葛城山のツツジの写真と一緒に、桜井満編著「葛城山の祭りと伝承」から、かつてこの地に栄えた葛城氏と賀茂氏について紹介したいと思います。
大和盆地の南西部に当たるこの地に土着していた葛城氏は、大王(天皇)家と並ぶ勢力があり、4世紀末~5世紀前半に葛城襲津彦(そつひこ)がでています。
日本書紀の神功紀、応神紀、仁徳紀には、大王が葛城襲津彦を将軍として朝鮮半島に派遣したことが記されています。
その葛城襲津彦の娘は、仁徳天皇の皇后となって、履中、反正、允恭の三天皇を生んでいますので、葛城氏は三天皇と外戚関係にあったことになります。
平安時代までの日本では、藤原氏に見られるように天皇の外戚となった人物が最高権力者とされ、当時の葛城氏も強大な権力を持っていたようです。
歴史学者の直木孝次郎氏は、5世紀の大和政権は「大王(天皇)と葛城氏の両頭政権」であったと書いているほどです。
安康天皇3年(456年)、天皇が眉輪王に暗殺され、葛城氏の円大臣(葛城襲津彦の孫)が暗殺者を匿う事件が起きた際、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)が葛城氏を一挙に滅ぼしています。
これをきっかけに雄略天皇は専制王権を確立、雄略天皇の男系血筋は継体天皇のときに途切れていますが、皇女(継体天皇の皇后)を通じて雄略の血筋は現在の皇室まで続いているのです。
また、葛城ロープウエイ山上駅に近い天神社の森は、八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命の住まい跡とされ、山城国風土記には、そこから山城に進出したのが上賀茂、下鴨神社の賀茂氏と伝えています。
葛城の地と葛城山は、雄略天皇と上賀茂、下鴨神社に所縁の深い場所だったのです。