人口約8万7千人、兵庫県北部にある豊岡市までは、大阪から特急「北近畿」に乗って2時間半、新幹線「のぞみ」を使えば新大阪と東京に匹敵する移動時間がかかるのでかなり遠い町である。
駅前には、豊岡で放鳥されたコウノトリにちなむものがあちらこちらに見られるが、郊外を車で走ってみてもコウノトリと対面するのは難しいようである。
駅前のスーパー
しかし、豊岡をコウノトリの里にする運動は着々と成果を上げているようで、コウノトリ以外のアオサギやシラサギは至る所で見ることができた。
豊岡藩京極家は、京極高次の実弟で宮津藩主(12万石)となった高知の3男、高三の家系で田辺藩(舞鶴藩)を領していたが、理玖の生まれる前年の1668年、3万5千石(1726年に減封されて1万5千石)で豊岡藩に転封されている。
大石内蔵助の妻「理玖」(1669~1736年)は、京極家の筆頭家老石束源五兵衛毎公の長女として豊岡で生まれているが、石束家1200石は、京極家の筆頭家老を勤める名家であった。
理玖は、1687年に赤穂藩浅野家の筆頭家老、大石家1500石の嫡男内蔵助(1659~1703年)と結婚し、赤穂城内にあった大石邸へ移住している。
駅前
理玖と内蔵助は、1688年に長男(大石主税)、1690年長女、1691年次男、1699年次女をもうけ、仲良く平穏な暮らしをしていたようであるが、1701年に主君の刃傷事件で赤穂藩は取り潰しとなっている。
理玖は、豊岡の実家へ一旦帰るが、内蔵助が山科に住居を定めたので、1701年の夏、理玖も山科に移り、1702年の春に内蔵助、主税と離縁して山科から154キロ離れた豊岡に戻っている。
理玖は、離縁のあと1703年、内蔵助の三男にあたる大三郎を出産しているので、夫婦の仲は離縁の直前まで睦まじかったようである。
長女と次男は若くして亡くなったが、次女と三男大三郎が豊岡の石束家で無事成長し、大三郎は、1713年に浅野本家の広島に招かれて、父と同じ1500石で仕官している。
次女も浅野一族の浅野直道と結婚、広島に移った理玖は、落飾して香林院と称し広島藩から隠居料として100石を支給されていたので、浅野本家は分家の元家老、内蔵助の遺族を手厚く保護したようである。
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