織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる本能寺は、1415年「本応寺」という寺号で創建されているが、後の運命を暗示するかのように、ほどなく宗徒によって破却されてしまう。
本能寺山門
その後1429年に再建され、さらに1433年、四条大宮の北、六角大宮に土地の寄進を受けて移転、寺号を「本能寺」と改め、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなっている。
室町幕府足利氏の保護を受けているが、1467年から10年間続いた応仁の乱で京都は混乱、応仁の乱から約60年を経た1536年、比叡山との教義論争に端を発した乱で堂宇は又もや焼失し、一時堺に避難したことがあったという。
比叡山根本中堂
1548年になってから、伏見宮家から日承上人が入寺し、四条西洞院の北300メートルの地(今の本能寺町、元本能寺町、元本能寺南町)に広大な大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁していた。
織田信長は、この寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月、明智光秀率いる軍勢による本能寺の変が起き、その際に又もや堂宇を焼失している。
塔頭寺院の築地塀
2007年、マンション建設に伴う発掘調査では、本能寺の変で焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかっているので、織田信長の自刃した場所は元本能寺町辺りに間違いないようである。
山門
実は、豊臣秀吉の命で、現在の河原町御池の場所に移転された本能寺の寺号を表す石碑においても能の文字の旁が「去」となる異体字となっている。
石碑の文字
発掘調査によれば、築地や石垣や堀が周囲を取り囲み、本能寺城と呼んでもよいくらいの防御機能を持っていたことが覗われるという。
徳川家康は、この事件で寺は城の代用にはならないと考え、本能寺の1キロ北、堀川通の西側に堅固な堀と石垣を有する二条城を本能寺の変から20年後に構築している。
二条城
本能寺の変から10年後の1592年、今の御池通と京都市役所を含む広大な敷地に新しい本能寺の伽藍が再建されている。
御池通
現在の本能寺の本堂と塔頭寺院との間の路地を奥に入った場所には、織田信長廟があり信長の3男信孝が建立した墓石が現存している。
信長廟
江戸期に入った1788年天明の大火、1864年禁門の変による火災で堂宇を焼失、ほどなく再建されたというが、創建以来何度も火災を受け、場所も移転している悲劇の歴史を持った寺院であった。
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