野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



梅雨にはいったある日、中之島の西側を散歩していると、湊橋南詰西側に宮本輝さんの小説「泥の川」の一節を刻んだ石碑を見つけました。

小説「泥の川」は、<堂島川と土佐堀川がひとつになり安治川と名を変えて大阪湾の一角に注ぎ込んでいく>から始まります。<・・・>部分が小説から・・・堂島川と土佐堀川がひとつになった安治川

湊橋から西を見ると、手前が土佐堀川、左手はアーチ状の昭和橋とその先が木津川、右手が端建蔵橋、その先が安治川です。

堂島川に架かる上船津橋から下流の船津橋を見ると、手前にある水道橋?の背後に隠れていました。

<その川と川がまじわるところに三つの橋が架かっていた。昭和橋と端建蔵橋、それに船津橋である>・・・船津橋の北詰

<藁や板きれや腐った果実を浮かべてゆるやかに流れるこの黄土色の川を見おろしながら、古びた市電がのろのろと渡っていった>・・・船津橋から堂島川の上流を見ると、その水質は相当改善されているようです。

船津橋から端建蔵橋に向かって橋を渡って見ましょう。中央、半円形に突き出たところが中之島の西端部です。

<安治川と呼ばれていても、船舶会社の倉庫や夥しい数の貨物船が両岸にひしめき合って、それはもう海の領域であった>・・・安治川の下流、左には今も倉庫、右は大阪中央卸売市場

<だが反対側の堂島川や土佐堀川に目を移すと、小さな民家が軒を並べて、それがずっと川上の、淀屋橋や北浜といったビル街へと一直線に連なっていくさまが窺えた>・・・船津橋北詰から見た堂島川の上流方向は、超高層ビルがひしめいていました。

参考文献:「泥の河」 宮本 輝 著

つづく



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5月のある休日、天気が良かったので、ぶらりと長居植物園を散歩してきました。 ・・・終わりかけたシャクヤク

バラ園のバラも5月下旬となると、どうやら盛りを過ぎたようです。

バラ園の外側にあった神秘的なハグマノキ(別名スモークツリー)の花

ポピーも満開が過ぎてしまったようです。

これからはアジサイの季節となりますが、あじさい園にはサラサウツギ(ユキノシタ科)が開花していました。

あじさい園の小道にいたのは、天狗の鼻が突き出たようなテングチョウです。大阪市内では見かけることが少ない珍しいチョウをここで見ることができます。

ワイヤーブラシのようなシロバナブラシノキ(オーストラリア原産)が開花していました。

こちらは赤い色のブラシノキ

長居植物園のゲートを出たところには、立派なオシベを持ったビヨウヤナギの花がちょうど咲いていました。

こうした珍しい花や昆虫との遭遇が長居植物園の散歩の楽しみです。



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グランフロント大阪1階うめきた広場から見上げた南館です。

大阪駅からグランフロント大阪への連絡は、手前の階段、中央の渡り廊下、右のエスカレーター、地下通路と4方向あるようです。

これが地下通路です。・・・グランフロント大阪から大阪駅方向

地下通路のグランフロント大阪側。正面が南館の地下1階。左手の通路を進んでみましょう。

上の写真の左手通路を進み、振り返ってみました。・・・朝の8時前でしたが、左のパン屋さんはもう営業していました。

ちょっと時間があったので大阪駅まで足を伸ばしてみました。階段のステップに汽車の絵が描かれています。

時空の広場の床にも、白いハトなどが描かれています。

エスカレーターで上の階に上がり、そこから見ると、地下を走る機関車、地下のプラットフォームに下りる階段、飛び立つ鳥などトリックアートが描かれていることが判りました。

大阪駅の屋上庭園から見たグランフロント大阪



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グランフロント大阪南館2階連絡通路を通って、北館へ入ってみましょう。

北館2階から上に向かうエスカレーターは、まだ動いていません。

昼間は混雑しているナレッジプラザに人影がありません。

ナレッジキャピタル上階にはまだ入れないようなので、南館方向に引き返すことにしました。・・・これは北館2階の店舗通路

南館2階の店舗通路。正面は大阪駅です。

南館のうめきた広場に出てみました。折角なので、大阪駅の方向に歩いてみましょう。

グランフロント大阪うめきた広場と大阪駅との間には長距離バスの乗り場と車道があり、直接横断することができませんでした。

グランフロント大阪のうめきた広場から大阪駅にアクセスするには、この広い階段か、下にあるエスカレーターで2階レベルに上がり、車道を越える必要があります。

大阪駅2階から見たグランフロント大阪うめきた広場

つづく



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大阪駅の北側にできたグランフロント大阪は、連日混雑しているようなので、平日の早朝、ちょっと覗いてみることにしました。・・・大阪では珍しい大きくカーブした車道。

大阪駅の2階コンコースから見たグランフロント大阪。まだ人通りも少ないようです。

見上げるとこんな光景となります。

大阪駅5階コンコースからは、接続された渡り廊下が良く見えます。

渡り廊下を横から見てみましょう。

では、早速グランフロント大阪へ

これが南館2階の店舗通路。早朝なので人通りもまばらですね。

北館へのブリッジ

ブリッジの途中から西側を見ると、梅田スカイビルのガラス外壁にグランフロント大阪北館が写っていました。

つづく



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昨日の続き、中之島公園バラ園の望遠写真の紹介です。・・・中之島公園に架かる難波橋

望遠レンズでは、遠くの建物がすぐ近くにあるように見えます。

梅新の同和火災ビルと赤いバラ

梅新の同和火災ビルと白いバラ

梅新の同和火災ビルと黄色いバラ

梅新の同和火災ビルと赤いバラ

梅新の同和火災ビルとピンクのバラ

梅新の同和火災ビルと赤いバラ

肥後橋方向のビルとバラ



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淀屋橋から中之島公園バラ園まで、望遠レンズ付きカメラを持って散歩してみました。・・・淀屋橋をミニチュアモードで撮影

望遠レンズの機能確認のため、まずヒヨドリを撮ってみました。・・・ピントは、まずまず合っているようです。

では、バラ園の撮影を始めましょう。・・・・望遠レンズを使うと、背景が強くボケる特長があります。

鉢植えのラベンダーと中之島のビル

バラの下の青色は、ビルのガラス外壁に反射している青空でしょう。

梅田のハービス大阪ビルと中之島のバラ

ANAクラウンプラザホテルとバラ

望遠レンズを使って、バラのクロ-ズアップ写真も撮ってみました。

撮影中、クマバチが飛び入り

つづく



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昨日に続き64歳〜74歳までの西太后(1835〜1908年)を紹介しましょう。清朝皇帝となった光緒帝(26歳)は、1898年に西太后を除くクーデターを計画しますが、直前に西太后逮捕幽閉され、光緒帝の親政が取り消されています。(1898年、第5の危機回避)・・・長居植物園の大池は、フランス印象派の絵画のようです。

このとき光緒帝派のメンバーはすべて逮捕され、政権闘争は西太后派の完勝(戊戌の政変)でした。これ以降の10年間、西太后(64歳)は清朝政治の表舞台に立ち、亡くなるまで実権を離さなかったのです。・・・池の白鳥とアヤメ

西太后が電光石火のタイミングで危機を回避できたのは、いつのまにか身に付けていた勘が働いたからでしょう。皇帝を逮捕幽閉する西太后を見た周囲の政治家や官僚は、震え上がったと思います。・・・ジャーマンアイリス

政治学者マックス・ウエーバー(1864〜1920年)は、世界の政治体制を「伝統的支配」=(中国では清朝の体制)、「カリスマ的支配」=(中国では毛沢東の支配)、「合法的支配」=(中国では現在の体制)の3類型に分けています。・・・これもジャーマンアイリス

西太后による戊戌政変から10年間、彼女は最初は清朝の伝統的支配者、次の義和団事変ではカリスマ的存在、最晩年には合法的支配者となり、「西太后の最後の10年間は、20世紀以降今日に至るまでの(中国政治体制の)予告編」とも言われています。・・・これもジャーマンアイリス

さて、1900年頃に話を戻すと、勢いに乗った義和団の戦力を高く評価する排外派と、義和団を鎮圧して統治能力を示そうとする統制派が対立、西太后は最後に排外派を支持しています。・・・ポピー

しかし、北京で籠城する外国公使館を攻撃しても落ちず、そのうち外国連合軍が北京を占領すると、西太后は西安に逃避して態度を一変、排外派を賊軍と認定し、統制派と正規軍に連合軍と協力して賊軍を攻撃するよう命じたのです。(1900年、統制派を支持して第6の危機回避)・・・ポピーの拡大

連合国との賠償交渉(辛丑条約、元利合計した賠償金は現在の50兆円くらいか)が調印された1902年、西太后(68歳)は北京に勝利者のように凱旋、その後は改革解放政策を取り、1908年に亡くなって北京郊外の東陵に莫大な副葬品と共に埋葬されています。・・・トゲナシニセアカシアの花

それから20年後となる1928年、国民革命軍が東陵を盗掘して副葬品を略奪、西太后の口の中にあった巨大な真珠は、蒋介石夫人の宋美齢(1897〜2003年)に贈られ、盗掘の犯行はうやむやとなっています。・・・マロニエの花

危機回避の達人、西太后も亡くなった後に起こった危機には対処できなかったようです。

 参考文献:「西太后 大清帝国最後の光芒」 加藤 徹著



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昨日の記事に続き、今回は48歳〜60歳までの西太后の話です。さて、東太后が亡くなった翌1882年、フランスがベトナムのハノイを占領、宗主国であった清朝は、ベトナムに出兵しますが、初戦の清国軍は負け続けます。長居植物園のシャクヤク園

2年後、一人の官僚から敗戦の原因は、重臣たちが無能のせいという上奏文が提出されたことを受け、西太后(1835〜1908年)は重臣をすべて更迭(甲申易枢と呼ぶ)、代わった重臣は凡庸な人物ばかりだったため、西太后の君主としての基盤はますます盤石なものとなっています。(更迭された重臣達の反乱は無く、第4の危機を回避)・・・シャクヤク

甲申(こうしん)易枢から3か月後、フランス軍は台湾を奇襲攻撃して清仏戦争が始まり、始めのうちはフランス軍が勝っていました。ところが後半戦は意外にも清軍の連戦連勝という展開となっています。・・・こちらは、黄色いオシベの品種。

しかし、西太后は美衣美食の生活だけを願って講和を急ぎ、現地では勝っていたのに敗戦を認めてベトナムの宗主権を放棄、フランス側は狂喜して講和条約に調印しています。・・・牡丹に似た白のシャクヤク

この背景には、堂々と贅沢な生活を楽しみたいと願った西太后と、李鴻章の思惑(彼の私的軍隊「北洋軍閥」の消耗を回避した)があり、二人とも国家利益よりも私的利益の方を優先したのでした。・・・絵画調モード

また、1889年にあった光緒帝(1871〜1908年)の婚礼費用は、総額550万両(現在の3000億円くらいか)。大臣、官僚、役人は、その中から多額のキックバックを受け取り、ますます役人が潤い、清朝の命脈はまだまだ続くのでした。 ・・・こちらはバラのように見えるシャクヤク

西太后が望む(婚礼や造園工事などの)贅沢は、国を挙げてのたかりの構造(ある意味では所得の再分配)を助長する意味があり、清朝政治体制を延命する手段として有効だったのです。普通モード、

1894年、戦争嫌いの西太后は、当時発明された「反日愛国」のスローガンを支持する若い光緒帝(22歳)の主張に負け、仕方なく日清戦争の開戦を決めています。・・・絵画調で撮ったシャクヤク

カリスマ的な専制君主、西太后でも止められなかった「反日愛国」を叫ぶ民衆のデモに現在の中国当局が全く手を出せないのは当然でしょう。 ・・・絵画調で撮った牡丹のツボミ

 中国のプレゼンスを清朝時代に戻したいと願う中国の政治家や官僚なら、清朝時代からあった「国を挙げてのたかりの実践」や「反日愛国スローガンの活用」を常に考えているのではないでしょうか。

参考文献:「西太后 大清帝国最後の光芒」 加藤 徹著

つづく



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清朝末期の最高権力者、西太后(1835〜1908年)の専制期間は47年間、中国での女性権力者として知られる漢の呂后(紀元前180年頃)、唐の則天武后(西暦700年頃)の15年間に比べると、かなり長かったことが判ります。・・・長居植物園のバラ園を引き続いて紹介しましょう。

垂簾聴政を願う官僚達を味方につけた西太后は、咸豊帝の霊柩を北京に戻すと同時に実力派大臣3人を死刑とし、残りの5大臣も免職処分するクーデター(辛酉しんゆう政変)を断行、東太后が政治に関心が薄かったので西太后が清朝の実権を握っています。・・・絵画調モード

西太后には、歴史に残る事業の断行など男性的な野望は無く、贅沢な衣装と美食が楽しめる暮らしと、乾隆帝の幼少期に垂簾聴政をした皇太后「崇慶太后」と並び称されることを願っていたようです。・・・絵画調モードでは、花のクローズアップよりも、少し引いた写真の方が効果的なようです。

辛酉政変以降の清朝は、咸豊帝の実弟恭親王(1833〜1898年)を事実上の摂政とし、若い東西両皇太后が「崇慶太后」を真似た垂簾聴政を行う政治体制でした。

ところが、恭親王と両皇太后が衝突、野心家の西太后は皇帝印の力と味方の官僚を使って恭親王の罷免に成功しています。(1865年、恭親王クーデターの可能性もあった第2の危機を回避)

こうして1865年以降の清朝は、東西両皇太后が事実上の専制君主となっていますが、男性的野望を持たない女性君主を頂く官僚達は、清国4億人の税収を自由に(収賄)できるようになったのです。・・・これは絵画調モードで

1875年に西太后の実子、同治帝が亡くなると、西太后は有力な皇帝候補者を落として3歳の光緒帝(西太后の甥)を即位させることに成功、利権を共有する官僚達が味方したのでしょう。(1875年、他の候補者が皇帝となれば権力を奪われたので第3の危機回避)

さらに、(西太后にとって唯一頭が上がらなかった)東太后が1881年に亡くなり、47歳の西太后が清朝中国の事実上の君主に就任、西太后を後ろ盾とする官僚達がますます潤い、清朝は意外な安定期を迎えるのです。・・・絵画調モード

中国の歴史では、カリスマ的な政治家が実務派の政治家を失脚させたり、復活させたりするパターン(毛沢東による小平の例など)がありますが、西太后も罷免した恭親王を復活させるなど、まさにカリスマ的存在となっていたのでした。・・・絵画調モード

今回は、27歳〜47歳までの西太后の人生を紹介しました。

参考文献:「西太后 大清帝国最後の光芒」 加藤 徹著

つづく



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バラと西太后の記事の途中ですが、グランフロント関係の話題を挟みます。・・ここはグランフロント大阪北館の外部、南西コーナーです。左の廊下は、北側にあるマンション(オーナーズタワー)へと続いています。

その廊下から西側を見ると、梅田スカイビルが正面に位置しています。緑色のバスは、グランフロント大阪と大阪駅周辺を周回するウメグルバス。

グランフロント大阪の西側、オーナーズタワーマンションへの通路の横には池もありました。

グランフロント大阪北館とマンションをつなぐ通路上の庇です。

その横には、4000㎡の庭、ザ・ガーデンが完成していました。

先に紹介したウメグルバスです。

さて、大阪駅に戻るには、北館の2階からもう一度南館に入る必要があります。

そして南館2階から屋根付きの歩道橋を渡れば、そこがJR大阪駅です。

到着したJR大阪駅からグランフロント大阪を振り返ってみました。

グランフロント大阪の完成で大阪駅の北側が全く変わった街となっていました。



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長居植物園、中之島公園と続いたので、今回は靱公園のバラ園と、中国清朝末期に清国の専制君主だった西太后、その27歳までの人生を紹介しましょう。・・・フランス印象派の絵のようなバラ園へのアプローチ

「現代中国の国家戦略は、世界における中国のプレゼンスを清朝末期以前に戻すこと。(清朝末期を支配していた)西太后(1835〜1908年)の治世は、現代中国の原点」という説は、傾聴に値すると思います。・・・靱公園のバラも次々と開花していました。

満州人中堅官僚の娘として生まれた彼女は、咸豊帝(1831〜1861年、31歳で没)の貴人(当時、皇后から3番目の地位)となり、咸豊帝の即位から6年後(1856年)に皇子(後の同治帝)を生んでいます。・・・絵画調モード

咸豊帝と皇后(後の東太后)との間には子供は無く、貞淑でおっとりした性格の皇后は咸豊帝の相談相手になるタイプでは無かったようです。 ・・・白とピンクを重ねてみました。

一方、西太后は、才気煥発なうえ、当時の中国女性としては珍しく読み書きができたので、いつのまにか咸豊帝の秘書役のような存在となっていました。・・・これは、ノーマルモードです。

第二次阿片戦争(1857〜1860年)の末期、欧州連合軍の攻撃を避けた清朝中枢は、北京から180km離れた熱河離宮山荘に移転、連合軍との交渉を弟(恭親王)に任せた咸豊帝は、芝居三昧の生活を送り、31歳の若さで亡くなっています。・・・靱公園のすぐ北側には高層マンションがあります。

清朝の大臣達(8名)は、亡くなる直前の咸豊帝に西太后は危険人物となるとして処刑を進言しますが、咸豊帝は承諾しませんでした。(1861年、運よく第一の危機を回避) ・・・靱公園が以外と狭い公園であることが判ります。

それどころか咸豊帝は、老練な大臣達によって同治帝(6歳)、東太后(25歳)、西太后(27歳)の権力が削がれないよう、二つの皇帝印を東西両太后に渡し、皇帝の公文書に押印する権限を与えています。・・・バラとマンション。

1861年に同治帝(6歳)が即位すると、大臣級の下にいる官僚達から、東西両皇太后に垂簾聴政(皇太后が背後から皇帝を指導する政治)を願う懇願書が提出されています。・・・バラとマンション

官僚達は、煙たい存在の大臣よりも政治実務に疎い二人の皇太后(東は25歳、西は27歳)をトップに頂くほうが御しやすいと思ったからでしょう。最近の北朝鮮でも同じようなことが起こっているのかも知れません。

参考文献:「西太后 大清帝国最後の光芒」 加藤 徹著

つづく



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北館3階には、メガネ無しで立体映像を見ることができるコーナーがありました。鮮明度にはやや欠けますが、素晴らしい映像技術と思います。

桂米朝師匠のそっくりロボットが置かれたLab

グランフロント大阪北館の2階には、サントリーウイスキーハウスというウイスキー博物館のようなコーナーがあり、夕方からは奥のレストランでウイスキーを楽しむことができます。

グランフロント大阪北館2階から1階に下りてみましょう。

グランフロント大阪北館1階です。廊下の先はオーナーズタワー(マンション)

1階のLabには、カフェーコーナーもありました。

ナレッジプラザの南側には、ベンツ車の展示場があります。

グランフロント大阪北館の内部を歩いて疲れたので、ちょっと外に出てみました。

南館と北館の間にある歩道は、広くで歩きやすい空間となっていました。

つづく



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長居公園のバラの次は、中之島公園のバラを紹介しましょう。今回は、栴檀木橋から淀屋橋方向を絵画調モードで写してみました。

中之島公園のバラ園を絵画調モードで撮影。絵画のように見えるでしょうか。

バラの花も絵画調でどうぞ。

これは普通モード

絵画調モード。

中之島公園バラ園の全景を絵画調で

絵画調写真では、背景にその特長が出るようです。

フェスティバルタワーの手前にアゲハチョウが。

帰りに、ビルの壁に囲まれている淀屋橋をもう一度写してみました。

今のカメラは、デジタル画像処理機能が搭載されていて、面白い写真が撮れるようです。



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さて、今回は北館6階のウメキタフロアを紹介しましょう。USJにありそうなアメリカ風のスタンダードバー

この階は、昼間もしっとりとした夜の空間を演出しているのでしょう。照明の明るさを落としています。

外国映画に出てくるようなバーもあります。

散々報道されている近畿大学水産研究所の養殖魚料理の店

その先には、フレンチ、イタリアンなどの店が並んだコーナーが

西側に大きな窓のある日本料理の店

6階から吹き抜け部を見下ろしてみると、こんな光景です。

5階に下りて見たナレッジキャピタルの吹き抜け部

2階まで下りてみました。

つづく



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