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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



法華宗本門流の大本山、本能寺の山門にある石碑には、「能」の旁が「去」となる異体字となっているが、気がつく人は少ない。



一説によれば、過去に何度も火災で焼失した歴史があるので、ヒ(火)という文字を避けて、この字体が採用されたという。

1582年に織田信長が死んだ本能寺の跡地から、最近発掘された瓦からもこの字体が見つかっているので、420年以上前から使われていた文字のようである。



山門を潜った正面が、昭和になっての1928年に建立された本堂で、現在は仮設の足場で覆われ修理中であった。

信長の三男織田信孝(1558~1583年)は、本能寺の変から一ケ月後に焼け跡から遺骨を収集し、元の本能寺のあった場所から1300メートル東に離れたこの地に墓石を建立している。



しかし、その織田信孝は、豊臣秀吉によって翌1583年に切腹させられ、秀吉は1587年に信長の墓所のあったこの地に本能寺の再建を命じている。

織田信長(1534~1582年)の墓は、京都市内だけでも大徳寺総見院、阿弥陀寺、建仁寺などにあり高野山奥の院にも現存している。

高野山奥の院の墓石



大徳寺総見院は、1983年に豊臣秀吉によって主催された信長の葬儀があった場所で、その際に織田信長の木造が造られて安置されたという。

大徳寺総門



阿弥陀寺にある墓には、本能寺の変の際に、信長と懇意にしていた寺の住職が駆けつけ、火葬されたばかりの信長の骨を持ち帰って建立したという寺伝がある。

いずれも420年以上前から今日まで続いている由緒正しい墓地なので、今となってはどれが正統な墓地であるかという議論は意味が無いのではなかろうか。



現在の本能寺にある信長墓石の左には、「本能寺ノ変戦死陣没之諸霊」の慰霊碑が信長の墓石に今も臣従するかのように置かれていた。

さらに、墓地の一番左側には、奥から島津義久(1533~1611年)夫人、菅中納言局、徳川家重(1712~1761年)夫人と3人の女性の墓石が南に向いてひっそりと置かれている。



島津義久夫人の墓石には、1572年(元亀3年)とあるので、織田信孝が父親の墓地をここと定めた1582年にはここに存在していたことになる。



当時の京都にあってこの土地は、高貴な人の墓地として有名な場所であったのではなかろうか。


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織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」で知られる本能寺は、1415年「本応寺」という寺号で創建されているが、後の運命を暗示するかのように、ほどなく宗徒によって破却されてしまう。

本能寺山門



その後1429年に再建され、さらに1433年、四条大宮の北、六角大宮に土地の寄進を受けて移転、寺号を「本能寺」と改め、中世後期には京都法華宗21ヶ本山の一つとなっている。


室町幕府足利氏の保護を受けているが、1467年から10年間続いた応仁の乱で京都は混乱、応仁の乱から約60年を経た1536年、比叡山との教義論争に端を発した乱で堂宇は又もや焼失し、一時堺に避難したことがあったという。

比叡山根本中堂



1548年になってから、伏見宮家から日承上人が入寺し、四条西洞院の北300メートルの地(今の本能寺町、元本能寺町、元本能寺南町)に広大な大伽藍が造営され、子院も30余ヶ院を擁していた。

織田信長は、この寺を上洛中の宿所としていたが、1582年6月、明智光秀率いる軍勢による本能寺の変が起き、その際に又もや堂宇を焼失している。

塔頭寺院の築地塀



2007年、マンション建設に伴う発掘調査では、本能寺の変で焼けたと思われる瓦や、「能」の旁が「去」となる異体字がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかっているので、織田信長の自刃した場所は元本能寺町辺りに間違いないようである。

山門



実は、豊臣秀吉の命で、現在の河原町御池の場所に移転された本能寺の寺号を表す石碑においても能の文字の旁が「去」となる異体字となっている。

石碑の文字



発掘調査によれば、築地や石垣や堀が周囲を取り囲み、本能寺城と呼んでもよいくらいの防御機能を持っていたことが覗われるという。

徳川家康は、この事件で寺は城の代用にはならないと考え、本能寺の1キロ北、堀川通の西側に堅固な堀と石垣を有する二条城を本能寺の変から20年後に構築している。

二条城



本能寺の変から10年後の1592年、今の御池通と京都市役所を含む広大な敷地に新しい本能寺の伽藍が再建されている。

御池通



現在の本能寺の本堂と塔頭寺院との間の路地を奥に入った場所には、織田信長廟があり信長の3男信孝が建立した墓石が現存している。

信長廟



江戸期に入った1788年天明の大火、1864年禁門の変による火災で堂宇を焼失、ほどなく再建されたというが、創建以来何度も火災を受け、場所も移転している悲劇の歴史を持った寺院であった。


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長く空き地であった淀屋橋の南西の土地にやっと巨大な事務所ビルが5月末完成し、淀屋橋オドナと命名されたというので、見てきた。



明治に入ってすぐの1872年、「升屋」当主山片重明は、この小学校の敷地と、大阪北浜にあった邸宅、土地、家屋、建具を寄贈して小学校を設立している。

ビルの西側



65年後の1937年に、丸紅の専務をしていた古川鉄治郎氏が私財を使って出身地に豊郷小学校校舎を寄贈したのは、この事例を参考にしたのかもしれない。

1872年に第十三区小学校として創立した学校は、1886年に愛日小学校と改称し、創立から118年を経た1990年、閉校となり、永い間敷地は空き地のまま放置されていた。

淀屋橋オドナビルの西に残る石碑



この界隈は、企業ビルが建ち並ぶ大阪有数のビジネスエリアで、500メートル圏内に約3800の事業所と、9万3千人の人が勤務する人口集積地となっている。



直径500メートルの中に比較的収入に恵まれた約9万人もの昼間人口がいるのに、満足なショッピング街が今まで一つも無かったこと自体が驚きである。

ビルの南側



淀屋橋オドナの地下1階には8店舗、1階に15店舗、2階に12店舗、合計35店舗が入り、淀屋橋の大人(オトナ)達に、驚き(オドロキ)をあたえるライフスタイルを提案したいということから「オドナ」とネーミングされたらしいが、ネーミングにもうひとつピンとこないのは私だけか。

入り口



また、御堂筋にあるビルには珍しい2階の屋外を半周する回廊があり、2階の店舗に外側からアクセスすることができるようになっているのが面白い。

北側にある回廊の柱



御堂筋に80メートルもの長さで面した1階東側は、壁面をバックさせて広い空地を取っているので、空が広く気持ちが良い。



ビルの北側は「三井住友海上大阪淀屋橋ビル」、南側は「淀屋橋三井ビルディング」と呼ばれ、南側ビルの地下は地下鉄淀屋橋駅に通じているので交通アクセスは便利である。



また御堂筋に面したビルの屋上から西側にバックした部分が階段状に高くなっていて、最高部は16階、高さ70メートルもあるのがこのビルの特長であろう。



御堂筋には1920年から、「百尺(31メートル)制限」と呼ばれる有名な高さ規制があったが、1995年に高さ50メートルまで緩和され、今回さらに規制緩和されたようである。

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阪急芦屋川駅の北側から西に延びるヤマテサンモールを200メートル進むと、左にベトナム料理の店が見えてくる。



その前の路地を左に入った場所に、紺地のテントに小さくkaopanと書かれた週4日(木金土日)営業するパン屋さんがある。

kaopanは、「食べログ」の評価で、フロイン堂よりも上位、兵庫県第6位にランキングされている評判の高いパン屋さんである。



狭い店内にある商品のアイテムは少ないが、どれもこだわりのパンですと主張しているかのような仕上がりであった。

その店内には、6月26日から29日までの限定で、毎日15個だけ販売するサンドイッチボックスが残っていたので早速それをゲットしておく。



4日間限定、しかもたった15個だけの販売なのですぐ売り切れてしまうようであったが、この日ラッキーにも1個だけ残っていた。

さらに、クロワッサンと、シナモンレーズンパンを買い、オープンエアかつリバーフロントという芦屋川の絶景ベンチに座って昼食である。



サンドイッチボックスの中身は、クロワッサンに卵のタルタルソースと生ハムを挟んだものと、プレーンフォカッチャにズッキンーニとキュウリのソテーを挟んだサンドであった。

最初に食べたクロワッサンサンドは、クロワッサンの甘みと生ハムの塩味がうまくバランスして美味い。

クロワッサン



ズッキーニとキュウリソテーのサンドも、薄味に仕上げた野菜の味がパンとうまくマッチしていて、他所では食べたことの無い美味さであった。

サンドだけでは物足らなかったので、仕上げにクロワッサンとシナモンレーズンもデザートとして頂いてみたが、これも美味い。



さて、次回は「食べログ」の評価で兵庫県トップのベッカライ・ビオブロートにするか、3位のビゴの店にするか、どちらも芦屋にあるパン屋さんなので悩むところである。


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今日、「大阪ワールドトレードセンタービルディング」(以下WTC)と「アジア太平洋トレードセンター」(以下ATC)に、入居している大阪市の部局や関連団体の賃料をめぐる住民訴訟の判決があった。



大阪市役所には、10以上の局がありバブル期に国の後押しを受けて、局同士が競うかのように第三セクターを設立したのは、隣と同じ行動を取らないと不安に駆られる農耕民族の故であろうか。

ATCとWTC



例えば、港湾局がWTC、経済局がATC、建設局がクリスタ長堀、交通局がフェスティバルゲートビル、計画調整局がOCATビルなどなどである。

WTCの1階広場



中でも、南港地区にあるWTCは、総事業費1193億円を投入して1995年に完成した高さ256メートルのビルで、現在の東京でも、大阪WTCを越える高さの高層ビルは未だに建設されていない。

閑散としたWTCとATCの連絡通路



しかし、巨大すぎて空室が埋まらないため、港湾局、水道局、建設局、大阪市関連会社などがWTCに移転、入居率はほぼ100%に達したと市は発表していたが、市が支払った賃料は、適正賃料よりも最大2倍も高いことが民間団体の調査で判明している。

WTC広場



そこで、民間団体は、市長らに対する損害賠償訴訟を起していたのであるが、大阪地裁は「市が支払っている賃料が公序良俗に違反するほど高いとはいえない」と判断している。

WTCを見上げる



裁判所の判決が出たとは言え、適正以上の賃料を支払い続ける必要のあるビルの建設を推進した当時の大阪市港湾局幹部と、それを認めた市会議員の見通しは甘かったのである。

ATC前の海



当時の大阪市の幹部と市会議員は、国の指導に従っただけと開き直っているようであるが、先輩公務員や議員の判断ミスによる赤字は、大阪府のように後輩の公務員や議員が給与をカットして補填するしか道は無いと思う。

民間会社でも、経営幹部による過大投資で赤字になれば、経営判断に関係の無かった社員でもリストラされるか、給与をカットされるので、公務員だけ特別待遇では社会的な公平さに欠けるのではなかろうか。

直下から見上げたWTC



給与をカットするとモラルが低下すると組合は主張しているが、カットされた時点から火事場の力を発揮して社員が猛烈に働き始める民間の事例もあるので、納税者としては大阪市職員と市会議員にそれを期待したいものである。


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豊臣家の大寺院、方広寺と秀吉を祀る豊国神社から西に向かって真っ直ぐ伸びる大通りが正面通であるが、その突き当たりにあるのが西本願寺の正門(御影堂門)と御影堂である。

正面通を分断している東本願寺の渉成園の門



方広寺は、1596年に地震で一度倒壊したが、1614年に豊臣秀頼が再建した際、寄進した梵鐘に「国家安康」の銘文があったことから徳川が因縁をつけ、大阪冬の陣となったことは有名である。

正面通を分断している渉成園の高石垣(石橋、石臼の部材が転用されている)



家康は、1600年にあった関が原の後、西本願寺をつぶすことも考えていたようであるが、引退した教如を復活させて、一向一揆を主導していた本願寺の勢力を二分するアイデアを実行している。

正面通を分断している渉成園の庭



1602年、家康は引退していた本願寺前12世教如に西本願寺の東、豊国神社から西本願寺まで伸びている正面通を遮断する寺地を寄進、翌年、教如は寄進された寺地へ、茨城県から宗祖の木像を迎えて東本願寺としている。

渉成園の池にかかる回廊



その後、幕府が後押ししたことから教如へ帰依する門徒が多くなり、やがて門徒は集合離散し、本願寺教団は東西にほぼ半分に分割され、家康の思惑通りになったのである。

渉成園の中の茶室(傍花閣、1892年)



1604年に最初の御影堂が完成した東本願寺の正門、御影堂門は、正面通から南にずれた位置にあり、さらに1653年に正面通を分断する渉成園が完成、豊国神社と西本願寺を一直線に結ぶ正面通はずたずたに分断されてしまっている。

渉成園の中の池と橋



1636年に再建されたライバル西本願寺の御影堂(現存)は、桁行31間半(56,7メートル)もあったために、東本願寺も対抗して1650年代に桁行32間(57,6メートル)の御影堂を再建している。

東本願寺の御影堂



ところが、再建された東本願寺の御影堂は、1788年、1823年、1858年と3回も火災によって焼失、その都度幕府の援助と信者の寄進で再建されたが、幕末の1864年、蛤御門の変の兵火でまたもや焼失している。

東本願寺の御影堂門



東本願寺では、明治に入った1880年に再建に着手、1895年に完成しているが、御影堂の桁行は、35間(約64メートル)、世界最大と豪語する巨大な木造建築として完成している。

御影堂と御影堂門




現在、この御影堂は修理中で、仮設の建物に覆われているが、東大寺大仏殿の長さ(57,5メートル)を凌ぐ巨大な木造建築である。

阿弥陀堂



同時に完成した本堂(阿弥陀堂)は、桁行22間(約39メートル)というので少し小さい。


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宗祖、親鸞(1173~1263年)が比叡山に学んでいたために、浄土真宗に対する比叡山の弾圧は200年以上続いていたが、8世蓮如(1415~1499年)が1483年にやっと京都山科に山科本願寺を建立している。

現在の東本願寺



しかし宗教集団としての勢力を拡大した山科本願寺は、1532年に細川、六角連合軍によって攻撃され焼失したために、1497年頃より坊社が置かれていた大阪石山(現在の大阪城の場所)に移転している。

本願寺を継いだ11世顕如(1543~1592年)の時代に本願寺の勢力は急速に拡大、顕如は1557年に六角定頼の養女の如春尼と結婚している。

現在の東本願寺北門



如春尼の実父は、五摂家に次ぐ清華家の名門三条公頼で、実の姉は武田信玄の正室となっていたので、本願寺は有力公家と有力武家の縁者となっていたのである。

北側の堀



しかし、織田信長が石山からの立ち退きを迫ったことから石山合戦(1570~1580年)が起こっている。

1580年、合戦の終結をめぐりって日の出の勢いの信長に降伏することを決断した顕如と、比叡山を焼き討ちした信長は信用できないと徹底抗戦を主張する長男教如(1558~1614年)の意見が対立し、本願寺が東西に分裂する端緒となっている。

勅使門



信長の後継者となった豊臣秀吉によって1591年京都に本願寺の土地が寄進され、翌年顕如が入寂すると、長男教如が一旦本願寺12世を継職している。

しかし、未亡人の如春尼が教如の弟の准如(1577~1631年)に12世を譲るという顕如の譲状を秀吉に見せたことで、教如は引退し、1593年に実弟准如が本願寺第12代を継職している。

御影堂門



教如は准如に門主を譲ったあと、大阪道修町にあった大谷本願寺に入ったと言われ、その大谷本願寺という刻銘のある1596年鋳造された梵鐘が今も御堂筋に面した南御堂(東本願寺難波別院)に残されている。



巨大な権力を継承する際に兄弟が争う事例は多く、この時から20数年後、春日局(1579~1643年)の機転で、家光(1604~1651年)が弟(徳川忠長)を抑えて徳川三代将軍位を継承している。

東本願寺の境内



准如が本願寺第12代を継職したのは春日局が14歳のときであったので、春日局はこの本願寺継承事件の教訓をふまえて家康に対する直訴という行動を起こしたのではなかろうか。


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阪神芦屋駅のすぐ隣にあるローゲンマイヤーは、1991年に会社設立しているので、今年が創業から17年というパン屋さんである。

芦屋川



「食べログ」の兵庫県でのパン屋さん評価では3,36となっていて、9位が3,59、10位が3,58なので即ベストテン入りは、チョット厳しい。



ちなみに食べログ兵庫県1位は、ローゲンマイヤーから歩いて10分の場所にあるベッカライ・ビオブロート(4,37ポイント)で、2位のブランジェリーコムシノワの4,13を圧倒している。

ローゲンマイヤーのHPによれば、パンづくりは「無添加」へのこだわりから出発したとあり、短時間で簡単にパンを作るための薬品「イーストフード」を使わないパン屋としてスタートしている。



1994年には、新聞にイーストフード使用の是非を問う広告を掲載し、これからもローゲンマイヤーは、無添加の「カラダに優しい」パンを焼き続けると宣言している。



菓子パン・惣菜パンのクリームや具材も、ほとんどを自社製造し、パン生地に保存料等を使用していないので、「当店のパンはおいしさが長持ちしません」と正直にHPに書いてある。

阪神芦屋駅に近い店内の商品は、ガラス越しに外から良く見えるように陳列してあり、どの菓子パンも美味しそうに見えるのでつい中に入ってしまった。



昼時だったので、サンドイッチと芦屋クロワッサン(147円)を買って、近くの芦屋川を歩きながら早速食べてみた。



サンドイッチも美味かったが、発酵バターを生地に折り込んだ「芦屋クロワッサン」は香りが豊かで甘く、サクサクした歯ごたえがある。



このクロワッサンと良く似たものが、ウエスティン大阪ホテルのペストリーショップ(コンディ)にあるが、コンディのパンは、ホテル1階のレストラン「アマデウス」の朝食バイキンに行けば食べ放題なのである。

ローゲンマイヤーの向かいは芦屋警察



コンディよりもローゲンマイヤーのほうが少し甘く、バターの香りが強かったように思うが、私の好きなクロワッサンの一つである。


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豊臣秀吉の家臣として出世し、関が原では徳川方として戦った加藤清正(1562~1611年)の熊本藩(52万石)を継いだのは、次男の加藤忠広(1601~1653年)である。

大坂城天守



兄が早世し、父の清正が死去したときには10歳という若年であったために藤堂高虎(1556~1630年、伊賀、伊勢22万石)が後見人を務めている。

熊本城



1619年藤堂高虎は、2代将軍秀忠から大坂城再築の縄張りをするように指示を受けているので、加藤忠広が担当した区域は後見人の藤堂高虎が割り当てたのであろう。

石垣普請割図の天守には加藤の名前が見える



1924年、大坂城再築2期工事において当時23歳の加藤忠広は、名誉ある本丸天守石垣構築を担当している。

天守の石垣



この2期工事では、本丸の正門となる桜門を1歳年下の池田忠雄(1602~1632年、岡山31万石)が担当しているので、両者は相当張り合っていたのではなかろうか。

桜門



1928年の3期工事でも、加藤忠広は、大坂城の正門である大手門とその枡形を担当、池田が担当した桜門の蛸石に匹敵する巨大な大手見付石を運び込んでいるのである。

石垣普請割図の大手門(外ニ枡形)には加藤の名前が見える



後見人であった藤堂高虎は、参加大名中第3位という加藤家(52万石)に見合う場所を担当させ、大名の中での名誉ある地位を確立させたかったのではなかろうか。

しかし、27歳を過ぎても加藤忠広は、家臣団を完全に掌握することができず、重臣同士の対立が起こって熊本藩内の政治が混乱したままであったと言われている。

大手門枡形の巨石



31歳の加藤忠広は、大坂城再築工事の完成からわずか3年後の1632年、江戸参府の途中で改易されて庄内藩酒井家にお預けとなり、父加藤清正が懸命に築いた熊本藩をわずか32年で取り上げられている。

表向きの理由は、藩内を統率できなかったというものであるが、先に改易となった福島正則と同じように、豊臣恩顧の巨大外様大名は大義名分さえあれば取り潰す幕府の政策があったのであろう。

大手門の外側



加藤家の後の肥後熊本藩には、細川家が入封しているが、藩主細川忠利の母親、細川ガラシャの縁者(父親が従兄弟同士)が、3代将軍家光に絶大な影響力を持っていた春日局であったために彼女の引き立てが大きかったようである。


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三谷幸喜監督作品、の第4作目、ザ・マジックアワーをTOHOシネマズナンバで見てきた。



表題のマジックアワーとは、日没後「太陽は沈み切っていながら、まだ辺りが残光に照らされているほんのわずかな、しかし最も美しい時間帯」を指す映画用語で、本作品では「誰にでもある『人生で最も輝く瞬間』」を意味している。



昨日のブログの写真に中にもマジックアワーに撮った1枚を密かに入れておいたのであるが、実は、この映画のタイトルを拝借したものである。

さて、ストーリーは、港町・守加護(スカゴ=シカゴ)でギャングのボス(西田敏行)の愛人のマリ(深津絵里)に手を出した備後登(妻夫木聡)は、自分の命を見逃してもらうため伝説の殺し屋「デラ富樫」を連れてくることになる。



探してもデラ富樫を見つけられない備後は苦肉の策として、売れない俳優・村田大樹(佐藤浩市)を映画の撮影と騙してデラ富樫に仕立てて乗り切ろうとする。

相手が本物のギャングとは知らずデラ富樫を熱演する村田、村田に嘘がばれないよう四苦八苦する備後、村田をデラ富樫と信じるギャング、それぞれの思いやすれ違いが行き交う中、次々と予期せぬ展開が待ち受けるという現実には絶対ありえないストーリーである。



この映画は、スタジオに大規模なセットを作って撮影したせいか、舞台で芝居を見ているような雰囲気に仕上がっている。

ストーリーのリアリティは無いが、舞台の三谷作品を見ているような気持ちで楽しめば、結構面白い。



最後のシーンに、昔見た「ハリマオ」が出てきたのにはビックリしたが、この映画の中には映画やテレビのパロディ場面が数多く散りばめられている。

ハリマオや、昔の映画を知らない若者には、判らないであろうが、知っている人にはちょっとした懐かしさが味わえる作品であった。



映画のエンドクレジットに、照明、録音キャストと同じ扱いで、脚本監督、三谷幸喜の名前が小さく出てくるが、これは映画界の大監督に対するパロディなのであろうか。


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大阪南港のフェリーターミナルに発着するフェリーの一部(今治、松山、大分、志布志便)が、7月8日からATCに直結されるコスモフェリーターミナルに移転するというので、現状を見てきた。



本町から地下鉄中央線でコスモスクエア駅に出て、コスモスクエアでニュートラムに乗り換えると、次の駅がトレードセンター前駅である。



ホームから改札には、上りのエスカレーターはあるが、下りのエスカレーターが無いので、大阪到着便の乗客は、階段を下りるか奥のエレベーターを使うことになる。



改札口を出てATCに入り、一階分高くなった場所からエスカレーターで下に降りると、巨大な吹き抜けの長い回廊となっている。



回廊の突き当たりにある案内所の前を右に曲がり、奥に進むとまたもや巨大な吹き抜け空間である。



実は、この吹き抜けの右側奥には、さらに巨大な吹き抜け空間があるので、第三セクターの設計関係者は、吹き抜け空間が大好きな人達が多かったようである。



吹き抜け空間を横断し、イタリア料理店(ジャカッセ)横の「とんがり帽子の街」という通路を奥に進むと、そこがフェリー乗船券窓口であろう。



その先からは、外壁を貫通してフェリーへ直結する長いボーディングブリッジが伸びていた。



ATCから外に出てみると、西に広がる海(幅360メートルくらいか)の右側にあるコンテナ埠頭の手前の部分がフェリーの船着場となっている。



ニュートラムの駅とATCの入り口2箇所を除くと、フェリーまで段差の無いアクセスが可能となっているが、乗船するまでの移動距離は500メートル近いようであった。



また殆どのフェリーの到着時間は、早朝の時間帯となるので、フェリー利用者の利便性のために店舗の営業時間を早くする必要がありそうである。

マジックアワーのコスモフェリーターミナル



但し、新居浜、東予へのオレンジフェリー、新門司への名門大洋フェリー、奄美大島へのマルエーフェリー、沖縄カーフェリー、宮崎カーフェリーなどは、ここに移転しないという。

従って、7月8日以降大阪からフェリーを利用する人は、ATCのコスモフェリーターミナルと、フェリーターミナルを間違わないようにしなければならない。



トレードセンター前駅は「コスモフェリーターミナル」、フェリーターミナル駅は、「かもめ埠頭口」など、利用者が間違い難い駅名に変更することを検討すべきではないだろうか。


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阪神芦屋駅から東に10分くらい歩くと、マンションの1階に小さな赤いテントの店があり、そこが自然のドイツパンで有名なベッカライ・ビオブロートである。



ドイツ語でベッカライとは英語のベーカリーのこと、ビオとは自然、ブロートとはパンのことなので、屋号は、「自然パンのベーカリー」ということか。



3時頃に店に入ると、名物のクロワッサンは、既に売り切れであったので、シナモンロールと、シナモンロールの中にくるみが入ったヌスシュネッケン、最後に1個だけ残っていた食パンをゲットした。

シナモンロール



評判の高いクロワッサンは、殆ど午前中には売り切れるというので、どうしても欲しい人は電話で予約するか、午前中に買い行く必要がありそうである。

ヌスシュネッケン



食パンは、店頭で好みの厚さにカットしてくれるサービスがあったので、サンドイッチ用の厚さにカットして貰った。

店主の松崎太氏は、1997年にドイツに渡り、パン職人として修行して2001年にはドイツのパンマイスターの資格を取得した本格派である。

カットした食パン



マイスターとしてさらに修行を積んだ後の2004年に帰国し、2005年に芦屋でベッカライ・ビオブロートを創業している。

この店のパンの特徴は、自分の店で挽いた小麦の全粒粉を100%使用することであろう。



またパンに欠かせない酵母には、天然酵母を使わずに「オーガニックイースト」を使っているので、天然酵母特有の臭みが無いパンに仕上がるという。

トースト用の食パンには、カナダ産オーガニック小麦粉に北海道の無添加バター、イタリア産天然海塩、ブラジル産オーガニックシュガー、オランダ産オーガニックミルクパウダーを使うこだわりようである。



買って帰った食パンをオーブントースターで焼いてマーガリンをつけて食べると、外のカリっとした部分と中のモチモチした部分のバランスが良く、安い食パンに良くあるいやな酸味がまったく無い。

ドイツで7年間修行した日本人が、カナダ、日本、イタリア、ブラジル、オランダの材料を使ってドイツ仕込みの技でパンを作ると、素晴らしいパンが完成するということであろう。



買って帰った翌日、その次の日にも食べてみたが、味が殆ど変わっていないので二度びっくりである。


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頂法寺(ちょうぼうじ)の本堂である六角堂は、寺の本坊にあたる池坊氏が代々経営・管理に当たってきている。



池坊の名は、聖徳太子が水浴したという「池のある坊」にちなんで付けられたもので、今も六角堂の北側に白鳥が泳ぐ池がある。



池坊の僧は、頂法寺(六角堂)の住持として本尊の如意輪観音に花を供える伝統があり、1470~80年頃には池坊の12世住職である専慶が生け花の名手として評判となっていたと記録されている。

いけ花の理論と技術を体系化した13世池坊専応の口伝石碑



池坊流の生け花は、記録にあるだけで約500年、さらにその専慶から12世も遡る古い伝統を持っているようである。

現在の頂法寺住職は、20歳の若さで住職に就任した45代池坊専永氏(1933年~)、夫人は、公明党所属の衆議院議員、池坊保子氏である。



さて、この六角堂にちなむ名家には、頼朝の旗揚げに参加した近江源氏佐々木氏の宗家となる佐々木泰綱(1213~1276年)から始まる六角氏がいる。



佐々木泰綱は、佐々木氏の棟梁であった佐々木信綱の子として生まれ、1234年、父の隠居により六角東洞院(六角堂のすぐ東)にあった京都屋敷を譲られ、家督を相続している。

六角通



一方弟の氏信は、1キロ南東にある京極高辻(高島屋の南側)の館を引き継いだので、泰綱と氏信の佐々木兄弟は、六角氏、京極氏と呼ばれたようである。



鎌倉幕府が滅亡する際に、名門宗家の六角氏は鎌倉幕府に最後まで味方したために一時衰退、京極氏は京極高氏が足利尊氏に味方したために足利幕府の有力大名となっている。

京極高氏と足利尊氏の関係は、吉川英治の小説「私本太平記」に詳しく描かれていて面白い。

六角堂西側



その後応仁の乱から戦国時代に至り、近江の覇権をめぐって宗家六角氏と分家京極氏の争いは続いているが、六角氏は1568年、織田信長率いる上洛軍に敗れ、300年以上続いた領国を失っている。



一方京極氏は、戦国期の動乱をうまく泳ぎ織田、明智、豊臣、徳川と次々と主君を取替え、四国の丸亀藩(6万石)の大名として明治維新まで続くのである。


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頂法寺(ちょうぼうじ)は、京都市中京区にある天台宗系の寺院で、本堂が六角形であることから、六角堂の名で知られている。



794年、聖徳太子が四天王寺の建立のため用材を求めて鴨川の西に広がるこの地を訪れた際、観音像を安置して六角形の堂を建立したのが始まりという。

聖徳太子沐浴池



822年には嵯峨天皇、996年には花山法皇の御幸があり、千年を超える歴史を誇る寺院である。



鎌倉時代初期の1201年、叡山の堂僧であった29歳の親鸞が、毎夜叡山を下り、六角堂に百日間参籠したことで法然の専修念仏門に帰依した話は有名である。

境内右手奥には親鸞堂があり、その横には、参籠から叡山に戻る親鸞の銅像が建っている。



親鸞を宗祖とする東西の本願寺(浄土真宗)にとっても六角堂は、大切な場所であろうが、京都のど真ん中にあるために敷地の周囲は建物に囲まれ、境内がかなり狭い寺院であった。

六角堂の前の道路



1461年の大飢饉の際、足利義政は、六角堂の前に救済小屋を建て、貧窮者に対して粥を与えているのは、この堂が下京の中心であったことからであろう。

応仁の乱や戦国期には、京都に乱入する軍勢の集合場所となったり、あるいは下京町組代表の集会所になったりしているので、当時の民衆なら誰でも知っている有名な寺院であったようである。



近世には、観音霊場の寺として庶民の信仰を集め、門前町が発展し、そこには巡礼者のための宿屋が数多く建ち並び、洛中では有数の旅篭町として発展している。

旧本堂の礎石と伝えられる本堂東側の要石は、「へそ石」とよばれ、京のへそ(中心地)を示すといわれている。



京都の中心にあった六角堂は、1125年の火災をはじめ、江戸時代末まで18回の災害に遭遇している。



しかし、庶民の信仰を集める寺であり、また町組の中核となる寺としてその都度復興され現在の本堂は、1875年に再建されたものである。


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阪急神戸線の岡本駅で下り、甲南大学に通学する学生の通学ルートを少し西に歩くと、ガラス戸に小さくフロイン堂とロゴが書かれた木造の戸建住宅がある。



店の店頭には、屋号を書いた看板は無く、普通の2階建て日本家屋なので、パン屋と気がつかずに通り過ぎてしまう人も多いのではなかろうか。



そこが、神戸中山手のフロインドリーブから暖簾分けしたフロイン堂で、ドイツ人のパン職人であった師匠直伝の技で作るパンは評判が高い。



1932年、阪急岡本駅前に開店したフロインドリーブの支店が戦後になってフロイン堂と名前を変えたというが、岡本でパンを焼き始めてから既に76年が経過している老舗である。



今もオーブンやミキサーといった機械は使わずに、手で捏ねてレンガの窯の余熱で焼く、正真正銘の手作りパンを守っている。



昼頃に立ち寄ってみると、クッキーと11時に焼きあがった5種類のパンだけが販売されていたので、田舎パン(小340円)を買い、14時に焼きあがる食パンを予約しておいた。

焼き上がり時間表



岡本駅近くの路上でクルミとレーズンが入った田舎パンをチョット齧ってみると、フロインドリーブのパンと良く似たしっかりとした味であった。



この田舎パンを家に持ち帰り、カットしてからオーブントースターで焼いて食べたら、レーズンとクルミが柔らかく変化し、味が一段とまろやかになっていた。

14時頃、もう一度店を訪ねると、パン棚には焼きあがった食パンが一杯置いてあるではないか。



店員に聞くと、「食パンの焼き上がり時間(14時、17時)であれば、予約なしでも買えますよ」と言うが、予約の客は多いようで、店内には包装された食パンが所狭しと置いてある。



パンの激戦区、神戸の中心の岡本で、これほど多数の予約を受けるパン屋は少ないのでは無かろうか。



この食パンをオーブントースターで焼いてマーガリンをつけて食べてみたら、パリッとした食感と、食後にほんのりと麦の香りが残る絶妙な味であった。


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