野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



京葉線東京駅から長い地下道を500mくらい歩いて地下鉄丸の内線東京駅、そこから国会議事堂で千代田線に乗り換え、11時過ぎに赤坂に到着である。

改札の出口



赤坂サカスは、1994年に完成したTBS放送センター(愛称:ビッグハット)にTBSの本社が移転した後、旧社屋跡地を再開発して今年3月にグランドオープンした出来たばかりの街である。

赤坂Bizタワー



この赤坂サカスにある赤坂Bizタワーは、延べ床面積18,7万平米、39階建て、高さ179m、梅田のハービス大阪より10m低いビルで、こちらは一足早い2008年1月31日に完成している。



お台場のフジテレビ、汐留の日本テレビ、六本木ヒルズのテレビ朝日、赤坂サカスのTBSと、東京のテレビ局は「局の城下街」を競っているかのようである。



地下鉄千代田線赤坂駅の改札を出ると、すぐに赤坂サカスに通じる幅の広い階段があり、そこを上った地下広場の右が赤坂Bizタワーの入り口となる。

Bizタワーのアトリウム



地下広場から地上に通じる階段には、LEDディスプレーが埋め込まれ(メディアステアーと呼ぶらしい)、階段がスクリーンのようになっている。



大阪心斎橋ソニータワー跡地にできたラ・ポルト心斎橋にも壁面にLEDディスプレーがあり、夜には綺麗であるが、こちらは地下にあるために日中でもディスプレーを鑑賞できるのが特長である。



階段を地上に出るとライブハウス赤坂BLITZ、その奥がサカス広場で、3月のグランドオープンの時、ここから「みのもんたの朝ズバッ!」の生放送を見たことを思い出した。



その時と同じ雨であったが、今回その場所にきて意外と敷地が狭いことにビックリした。



サカス広場から赤坂Bizタワー前まで引き返すと、アネクス1という小型の店舗ビルがあり、その中にTBSストアが店開きして凄い人気である。



折角なので、TBSの番組をモチーフとしたお土産品の中から、何点か買って帰ったが赤坂サカスとは、まさにTBSの城下町であり門前町のようでもあった。



赤坂Bizタワーのショッピングゾーンを見学して地下鉄駅に戻る途中、5種類の商品を試供品として無料で配るコーナーがあるではないか。



早速、列に並んですべての商品をゲットしたが、さすがに東京は太っ腹である。


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あっという間にバスで到着した、ヒルトン東京ベイホテルのエントランスロビーは、掃除が行き届いたピカピカの床であった。



チェックインの前にロビーを見てみると、ベーカリー、キッズコーナー、スターバックスコーヒーのコーナーまである。

ベーカリー



フロントは、東京ディズニーランド観光の宿泊客でかなり混雑していて、15分くらい待たされたが、ヒルトンオナーズのメンバーカウンターが空いたのでそちらに廻ってチェックインすることができた。

キッズコーナー



案内された4階のエレベーターロビーは、幼稚園のようで、最近リニューアルされたという部屋(ハッピーマジックルーム)の扉や部屋の中もしっかりとペイントされている。

エレベーターホール



ペイントされたキャラクターは、ディズニーランドに登場するキャラクターではなく、オフィシャルホテルといえども容易にディズニーキャラクターは使えないようである。



今までこれほど派手にペイントされた部屋に泊まったことは無かったが、室面積は35㎡、ベッドが3台余裕で入る広さがあった。



壁側には、37型の液晶テレビが置かれ、ゲーム機やDVDプレーヤーも完備していて、長いカウンターは小物を置けるので使いやすい。



3台のベッドと長いカウンターでスペースを取っているせいか、窓際には小型のスツールが2台あるだけでソファーは置かれていなかった。

バスルームの浴槽は、すぐ横に便器があるので少し使い難かったが、足を伸ばしてゆったりと入れる長さがあった。



ぐっすりと眠った翌朝、楽しみにしていた朝食バイキングのメニューが貧弱で、美味しくなかったのにはガッカリさせられてしまった。



これなら大阪のウエスティンホテルの朝食の方が、品質、種類、味ともに格段に上であると断言できる。



それでも朝のひと時をゆったりと過ごし、9時にチェックアウトして荷物をベルデスクに預けると、夕方チェックインするホテルまで無料で届けてくれるという。



このホテルから東京に出るためには、無料バス→有料モノレール→徒歩→舞浜→京葉線東京駅~地下鉄東京駅と長いプロセスとなってしまうがハッピーマジックにかかった以上仕方が無い。



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東京に出かけるプライベートな事情があったので、舞浜にあるホテルとセットとなった格安団体割引チケットを使って、久しぶりの東京見物をしてきた。



こののぞみ号は、一般の人が乗れない団体専用列車なので、運賃が安く中はガラガラである。



到着した東京駅の新幹線改札口から、下りのエスカレーターと動く歩道を延々と歩き、地下4階という深い場所にある京葉線東京駅までたっぷり15分もかかってしまった。

京葉線の列車は、千葉方面からの通勤者と東京ディズニーランドへの観光客がメインなので、ムービングウオークの両側はディズニーの広告で一杯である。

舞浜駅のディズニー広告



それにしても大阪駅と肥後橋駅の距離に相当すると思うが、地下で通じているだけで、肥後橋駅を大阪駅と呼ぶにはちょっと抵抗があると思うのは私だけであろうか。

当初、成田新幹線用の駅として計画された京葉線東京駅は、1990年3月に完成開通しているので既に18年が経過していることになる。

東京駅ビル



ここから快速に乗れば、舞浜まで僅か13分、210円の料金で運んでもらえるので、大阪方面から新幹線を使って東京ディズニーランドに行くには便利の良い路線であるが、ディズニーに縁の無かった私には今回初めての利用となった。

舞浜駅



舞浜駅から程近いホテルに行くには、片道250円のモノレールに乗り、到着した駅からホテルの送迎バスに乗り換えるという大層なことになっていた。



仕方が無いので当日と翌日分、2デイパス(800円)を買ってモノレールに乗ったが、普通であればホテルから舞浜駅までの送迎は無料の距離であろう。

モノレール内部



このモノレールの窓や吊革は、意匠が工夫され、ディズニーランドの非日常性をうまく演出しているが、肝心のディズニーランドやディズニーシーの中が見えないルートを走行しているので乗っていて景色を楽しめないのである。

アールデコ調にデザインされたバス



到着したモノレール駅から、泊まるホテルがすぐそばに見えるが、宿泊客は全員ミッキーマウスの窓がついた無料バスに乗り換えるシステムとなっている。



このバスの中にある吊革もミッキーマウスという凝ったものであったが、距離が短いので発車したと思ったらもうホテルに到着である。

バスの扉



モノレールとバスの組み合わせで、客を喜ばそうということなのであろうが、舞浜駅からの直通バスのほうが時間を節約できるので客はもっと喜ぶと思う。


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大阪名所はいくつもあるが、徳川時代初期に造られた大阪城石垣こそ、大阪が世界に誇る歴史遺産ではなかろうか。

最後に完成した二の丸南側の石垣と南外掘り(六番櫓だけが現存)



エジプトのクフ王のピラミッドは平均2,5トンの石を250万個、高さ140mまで積み重ねているが、大阪城では1個が100トンを超えるものを含めて100万個、全長12キロの長さに渡って石垣が築かれている。

二の丸南側、三番櫓跡下部



日本はもとより、世界でもこれほど巨大な石を加工した石垣は類を見ないのではないかと思う。

先に完成した二の丸北西、乾櫓下部の石垣(南側よりも石の積み方が粗い)



江戸城のある関東には、有力な外様大名がいなかったために巨大な石垣は必要なかったが、薩摩、長州など有力外様大名が配置された関西では、徳川への反乱に備える為に堅牢な守備陣地が必要であったと考えられている。

二の丸南側、五番櫓跡下部



築城の時に想定されたように、幕末の1868年に薩長の軍勢が大阪城を取り囲み、大阪城の本丸と二の丸が炎上する事件が起きている。

大阪城の石垣は、最大の蛸石が130トン、肥後石、振袖石が120トンなど巨大な花崗岩の塊でできていて、裏に隠れたものを含めると総数100万個に上ると想定されている。

肥後石



豊臣時代までの城の石垣は、姫路城や和歌山城などに見られるような「穴太積み(野面積み)」と呼ばれる自然石(野面石)を横に寝かせるように重ねて、隙間に小石を詰める技法が主流であった。

和歌山城の石垣



大阪城では、石が隙間無く積めるように事前に石を規格化して加工量産した「算木積み」と呼ばれる堅固な新技法が使われていて、特に石組みが美しいのは、大阪城再築の最後となる1628年に築かれた南外堀に面した二の丸石垣である。

二の丸南側、手前から七番、六番、一つおいて五番櫓の下部の石垣(六番だけが現存)



広大な外堀と長大な二の丸のスケールから、石垣の高さをあまり意識することが無いが、石垣の底に敷き詰めた根石からの高さが約33,5mもあることが最近判明している。

この石垣の上から堀を覗き込むと、扇のような曲線が美しく、33,5mの高さの石垣を登って城に侵入するのは不可能に近いと思うが、鉄壁の大阪城も幕府軍の篭城に使われることは無く、幕末にはすんなりと開城している。



城を守る人間に意欲が無ければ、どんなに高い石垣の城を築いても、意味が無いことが幕末に証明された訳で、やはり武田信玄の言う通り「人は城、人は石垣」なのである。


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休日を利用して、南海電車の河内長野駅からバスで15分の場所にある大阪府花の文化園に行ってきた。



花の文化園の園内に入ると、広さ2千㎡もある大温室、花の工房、イベントホール、レストラン、花の図書館、装飾花壇、ぼたん園、バラ園、アジサイ園などがあるが、大阪鶴見区にある花博記念公園と非常に良く似た施設である。



大阪府みどり公社が1990年から管理運営している面積10ヘクタールもある花の文化園は、鶴見緑地の花博開催と同じ年にスタートしている。



まさか、大阪府が花の博覧会を開催する大阪市に対抗して急遽造った施設という訳では無いと思うが、時期とコンセプトがソックリなのである。



大阪南港ワールドトレードセンターに対抗したりんくうゲートタワービルなど、大阪府が大阪市に対抗し、採算を度外視した巨大施設を造った例は多い。

ケマンソウ



大阪府みどり公社の前進である農地開発公社がスタートしたのは1986年、バブルが膨らみかけた頃で、日本中の不動産が値上がりし、土地を買っておけば必ず儲かっていた頃である。



今では全く経済環境が変わってしまっているのに、当時設立された赤字公社が存続し、20年以上府の財政負担が続いていることにビックリする。

プリムカップ



このことにやっと気がついた有権者が、大阪府政の赤字を立て直して欲しいという思いで橋下氏を知事に選んだと考えるべきであろう。



大阪府のHPで調べてみると、橋下新知事によって設置された大阪府改革プロジェクトチーム(改革PT)は、4月11日「財政再建プログラム試案」を取りまとめ、大阪府みどり公社は廃止の方向性を打ち出している。

奇想天外



改革プロジェクトチームの資料によれば、大阪府みどり公社への府の財政支出は6億円余り、施設管理等は民間やNPOを活用すれば廃止できるとしている。



橋下知事の言うとおり、大阪府の赤字を孫や子の時代にまで引き継ぐことが無いよう、改革PTの試案通り大阪府みどり公社は廃止するのが正しいと思う。


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半年振りのテニス合宿ということで、伊賀上野にあるウエルサンピア伊賀に行って来た。



社会保険庁は、1兆5千億円の年金をつぎ込み、厚生年金健康福祉センター22箇所、厚生年金休暇センター17箇所、厚生年金スポーツセンター4箇所を今まで全国に建設しているという。



これらの施設保有権は、2005年に社会保険庁から年金・健康保険福祉施設整理機構に移管されており、全施設について5年以内をめどに段階的に廃止・売却の手続きが進められているらしい。

この厚生年金健康福祉センターや厚生年金休暇センターには、宿泊施設、研修施設、レストランのほかにテニスコート、レジャープール、ゴルフ練習場などを備えているものが多い。

ウエルサンピア伊賀のドームコート



そこで、今回はテニス合宿を兼ねて、廃止・売却になる前の厚生年金福祉施設ウエルサンピア伊賀を体験してみることとした。



ウエルサンピア伊賀に到着したのはチェックインの時間より少し早かったがフロントで頼んでみるとすぐに部屋に入れて貰う事ができたので、接客サービスは良いようである。

客室前の廊下



バストイレ付きツインベッドの洋室は、27㎡くらいであるが、廃止・売却が決まっているせいか客室の内装がくたびれているように思った。

夕食までの時間に、無料温泉券を使ってウエルサンピアの隣にある温泉施設「芭蕉の湯」に入ってみると、中が広く天然温泉の露天風呂があって快適である。



17名の団体ということで、夕食は大広間が用意されていて、6時から8時頃まで宴会、そのあとカラオケルームに移動して10時半頃まで盛り上がった。

夕食



翌朝も温泉券を使って朝風呂に入り、朝食を食べてインドアのテニスコート2面を使ってテニ スの試合である。



小雨のパラつく天候だったのでインドアコートを予約して正解であったが、気温が低く、ゲームに参加しないメンバーはふるえながらの観戦となった。



今回、はじめてウエルサンピアの施設を使ってみたが、関係者の利権の温床となったと疑われても仕方が無いくらい、土地と建物にお金を使っているように思ったのは私だけであろうか。

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テニス合宿2日目は、テニスの試合の後、伊賀上野駅に近い「とろろ庵伊賀路」まで移動して昼食を摂ることとした。



店のレジカウンターの横に山芋(伊勢芋)が展示販売されていたが、伊勢芋は三重県櫛田川の中流域を原産地とし1719年(享保4年)頃には既に栽培が始まっていた伝統のある山芋である。



この伊勢芋は、皇室の重要な行事の際に必ず献納され、また天皇や皇族が伊勢神宮に参拝の際には宮内庁がしばしば買上げて皇族方に供されているという高貴な方が好んで召し上がる食品でもあるらしい。

とろろ庵の説明書



また伊勢芋はすりおろしても変色せず、味が濃厚で「ミューシン」という蛋白質と、ジアスターゼを含んでいるので、消化の機能が弱い?高貴な方に珍重されているのかもしれない。

とろろ



この山芋を乾燥させたものは、日本薬局方に収録され、八味地黄丸、六味丸などの漢方に使われる滋養強壮の薬品となるので、高貴では無い我々は、山芋を食べてテニスで疲れた体を回復させようという算段なのである。

とろろづくしセット



貝原益軒は、その著書「養正訓」の中で、とろろで精力がつきすぎるのを心配しているが、益軒が想定する年齢を既に超えている我々には、もはや関係の無い話しである。

とろろ磯辺揚げ



日本の山野に古来からある山芋は、自然薯(じねんじょ)とも呼ばれ、すりおろして とろろにする調理法が一般的である。

一方、よく山芋と混同される長芋は、中国原産の別種の野菜で、日本へは17世紀以前に渡来し、山野に野生化することが無いのが特長である。

とろろの蒲焼



今回「とろろ庵伊賀路」の名物とろろづくしセットを注文してみたら、「とろろの蒲焼」、「とろろの磯辺揚げ」、「まぐろ刺身のとろろかけ」、「麦とろろごはん」、「野菜の煮物」、「茶碗蒸し」という組み合わせであった。

これで1680円



この「麦とろろごはん」には、白米と麦を6対4にブレンドしたものを使っていたが、この比率と白米に使うコシヒカリと伊賀米のブレンド比率が美味さの秘訣であろう。

メンバーのテニスシューズが一杯



高貴な方にも珍重されている「麦とろろごはん」は、スルッとしたのど越しが良く、食べた後に滋養強壮の効果がじわりと出てきたような気持ちとなったが、これは薀蓄を傾け過ぎたための幻想であろうか。


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毎週練習しているテニス仲間と一緒に、伊賀上野まで土日の2日間テニス合宿に行って来た。

昭和になって建設された天守



到着した土曜日は雨であったが、伊賀上野城を見て、お城から程近い豆腐田楽の専門店「田楽座わかや」を探して昼食を摂る事にした。

高さ30mもある高い石垣



この「わかや」は、伊賀上野の近くに住んでいる会社の同僚に教えてもらったのであるが、安くてヘルシー、地元でも評判の良い店という。



雨の昼時、合宿のメンバー17名が一度に入ったのであるが、幸い店の客席が多かったせいか10分くらいで席に案内してもらう事が出来た。

香ばしい匂いが食欲をそそる店では、秘伝の田楽味噌を塗った豆腐が炭火に架けられ、この道一筋数十年というご主人が熟練の技で田楽豆腐を炙っている。



伊賀上野では、田楽豆腐を炙った料理が名物であるが、この「わかや」はなんと創業200年という老舗であった。

1380円の豆腐田楽Aセットを注文してみたら、16本の串に挿した豆腐田楽が1箱、ご飯、野菜の炊合せ、おから、お吸い物、香の物が出てきた。



地元の人は、840円とリーズナブルな豆腐田楽Bセット(豆腐田楽が1箱、ご飯、お吸い物)を注文し、豆腐田楽だけを楽しむ人が多いようである。



ご主人によって丁寧に炙られた豆腐田楽は、外側が朱塗りの箱に入っておごそかに出てくるのがミソで、料理を箱に入れて出すという演出は、200年前からの伝統であろうか。



この豆腐田楽の味噌だれには、隠し味として柚子が使われているようで、かすかな柚子の香りを楽しみながら、伝統の味を賞味したのであるが、これほど美味い豆腐田楽を食べたのは始めてである。

豆腐田楽は、豆腐に田楽味噌を塗り炭火で焼いただけのシンプルな料理であるが、それが200年も続いているのは材料、仕込み、焼きのプロセスに窺い知れない秘伝の技術が盛り込まれているのであろう。



これほど美味い田楽料理店は、大阪、東京にはなかなか無いと思うが、ヘルシーな豆腐田楽は、伊賀上野が誇る世界に通用する料理であろう。


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豊臣秀吉の大阪城は、1583年から工事が着手され、1585年には天守閣と本丸が完成、その後1586年二の丸の工事が着手、1588年にほぼ全体が完成しているが、1615年の大阪の陣で破壊されているので僅か27年という短命の城であった。

1931年に再建された大阪城天守



徳川秀忠(1579~1632年)は、破壊から4年後の1619年9月大阪城に滞在した際に大阪城の再築を決意し、翌1620年から3年間再築工事(1期)が実施されている。

1期工事で再築された外掘りと東側の石垣



1624年、2期工事で再築された大阪城本丸東側の石垣は、内掘り水面からの高さが24m、水深6m、堀底から根石まで2~3m、合わせて32~33mと推定されていて、豊臣時代の本丸石垣よりも遥かに高くなっている。

本丸東側の内掘りと高い石垣



この石垣は、大阪城梅林西の内掘りから極楽橋にかけて、朝日の当たる時間帯に散歩しながら見ると400年後の今もしっかりとしていて綺麗である。

本丸の石垣の上は高い



また2期工事で桜門枡形を担当した岡山藩主、池田忠雄(1602~1632年)は、蛸石(城内第1位130トン)、振袖石(城内第3位120トン)、碁盤石(第7位)、竜虎石(第14、15位)を運び込み、幕府に忠誠を示している。

桜門(門の下の左右は竜石と虎石)



一方、第2期工事に動員された美濃の高須藩(5万石)は、持ち場の工事が遅れたことで所領を没収され改易されているので、動員された諸藩は震え上がったようである。

蛸石(城内第1位130トン、左下に蛸の頭のようなシミがある)



家光は、本丸天守閣が完成した2年後の1628年、大阪城再築の最後となる3期工事の着手を西日本の57大名家に命じている。

振袖石(城内第3位120トン)



3期工事では、全長2,4キロの二の丸石垣が年内に完成し、翌1629年には櫓や大手門、玉造門も完成しているので、今回も凄いスピード工事であった。

3期工事で完成した南外掘り東側の石垣と1番櫓



このとき、大手門枡形を担当した熊本藩主加藤忠広(清正の子1601~1653年)は、幕府の覚えめでたきように大手見付石(城内第4位108トン)、大手2番石(城内第5位85トン)などの巨石を運び込んでいる。

大手門



実は、加藤忠広の涙ぐましい努力は幕府に全く評価されず、大手門が完成してから3年後の1632年に領地を没収されて改易処分となっている。

大手見付石と多門櫓



大手門枡形の多門櫓には、1783年に落雷があり、枡形の櫓が全焼しているが、永くそのまま放置され、やっと再建されたのは幕末の1848年なので、現在の多門櫓(重文)は建築から未だ160年という新しい建築物である。

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5月21~25日の間、大阪中之島公園の剣先地区で、ビーチバレーのワールドツアー日本大会が開催されていたので、昼休みの散歩を兼ねて見に行って来た。

中之島バラ園



チケット売り場の看板には、21日予選、22日32試合,23日22試合、24日土曜日は4試合、25日日曜日に準決勝、決勝、3位決定戦が行われる予定と書かれてある。



今回の大会には、日本から佐伯美香・楠原千秋ペア、浅尾美和・西堀健実ペアら8組が出場しているが、強豪を含めて約30カ国約60組が出場する今大会を、北京五輪予選と位置付ける国も多いので、試合は白熱した戦いとなりそうである。

中之島バラ園マチルダの蕾み



主催者は、2トントラックで300回もの砂を運んで5面のコートを設営しているが、その砂は淀川の浚渫工事で出たものをふるいにかけて、カナダの研究所で審査をクリアしたものである。



日本ビーチバレー連盟によると、国際連盟主催の公式戦は国内ではこれまですべて海岸で開かれており、都市部での開催は初めてという。



都心から遠い海岸でやるよりも、都心の中之島の方が観客を集め易いというメリットを考慮したようである。

会場入り口



観戦チケットは、指定席が3500円、自由席が2500円と3千円、予選中のサブコートだけであれば、入場料500円で観戦できるという。



しかし、主催者からの注意事項の中に、会場内にカメラ、ビデオ、カメラ付携帯電話の持込、及び撮影は固くお断りと書かれていたので、会場内の写真撮影はダメであった。

ピカソ



確かにスポーツとは言え、激しく動き回るビキニ水着の女子選手をじっくりと写真やビデオで撮ると、別のジャンルの写真となってしまう恐れがあるので禁止されているのであろう。

ふれ太鼓



ビーチバレーの会場入り口から、バラのプロムナードを歩いて戻ることにしたが、こちらのバラ園は、無料の上にタイミング良く満開で、写真撮影は自由である。

「ピエール・ド・ローランサン」



特にセンチメンタルというバラは、バラには珍しい赤と白2色が混ざったツバキの花のようであった。



プロムナードの入り口の柱に沿って伸びるバラ「ピエール・ド・ローランサン」の大輪の花もなかなか綺麗である。




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イタリア語で「夢のまた夢」という意味があるソーニ・ディ・ソーニは、前に大阪ドームの横にオープンし人気を博していた記憶があるが、今は延田グループ本社ビルの地下に移転している。



ヨ-ロッパ通りを心斎橋筋から一筋東に入り、南に少し歩くと「パチンコ123」で有名な延田グループの看板が出ているビルがある。

郷ひろみ(1955年~)は、延田グループのテレビコマーシャルにも出ており、店のパンフには、ソーニ・ディ・ソーニのオーナーとされているが、店の経営に直接タッチしている訳ではなさそうである。

入り口



店のエントランスは、地下に至る狭い階段となっていて、地下1階がワイン蔵(ワインセラー)のようなレジ受け付け、さらに階段を下った地下2階が客席で、地下1階と2階の空間を吹き抜けとして使っているので、地下にあっても狭さを感じることがない。

地下1階



日本にある本格的なワインセラーと言えば、ホテル川久のものが有名であるが、以前泊まったときに見せてもらったことがある。

川久のワインセラーの内部



客席の壁も、レンガと漆喰でワインセラーのイメージで仕上げてあり、一部の客席がバルコニーのように高くなっているのが特長である。



一人4500円、6800円、1万円のコースメニューもあるが、アラカルトは、1品が2000円前後の設定なので、パスタとピザだけにしておけば4000円以内で済むことになる。



今回は、トマトソースのニョッキと、モッツレラチーズのピザだけを注文してみたが、料理の味は合格点であり、客席が広いのでゆったりと食事を楽しむことができたように思う。



21歳でイタリアに渡り、8年間ローマの一流リストランテで修行、帰国後「料理の鉄人」に出演したこともあるシェフの腕は確かであった。

ムードのあるテーブルのランプ



食事をした時間が早かったせいか、未だ客は少なかったが、心斎橋筋から歩いて2,3分という足の便の良い場所にあるのでこれからも時々利用したいと思う。


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大阪城築城といえば、すぐに豊臣秀吉を連想するが、現在の大阪城は、秀吉の死から21年後、福島正則が改易処分となった1619年、2代将軍徳川秀忠(1579~1632年)が再築を指示したものである。

1931年に再建された天守閣



再築の相談役は、築城の経験豊富な藤堂高虎(1556~1630年)で、秀忠は豊臣時代(1599年完成)の2倍の規模の大阪城を再築するように命じたという。

1620年には、西日本の48大名家に対して再築への参加が命令され、二の丸の西、北、東の堀(外堀)と石垣の再築が1期工事として着手されている。

西の石垣



この工区の石垣には、廃城となった古い伏見城の石垣がかなり転用されたようで、2期、3期工事で使われた巨大な石が少なく、積み方も粗いようである。

二の丸北西角にある乾櫓と外掘り



しかし、岡山藩池田家によって築かれた京橋口枡形には、肥後石(城内第2位120トン)を始めとする巨大な石が運びこまれているのが目を引く。



この1期工事には、大手門北の千貫櫓や北西角の乾櫓も含まれていたようで、昭和になってからの解体修理の際に、1620年(元和6年)の墨書きが発見されている。

千貫櫓と外掘り



3年後の1623年、徳川家光は将軍宣下を受けるために上洛しているが、大阪まで足を伸ばし大阪城の西、北、東の外掘りと石垣、櫓や城門の完成を視察している。

翌1624年、家光は本丸築造の2期工事を指示し、動員された西日本の58大名家によって内掘りと本丸石垣、山里丸、天守台の工事が着手されている。

本丸の山里丸への裏口となる極楽橋



工事は急ピッチで進み9ヶ月後には完成したというが、これほどの大工事が9か月で完成したのは、各大名が競ったこともあるが1期工事で掘られた外堀の土砂が本丸に盛土され、本丸の基盤がほぼ出来上がっていたのではなかろうか。

1959年に実施した本丸のボーリング調査で、本丸には10m以上の盛土が確認され、天守前に掘られた深さ33mもある金明水井戸も、1624年の2期工事の際に掘られたものと判明している。

金明水井戸



石垣の完成から2年後の1626年には豊臣時代を遥かに上回る5層の天守閣が完成している。(今の天守閣は、昭和になってからの1931年、大阪市民の寄付で再建されたものである)



この天守閣は、1665年落雷のために焼失し、徳川時代には復興されることは無かったが、天守前に掘られた深さ33mの金明水井戸の屋形は焼け残り、その解体修理の際に1626年(寛永3年)の墨書きが見つかっている。


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阪神西宮駅を下り少し西に歩くと、こんもりとしたえびすの森が見えてくるが、そこが日本に約3500社ある、商売の神様として知られる「えびす様」の総本社である。



「十日えびす」として名高い1月10日を挟む3日間は、100万人を越す参拝者があり、中でも10日の早朝行われる福男選びの競走は全国でも有名である。

スタート地点



大阪にも「今宮戎神社」があるが、熊野本宮神社の分社が京都で今熊野神社と呼ばれるのと同じで、今西宮神社が略されて今宮戎神社となったという説が有力である。

スタート直後の直線と路面



国の重要文化財に指定されている神社の東を囲む大練塀に沿って南に向かって歩くと、朱塗りの表大門(重要文化財)があり、毎年1月10日の早朝、この門の開門と同時にスタートが切られる福男競争は有名である。

南宮神社前から90度右に曲がると石畳の走路となる



東向きの表大門からはじまる福男競争のルートは、西に100m直進し、南宮神社の前から右に90度向きを変え、100m進んだ奥の鳥居からS字状に曲がって拝殿に至る難コ-スである。

S字状になっている拝殿へのルート



この間の走路は、表面が滑りやすい石畳となっているので、スタートと同時に転んだり、スピードがついた状態で90度曲がる際に滑って転ぶ人が続出するので非常に危険なコースとなっている。

拝殿前の滑りやすい石畳のコーナー



表大門を見たあと大練塀に沿ってさらに南に歩くと、国道43号線に面した南側に南門と西宮えびす神社の大きな看板があった。

表大門と大練塀



南門は、近年再建されたものようで、境内にある駐車場へ入る車の通路となっている。

南門



南門から境内に入ると、50m北に福男競争のルートとなる石畳があり、石畳の参拝ルートを進むと拝殿の前に出られるようになっている。

拝殿



拝殿の南側には池があり、住吉大社に見られる反橋もあったが、石造りの反橋の上は通行禁止となっていた。

反橋



池の中には日露戦争時の船会社(八馬船舶部)が船を建造した記念に建てた灯台を模した石柱があったが、戦争物資の輸送で相当儲かったのであろう。

記念碑



池の西側と拝殿の西側には多くの摂社があり、その摂社と拝殿の後ろは都市の真中にある原生林「えびすの森」(天然記念物)である。


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日本に約3500社ある、商売の神様として知られる「えびす様」の総本社、西宮神社は、灘五郷の一つ西宮市の中央、国道43号線の前にある。



神社の創建年代は明らかではないが、1172年の記録文書に「えびす」の名が見え、高倉上皇をはじめ皇族・神祇伯の参拝が度々あったことが古文書に残されているので800年以上前からこの地にあるのは確実のようである。

東側にある表大門



土御門天皇の時代1225年には火災で全焼しているが、1250年代には十日えびすの祭典「忌籠(いごもり)」が斎行され、1361年にも十日えびすの際に西宮神社の門前が賑わっていたという記録があるので、600年前には既に有力な神社となっていたと思われる。

境内から見た東大門



戦国時代には、後奈良天皇から寄進をうけたのをはじめ、豊臣秀頼、四代将軍徳川家綱により社殿の造営がなされている。

天保7年(1836年)の石灯籠



上方の商業経済が発達した徳川時代には、社勢がますます盛大になっていくと共に一般庶民に「えびす様」が商売繁盛の神として信仰されるようになっている。

社殿の第一殿に西宮大神(蛭児命、えびすのみこと)を祀り主祭神とし、第二殿に天照大御神と大国主大神、第三殿に須佐之男大神が祀られている。

本殿の屋根



祭神の蛭児命は伊弉諾岐(いざなぎ)命と伊弉諾美(いざなみ)命との間に生まれた最初の子であるが、不具であったため葦の舟に入れて流され、西宮に漂着して海を司る神として祀られたという。

拝殿



実は、今宮戎や長田神社の主祭神は、事代主命とされ、蛭児命(蛭子神)では無いので、「えびす神社」には2つの系統があり、蛭児命を祀る方が古い神社のようである。

今宮戎神社拝殿



西宮神社は、廣田神社を本宮と見て、その南に成立するために「南宮社」と呼ばれていた記録があり、摂社南宮神社が今も境内に鎮座している。

南宮神社



明治時代以降、交通機関の発達に伴い、「えびす様」の参拝者数が飛躍的に増加し、神社の境内には江戸期と明治、大正、昭和の石灯籠が多数配置されている。

拝殿前



元国宝の三連春日造の本殿は、戦火で惜しくも焼失しているが、1961年に元通りに復元され、焼失を免れた神社の周囲を囲む大練塀と表大門は国の重要文化財になっている。


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廣田神社は、神功皇后が三韓征伐から戻る際、「天照大神の荒魂は広田(甲山山麓)に置くのが良い」との神託を受け、社殿が造営されたという。



廣田神社の由緒書きには、神功皇后が三韓征伐から戻る年次を201年としているが、倭国が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献・考古史料は中国、朝鮮に多く残され、いずれも4世紀の後期とされている。

第1、第2脇殿(住吉神と八幡神)



従って、その時期に廣田神社が創建されたのであれば、優に1600年以上が経過していることとなる。



このとき神功皇后に従い、戦利品の馬に乗って三韓征伐から先祖が帰還した辰馬氏、八馬氏、中馬氏等、姓に馬の文字を含む一族が廣田神社の置かれた西宮に多く留まり、その後辰馬家は酒造業を起こして成功し、中馬家は後に大阪市長を出している。

第3、第4脇殿



八馬家は、明治から昭和初期に海運と銀行業で発展した西宮の財閥で、海運は今も八馬海運として残り、銀行は後に神戸銀行となっている。

西宮神社の八馬船舶部記念塔



廣田神社のことが文献に最初に登場するのは、大伴旅人が廣田神社の宝物である珠を見て和歌に詠んだのが730年なので、1300年前には確実にこの地にあったようである。

本殿から見た参道



廣田神社の西、神戸市の生田神社、長田神社も同時代に創建され、平安初期806年の文献には、朝廷から廣田、生田、長田3神にほぼ同額の封戸が与えられているので、当初3つの神社は同列に扱われていたようである。

鳥居



しかし、868年になると廣田神社は従一位を受けて、生田神社、長田神社(従四位下)より位階が格段に進み、1039年には伊勢神宮から始まる二十二社の内の一社に位置づけられているので、抜群の営業能力を持つ神官がいたのであろうか。

摂社



平安時代以降は、天照大神を祀る伊勢神宮と同体の大社として崇敬を集め、伊勢よりも京都から近かったために、西の神宮(西宮)として貴族や武家の参詣が絶えなかったようである。



廣田神社は、明治に入った1871年、官幣大社35社の一つとなり、兵庫県では最も社格の高い神社となっているが、現在では神戸市にある生田神社や長田神社のほうが知名度で上回っているように思う。


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