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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



まだ寒い2月末、大阪城梅林の梅の花を見て感動した人は、万葉集に梅の歌を残した1300年前の人達と、同じ感覚を持ったと言えるのかも知れません。そこで今回も万葉集の中から梅にちなむ和歌を紹介しましょう。

万葉集:年のはに、梅は咲けども、うつせみの、世の人我れし、春なかりけり

意味:毎年、梅の花は咲くけれども、この世の人である私には 春が来ないなあ(どこかのサラリーマンの気持ちのようです)

万葉集:春日野に 斎く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 帰り来るまで

意味:(奈良の春日野の)三輪山の梅の花よ、私が(唐から)帰ってくるまで、咲き栄えて待っていておくれ。斎く三諸(いつくみもろ)で三輪山のこと

万葉集:万代に 年は来経(きふ)とも 梅の花 絶ゆることなく 咲きわたるべし

意味:よろず代(よ)に、年は来てまた過ぎてゆくけれど、梅の花は絶えることなく咲き続けるのだろうなあ

万葉集は、全部で20巻、およそ4540首あり、大阪出身の国文学者折口信夫は、天皇の御代の永遠を祝福する歌集として成立したという説を唱えています。

 

万葉集と大阪城梅林はこれで終わり

 

参考文献:万葉集の歴史 辰巳正明著

 



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天気の良く無い日でしたが、大正区西船町バス停から地下鉄大阪港駅まで、ちょっと長めの散歩をするために、船町渡船場まで行ってみました。

船町渡船は、20分間隔(0,20,40分ごと)で運航していましたので、あまり待つことなく乗船できました。

定時になると、鶴町側に係留されている「ふなづる丸」が、船町側に来て、また鶴町に戻るという無料渡船サービスです。

幅が60mという木津川運河の東側です。両岸はすべて工場

木津川運河の西側には、咲洲の大阪府庁舎(旧WTCビル)が見えています。

鶴町側の桟橋から船町側を見ると、こちらは工場地帯なので殺風景ですね。

さて、鶴町と言えば若い家族連れに人気のあるイケアでしょう。今も休日はすごい混雑のようです。

そのイケアの横の道を真っすぐ歩くと、なみはや大橋が見えてきます。

この橋は下を大正内港へ入る船が航行するので、かなりの高さとなっていて、見はらしが良いのが特長です。

つづく



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万葉集は、1舒明天皇即位の629年まで、2壬申の乱の672年まで、3平城遷都の710年まで、4山上憶良没年の732年まで、5大伴家持最終歌の759年までの5期の年代に区分されますが、大よそ1300年前のものと考えて間違いないでしょう。

歌は、民族の精神性を強く反映しているものであり、その精神性を伝承したものが世界に誇る万葉集だと思いますので、今回もその中から少し紹介してみましょう。

万葉集:雪の色を 奪ひて咲ける 梅の花 今盛りなり 見む人もがも

意味:雪の白さを奪い取って咲いている梅の花がいまが盛りです。誰かに見せてあげたいなあ

万葉集:春さらば、逢はむと思ひし、梅の花、今日の遊びに、相見つるかも

意味:春になったら逢いたいと思っていた梅の花に、今日の宴で 逢えましたね

万葉集:今日降りし、雪に競ひて、我が宿の、冬木の梅は、花咲きにけり

意味:今日降った雪になんか負けてなるかと、私の庭の梅の木が花を咲かせました。

ヨーロッパ近代国家の文学を調べてみると、イギリス文学は811世紀頃、フランス文学が出現するのが11世紀、ドイツもほぼ同じ頃と考えられているので、78世紀頃に完成していた万葉集は、日本が世界に誇れる歴史文学と言えるのではないでしょうか。

つづく

参考文献:万葉集の歴史 辰巳正明著

 

 



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昨日(2月25日)朝7時に大阪港天保山岸壁に入港し、同日夕方出港した大型クルーズ船があります。18時過ぎ、クルーズ船は天保山岸壁から離れはじめています。船の後ろはUSJの明かり 

それがP&Oクルーズ社が運航しているArcadia(英語発音はアーケイディア)です。天保山から離れたArcadiaは、桜島の三菱倉庫前まで後進し、そこで方向転換。

ようやくArcadiaの船首が大阪港の出口(大関門)の方向に向きました。

今回寄港したのは、P&O社の初代Arcadia から数えて4代目となる船で、総トン数83000トン、全長285.0 m、幅32m、喫水8という大型船です。方向転換した船体の照明が海に強烈に反射していますね。

乗客数1952名(通常)~2388名(最大)、客室数は998室、うち70%はバルコニー付き、乗組員数880名、イタリアで建造され20054月に処女航海しているので、就航から7年が経過しています。

Arcadiaは、今年3月18日に寄港するクインメリー2(QM2、15万トン)に次ぐ、2012年大阪港入港大型クルーズ船ランキングの第2位となる船です。Arcadiaは、ゆっくりと大関門へ向かいます。

船名のArcadiaは、ギリシャのペロポネソス半島にある古代からの地域名で、牧人の楽園とされ、理想郷の代名詞となったことで有名です。巡航速力22ノット(時速40km)というArcadiaスピードアップしはじめました。

Arcadiaは、当初ホランド・アメリカ・ライン社向けの船として計画されていましたが、途中からクインメリー2を運航するキュナード社のクイーン・ヴィクトリアとして建造が進められていました。

しかし、キュナード社がクイーン・ヴィクトリアの内装設備を高級仕様に変更したために、3番目のP&Oクルーズ社が引き取ってアーケイディアとして完成した秘話があるようです。

  

 

光の塊のようなArcadiaは、さらに加速しながら18時15分に大阪港の出口(大関門)を通過してゆきました。

 



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朝の通勤時、なんばCITY1階に寄り道してみると、通路のシャッターが上がり、自由に通行できるようになっていました。SF映画に出てくる光景みたいですね。

人通りが少ないのは、ここが早朝通行できることを知らない人が多いからではないでしょうか。

雨の日であれば、傘なしでウオーキングが楽しめる通路となっていました。

さて、なんばCITYを北に向かって歩くと、左側に吹き抜け空間がある場所まできました。

その先は、選挙演説の場所として有名な難波高島屋前広場です。

この吹き抜け部には、かつて巨大なロケットがあったのですが、いつのまにか撤去されていました。

南側を振り返ると、通ってきたなんばパークスを示す文字が掲示されていました。

さて、北に向かって先に進みます。いつもごった返している此の通路に人影のない写真は珍しいのではないでしょうか。

外に出ると、正面にマルイと東宝シネマが入居するビルが姿を表し、SF映画の世界から現実に引き戻されるのです。

昨年3月にリニューアルされた「なんばCITY」の朝でした。

 



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大阪城梅林の梅の花を見て、梅の和歌を残した1300年前の人達の気持ちを知りたいと思い、万葉集の中から梅にちなむ和歌を探してみました。

万葉集:梅の花 咲けるが中に ふふめるは 恋か隠れる 雪を待つとか

意味:梅の花の蕾(ふふみ)は、恋して恥ずかしいのか、雪を待ってから咲こうと思っているのかどちらなのかな

万葉集には、梅の歌が119首もあり奈良時代以前の日本人は、雪が残る早春に咲く梅の花を桜よりも重要視していたことが判ります。

万葉集:梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや

意味:梅の花が咲いて散ったら、続いて桜が咲き季節は確実に春に近付いているのだろうなあ

万葉集の梅の歌119首には、梅の花を雪と一緒に詠んだ例が多いので、当時の大和地方では梅の季節になっても降雪が頻繁にあったと想像できます。

つづく

参考文献:万葉集 隠された歴史のメッセージ 小川靖彦著



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地下鉄大国町駅で下り、一筋東に歩くと、早朝から活気のある木津市場です。今回の早朝散歩は、ここからなんぱパークスを通って本町まで歩くことにしました。

最近テレビで頻繁に紹介されている木津市場の内部。この市場は、一般消費者でも卸価格で購入することができることが知られています。

その木津市場を東に抜け、クボタ本社の横を北に歩くと家電量販店「ヤマダ電気」前交差点です。

ヤマダ電気交差点を東に折れ、陸橋を上ると、外壁が地層のようにデザインされた「なんばパークス」が見えてきます。

グランドキャニオンをイメージしたデザインなのでしょう。

上を見上げると、楕円の空間に隣のビルと、エレベーター上の楕円のオブジェが切り取られていました。

営業時間中は、多くの通行客で賑わう通路も、早朝なので閑散としています。

さらに北に進むと、屋根の無い広場にでます。営業時間中であれば、この広場を通行する人がいない写真を撮るのは難しいでしょうね。

南海なんば駅の改札前、ここまで来ると「なんばCITY」は、もうすぐ下です。

 

 



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今から1300年前には、かな文字が発明されていなかったため、万葉集のやまと歌は、音だけ用いる万葉仮名(漢字)で書き表しています。以下の写真は、今年2月下旬大阪城梅林で撮ったものです。

そのやまと歌にはリズムがあり、作者はそのリズムが醸し出す音楽的効果を十分に考えながら、歌の中の言葉を選びぬいたことが判っています。

しかし、平安時代の951年、村上天皇が万葉集の訓読作業を命じたのは、万葉仮名(漢字)の読み方がもう判りにくくなっていたためで、やまと歌4540首のうち4000首以上がひらがなに書き直されています。

さて、その万葉集のやまと歌の中には、梅の歌が119首もあり、桜の歌42首を大きく上回っています。これは1300年前の日本人が桜よりも梅を好んでいた証拠ではないでしょうか。

では、万葉集の中から梅にちなむ和歌を1首紹介しましょう。

万葉集:春されば 散らまく惜しき 梅の花 しましは咲かず ふふみてもがも 

意味:春が去れば散るのが惜しい梅の花、しばし咲かずに蕾(ふふみ)のままでいてほしい

1300年前の和歌の意味が現在の日本人にも大体理解できるという事実、日本が世界に誇れる文化なのでしょうね。

大阪城梅林で撮った梅の写真がまだありますので、これから数回に渡って万葉集の中の梅の歌とともに、そのいくつかを紹介したいと思います。

 参考文献:万葉集 隠された歴史のメッセージ 小川靖彦著

 



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邦光史郎の小説「安宅一族」に安宅産業の創業者、安宅弥吉(1873年〜1949年)のことが詳しく描かれていますのでご紹介しましょう。ビルの間が今橋通

1895年に現在の一橋大学を卒業した安宅弥吉は、大阪の日下部商店に入社、すぐに香港支店をまかされますが、1904年に松本重太郎の破産のあおりを受けて日下部商店も倒産しています。安宅産業の斜め向かいにある大阪倶楽部

9年間も貿易実務を経験した弥吉は、一旦大阪に戻り高麗橋5丁目に貿易会社「安宅商会」を設立、5年後に取引先の大日本精糖の倒産という危機も乗り切り、第一次大戦の好況で事業を拡大しています。安宅産業本社跡地が正面のビル

1919年には株式会社となり、1924年(大正13年)に完成した大阪倶楽部の斜め向かい、今橋5丁目の土地に同じ1924年に本社を移転しています。安宅コレクションを収納展示する東洋陶磁器美術館

その後も安宅商会は順調に業績を上げ、金に不自由しなくなった弥吉は、当時の成功した旦那衆がよくやるパターン、外に女を作って子供までもうけていたようです。安宅産業本社跡地の三井住友VISAカード大阪本社

そうした弥吉に対抗してか、妻は長男の英一に欲しがるものを何でも買い与え、結婚したあともロンドンに遊学させて毎月1万円(現在の価値で2000万円程度か)を送金、こうして気ままに育った英一が安宅産業を崩壊へと導いたのです。大阪倶楽部

1933年、弥吉の長女は、後に住友化学の社長となる長谷川周重と結婚、本社の斜め向かいに完成した大阪倶楽部で盛大な披露宴をしています。弥吉はその2年後に念願の大阪商工会議所の会頭に就任しています。住友家が寄贈した大阪府立中之島図書館

1941年弥吉は、当時安宅産業の子会社だった高千穂光学(現在のオリンパス)に軍閥関係者を副社長として迎えて陸軍の買収を防いでいますが、あのオリンパスがかつて安宅産業の子会社だったことを知る人は少ないと思います。去年オリンパス経営陣の不正経理処理が発覚しましたが、新経営陣には親会社の安宅産業のような崩壊に至ることのないように頑張って欲しいものです。東洋陶磁器美術館の向かいにある中央公会堂

1977年に会社が無くなるまでの過程は、以前のブログで紹介しましたが、安宅産業本社ビルは当時絶頂期のレナウン商事に29億円で売却、いまやそのレナウンも中国企業に買収されているので、会社を永続させることがいかに困難か思い知らされますね。東洋陶磁器美術館の前から見た中央公会堂

参考文献:安宅一族、邦光史郎著



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2月も下旬となったので、寒い日でしたが大阪城梅林まで梅の花を見に行ってきました。梅の花を側面から

一重野梅がひっそりと開花していました。

八重咲きの紅梅も咲き始めています。

めしべが3本もある八重の白梅

八重の紅梅を少し拡大してみました。

まだ太陽の光は弱いですが、ここまで梅が開花すると春の雰囲気が伝わっていきます。

ピンクの梅も少しですが開花していました。

つづく

 



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安宅産業壊滅の詳細は、松本清張の小説「空の城」に詳しく描写されていますが、カナダ精油所プロジェクトに無担保で4200万ドル(当時のレートで113億円)を融資した担当常務の個人プレーに、他の役員が無関心であったためということに尽きるようです。この日、淀屋橋(下)から東洋陶磁器美術館まで散歩してみました。

このカナダ精油所プロジェクトには、安宅産業よりも売上高の多い丸紅と兼松江商もアプローチしていた関係から、どうしても競争に勝ちたい安宅産業は、無担保融資という秘密契約を受け入れて1972年にやっと代理店契約にこぎ着けたのです。土佐堀川

しかし精油所プロジェクトは、翌年(1973年)のオイルショックを機に破綻、再建交渉を担当常務一人に任せた結果、貸付金・売上債権が膨らみ続け、最終的には33700万ドル(約1000億円)もの負債となっています。大阪市役所の南

1976年の3月には、このプロジェクトの倒産が確定、住友銀行からの吸収合併の要請を受けた伊藤忠は、安宅産業に乗りこんで徹底的に調査、カナダプロジェクトの1000億円の他に3000億円、合計4000億円近い欠損があることを突き止めています。大阪府立図書館

日銀の指導でできるだけ多くの部門を合併させたい住友銀行と優良部門だけを引き受けた伊藤忠との攻防については、NHK取材班の「ある総合商社の挫折」に詳しく描かれています。大阪府立図書館の正面

安宅産業は、19775月に伊藤忠商事に吸収合併され、取引銀行は同年9月の決算で2200億円、残りを翌年以降の決算で償却していますが、うち1100億円は住友銀行が負担したようです。大阪府立図書館の横を抜けると東洋陶磁器美術館が見えてきました。

安宅産業の従業員3600名のうち合併後に伊藤忠商事に移ったのは僅かに1000名強、安宅産業はそれだけ水膨れしていたのでしょう。東洋陶磁器美術館(右)の向かいには中央公会堂

安宅社賓の安宅コレクションは、住友グループから大阪市に寄贈され、中之島の東洋陶磁器美術館(1982年開館)に収納、展示されています。東洋陶磁器美術館入り口前の関市長像

日本の総合商社は、三菱商事、三井物産、伊藤忠商事、住友商事、丸紅、日商岩井、トーメン、日綿實業、兼松江商の9大商社となりますが、今も社名が残っているのは上位の5社だけです。東洋陶磁器美術館から見た中央公会堂

参考文献:空の城 松本清張、安宅壊滅 読売新聞社、ある総合商社の挫折 NHK 

 



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2012年2月中旬の大阪城梅林の様子を昨日に引き続いて紹介しましょう。太陽光線と梅の花

直線的に伸びた白梅のオシベと、2本もあるメシベ

紅梅は、オシベまでピンク色をしています。

開花時に直線的に伸びていたオシベは、次第に外側に向かって広がるようです。

紅梅の裏側も観賞に耐える姿をしています。

白梅の前を斜めに太陽光線が横切っています。

八重咲きの紅梅です。

八重咲きの白梅もそろそろ開花しはじめています。

紅梅の背後から太陽光線が射しこんでいました。

 



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2月も中旬を過ぎたので、大阪城梅林の様子を見てきました。

今年は例年よりも寒いせいか、大阪城の梅の開花が遅れているようです。

多くの株で、つぼみが膨らみ始めていますが、開花しているものはまだ僅かで、全体の1割にも満たないのではないでしょうか。

それでも一部の株が寒空にもかかわらず、もう開花していました。

この株が最も開花がすすんでいたようです。

つぼみからやっと開花しはじめたばかりの一重咲きの株です。

この日は、雪がちらつく冬型の天候だったので、春らしい明るい写真を撮ることができませんでした。

雲の切れ間ができた瞬間、梅の花に弱い太陽光線が射し込みます。

太陽が顔を出すと、白梅のオシベが花弁に影を落とし、ちょっと情緒のある写真となりました。

つづく



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昨年1122日、大王製紙井川 意高前会長が連結子会社から100億円以上を不正に借り入れ、カジノなどで豪遊したとして特別背任の容疑で逮捕されています。旧安宅産業本社に近い大阪倶楽部1924(大正13年)完成

創業家の力が強く、創業家に服従する人だけが昇進取締役会が機能しない不正の隠蔽不祥事拡大倒産という図式は過去にいくつも例があるのですが、今回の大王製紙では倒産に至らなかったのが救いでした。今橋通と大阪倶楽部

1977年、伊藤忠に吸収合併された日本の総合商社10位(資本金117億円、最大売上高26千億円)の安宅産業(1904年創業)は、この図式通りの経過をたどり実質的な倒産となったことが知られています。手前のビルは、高松伸氏設計の淀屋橋竹村ビル(1988完成)、その後ろが三井住友VISA大阪本社ビル(旧安宅産業本社跡地)

その11年前(1966年)、安宅産たたき上げの猪崎社長は、住友商事との対等合併を進めますが、その寸前に創業者の長男、安宅英一社賓が反対したことで交渉は破談、猪崎氏は実権の無い会長に祭り上げられています。右が旧安宅産業本社の土地で、現在は三井住友VISA大阪本社ビル

持ち株比率たった2%の安宅英一社賓(社主ではない)は、人事権だけ握って社業に関心を持とうとせず、東洋陶磁器収集と、有名音楽家のパトロンという趣味に徹していたことが知られています。松本清張の小説「空の城」に詳しい。三井住友VISA大阪本社ビル

大王製紙の井川 意高氏(こちらは前会長)もギャンブルと有名テレビタレントのパトロンとして多忙だったという報道もありますので、この辺りは共通しているようです。旧安宅産業本社のすぐ西、横堀筋の北側

さて、猪崎社長の後を継いだ越田左多男社長は、人事権で安宅英一社賓と衝突して任期半ばで更迭されますが、本来社長にあるはずの人事権が、持ち株比率2%しかない社賓にあり、それを本来の姿に戻そうとしたら社長更迭とは、他の役員達は何をしていたのでしょうか。横堀筋の右が三井住友銀行本店(旧住友銀行本店)

歴代社長が重要人事を認めてもらう代わりに安宅社賓が高額な陶磁器を、会社の支払いで購入することを許すことが慣習となり、安宅コレクションの完成と会社の崩壊となったのです。

越田社長の後継者となった市川政夫社長は、売上高を急成長させることが人事権を社長に取り戻す道と考えて、レバノン系アメリカ人が主導するハイリスクのカナダの精油所プロジェクトにのめりこむのです。安宅倒産回避を指導した日銀の大阪支店

つづく

 

参考文献:空の城 松本清張、安宅壊滅 読売新聞社、ある総合商社の挫折 NHK

 

 



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1977年、伊藤忠に吸収合併された総合商社「安宅産業」の崩壊に至るまでを描いた松本清張の小説(空の城)を読みましたので、淀屋橋駅からほど近いその跡地まで散歩てみました。信号待の車がいない淀屋橋南詰

安宅産業本社跡地は、旧愛日小学校の南、今橋通を西に入ったところにあります。旧愛日小学校跡地に建つ淀屋橋オドナビル

信号を渡る途中に淀屋橋方向を見ると、車が1台しか走っていないガラガラに空いた御堂筋がありました。

同じく御堂筋の南方向です。去年の映画「プリンセストヨトミ」に無人の御堂筋が映ったシーンがありましたね。

この今橋通の先が旧安宅産業本社跡地です。左の大阪富士ビルは、1960年に完成しているので崩壊する前の安宅産業社員も通勤の途中に目にしている筈です。

今橋通を西に進むと、和菓子で有名な「鶴屋八幡」の店舗があります。鶴屋八幡は江戸時代から続く老舗なので、安宅産業よりも前からこの地にあるのではないでしょうか。

今も立派に商売を続けているのが凄いですね。

その隣は、登録有形文化財に指定されている大阪倶楽部ビルです。1924(大正13年)完成

1963年(昭和38)年の住宅地図が見つかりましたので、安宅産業本社と、上の写真で紹介した建物を赤線で表示してみました。

今から49年前には西横堀川がまだ残っていたようです。

つづく



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