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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪春秋33号の「大塩の乱に襲われた豪商 岩城升屋」という後藤賢一郎氏の記事によれば、1625年頃から近江国大津で升屋という米穀商を営んでいた岩城右衛門宗隆から三代目となる宗正が、1672年に大坂高麗橋に出て反物の軒店を開いたのが、岩城升屋のはじまりという。

西から見た今の高麗橋



当時の高麗橋は、江戸の日本橋と同じように大坂城から西へ向かう街道の基点となる場所で、今の梅田に相当する場所と思えば良いのかもしれない。

岩の文字を升形で囲むトレードマークで有名な升屋宗正の商法は、現金掛け値なし、反物切り売りという商法であったが、このスタイルは1673年、三井高利が江戸で開業した越後屋と同じなので、高利のほうが真似たのかも知れない。

1867年頃の高麗橋岩城升屋と越後屋



岩城升屋を真似た越後屋が江戸で繁盛したように、高麗橋の岩城升屋も大繁盛し、1678年に京都、1690年には江戸麹町に支店を出している。

一方、三井高利も、岩城升屋に対抗心を燃やしていたのか、翌1691年に高麗橋岩城升屋の隣に越後屋大阪店を開設している。

越後屋大阪店(三越)跡地の向こうが岩城升屋跡地



岩城升屋は、1708年に大火で高麗橋店が全焼しているが、すぐに復興を果たし、1718年には間口56メートルという巨大な新店舗が完成している。

この数字を現在の高麗橋1丁目の地図に当てはめると、高麗橋和幸ビル、豊田日生北浜ビルを含む通りで囲われた1ブロックすべてが入る広さである。



また江戸店も大奥や麹町近辺の大名旗本の御用達となり、1746年頃には間口65メートルの店となり、従業員は500名を超え(当時の越後屋は320名)岩城升屋は江戸でもトップの呉服商となっていたようである。

広重の版画にある岩城升屋江戸店



1806年の大坂地図にも、高麗橋と越後屋の三井マークとの間に、岩の文字を升形で囲った升屋のトレードマークが載っている。



1837年2月に起こった大塩平八郎の乱では、高麗橋通り周辺に軒を連ねていた鴻池屋、天王寺屋、平野屋、岩城升屋、越後屋等の豪商が大砲を打ち込まれて放火されている。

今の高麗橋の上



しかしすぐに再建されたようで、安政年間(1854~60年)船場地区に居住する奉公人は、岩城升屋が252人、越後屋が179人という記録があるので、当時も岩城升屋が大坂でも最大の呉服商だったようである。


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