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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



幕末、井伊直弼の「安政の大獄」で蟄居となった青蓮院宮、後の中川宮が明治になって久邇宮家を設立し、久邇宮朝彦(1824~1891年)を名乗っている。

井伊直弼の彦根城天守



久邇宮朝彦親王の第二王子が賀陽宮家を創立した邦憲王(1867~1909年)、その第一王子が恒憲王(1900~1978年)、恒憲王の第二王子が治憲王(1926~)である。

賀陽宮治憲王(当時17歳)は、1943年12月1日に江田島の海軍兵学校(井上茂美校長)に入学し、終戦後1945年10月1日最後の第75期卒業生となっている。

江田島に近い呉市



皇族が海軍兵学校に入学して海軍の幹部になるケースは多く、開戦直前まで海軍のトップであった伏見宮博恭王(1875~1946年)は、日米早期開戦論者として有名である。

3千名以上いた75期海軍兵学校生徒は、人数が多かったせいか江田島本校と岩国分校に分かれて教育を受けたようで、治憲王も岩国で柔道訓練を受けている。

大和ミュージアムからみたドック



兵学校に入校すると、全生徒が半年間に渡って柔剣道を習い、その後いずれかを自由意志で選んで卒業まで柔道か剣道は必須科目であったという。

兵学校生徒の人間形成の手段として柔道は重要視され、海軍兵学校が江田島へ移転すると、海軍省は畳千畳敷の大道場を2棟も建設したほどである。

大和ミュージアム入り口



以来この道場は、「講道館江田島分場」と呼ばれ、柔道界の別格本山として東京の講道館に次ぐ権威と格式を誇ることになっている。

当時私の伯父は、兵学校岩国分校で柔道教師をしていて、伯父のコーチを受けた治憲王の教育終了に際して、伯父に(菊の)紋付タバコと金一封が下賜されている。



伯父(1917~1945)は、1938年に召集を受けて海軍に入り、退役後は、柔道と書道の教師として生活することを夢見ていたらしい。

柔道は、その夢を実現させるために海軍に入ってからも続けていたようで、1941年には講道館から柔道4段の昇段証書を受けている。



以前公開された映画「男たちの大和」の中で柔道のシーンがあり、柔道場の看板に3段までの名札しかなかったが、大和に乗っていた伯父は4段であったのである。

1945年4月、伯父は戦艦大和で戦死したが、同年10月に兵学校を卒後した賀陽宮治憲王は、賀陽治憲と姓を改めて東大法科に入学している。



賀陽治憲氏は、東大卒業後、外務省に入省して国連局長、ブラジ大使を歴任し、81歳となられる現在もご壮健のようなので、さらなるご長寿を祈りたい。


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