城の桜門



10万の豊臣武士団が、死に物狂いで応戦してくることへの損害を恐れたのであるが、確かに豊臣側の戦意は旺盛であった。

桜門前の南内堀は空堀



家康は、豊臣側のトップでありながら、戦場には決して出てこない淀君、秀頼を遠距離から大砲で砲撃することで、威嚇し、戦意を喪失させる作戦を命じている。

大阪城の東内堀



砲撃作戦は、すぐに功を奏し、近くを砲撃された淀君が戦意を失ったことで家康の狙い通りに講和が成立している。

大阪城の西内堀



講和の条件は、豊臣方が大坂城二の丸、三の丸を破壊し、大野治長と織田有楽斎が人質を出すだけという大坂方に有利なものであった。

大阪城北内堀



その際、惣構の埋め立ては、徳川方(二の丸、三の丸の堀は豊臣方)とすることが双方の了解事項となっている。

豊臣方は、二の丸、三の丸の破壊と堀の埋め立を引き伸ばすことを考えていたようであるが、徳川方は、講和成立と同時に労働者を大量に動員し、惣構だけでなく二の丸、三の丸の堀も昼夜兼行で埋め立ててしまったのは有名な話である。

南外堀(右のビルが府警本部)



このときに埋め立ての指揮を執ったのが安藤正次(1565~1615年)で、彼のことは以前このブログで紹介したことがある

空堀商店街



大阪府警本部の建替え工事中に出現した堀の跡からも、急いで埋め立てられた形跡が伺えるという。

上町台地を東西に横断していた空掘は、この埋め立てで消滅してしまい、再び復活することは無かったが、かつて空掘のあった場所には、空掘商店街や空掘通という名称だけが残っている。

上町台地に上る空堀商店街



その空堀を埋めた土地の両側に、自然に商店が建ち並び商店街が出来たようで、大阪夏の陣から150年を経た1765年(明和2年)に創業した店が未だに営業しているのですごい。

松屋町筋からの空堀商店街入り口



空掘商店街の西の終端は、松屋町筋を横断して東横堀川に突き当たるが、東横堀川の東側から空掘までの間にはどうやら水堀があり、そこに松屋町筋の橋が架かっていたようである。


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1583年に築城が開始された秀吉時代の大坂城は、1615年大阪の陣で豊臣家が滅亡後、徳川の手で徹底的に破壊され、再構築されたためにその詳細がわからない部分が多い。

大阪城天守



特に、外堀の外側にあった惣構や、外堀の配置などの全貌は不明で、最近でも大阪府警本部の建替え工事中に埋められた堀の跡が出現し、関係者を驚かせている。

大阪府警本部の掘削写真



淀川、大和川などの三角州の中に突き出た半島、上町台地の北端にあった大坂城の弱点は、上町台地に開けた南側であると考えた秀吉は、1594年外掘りの南側に空堀を掘らせ、さらに東西にも川の水を引き、大坂城惣構を完成していた。

今の大阪城南外堀の内側



南側を水堀とせずに空掘としたのは、台地を深く掘る土木工事費が巨額になるためであろうが、徳川家光時代に完成した現在の大坂城でも、弱点となる南側の外掘り部分が最も堅固に造られている。

今の大阪城南外堀全景



現在判明している日本最古の惣構は、伊丹市にある有岡城(伊丹城)趾で、1574年頃から荒木村重によって改修され、惣構が完成していたことは以前のブログで紹介したことがある。

南の惣構であった空堀商店街



村重は1578年、信長に対して反旗を翻し、有岡城に籠城して信長軍と闘っているが、惣構が完成していた有岡城は、なんと1年近くも落城しなかったのである。

攻める織田軍の有力武将であった秀吉は、このときに惣構の効果を再認識し、4年後に築城を開始した大坂城に惣構を造らせたのであろう。

大阪府警本部の建物の前にある堀の説明案内(右下)



1614年に始まった大坂冬の陣では、南の惣構(空堀)とその外側に出城「真田丸」が配置され、そこに拠った真田幸村が猛反撃したために、20万人という徳川方は、秀吉が20年前に造った惣構を超えることが出来なかったのである。

丘の上にある右側の森が真田丸の跡(真田山公園)



翌月には、豊臣軍の武将、塙団右衛門直次が率いる手勢が、西の惣構(東横堀川)に架かる本町橋を超えて東軍の蜂須賀勢を夜襲し、100人以上を殺害しているので、10万という豊臣方の戦意は旺盛であった。

西の惣構であった今の東横堀川(空堀の西)



大軍が惣構の手前でクギ付けとなり、無駄に死傷者を出し続けることは、動員された豊臣恩顧の武将(後の外様大名)の寝返りの恐れもあると判断した徳川家康は、豊臣との講和を急いだようである。


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2001年に開業したユニバーサル・スタジオ・ジャパンの最寄り駅、JRゆめ咲線のユニバーサルシティ駅から徒歩3分の場所にある安治川には、ユニバーサル・シティ・ポートがある。



ユニバーサル・シティ・ポートの桟橋



ライトアップされた桟橋とユニバーサルポートホテル前のハーバーは、かなりロマンチックな場所で、目の前の安治川越しに、弁天町の超高層ビル3棟が良く見える。



この桟橋の周囲は、安治川の防波堤を兼ねた遊歩道となっていて、夜にはライトアップされているが、実は国土交通省近畿地方整備局が管理する災害時に使う防災基地というのが本来の姿なのである。

撮影中に飛行機のライトが超高層ビルを貫通



しかし通常は、シャトル船の船着場に使用されていて、ここから海遊館と南港フェリーターミナルへアクセスできるので、ちょっとしたクルージングが楽しめる。




海遊館までは30分間隔で運行されていて、片道10分、乗船料600円と手軽に利用できるが、南港フェリーターミナルにはフェリーの時間に合わせた1日2往復だけなので、ちょっと使いにくい。



渡船を運航しているキャプテンラインは、クルーとスタッフ全員が女性という全国でも珍しい船会社で、クルージングパーティや、南港フェリーターミナルとの往復ナイトクルーズもやっている。

桟橋のある安治川から中之島、梅田にかけての超高層ビルの夜景が楽しめるが、大阪の夜景鑑賞スポットとしては、上位にランクされる場所であろう。



ユニバーサル・シティ・ポートには、豪華な地中海風結婚式場、アルカンシエルペリテ大阪がある。

左下



1983年に設立された岐阜市に本社のあるアルカンシエル社が、全国に展開する結婚式場は、横浜、名古屋、岐阜、三重、大阪の5箇所で、グループ売上高117億円という。

朝のアルカンシエルペリテ大阪と階段状になっている防波堤



また、ユニバーサル・シティ・ポートの桟橋の近くでは、フィッシングも楽しめるようで、ルアーを投げ込んでいる釣り師を数人見かけたが、さて釣果はどうだったのであろうか。


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石上神宮の神階は、850年に正三位、859年に従一位、868年に正一位となり、1039年に制定された二十二神社の10番目に列している。



石上神宮は、古代の軍事氏族、物部氏が祭祀し、大和政権の巨大な武器庫でもあったようで、日本後紀の記述によれば、805年に石上神宮と京都との武器輸送で15万7千人が動員されたという。



天皇家よりも先に降臨したとされる物部氏は、兵器の製造・管理を管掌していたが、しだいに大伴氏とならぶ有力軍事氏族へと成長していったようである。



五世紀の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、6世紀には物部麁鹿火、物部尾輿、物部守屋などを輩出している。

蘇我氏の寺から仏像を引きずり出し、浪速堀江の池(阿弥陀池)に投げ入れた物部守屋は、蘇我氏との戦いで戦死し、物部氏から改めた石上氏が宗家の地位を得たようである。



石上氏は、石上朝臣麻呂が708年に左大臣となり、息子の石上朝臣乙麻呂は中納言、乙麻呂の息子石上朝臣宅嗣は大納言にまで昇ったが9世紀前半頃に衰退したようである。



石上神宮の中世以降は、布留郷の鎮守となったが、興福寺とたびたび抗争を繰り返し一揆が頻発、戦国時代に入ってからは織田信長の勢力に負け、神領も没収されたようである。

参道の奥にある楼門(重文)は、1318年に建立されたものであるが、日本最古の神宮の門としては質素なので、その頃には社勢も衰えかけていたのかもしれない。



拝殿(国宝)は、鎌倉時代に新嘗祭を行う皇居の神嘉殿を、1081年に白河天皇(1053~1129年)が拝殿として寄贈した伝承があるので、1060年に新築された宇治上神社本殿と並ぶ、神社建築としては日本最古のもの。



楼門を挟んで拝殿と向かい合う高台にある摂社、出雲建雄神社の拝殿(国宝)は、1137年建築、1300年に改造された旧内山永久寺の社殿で、1914年に石上神宮の敷地に移築されている。



1871年には官幣大社に、1883年には再び神宮号を名乗ることが許されて石上神宮として復活しているが、没収された神領が戻ることは無かったようで、官幣大社としては意外と敷地が狭いのが残念である。


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日本書紀に神宮と記述されているのは、伊勢神宮と石上神宮であるが、伊勢の場合は6世紀後半以降にその名称の記述が見られる一方、日本書紀には、石上神宮の創建を崇神天皇7年(紀元前91年)とする日本最古の神宮なのである。

参道入り口



石上神宮の鳥居の手前には、万葉集第一の歌人とされる柿本人麻呂(660~720年頃)の「おとめらが そでふるやまの みずがきの ひさしきときゆ おもいきわれは」という歌碑が置かれている。

参道



その意味は、「乙女等(私達)が袖を振る(好きな人の魂を呼ぶ行為とされた)のは、布留山(石上神宮)に瑞垣が出来た久しい昔から あなたのことを思っていたから」ということか。

歌碑



和服の振袖も、女性が袖を振ることによって好きな人の魂を呼ぶことができると信じられていたからで、確かに優雅に着こなした振袖は男性の魂を揺さぶるようである。

回廊



現在の石上神宮は、布都御魂剣に宿る布都御魂大神を主祭神とし、布都斯魂大神、宇摩志麻治命、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣を配祀し、社伝によれば、神武天皇が東征中、熊野において危機に陥った時、布都御魂剣が神武天皇の元に渡り、天皇の危機を救ったという。

布都御魂大神の扁額



その後、物部氏の祖、宇摩志麻治命の手によって宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが石上神宮の創建である。

鳥居



布都御魂剣は、やがて拝殿の裏手の禁足地に埋められるが、1874年に当時の大宮司によって発掘されているので、伝承は正しかったのである。

日本書紀には、布都御魂剣とは別に七支刀(国宝)についての記述があり、神功皇后摂政52年(372年)、百済の使者が奉ったものという。



それを受けた当時の朝廷が、神武天皇の布都御魂剣を祭神としていた石上神宮に保管したのではなかろうか。

楼門



明治に入り、当時の大宮司がこの七支刀に金象嵌された銘文があることを発見、銘文の中に西暦369年に当たるとされる「泰和四年」の年紀が刻まれているので、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている。

拝殿



七支刀の銘文は、日本最古の年紀の記述とされ、これよりも古い年紀の書かれたものは未だ見つかっていないが、この発見で西暦720年頃に完成した日本書紀に記述された350年前の記録が意外と正確(誤差わずかに3年)であることに驚かされる。


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阪急電車の梅田駅から宝塚線の準急に乗って約30分で到着する売布神社駅の南西、中国自動車道の高架の手前から北西に入ると売布神社の入り口である。



参道の入り口には陸軍大将一戸 兵衛が揮毫した忠魂碑が置かれていたが、一戸 兵衛(1855~1931年)とは教育総監、軍事参議官を歴任、軍を退いてからは学習院長・明治神宮宮司・帝国在郷軍人会長に就任した人物である。



一戸 兵衛は、弘前藩士の長男として生まれ、陸軍兵学寮に入り、西南戦争(22歳少尉)で負傷しているが、1894年日清戦争(39歳中佐)、1904年日露戦争(49歳少将)と相次いで出征している。

神社の入り口前の標識



1907年、52歳で陸軍中将となり、さらに60歳となる1915年に陸軍大将に昇進、第一次大戦には大将という最高官であったので出征していない。

忠魂碑の前の石灯籠は、安永七年(1778年)のもの



1919年(64歳)には後備役に編入されているので、大将と署名のある石碑の揮毫は1915~1919年までの間であろう。



この忠魂碑の横から直線で伸びる長い参道があり、その先には弘化五年(1848年)の文字のある鳥居が見える。



鳥居を潜ると広い境内があるが、本殿のある高台には注連縄を張った鳥居を潜って石段をかなり上ることとなる。



主祭神を下照姫神(高比売神)、天稚彦神を配祀する売布神社は、兵庫県宝塚市にある式内社で、旧社格は郷社、社号の売(め)とは米のこと、布とは麻布のことという。

拝殿



605年の創建と伝えられているので、1400年を超える古い歴史があり、当地の里人が飢えと寒さで困窮しているのを見た下照姫神が、稲作と麻布を織ることを教え、のちに豊かになった里人が下照姫神を祀ったという伝承が残る。

摂社の市杵島比売命神社



中世以降、貴布禰神社や貴布禰明神(貴船大明神)と称していたが1736年、寺社奉行大岡越前忠相に命じられた儒学者、並河誠所(1668~1738年)が、延喜式の売布神社に該当するとして以降、売布神社と称するようになっている。



拝殿の前には、「賣布神社」と刻まれた石が置かれているが、将軍吉宗が大岡越前を通じて1736年奉献させたものである。


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小樽に本店のあるルタオは、小樽と札幌に4つの支店があり、「ドゥーブルフロマージュ」(フランス語で二層のチーズ)というチーズケーキが有名である。

先週、大丸心斎橋店の北海道食品展で家内が「小樽洋菓子舗 ルタオ」のロールケーキを調達してきたので、早速そのアジを確かめてみた。



梱包をあけてみると、チョコレート風味のカステラで造ったロールの周りを生クリームで包み、さらにチョコでトッピングまでしている。



ロールケーキは、本来カステラとクリームだけのシンプルな味だけで勝負するケーキなのに、変にゴチャゴチャとデコレーションするのはどうかと思う。



その点、高島屋難波店にあるグラマシーニューヨークのロールケーキや、三田の小山ロールなどは、正統的なロールケーキであり、アジも評判も一流である。

グラマシーニューヨークのロールケーキ



予想通り、ルタオのロールケーキは、生クリームの味がくどい普通のロールケーキであった。

昨日、大丸梅田店のスイーツ売り場に立ち寄ってみると、偶然にアンジェリック・チバが新規出店していた。

小山ロール



ちょうど、ロールケーキをオープン特価(880円+消費税)で限定販売していたので、ルタオの口直しという意味で調達してみた。

夕食のあとカットして食べてみると、焼いたカステラの風味がほんのりと口に広がり、生クリームもサッパリとしていてなかなかのものであった。

アンジェリック・チバのロール



パリに本店がある同店のオーナー兼パティシエのフレデリック・チバ(千葉好男)さんは、1968年に19歳でパリに渡り、フランスの菓子コンクールで過去3度もの受賞経験がある本格派菓子職人である。

北浜五感のロール



1995年からは、日本人初のフランス料理アカデミー会員にも選ばれているという千葉さんの店の「アンジェリック」とは、「天使のようにやさしい」という意味で、オーナーの菓子作りに対する思いが表現されているようである。



日本にあるアンジェリック・チバの店は、大丸京都店、大丸心斎橋店、大丸梅田店のたった3店しかないので、関西に住む人以外には、なかなか口にできないのではなかろうか。

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903年、道真は大宰府で亡くなり安楽寺に埋葬されているが、安楽寺の僧から土師寺(947年以降は道明寺)に道真の遺品が届けられている。

道明寺



道真が使っていた遺品(革帯、硯、櫛、刀子、鏡、象牙笏)は、1100年以上を経た今でも道明寺八幡宮に保存されており、すべて国宝である。



道明寺八幡宮に保管されている国宝は、北野天満宮をはじめとする全国の天満宮がノドから手が出るほど欲しい、聖遺物といえよう。



土師寺は、道真の死後44年が経過した947年、道真が880年に自作した十一面観音像(道明寺の本尊で国宝)を祀り、この年に道真の号である「道明」に由来する道明寺と寺名を改めている。



道真が亡くなってから120年を経た1023年、藤原道長が立ち寄った記録があり、当時の道明寺は法隆寺や四天王寺に比肩する大寺院であったという。

中世には西大寺の末寺となり、鎌倉、室町幕府の祈祷寺として保護を受けていたが、1573年、畠山氏の守護代、遊佐氏の兵火で道明寺の伽藍はすべて焼失、道真の遺品はかろうじて河内長野の観心寺に避難され無事であった。

本堂



1575年、織田信長の寄進によってやっと社殿が再建され、その後豊臣、徳川と保護が続き、道明寺は無事に明治維新を迎えている。

道明寺の山門



しかし、明治5年の神仏分離の政策によって、道明寺は天満宮と寺院に分かれることとなり、天満宮から道を隔てた西隣に寺は移転したようである。

現在の道明寺は、真言宗御室派の尼寺であり、綺麗に手入された境内が清々しい。



道明寺のHPには、創建以来1300年、法灯の絶えることのない尼寺として現在に至っているというので、菅原道真の叔母、覚寿尼以前から既に尼寺であったようである。

大師堂



和菓子の材料として用いられる道明寺粉は、菅原道真の叔母、覚寿尼が乾燥した「もち米」を挽き、粉状にしたのが始まりといい、江戸時代には将軍家に献上されていた由緒正しい粉なのである。

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菅原道真を祀る天満宮は、以前ブログで紹介した北野大阪福島高槻上宮長岡などいくつもあるが、道真と最も縁の深い天満宮は、道明寺天満宮である。



近鉄阿部野橋駅から準急電車で20分到着、道明寺駅の西150メートルの所に、境内に80種800本の梅の木があり、梅の名所としても知られる道明寺天満宮がある。

鳥居



この地は菅原氏(土師氏)の祖先に当たる野見宿禰の所領地であり、菅原道真(845~903年)が生まれる259年も前の586年、道真の祖先、土師八島が遠祖天穂日命を祀るための氏寺として土師寺を建立した場所である。

拝殿



道明寺天満宮の入り口には、野見宿禰が殉死に代えて埴輪を焼いたという土師の窯跡を示す石碑が置かれている。



781年、道真の曽祖父土師古人は、菅原姓を賜り、その古人の子、菅原清公は文章博士となり、清公の子の是善(道真の父)も文章博士、道真も877年に文章博士となっているので歴代優秀な家系であったようである。

元宮土師社



当然、道真の子孫も優秀であり、子息の菅原 淳茂も文章博士、「更級日記」の著者、菅原孝標女も道真の5世の子孫である。

絵図



884年の夏、道真の叔母、覚寿尼が住んでいた土師寺に道真は3ヶ月間も篭もり、大乗経を書写しているが、そのときに使った硯は今も道明寺天満宮に伝わっていて国宝に指定されている。

神宝陳列館



土師寺には、宇多上皇(867~931年)も譲位の翌年、898年に行幸されたことがあるという。

国宝の硯



901年1月、従2位にまで昇った道真は藤原時平(871~909年)から妬まれて、大宰府に左遷されることとなる。

元宮土師社拡大



道真は左遷される途中、浪速(大阪)において「世につれて 浪速入り江も 濁るなり 道明らけき 寺ぞ恋しき」という歌を詠んだと伝えられているが、土師寺にも立ち寄り、覚寿尼との別れを惜しんだという。

明治10年2月、明治天皇は大和河内行幸の際に道明寺八幡宮の行在所に到着しているが、その行在所は今もそのまま保存されている。

拝殿拡大



道明寺天満宮の祭神は、菅原道真、道真の遠祖天穂日命、さらに菅原道真の叔母、覚寿尼の3神で、学問の神として現在も地元の人々に親しまれている。


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本堂の右手奥、石段を上ると弘法大師を祀る大師堂があるが、さすがにここまでのエスカレーターは未だ設置していなかった。

大師堂



大師堂の左手には、小さな子授地蔵堂があり、この日、二人の女性が熱心に祈願していたが、子供を授かることを願う人の参詣も絶えないようである。

子授地蔵堂



さらに左手の奥に進むと、お寺の中の神社、中山寺の鎮守社があり、その左手に目にも鮮やかな朱色の巨大な多宝塔が太陽の光を受けて光っていた。

多宝塔



中山寺は、近畿2府4県と岐阜県に点在する、西国三十三箇所巡礼の24番目の札所としても有名で、現在でも多くの巡礼者や参拝者が訪れている。

中山寺山門



この日も巡礼者の集団が、本堂の前で祈祷していたが、彼らもエスカレーターには吃驚したのではなかろうか。

本堂西側



西国三十三箇所巡礼は、718年長谷寺の徳道上人が中山寺に宝印を埋め、それから270年後、出家した花山法皇(968~1008年)がこの宝印を掘り出して33箇所の観音霊場を巡礼したことから始まったというので、中山寺は西国三十三箇所巡礼の重要ポイントなのである。

長谷寺の仁王門



花山天皇が出家して法皇になる際、藤原兼家の命を受けて元慶寺まで警護したのが中山寺を信護していた多田満仲とその郎党達であったというので面白い。

中山寺の事務所



花山法皇は、この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、この地には御廟所があり花山院菩提寺として西国三十三箇所巡礼の番外霊場となっている。

中山寺からの眺望



しかし、歴史資料に三十三所巡礼が表れるのは、花山法皇の没後80年以上を経た1090年の三井寺の僧による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初なので、どうやら12世紀に入って以降本格化したようである。

本堂の裏



江戸時代初期から「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われ、中には依頼を受けて延1000キロにも及ぶ三十三箇所を33回も巡礼する(延3万3千キロ!)ことで満願となる「三十三度行者」と呼ばれる巡礼者もいたというので凄い。

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