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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昨日に記事に続き1945年8月のソ連軍について北海道北部の景色と一緒に紹介しましょう。1945815日、樺太にいた第八十八師団も終戦に関する命令を受領、樺太庁に若い女性の優先引き揚げを要請し、次いで終戦に関する師団命令を配下の部隊に下達しています。・・・天塩町北部にある北緯45度(北半球のど真ん中)の標識

89日に国境を越えたソ連軍と戦闘中の師団配下部隊に命令が伝達しますが、対戦相手のソ連軍は攻撃を止めません。・・・稚内天塩線「鹿の飛び出し注意」標識

ソ連のアントノフ参謀総長は「日本の申し入れは一般宣言に過ぎず、(日本軍への)停戦命令は(ソ連政府から)出ていない。日本軍は抵抗を続けている」という理由で攻撃続行を声明。ソ連は戦争を継続する必要があったのです。・・・ノシャップ岬に9km

この時点(815日)での樺太のソ連軍は、国境を越えたばかりで進攻を阻止されていた上に、千島列島への攻撃は準備中でまだ足を踏み入れていませんでした。・・・住宅地にも野生のエゾシカが

マッカーサー元帥は、在モスクワの米国軍事使節団長ディーン少将を通じて、ソ連軍統帥部に攻撃停止を要請しますが、アントノフ参謀総長は「ソ連軍がその作戦地域内において攻撃作戦を中止するか否かは、その地域の最高司令官の判断である」と取り合いませんでした。・・・野生のエゾシカ

815日、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は、占領の実績をつくるため、配下の陸軍と太平洋艦隊に樺太西海岸への上陸と千島列島北部占領作戦の実施を急ぎ命令しています。・・・鹿は人や車を恐れません

同日、トルーマン大統領はスターリン首相に対して、日本軍の降伏受入れに対する各国担任地域(実質的には占領地域)の割り当てを通知、ソ連の担任地域は満州・北緯38度以北の朝鮮・南樺太で千島は含まれていませんでした。・・・ノシャップ岬の灯台

翌日、スターリンはトルーマンに書簡を送り、ソ連の担任地域に千島列島全部、さらに釧路市と留萌市を結ぶ線以北の北海道北半分を要求しています。・・・自衛隊のレーダー基地

トルーマンはその要求を拒否しますが、スターリンは決心を変えず、極東ソ連軍はポツダム宣言を受諾した日本に対し、北部北海道占領の足掛かりとして日本領南樺太の占領と千島列島占領作戦を強引に継続したのでした。プーチンがクリミア半島を強引に占領したのと同じ行動パターンですね。・・・自衛隊のレーダー基地拡大

参考文献:一九四五年夏最後の日ソ戦 中山隆志著



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ポツダム宣言受諾から1週間を経た1945822日早朝、樺太から北海道への民間人引き揚げ船3隻がソ連の潜水艦によって攻撃され、1700人余りが死亡した三船殉難事件前後のソ連の動きを北海道北部の景色と一緒に紹介しましょう。・・・三船殉難事件は下の地図の現在位置の沖20km付近

1945年のソ連太平洋艦隊は、ウラジオストックを基地とした潜水艦78隻を保有、日本海と間宮海峡での制海権を確保し、89日に潜水艦を戦闘位置に展開させています。・・・その付近の交通標識

その理由は樺太の日ソ国境を越えて南下するソ連軍に対抗して、北海道の日本軍が樺太に増援部隊を上陸させることを恐れたからでした。・・・日本海

事実、札幌の軍司令部は帯広の第七師団から歩兵三個大隊、山砲一個大隊約2000名の南樺太への増援を決定、さらにソ連の北樺太にも逆上陸して侵攻作戦たたくことも検討していました。・・・道の駅おびら

この樺太防衛増援計画は815日のポツダム宣言受諾でストップしますが、ソ連は日本軍への補給を阻止するため北海道沿岸、特に日本海沿岸航路(小樽と樺太間)に潜水艦を配置、三船殉難事件はその状況下で起きた事件でした。・・・初山別村役場

8月9日からのソ連軍との交戦は、映画「北の桜守」に描かれていましたが、822日に樺太守備の日本軍とソ連軍との間で停戦交渉が始まり、同日午後零時10分に交渉が成立、交渉協定が公表されたのは午後7時でした。・・・道の駅富士見

その停戦協定で日本人の樺太からの緊急疎開中止が布告されましたが、1700人余りが死亡した三船殉難事件の発生はその10数時間前だったのです。・・・遠別町

三船殉難事件直後、東京の大本営はマニラのマッカーサー司令官にソ連軍の戦闘行動の停止を求める電報を打ちますが、当時の連合軍総司令官にソ連軍への指揮権はありませんでした。・・・道の駅天塩町

敗戦の混乱によるものか、この大本営電報以降、日本政府から三船殉難事件に対する外交的な交渉記録は無く、終戦後に起きた国の引き揚げ事業にもかかわらず1700余人と言われる犠牲者への補償もありませんでした。・・・天塩町の繁華街

参考文献:慟哭の海 樺太引き揚げ三船遭難の記録 北海道新聞社編



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近所の干潟に渡来するチュウシャクシギの好物を紹介しましょう。

チュウシャクシギの好物は、ズバリ蟹です。

少し大きな蟹は、咥えたまま大きくクチバシを振って爪や足を切り離し、それから丸呑みにするようです。

クチバシの付け根の喉の部分は、大きく開くので、少し大きな蟹でも丸呑みができるようです。

下の写真の蟹は、爪と足の数が減って吞みこむ寸前に

少しの間に次々と蟹を見つけて食べていました。

この干潟にこれほど多くの蟹がいることは驚きでした。

下の写真の蟹は、片方の爪を外されていますね。

このあとすぐ丸呑みにされてしまいました。



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先日観光ツアーで行った北海道の野鳥を紹介しましょう。・・・利尻礼文行きフェリーが出る稚内港のシノリガモ、早朝だったので暗く、色がよく判りません。

利尻礼文航路を航行中、フェリーから遠くに見えたのはウトウ(全長38cm)、北国の野鳥なので大阪のバーダーには馴染みがない鳥。

利尻島の南80kmにある天売島に60万羽以上といわれるウトウの繁殖地があります。・・・15羽くらいの小集団が最初ばらけて飛行

その天売島では、繁殖期(初夏)の夕暮れから夜、空がウトウで覆いつくされる帰巣風景を見ることができるとか。・・・しばらくすると15羽が編隊飛行

利尻島のウグイス。ここのウグイス鳴き声は、大阪のウグイスより大きくて、明瞭に聞き取れました。

留鳥として北海道だけに分布するハシブトガラ(全長13cm)。九州以北に分布しているコガラと似ていますが、クチバシがやや大きい特徴があります。

利尻島オタトマリ沼では、黄色いクチバシ先端上下に黒赤のワンポイントがあるウミネコ(46cm)が水浴びしていました。

オオセグロカモメの尾羽は純白ですが、ウミネコの尾羽の先端部には黒い帯があります。・・・海の方向から沼に水浴びに来るウミネコ

こちらはウミネコより一回り大きい礼文島のオオセグロカモメ(64cm)。セグロカモメと非常に似ていますが、背中(雨覆)がやや濃い灰色なのでオオセグロでしょう。



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大阪市内で見たシギの集団飛行記事の続きです。先日も同じような写真を紹介しましたが、連日撮影した中にまだ未公開のものがありました。・・白い翼帯が目立つトウネンとハマシギ

飛行集団は目まぐるしく方向を変えます。こちらは横から

ブレてしまわないようシャッタースピードを速くすると、どうしても露出不足となってしまいます。

翼の裏側と腹部がこちらを向くと、周囲がパッと明るくなり、こんどは露出オーバーに。

次の瞬間には背中を向けはじめ

飛行集団の上のグループは腹部、下のグループは背中

大阪市内の干潟に、これだけ多くのシギ(ほとんどがトウネン)が渡来していることに驚かされました。・・・こちらは真横

かなりのスピードで飛行するシギをカメラのファインダーに入れ、シャッターを切るのは至難の業でしたが、何とかモノになりました。

シギの腹部がこちらに向くと、どうしても露出オーバー気味に。腹部に黒い斑があるのはハマシギ、それ以外はすべてトウネン



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稚内市の日本海側から西方約45km、利尻島の北西約10kmに位置する礼文島を紹介しましょう。・・・海面を覆う霧の上に見える利尻富士

フェリーの地図には港間の距離が表示されていて、稚内港から礼文島香深港まで59km、利尻島の鴛泊港から香深港まで19km。

礼文島(礼文町)の周囲は72km、面積82平方km。日本最北端は稚内市の宗谷岬なので、町としては日本最北端となるようです。北方領土を除けば稚内市弁天島が最北端。・・・礼文島の東海岸では、どこでも利尻富士が見えます。

かつて、島の北部の船泊(ふなどまり)村、南部の香深(かふか)村と二つの村に別れていましたが、1956年に両村が合併して礼文村(後に礼文町)となっています。

礼文島最北端の岬がスコトン岬(須古頓岬)、その沖にある無人島が海驢島(とどじま)です。・・・このすぐ右手に民宿がありました。

島の西部は季節風の影響で断崖絶壁となっているため、フェリーターミナルのある香深港は島の東南部にあり、ここから利尻富士山頂までの距離は約20km。・・・香深港からみた夕暮れの利尻島

礼文島の北部には自衛隊稚内301沿岸監視隊の分駐屯基地があり、自衛隊員が常駐、電子戦に備えているようです。・・・過疎化の進んだ香深の集落。島東部の海岸に沿って北海道道40号礼文島線が南北に走っています。

その沿岸監視隊は、1983年の大韓航空機撃墜事件の際に情報収集で活躍、その能力の高さを世界に示していますね。・・・稚内に向けて礼文島を出港

1955年(昭和30年)の人口は船泊村4446人、香深村5428人、合わせて約1万人でしたが、現在の礼文町人口は2574人、このままでは無人島となる可能性がありますね。・・・フェリーから見た「ようこそ礼文島へ」の看板。また来たいと思う島でした。



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近所の干潟に渡来するチュウシャクシギの飛行写真を紹介しましょう。

干潟の上を飛ぶチュウシャクシギ。こういう角度から撮った写真は数多くNET上で見かけます。

こちらに向かって飛んでくるチュウシャクシギを正面から撮った写真が少ないようです。

だんだん近づいてきていますが、方向を変える様子はありません。

野鳥は、人の姿を見ると遠ざかろうとするのが普通です。

そうでないと生き残ることは難しいでしょう。

人に平気で近づく野鳥はすべて絶滅してしまったか、アホウドリのように絶滅寸前になっているかのどちらかでしょう。

従ってチュウシャクシギのような野鳥が、人の(構えたカメラのある)方に飛んでくるのは稀な行為でしょう。

この直後に下の草むらに着地してしまいました。



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利尻島の鴛泊港からは、ハートランドフェリーのフィルイーズ宗谷(3551トン)に乗って礼文島の香深港へ向かいました。

午後2時過ぎなのに、鴛泊港岸壁にあった温度計は9.4℃を示す涼しさ

フェリーターミナルは、「海の駅おしどまり」と一体の建物でした。

出航と同時に霧が晴れ、鴛泊港のシンボル「ペシ岬(標高93m)」がはっきりと見えました。

同時に、利尻島ではなかなか姿を見せてくれなかった利尻富士(標高1721m)が、やっと見えてきました。

ペシ岬と利尻富士

礼文島への航海の途中に見えた利尻富士

礼文島の平均気温は 612℃・ 717℃・ 818℃・915℃位、これから観光のベストシーズンに入るようです。・・・礼文島の香深港

またガイドから礼文島の冬は、対馬暖流の影響で氷点下4℃くらいまでしか下がらないという説明がありました。・・・香深港フェリーターミナル接岸の直前に見えた利尻富士の裾野は、もう霧が覆っていました。



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今の季節、大阪市内の干潟のある公園には、メダイチドリが渡来してきます。

この日もメダイチドリが来ていましたが、中央の色の薄い個体だけは、体がやや大きいようです。

クチバシの長さもメダイチドリよりやや長いようです。

そうなると、この鳥はオオメダイチドリでしょう。

オオメダイチドリの写真は数多く紹介されていますが、下の写真のようにメダイチィドリと一緒に写った写真は少ないようです。

こちらも左がオオメダチドリ、右がメダイチドリ

オオメダイチドリが干潟の土の中にいるゴカイを引っ張っています。

下の写真、上がオオメダチドリ

オオメダイとメダイチドリ



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先日行った北海道、利尻島礼文島観光ツアーの2日目、稚内から利尻までの様子を紹介しましょう。・・・利尻島へ渡るハートランドフェリーの乗り場

ハートランドフェリー(東日本海フェリーが2008年に社名変更)のフェリー・サイプリア宗谷が稚内港を出港

ハートランドフェリー社の利尻礼文航路は、サイプリア宗谷(2008年就航・3,555トン)ボレアース宗谷(2003年就航・3,578トン)、フィルイーズ宗谷(2001年就航・3,551トン)の3隻。・・・稚内市内の遠望

到着した利尻島は、面積182k㎡(隠岐の島町のある島後は241k㎡)、日本百名山の一つ利尻山(1721m)の噴火でできた島のようです。・・・鴛泊(おしどまり)港と霧のペシ岬(標高93m)

利尻島の玄関口、鴛泊港のある利尻富士町の人口は、1955年の11,234人が63年を経た現在2,559人(当時の23%)まで減少。・・・鴛泊港のチケット売り場

利尻島の東半分を占める利尻富士町将来人口ビジョンでは、2040年人口1500人とありました。・・・乗船したサイプリア宗谷前のデジタル温度計は午後3時16分の気温8.5℃を示しています。(海に囲まれているため冬の寒さはマイナス4度を下回ることは少ないとか)

利尻島の観光スポットは、利尻富士が湖面に逆さに写るという姫沼ですが、季節や時間によって利尻富士が霧の中とか、風で湖面が揺れてちゃんと写らないこともあるようです。・・・姫沼

利尻島の西半分は利尻町(人口約2000人)で、同町の人口シュミレーションには2040年に1000人を切る予想が表示されていました。・・・姫沼の遊歩道

利尻島は最後に無人島となる可能性があるようです。利尻島を日本領土として保全してゆくためには、もっと本州からの観光客が訪問し、地元を励ます必要があると思いました。・・・この日は姫沼に写る逆さ利尻富士を見ることができました。



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北海道の記事の途中ですが、大阪市内の干潟に渡来するシギの仲間の集団飛行を撮影しましたので紹介しましょう。

シギの仲間が飛行する姿をよく見ると、ほとんどがトウネン(全長15cm)、その中に7羽のハマシギ(全長21cm)が写っています。・・・下の写真

ハマシギの成鳥の夏羽には、腹部に大きな黒い斑があるので容易に識別できます。

また、クチバシが長く、先端が少し下に曲がっているので、トウネンとすぐに識別することができます。

但し、翼の上面にある白い帯(翼帯)がよく似ているので、同じ仲間として行動しているのではないでしょうか。

環境省のレッドリスト2017には、ハマシギを準絶滅危惧(NT)に指定しているので生息数を大幅に減らしているようです。

それでも大阪市内の干潟にこうして渡来してきています。

下の写真の中央からやや左の位置で飛行する灰色の1羽はキアシシギ(全長25cm)でしょう。

下の写真には先頭のハマシギ2羽のすぐ後ろと、左下のハマシギとトウネンの前、合計2羽のキアシシギが写っています。



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先日行った北海道観光ツアーで、最初に宿泊したJR稚内駅周辺を紹介しましょう。・・・ドーム横の防波堤から北防波堤(設計者は北海道庁の技師土谷実)

1936年に完成した北防波堤は、ドーム状の形態を取っていることから北防波堤ドーム命名されています。その高さは約14m、長さ427m、古代ギリシア建築に似た70本の柱列群が見事で、コマーシャル写真などによく登場しています。

日露戦争で日本領土となった樺太(大泊港)への鉄道連絡船「稚泊航路」の運航が1923年に始まり、現在の稚内駅(当時は稚内港駅)が19281226日に開業しています。・・・日本最北端の駅JR稚内駅

1936年に北防波堤桟橋が竣工すると、ここから線路が850m延長され、北防波堤前に「稚内桟橋駅」が開業、駅舎の横には桟橋があって利尻島・礼文島を結ぶ「利礼航路」、樺太とを結ぶ「稚斗航路」、「稚泊航路」の客船が離着岸していました。・・・最北端の線路、宗谷本線稚内駅の標識

現在の稚内駅舎は、売店、飲食店、コンビニエンスストア、観光協会、地域交流センター、映画館、グループホーム、高齢者住宅などからなる複合施設「キタカラ」と、道の駅わっかない・バスターミナルなどと一体となっています。・・・稚内駅の待合室。窓の向こうがプラットホーム

撤去した線路の先に北防波堤、写真の右端に一部写っている高層建物は、稚内市の第三セクターが建設し、1994年に開業したANA系列のホテル会社が運営する稚内全日空ホテル(現在はANAクラウンプラザホテル稚内)。

ホテルは開業当初から赤字経営が続いていたため、2008年には長期借入金の償還条件緩和を実施、それでも好転しなかったため2010年に明治海運へ事業譲渡していますが、ANAクラウンプラザホテル稚内の名前と運営は続いているようです。・・・日本最北端の線路

その後、第三セクターは負債総額約176,000万円の「特別清算」が決定、最大出資者の稚内市は北海道内の自治体では初となる「第三セクター等改革推進債」(10年償還)の起債議案を可決し債務損失補償したようです。・・・稚内駅前の交差点

第三セクターの破綻は、大阪市だけでなく日本最北端の稚内市でもあったようですが、損失補償には、当時第三セクターの社長だった横田耕一市長の個人保証分があり、市長は私財で弁償したようです。第三セクターを設立した大阪市の幹部にも見習って欲しいと思いますね。・・・かつて貨物用の線路があった道路の先に北防波堤が見える



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昨日に続いて北海道、利尻島礼文島観光ツアーの続きを紹介しましょう。・・・2回目の休憩「道の駅おびら鰊番屋」前のにしん街道標識

鰊番屋前の「松浦武四郎翁像」。松浦武四郎(18181888)は1844年から蝦夷地探検を始め、1855年幕府の蝦夷御用御雇、1869年(150年前・明治2年)に明治政府開拓判官となって蝦夷地を「北海道」(当初は「北加伊道」)と命名した人物です。

道の駅おびら鰊番屋の2階にある歴史文化保存展示ホール。1956年当時人口3万人(合併した鬼鹿村含む)でしたが、現在人口3,400人となった小平町の歴史を学べます。

3回目の休憩は、1959年に1万人を超えていた人口が、現在3,000人を切りそうな手塩町の「道の駅てしお」

「道の駅てしお」内部のギャラリー。天塩町ゆかりの芸術家による絵画や陶芸作品が展示されていました。

天塩町の北、サロベツ原野のオトンルイ風力発電所の林立する風車。同発電所は2003年から本格稼働、日本海オロロンライン沿いの南北3.1 km28基の風車が立ち並び総出力は21,000 kW

風車はオランダのラガウェイ製で、1基あたりの出力は750 kW、風車の直径は50.5 m、支柱は74 m、回る風車の最後部の高さ99 m33階建てマンションくらい)という巨大なもの・・・林立する風車

オトンルイ風力発電所を過ぎてしばらくすると、1975年の人口55,464人が34,000人まで減少しているという稚内です。市のシンボルとなっている北防波堤ドーム

北防波堤ドームは、防波堤と稚内港桟橋から駅までの乗り換え通路を兼用するため、1931年から5年間をかけて建設され、現在は北海道遺産に指定されています。・・・時刻は17:50。伊丹を出発して9時間20分、千歳空港を出てから6時間50分が経過していました。



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日本が降伏を表明してから一週間後の昭和20822日、北海道留萌沖で1708人以上もの日本人が犠牲となった三船殉難事件のことを少し詳しく調べたので北海道のカモメの写真と一緒に紹介しましょう。

戦時中(1944822日)アメリカ潜水艦の攻撃を受け、沖縄から本土に疎開中の学童など1,476名の死者を出した対馬丸事件は有名ですが、ポツダム宣言を受諾した後に、それ以上の犠牲者を出した三船殉難事件を知る人は少ないようです。

樺太北部からのソ連軍の攻撃が始まった811日時点で樺太にいた日本人は40万人、引き揚げを希望する人々が押し寄せる中、14隻の艦船が動員され、樺太南部の大泊港から北海道へ避難する緊急輸送が始まっています。

小笠原丸(1400トン)821に稚内に到達、そこで約半数が下船しますが、引揚者で大混雑する稚内を避け700人を乗せて小樽に向かう途中、822日午前420分頃にソ連潜水艦の魚雷攻撃を受けて撃沈されたのです。638名が死亡、生存者は62

同じころに小樽に向かっていた第二号新興丸(2700t・海軍の特設砲艦)にも午前5時過ぎに魚雷が命中、直後に浮上した二隻の潜水艦が銃撃してきましたが、備えていた12cm砲や25mm機銃で撃退し、何とか留萌港にたどり着いています。それでも雷撃による死者・行方不明者400人以上でした。

このとき第二号新興丸に武器が無ければ、高齢者・女性・子供を中心とした3600人は、ほとんど助からなかったと思うので、非武装では国民を守れないという好例でしょう。

泰東丸(880t) も同日午前10時頃、浮上した潜水艦の砲撃を受けたため、即座に降伏の白旗を振りますが、砲撃は止むことが無く沈没。667名が死亡しています。白旗提示を行なった船舶への攻撃は、国際法違反ですが、国際法では国民の命を守れなかった好例ですね。

2007年、サハリン州公文書館から公開された資料によれば、ソ連中央は樺太に続き北海道北部の占領を計画、2個師団(4万人くらいか)を動員して留萌付近へ上陸する作戦を立て、その前に潜水艦2隻に偵察を兼ねて輸送船を攻撃する任務を与えていたようです。

潜水艦のうち1隻が、第二号新興丸の反撃で未帰還となったことで、日本の意外な反撃力が判り、北海道上陸作戦は中止されたのでしょう。非武装では国を守れないことは明らかですね。



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友人と北海道利尻島礼文島観光ツアーに行ってきましたので、北海道小平(おびら)町の三船殉難碑を紹介しましょう。・・・伊丹空港のANAスターウォーズC-3POペイント機(ボーイング 777-200型機)

伊丹から千歳までの飛行機は、全日空(以下ANA)ボーイング787-8型機で、機体番号がJA824Aとあったので20141月就航した比較的新しい機体でした。8:30離陸

ANAのシートマップ(国内線)によれば、ボーイング787-8型機はビジネスクラス12席を含めて335席、全長56.7m、幅60.1m、巡航速度910km/h、航続距離4890km、最大離陸重量172.9トンとありました。

ボーイング787-8型機は、比較的大きな飛行機ですがANAシートマップには、さらに大きい機材、ボーイング787-9型機(395席)とボーイング 777-200型機(405席)・ボーイング777-300型機(514席)が掲載されています。・・・千歳に着陸したボーイング787-8型機

ツアーのスケジュール表によれば、千歳に1025分到着、その後バスに乗り換えて一挙に380km、稚内到着が18時という強行軍です。・・・着陸した千歳空港の観光バス乗り場(11時)

千歳を出たバスは、上砂川ハイウェイオアシスで最初のトイレ休憩(13:05)。・・・宗谷バス

次に留萌に出て日本海沿岸を北上。その途中、昭和20822日、樺太からの婦女子など引揚者を乗せて小樽に向かっていた引揚船3隻(小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸)がこの沖でソ連潜水艦2隻の攻撃を受けたことを知りました。・・・荒れる日本海

小笠原丸と泰東丸は沈没、第二号新興丸はかろうじて留萌に入港しましたが、ソ連潜水艦浮上して沈没した船から海に投げ出された人々に機銃を掃射、婦女子など1,708名以上がこの海で犠牲となったのです。13:00・・・三船遭難(殉難)慰霊碑

2007年にロシアの公文書館から公開された資料によれば、ソ連は樺太に続いて北海道北部の占領も計画、2個師団を留萌付近へ上陸させる作戦を立てていたことが明らかになっています。最近ではクリミア半島を占領していますね。13:04・・・ソ連軍の上陸予定地だったかも知れない道の駅おびら鰊番屋



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