野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



なにわの海の時空館のドームある場所は、もとと埋め立て地であったが、完成後に周囲を掘削して海とつないだために、海の中に孤立した島のようになっている。



夕方、「なにわの海の時空館」の外に出て、階段状の遊歩道を西に回ると、夕日に照らされ金色に光るドームが美しい。



また、大阪港入口となる灯台とドームを背景に沈む夕日は、ベイエリアの中でも有数の撮影スポットではないかと思う。



大阪港の入口には、今から100年以上も前1905年(明治38年)に築かれた防波堤の切れ目があり、大阪港に入港する船が必ず通る航路なので、「大関門」と呼ばれている。



また、大阪港に大型客船が入港する場合には、大阪市港湾局から大関門の通過予定時間が公表されているので、客船マニアはその時間に合わせて撮影に来ているらしい。



ちなみに、去年3月にはクイーンエリザベス号(約7万トン)、8月にはサンプリンセス号(7,7万トン)が入港、今年も3月31日に大型のドーンプリンセス号(7,7万トン)の入港が予定されている。



「なにわの海の時空館」の左に見える建物は、南港(咲洲)から夢洲に渡る海底トンネル(夢咲トンネル)の換気塔らしい。



夢咲トンネルは、夢洲にあるコンテナターミナルと南港(咲洲)地区をつなぐ道路と鉄道の併用トンネルとして計画され、2001年に工事着手されている。

この下にトンネル



トンネルの延長は2138m、海底トンネル部分(806m)だけは、長さ100mの箱を8個沈めて結合する沈埋トンネルとして建設されたという。

エントランス棟



このトンネルの中を歩くツアーが去年秋に開催され、多くの人が参加したみたいで、体験談がブログで紹介されている。

大関門を通る船



このトンネルが開通すれば、コスモスクエア駅からトンネルを通って夢洲、夢舞大橋を渡って舞洲スポーツランド、さらに此花大橋を渡ってUSJという市営バスが運行されるかも知れない。


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コスモスクエアからシーサイドコスモという緑地を西に向かって歩くと、海の中から突き出した半球形のガラスドームが見えてくる。



これが、2000年にオープンした大阪市立の海洋博物館「なにわの海の時空館」で、総工費176億円だったというから凄い。

エレベーター乗り場の置物



大阪市制100周年記念事業の一つとして建設された なにわの海の時空館の設計者は、パリのシャルルドゴール空港(1度行ったことがある)、ドバイ空港(行ったことがない)、広州白雲空港(広州に住んでいたので良く知っている)などを担当したフランス人のポール・アンドリュー(1938年~)。



エントランス棟から、周囲が透明ガラスでできたエレベーターに乗って地下2階に下り、そこから海底トンネルを歩いて海の中にあるドーム棟に入る配置となっている。

エントランス



このチューブ状の海底トンネルは、シャルルドゴール空港に似たデザインのものがあったような記憶がある。



ドーム棟の地下2階からエスカレーターで1階に上がり、そこからさらに透明ガラスでできたエレベーターに乗って4階で下りる。



透明ガラスを使ったエレベーターや、吹き抜け空間のデザインは、広州白雲空港のものと良く似ていると思う。



4200枚のガラスを用いた直径70mの半球ドームは、工場で一体物として造り、台船に乗せて運んできたもので、英国構造技術者協会から2002年に特別賞を受賞している。



直径70mの空間は、さすがに広く、日常目にすることの無い空間となっていたが、これだけの建造物の維持費は大変であろうと思う。



中には浪速丸という木造帆船の実物が展示されているが、実際に帆走したことのある和式木造船として、これほど巨大な船は無いのではなかろうか。



大阪海運の歴史を、古代から現代まで展示した部屋が4階、3階、2階にそれぞれ3か所あり、歴史マニアなら結構楽しめると思う。



今回は時間が無く、展示室をじっくりと鑑賞できなかったので、次回時間を取ってゆっくりと楽しみたい



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去年の7月28日、突然のものすごい豪雨があり、神戸市灘区の都賀川で悲惨な事故が起きたことは記憶に新しい。



国土交通省六甲砂防事務所の観測では、事故現場近くの雨量は1時間に換算すると90ミリとなり、都賀川が洪水に耐える88ミリを上回ったという。

このために都賀川に架かる甲橋に設置した水位計の観測では、2時40分から50分のたった10分間で水位が約1,3メートル上昇したと記録されている。

遊歩道から下流を見る



現地を訪ねてみると、都賀川は阪急神戸線鉄橋のすぐ上で六甲川と杣谷川が合流していて、六甲川と杣谷川の上流は、すごい急勾配の水路となっていた。



従って、上流で豪雨があると、2つの水路の流れが集中し、一気に水位が上がる構造となっているので、危険は予測可能だったと思う。



六甲山の麓に広がる神戸市では、今までにも多くの水害が起きており、1938年7月616名の死者を出した阪神大水害は、谷崎潤一郎の小説にも描かれている。(1時間最大雨量61ミリを記録)

六甲川の上流



その29年後の1967年7月にも集中豪雨があり、神戸市で371名の死者を出す大惨事となっている。(1時間最大雨量76ミリを記録)

階段状となっている六甲川の上流



私は、その豪雨の際、広島県呉市に住んでいたが、呉市でも夕方の16時から17時にかけて、山崩れ、がけ崩れ、河川の決壊、氾濫が発生、死者159名を出す大惨事が起きたことを目撃している。(1時間雨量74,7ミリを記録)



雨が小降りとなってから町に出てみたら、全域が床下浸水しており、土砂の下から救出され、全身泥だらけの生き埋めとなっていた人(171名と記録されている)を運ぶ車と何回もすれ違ったことを今もハッキリ記憶している。



こうした大雨は、統計的に30年から40年に一度必ず発生することが判っていて、1967年の神戸豪雨から去年が41年目なので、40歳以下の人は豪雨の怖さを知らないのも無理は無い。



我々は、「天災は忘れた頃にやってくる」ことを肝に銘じて、豪雨の恐ろしさを次の世代に伝えてゆかなければならない。



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南港コスモスクエア地区の中で、WTCの次に目立つ建物が2004年に完成したドコモ大阪南港ビルで、ビルの高さは55m、延べ床面積が6万1千㎡という。



NTTドコモ関西の移動通信ネットワーク拠点として、屋上に奇妙な形をした高さ146mもある通信タワーがあり、最上部は200mを越えるらしい。



有名な通天閣の高さが100mというので、このタワーの巨大さが判るが、タワーには、約600台のLED照明が配置され、コンピューター制御でさまざまな演出ができるという。



ドコモ大阪南港ビルの東側の道を北に進むと国際フェリーターミナルがあり、ちょうど上海から新鑑真号が入港していた。



新鑑真号の総トン数は、1万4500トン、全長157mという巨大船で、コスモフェリーターミナルに接岸するサンフラワー号の倍近い。



12時に大阪南港を出港し、2日後の朝10時に上海に到着する運賃は、2等往復3万円、特別室6万円、飛行機に比べると割高かもしれないが、ゆったりとした船旅を2日間味わえると思えば安いのかも知れない。



国際フェリーターミナルの前の道を西に進むと、南側に広大な空き地があり、空き地の遥か向こうにWTCが良く見える。



分譲地と書かれた古い看板が置かれていたが、WTCが大阪府庁舎となれば、行政との密接な関係を狙う企業からの買い手が殺到する可能性が大きい。



WTCを大阪府庁として安く売却しても、10年以上塩漬にした広大なこの分譲地が高値で売れれば元は取れるのではと思う。



コスモスクエア駅に近づくと、マンションの開発ラッシュとなっていて、騒々しいが、もともとこの地域は、企業分譲用地であった。



ところが、先ほどの分譲地と同じように、まったく買い手が無かったため、土地の用途を変更し、マンションを建設できるようにしたらしい。



この辺りは、もうじき近代的なマンション街に一変しそうな勢いを感じるのは私だけか。


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水島廣雄氏(1912年~)は、1958年に日本興業銀行から「そごう」に副社長として入社、読売新聞の正力松太郎相手に懸案の「有楽町そごう」の家賃値下げ交渉を成功させ、社内で存在を知られるようになっている。

今年のそごう心斎橋本店の門松



さらに入社4年後の1962年、50歳で念願の社長に就任、大手デパートとの格差に直面し、弱小デパートの悲哀を味わったようである。

1967年、千葉そごうが開店した際、水島氏と一族が株の過半数を所有した「株式会社千葉そごう」を設立、その会長に就任し、「千葉そごう」が大成功したことで、水島社長の社内での立場は盤石なものとなっている。

そごう心斎橋側(元はこちらが正面)



これ以降、銀行借り入れによって全国各地に積極的な多店舗展開(レインボーの法則作戦)をスタートさせ、一挙にデパート業界の首位を狙う挙に出ている。

御堂筋側



1972年には、三光汽船のジャパンライン株買い占め騒動の調停に乗り出し、それを見事解決したことで、立場はさらに盤石となり、超ワンマン体制が出来上がっている。

水島社長の特長は、異常なほど店舗展開にこだわる一方、店舗の経営には関心が無く、すべて部下にまかせて、経営に口を挟まなかったことである。

手摺にSのマーク



このためワンマン社長の周りの役員、幹部、組合委員長は、社長が嫌うネガティブ情報を上げない行動に走り、会社の運営は驚くほどの「どんぶり勘定」となっていた。

そごうの夜景


この辺りは、江波戸哲夫氏の「神様の墜落 〈そごうと興銀〉の失われた10年」に詳しいが、超ワンマン体制となった企業は、中内氏のダイエー同様に最後は倒産という運命を辿ようである。



2000年、「株式会社そごう」などグループ22法人は、民事再生法の適用を申請し倒産、負債総額1兆8700億円を出し、元西武百貨店社長の和田繁明氏を特別顧問に迎えた再建をスタートしている。

御堂筋側のそごう心斎橋本店



74年前にも売却されたことのあるそごう大阪店は閉鎖され、3年間も無人のビルとなっていたがミレニアムリテイリンググループ発足の2003年末、グループのシンボル店として「そごう心斎橋本店ビル」が着工、2005年9月に新しい「そごう心斎橋本店」がオープンしている。


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1月19日、パナソニックエナジー社は、南港WTCから4,5キロの距離にある平林北でリチウムイオン電池工場の起工式を行い、今週末からいよいよ工事に着手すると発表している。

WTC



パナソニックの福島伸一専務は、松下幸之助が1918年に大阪で創業し、2008年に90周年を迎えたパナソニックは、創業の地に戻って新工場を建設することとなったと挨拶しているので、大阪市は90年間パナソニック社に冷淡だったのかもしれない。

敷地



現場の看板を見ると、工事は6か月で完了し、10月には生産を始めるが、リチウムイオン電池では、世界最大の生産拠点となるというので、沈滞する大阪経済にとって久しぶりの明るいニュースである。



大阪府庁舎の南港WTCへの移転を目指している、橋下大阪府知事も起工式に出席していて、最先端エネルギーデバイスの生産拠点となったベイエリアに、どうしても大阪府庁舎を移転させたいと熱弁をふるっていたようである。

木津川対岸から見た敷地



元関西電力発電所跡地の東半分、約4万5千坪の敷地(借地)に、延べ床面積約16万㎡の工場を建設する総事業費は、1千億円、新規雇用1500名と発表され、2011年10月のフル稼働時には年6億個の生産能力を持たせるという。

敷地



敷地が10万坪もあり、1959年から稼動していた関西電力大阪発電所は、出力62,4万KWの小規模火力発電所であったが、2003年12月25日に廃止されているので、44年間という短命な発電所であった。

新木津川大橋から見た敷地



しばらく空地の状態であったが、西半分には、旭硝子のプラズマディスプレイ用ガラスの先端工場が建設され、生産品は尼崎のパナソニック工場に納入されているようである。



旭硝子の東隣となるパナソニックの新工場は、南港WTCから4,5キロ、シャープの新工場は、WTCから5キロの場所に位置しているので、橋下知事の言うとおり、リチウムイオン電池と太陽電池の最新鋭工場が南港から5キロ圏に立ち並ぶことになる。

大和川の向こうがシャープ



人件費の安い海外に工場進出したことによって、大切な先端技術を盗まれたケースは枚挙に暇もないが、それに懲りた企業は、やっと日本に新工場を建設するメリットを自覚したのである。

木津川から見たパナソニックの敷地



その立地条件に最適な地域は、大阪ベイエリア、特に南港を中心とした場所にあることはパナソニックとシャープがここを選んだことで明らかであろう。

WTC



行政としてのバックアップ姿勢を明確化するために府庁舎をWTCに移転させ、先端工場をベイエリアに集めてダイナミックな経済発展を図ること、これこそ大阪府と大阪市の重要な使命ではないであろうか。


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明治中期までの淀川下流は、大阪市内に流れ込む大川が本流であったため、市内で洪水が頻繁に発生しており、さらに下流の安治川、木津川には洪水のたびに大量の土砂が堆積、港としての機能を阻害していた。

湾岸道路から見た河口



淀川の上流、現在の大日駅北側、大阪モノレールが淀川を渡る鳥飼大橋下流800mの右岸からは、神崎川が分岐し、この神崎川もたびたび洪水を起こしている。

鳥飼大橋



さらに、神崎川分岐点から下流、京阪電車の守口市駅から旭区の城北公園まで、淀川が大きく南に湾曲し、水の流れを悪くしていた。

そこで、湾曲した淀川の流れを緩やかに曲げ、さらに大川から中津川が分流する付近から中津川を広げ、大阪湾に最短距離で直進する巨大な水路を掘削する改良工事が1898年(明治31年)スタートしている。



このときに、かつての陸地が開削され、新淀川の底になってしまった地域が発生しているので、多数の住民が移転を余儀なくされたようである。

新淀川の河口、現在の伝法大橋の下流には伝法村があり、仏教が伝わった由緒のある場所であったが、今では川の底になっている。

この淀川改良工事では、毛馬洗堰を建設して大川を堰から分流、神崎川は一津屋樋門より分流させ、現在の淀川系水路が1910年(明治43年)に完成している。

この工事完成から既に99年が経過しているので、当時のことを知る人は殆ど生存していないであろうが、現在淀川が流れている場所に、先祖代々生活していた人々がいたことを忘れてはならない。

1898年に着手され、1910年に完成した淀川改良工事を請け負ったのが大阪に本社のある鴻池組で、同社はこの工事をキッカケに建設業者としての足元を固めたようである。

鴻池組ビル(2008年2月)



御堂筋の難波神社のはす向かいにあった鴻池組ビルは、積水ハウスに売却されて昨年解体されてしまい、新しいビルの建設工事がスタ-トしている。

鴻池組ビル(2008年4月)



ちなみに、同社は江戸時代大坂を代表する金融業者であった鴻池とは、創業者の姓が同じというだけで縁は無いようである。

解体されたビル(2009年1月)



鴻池組のHPには、明治31年「淀川改良工事に従事」したと、今でも誇らしげに書いている。


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先日、日本最長495mのアーチ橋、新木津川大橋のことをブログに書いたが、大阪市にある巨大橋と言えば港大橋がナンバーワンであろう。



1970年に着工され1974年完成した港大橋は、大阪港天保山地区と大阪南港とを結ぶ、全長980m、中央径間510mを誇る、日本最長(世界第3位)のトラス橋である。

新木津川大橋の上から見た港大橋



東京港区にあるレインボーブリッジ(長さ798mの吊橋)を200m近く凌ぐ美しい長大橋であるが、レインボーブリッジのように、景観を売りとした観光スポットが無いのは何故であろう。



海遊館、サントリーミュージアムからさらに西側、海に突き出た中央突堤の最先端にある臨港緑地(なぜか緑がない)からは、港大橋と南港の夜景が素晴らしいが、この場所は意外と知られていない。



実は、東京お台場の南側、中央防波堤外側埋立地から、江東区若洲まで、日本第二位のトラス橋の架橋工事が2011年の完成を目指して工事中という。

USJから見た港大橋



この橋は、東京港臨海大橋と仮称され、最大支間長は440m、主橋梁部橋長 760m、港大橋よりも220mも短いが、世界第9位にランキングされる橋なので、レインボーブリッジ同様東京名所になりそうである。



ちなみに吊橋の世界ランキングでは、明石海峡大橋が1991mでトップ、1280mの米国ゴールデンゲートブリッジが10位、1030mの来島海峡第3大橋が20位なので、798mしかないレインボーブリッジは、相当下位にランキングされているようである。



さて、港大橋の中央部分は、長さ186m重量約4千5百トンの部材を、橋の直下まで海上曳航し、橋の両側から張り出した部分からウインチで吊り上げる珍しい工法が採用されている。

平林大橋から見た港大橋



また、橋の下を大型コンテナ船(4万トン級)が航行できるよう、海面から桁下まで50メートルの高さを確保しているので、トラス上部は海面から82mもあり、超高層ビル並みの高さとなっている。

WTCから見た港大橋



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安治川右岸にある安治川口駅(ユニバーサルシティ駅の手前)は、1898年(明治31年)という早い時期に西成鉄道(後に国鉄)の駅として開業していた。

安治川内港



一方、同じ大阪市内でありながら、安治川左岸には鉄道が無く、63年も遅れた1961年(昭和36年)、やっと国鉄の鉄道駅が開業している。

USJと安治川



この駅周辺は、市岡と呼ばれていたので市岡駅とする案もあったが、岡山県に市岡駅(1953年に開設)が既にあったため、近くの「波除弁天」に由来した弁天町駅と命名されたようである。

安治川右岸にあるUSJのゲート



安治川の掘削によって、内港の奥に築かれた突堤も、国鉄の駅名にちなんで弁天突堤と命名されている。

安治川の河口



弁天町駅の開業から4年後の1965年(昭和40年)には、関西汽船、加藤汽船の乗り場である弁天埠頭が完成、1970年の万博時には四国、九州から船を使って大阪を訪れた人で相当賑わったようである。

1972年の地図



しかし、高速道路網の整備と本四架橋の建設によって乗客は次第に減少し、埠頭の完成から30年後の1995年2月、関西汽船の弁天埠頭からの定期航路が廃止され、現在も弁天埠頭からの定期航路は途絶えたままのようである。

安治川内港の朝



弁天埠頭の南側にあるJR弁天町駅前には、再開発によって大阪を代表する超高層ビルが3棟も建ち並び、大阪のシンボルとなっている。



ユニバーサルポートから、弁天突堤方向を見ると、安治川の上流となる中之島、梅田の超高層ビル群を背景とした港の風景が広がり、夜景が綺麗である。



さらにUSJにある高層ビルから見ると、この付近の様子が良くわかり、安治川内港と超高層ビル群が美しい。



安治川に月明かりでできた倉庫の影が映っているが、超高層ビル群の右側に見える明るい部分は、ミナミの繁華街であろうか。



ユニバーサルスタジオから安治川越しの夜景は、大阪でも1,2を争うビューポイントではないかと思う。


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今の大阪市港区は、その大部分が安治川と尻無川の埋め立てによってできた土地である。

USJ側から見た安治川内港の夜景



しかし、港区北部を流れる安治川の下流には、250年前に埋め立てられた土地が戦後掘り返され、川となり港となってしまった珍しい場所がある。

安治川河口



終戦後間もない1947年、大阪市は安治川左岸にある幅約400m、全長約2500m(面積約97ヘクタール)の市街地を、海面から9mの深さまで掘削して川に戻す、大胆な都市復興計画を発表している。(下の地図の薄いブルーの部分)



掘削した土砂は、戦災を受けた安治川左岸に積み上げ、地下水くみ上げで沈下した土地を海面から3,5~4,5mの高さまで嵩上げすることに使ったという。

安治川内港



工事の着手に当たっては、当然猛烈な反対運動があったが、幸か不幸か1950年(昭和25年)に超大型のジェーン台風の来襲したことがキッカケとなり沈静化したようである。

天保山渡しから見た安治川河口



実はジェーン台風によって、またもや安治川河口に3,8mの高潮が発生、港区の大部分が水に浸かり、死者行方不明63人、重軽傷9千人、被災者4万2千人という大被害があったのである。

掘削工事中1958年の地図



250年前に埋め立てられた安治川左岸に戦前まで住んでいた人の故郷は、この復興工事の完成で、深さ9mの内港の底となってしまっている。



この掘削は、戦後間もない時期に実施され、強制移転させられた住民心情を配慮して積極的に報道されなかったためか、大阪市民でも知る人は少ないようである。

1970年の地図



1970年の地図を見ると、江戸時代に埋め立てられた安治川左岸一帯の湊屋町、石田町、田中町、八幡屋町の北側の土地が無くなり安治川の川幅が広がっているのが良く判る。

弁天町駅前の超高層ビル



これが安治川内港で、この港の完成と同じ頃、1961年(昭和36年)4月に大阪環状線が全通開通、近くに国鉄弁天町駅が開業している。


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安治川の左岸にある湊屋新田は、今から250年以上前の1754年(宝暦4年)湊屋吉左衛門によって開かれ、また石田新田は、1765年(明和2年)石田三右衛門、田中新田は1776年(安永5年)田中又兵衛、八幡屋新田は1829年(文政12年)八幡屋忠兵衛によって埋め立てられている。

USJと安治川の河口



従って、安治川河口の左岸は、江戸時代末期には広い陸地となり、1908年(明治41年)の地図には、新田の開発者の名前を取って上流から湊屋町、石田町、田中町、八幡屋町という町名が記載されている。

1908年の地図



それからわずか26年後の1934年(昭和9年)の地図には、上記の街には民家が立ち並び、さらに安治川に沿って市電が通り、湊屋町、石田町、八幡屋町という停車場ができているので、この辺りは急速に都市化が進んだようである。

1934年の地図



しかし安治川の川幅は、河口の天保山付近で240mと狭く、そこからすぐ上流のユニバーサルシティポート付近が500m、さらに上流の弁天突堤近くでは、600mまで広がり、上流に向けて不自然な形をしている。

狭い河口



その安治川河口は、安治川内港と呼ばれ、まるで海に面した港のようになっていて、USJ側の高層ビルから見ると良くわかる。

内港



しかし、戦前までの安治川には、このような拡張された部分は無く、明治41年の地図にあるように、上流にある安治川大橋の川幅80mが、2800m下流の天保山の河口で240mと、緩やかに広がっていたようである。

安治川河口の天保山大橋



ところが1949年(昭和24年)の地図を良く見ると、湊屋町、石田町、田中町、八幡屋町の安治川沿いの地域に薄いブルーの色がついている。

1949年発行の地図



このブルーの部分は、1928年頃より地下水のくみ上げによる地盤沈下で土地のレベルが下がり、高潮の被害が深刻な地域であった。

現在の安治川左岸



また、戦時中の空襲によって、この辺りの大部分が被災したために、仰天するような都市復興計画の対象となったのである。


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難波から本町まで御堂筋を毎日徒歩で通勤していると、ブランドショップのウインドウの中のマネキンから季節を味わうことができるので実に面白い。

ドルチェ&ガッバーナ



1月も20日を過ぎると、御堂筋に並ぶブランドショップのマネキンのファッションも春めいてくる。

大丸のショーウインドウのコーチ



しかし、暦の上では1月20日は大寒とされ、2月4日の立春を過ぎてから、やっと少しづつ暖かくなってくるように思う。

大丸のショーウインドウのグッチ



しかし、季節を先取りするファッション業界では、当然のように春物の商戦がスタートしていて、ショーウンイドウの中はもう春のコンセプトに変わっている。

そごうの隣のフェンディ



かつての御堂筋には、殺風景な銀行や企業のオフィスが軒を連ねていたが、今では多くのファッションブランド店が立ち並び、通勤途中にショーウインドウのマネキンを見て季節を楽しめるようになったのはありがたい。

ディオール



中でも、長堀通の交差点にあるシャネルのマネキンのファッションセンスは、抜群であると思う。

シャネル



長堀通を渡ったルイヴィトン心斎橋のファッションは、少し前に紹介したことがある新作である。

ルイヴィトン



その先にあるエルメスの展示は、モダンアートそのもので、芸術作品を鑑賞しているような気分にさせられてしまうのは私だけであろうか。

エルメス心斎橋



これだけの高級ブランド店が御堂筋から撤退もせず、ひしめきあっているのは、それを維持できる大阪の購買力があるからと思いたい。

エルメス心斎橋のショーウインドウ



世の中は不況という厳冬期かもしれないが、大阪の女性のファッションから明るい春を先取り、とゆきたいものですなあ。


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菅原道真(845~903年)を祭神とする天満宮については、このブログでも京都北野天満宮(創建947年)、大阪天満宮(創建949年)、福島天満宮(創建907年)、道明寺天満宮(947年に道明寺と改名)、長岡天満宮(創建は北野以降?)、高槻の上宮天満宮(創建993年)などを紹介したことがある。

日本最古の天満宮



また、道真の墓所の上に社殿を建立した太宰府天満宮(創建919年)も有名である。

拝殿前の鳥居



園部は、菅原氏の知行所で、901年に道真が大宰府に流された時、園部の代官であった武部源蔵が邸内に道真の像を安置、生きている身の道真を神として祀ったという。

拝殿



903年に大宰府で道真が亡くなるとそれを霊廟に改めているので、神社の創建は道真の存命中の901年とされ、福島天満宮の907年創建を上回る「日本最古の天満宮」と称している。



園部代官であった武部源蔵の子孫は、1100年以上を経た今でも生身天満宮の宮司家として連綿と続いているので凄い。

拝殿と本殿との間から見た社務所



戦国時代には、園部を治めた丹波守護職の細川家や荒木家が、境内での乱暴狼藉や樹木の伐採を禁止する高札を立てて天満宮を守っており、この高札(府指定文化財)は現存している。

参道



天満宮としての創建から752年後の1653年、園部藩初代藩主・小出吉親が陣屋を築城する際に現在地に遷座しているので、この場所に移ってから356年が経過していることになる。

中央が天満宮



天満宮の扁額のある鳥居から山に向かっての参道の両側には、石灯籠が置かれ、途中に摂社の稲荷社、厳島神社がある。

厳島神社



石段の突き当り左側が拝殿で、拝殿から右回りに社殿を回ると、本殿、本殿裏に摂社、さらに古い能舞台まであるのが珍しい。

本殿の背後



参拝の人も少なく、江戸時代の神社の雰囲気が良く保存された天満宮なので、日本最古の天満宮としてこれからも永くこの地にあって欲しいものである。


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冬の休日、京都の南丹市園部町に全国最古の天満宮があるというので園部を訪ねてきた。



園部町は、自民党の大物代議士であった野中広務氏の地元で、政界を引退した野中氏は現在も園部町に居住されているという。



小向山山麓にある園部城は、波多野氏の家臣であった荒木氏綱(1535~1579年)によって築かれているが、園部城は1587年、明智光秀の丹波攻めによって落城し、その後明智光秀の軍に従っていた荒木氏は、光秀の滅亡とともに衰退している。

駅から町の中心までの途中にある園部教会



1619年、園部の地は但馬の出石から小出吉親が移封(2万9千石余)され、明治維新までの250年間、小出家によって治められている。

園部町の町並み



小出家の藩祖小出秀政は、豊臣秀吉の叔父(妻が大政所の妹)という豊臣一族(岸和田藩3万石の領主)で、関ヶ原では長男の吉政(出石藩3万石、秀吉のイトコ)と共に西軍についている。



しかし、二男秀家が東軍に属して関ヶ原で奮戦したために、小出父子の6万石の所領は安堵され、秀政の死後、長男の吉政が岸和田に移り、出石は吉政の嫡男の吉英が継いでいる。

櫓門



信州の真田家も長男信之が東軍、父昌幸と次男の真田幸村が西軍に属して戦い、長男の真田家は所領を安堵されているので、良く似た行動を取ったのである。

巽櫓



1613年に吉政の死で吉英が岸和田に移り、吉英のあとの出石藩は、弟の小出吉親が継いでいたが、1619年に園部(3万石)に移封されている。

隣にある天主のような国際交流会館



小出家は、無城主格の外様大名であったため、園部城跡に天守閣を築かない陣屋型の園部陣屋を築き、その門は園部高校の門として現存しており、映画のロケ地としてよく使われているという。

櫓門と巽櫓



吉親は、築城32年後に小向山にあった生身天満宮と多くの寺院を天神山麓や現在の新町へ移し、城を整備している。

妙光寺



小出家は外様でありながら第4代藩主・小出英貞が、譜代大名のポストである奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任、第5代藩主・小出英持も同じくその三職を歴任、第6代藩主・小出英常は奏者番になり幕府の要職を歴任しているので、幕府の信頼が厚かったようである。


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川西清兵衛(1865~1947年)は、婿養子に入った神戸の燃料商で辣腕を振るい、1896年頃には日本毛織を創設、さらに川西商事(川西倉庫)、兵庫電気軌道(山陽電鉄)、日本商業銀行(後に富士銀行と合併)を興し、神戸財界を代表する人物になっている。

南港大橋から見た木津川飛行場跡地(アーチ橋の左側部分)



新明和工業史によれば、日本最初の飛行機製造会社は、1918年(大正7年)5月、川西清兵衛(53歳)と中島知久平(1884~1949年、当時34歳)によって設立された日本飛行機製作所である。

新木津川大橋のアーチ



元海軍機関大尉であった中島が技術開発製造を担当する取締役所長、川西清兵衛がスポンサーとして資本金75万円のうち50万円を出資、代表取締役に就任している。

アーチ橋の下の船着場



しかし1920年1月、経営上の対立から、会社はわずか1年8月で解散、中島は単独で中島飛行機製作所(今の富士重工業)を設立して独立している。

木津川河口左岸の平林地区から見た木津川飛行場跡地



後に中島飛行機は、三菱航空機を凌ぐ東洋最大、世界有数の航空機メーカーになり、知久平は政界に出て、鉄道大臣、軍需大臣、商工大臣を歴任しているので、若い中島のほうが川西よりもスケールの大きな人物であったようである。

木津川飛行場跡地の北にはIKEA



一方川西は、アメリカから輸入した工作機械を神戸に運び、紡績機械製作の川西機械製作所を設立したが、技術者から懇願され、ほどなく飛行機部がスタートしている。

道路の左側が木津川飛行場跡



川西飛行機部は、1922年(大正11年)木津川埋立地に水陸両用の私設飛行場と格納庫を建設、同社は狭い飛行場に合わせ、広い木津川から離着水できる水上飛行機の開発を先行している。

木津川河口



川西飛行機部は、開発した飛行機を活用するため1923年(大正12年)6月に日本航空株式会社(資本金200万円)を設立し、航空輸送事業を開始しているが、この会社は現在の日本航空(JAL)とは別会社である。

木津川飛行場跡の先はWTC



同社は、前年堺に設立された日本航空輸送研究所と、大阪朝日新聞社系列の東西航空会社に次ぐ日本で3番目に設立された民間航空会社であったので、日本における民間航空輸送会社は、いずれも関西からスタートしていたことになる。

反対方向(道路の右が木津川飛行場跡)



川西飛行機部は、1928年(昭和3年)川西航空機という別会社となり、以降多くの水上飛行機や飛行艇を生産していたが、戦後新明和工業と社名変更、現在でも世界最高水準の飛行艇を製作していることで有名である。

船町から見た新木津川大橋のアーチ



つまり、新明和工業における飛行艇の開発は、木津川飛行場の立地条件によって、80年以上前の1922年から培われたものなのである。

新木津川大橋からの眺め



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