野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大寒の時期なら観光客も少なかろうと思い、近鉄阿倍野橋駅からの電車で50分、飛鳥駅に到着、万葉のふるさと、飛鳥路を散歩してみました。

この日は、ときおり小雪も降る寒い日だったので、案の定、観光客は少ないようです。駅からほんの少し歩いただけで、こういう風景が広がります。

最初に立ち寄ったのは、高松塚古墳がある「国営飛鳥歴史公園、高松塚周辺地区」で、国営の公園らしくきれいに整備されていました。左は中尾山古墳、右の丘の先に高松塚古墳

高松塚手前の丘の南西14キロ先には、積雪の金剛山が見えましたが、この山だけは万葉人も見た光景でしょう。

これが1972年に壁画が発見され飛鳥ブームを巻き起こした高松塚古墳です。築造時期は、藤原京時代(694~710年)とか。この壁画発見以降、明日香村の観光施設が整備されはじめたようです。

高松塚古墳からもとの道に引き返し、しばらく歩くと天武、持統天皇陵が見えてきます。この御陵は、被葬者が確実な御陵として知られています。

西暦687年に築造され、翌年に天武天皇を埋葬、703年には天皇として初めて火葬された持統天皇が合葬されたという記録が日本書紀にあります。

天武、持統天皇陵の正面

天武、持統天皇陵からほど近い住宅地の中にポツンとある明日香村のシンボル亀石(長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートル)

つづく



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2012年大阪国際女子マラソンを地下鉄長居駅前で観戦、ゴール直近まで戻ってきたランナーの表情を紹介しましょう。1位で戻ってきた重友、2時間23分23秒という好タイムでした。

しかし、この大会の最高記録は、2003年に野口みずきが出した2時間2118秒、これは現在でも国内最高記録です。長居に2位で戻った野尻は、ゴール前で抜かれ2時間24分57秒で3位

2000年には、ルーマニアのリディア・シモンが2時間2254秒、2005年にはラトビアのエレナ・プロコプツカの2時間2256秒で優勝するなど大阪ではレベルの高いレースが続いていました。3位で戻ってきたガメラシュミルコは、このあと野尻を抜いて2時間24分46秒で2位

しかし、昨年の大会の優勝タイムは、赤羽有紀子の2時間2629秒なので、今回はレベルの高い大会となったようです。4位の堀江は、2時間28分35秒と自己記録に及ばず。

ちなみに昨年10月にあったシカゴマラソン(優勝賞金12、5万ドル、約1円)では、ロシアのリリア・ショブホワ(34歳)が2時間1820秒というすごいタイムを出しています。5位の嶋原も2時間29分51秒と自己記録に大きく及ばず。

外国の強い選手は、高額賞金がかかった大会(ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨーク)に限定してエントリーするようなので、大阪でその走る姿を見るのは難しいようです。6位の佐藤は、2時間32分49秒と自己記録を大幅に更新。

その理由は、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークなどのマラソン成績ポイントを加算し、通算獲得ポイントの高い選手に高額賞金が出る制度ができたのが理由とか。7位のモガカ(27歳、ケニア)は、2時間35分36秒

ちなみに世界最高賞金の出るマラソン大会は、ドバイマラソンの25万ドル(約2千万円)だそうですが、暑いのでしょうね。8位は一般参加のシェリー(35歳、オーストラリア)2時間35分57秒

福士は、自己記録、2時間2438秒を持つスピードランナーですが、何と9位で帰ってきました。

今回一般参加でエントリーした坂本直子(ゼッケン101、31歳)は、2003年のこの大会で2時間2151秒で3位、アテネオリンピックでも7位に入った実力者です。10位で帰ってきた坂本



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大阪国際女子マラソンのランナー達が御堂筋を走ると聞いたので、地下鉄本町駅の近くで観戦してきました。1位グループ。左はペースメーカーの清水(26歳)、中央が2時間23分23秒で優勝した重友(24歳)、右が福士(29歳)

折り返しを過ぎて戻ってきた坂本(31歳)は、2時間21分台の記録を持っている強い選手ですが、2時間39分27秒と10位に終わりました。

ガメラシュミルコ(28歳、ウクライナ)は、招待選手としての責任を果たし、2時間24分46秒で2位。

北京オリンピック優勝の招待選手、ディタ(42歳、ルーマニア)は、年齢のせいか、この大会では記録が伸びなかったようで、2時間40分08秒で11位。この年齢で招待選手としてフルマラソンに出場できることが凄い。

左が招待選手グリゴリエワ(38歳、ロシア)、中央は一般参加の花堂(28歳)、右も招待選手ボテザン(35歳、ルーマニア)。この中ではボテザンが2時間42分50秒で12位。

折り返しを過ぎて戻ってきた1位グループの重友と福士。重友は、自己記録を8分以上更新しています。福士はまだ余裕があるように見えましたが・・・2時間37分35秒と9位に終わりました。

野尻(29歳)は、自己記録を32秒更新して2時間24分57秒、3位と健闘しました。

大型選手の佐藤(35歳)は、自己記録を10分以上更新して2時間32分49秒で6位と大健闘しています。ディタを見習ってさらに挑戦を続けて欲しい選手です。

河野(28歳)は、自己記録を更新し2時間47分36秒で19位でした。後ろは招待選手のボデザン。

ペースメーカーの清水は、責任を十分果たし、折り返しをすぎてもまだ走っていました。

このあと長居競技場前に移動し、ゴール直前の選手の表情も撮影したので、明日紹介したいと思います。

 



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阪急烏丸駅で下り、烏丸通を南に歩くと綾小路通、次が佛光寺通で、その交差点を東に100m進むと長い塀に囲まれた比較的大きな寺院が見えてきます。右側

これが佛光寺通の由来となった真宗佛光寺派の本山佛光寺で、烏丸通から二つ目の四つ角を南に曲がると立派な山門が見えてきます。

1205年、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた親鸞は、越後国に配流されますが、真宗佛光寺派は、その親鸞が武蔵国で布教した際の門徒から始まり、1324年に第7代了源が畿内以西へ布教のため山科に興正寺を建立しています。山門前の通

本願寺3世法主覚如は、興正寺を真宗にあらざるものと批判、佛光寺派の設立当初から本願寺とは対立関係にあったようです。

1330年山科の興正寺は、東山山麓の渋谷(現在の京都国立博物館)に移って佛光寺と改称、11代性雲の時代(1400~38年)には大谷本願寺を凌ぐ信者を集めていたようです。御影堂(1884年完成)間口26,5m、奥行33m

1481年、11代性雲の孫の経豪は、寺僧の多くを引き連れて蓮如の本願寺に帰参して興正寺を再興、佛光寺は弟の経誉が継ぐという教団の分裂が起こっています。

石山本願寺と織田信長が対立していた1580年、佛光寺は信長から寺領安堵の朱印状を受けていることから、信長が本願寺と佛光寺は別の教団と理解していたことが判ります。本堂の門

1586年、豊臣秀吉が渋谷佛光寺の土地に方広寺大仏殿の建築を開始、佛光寺は現在地に移転したために北側の通りは「仏光寺通」と呼ばれるようになっています。本堂の阿弥陀堂(1904年)間口15,6m、奥行21m

1596年、京都に大地震があり、佛光寺の伽藍も倒壊、江戸時代になって整備された建物は、大火による焼失と再建が繰り返されますが、幕末の禁門の変の大火でまたもや焼失しています。高辻通に面している佛光寺南側

御影堂が再建されたのは、明治17年、本堂の再建は明治37年になってからのことでした。

 

参考文献:佛光寺の歴史と信仰 千葉乗隆、梨本哲雄監修



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六波羅蜜寺周辺が平家の本拠地だったことは昨日の記事で紹介しましたが、六波羅蜜寺のすぐ南、三盛町には越前(清盛の甥、教盛の嫡男)の邸宅があったと考えられています。

三盛町の南にある門脇町は、門脇宰相教盛(清盛の弟)、その西の池殿町は、大納言頼盛(清盛の異母弟)の邸宅があった場所なのでしょう。

門脇町の町名の元となった門とは、六波羅蜜寺の南にあった総門のことで、当時の六波羅蜜寺の規模を知ることができると同時に、この地が平氏の本拠地だったことを今に伝えています。

1183年、木曽義仲の京都攻撃に備え、平家一門が六波羅の邸宅に火を掛けて都落ちした際に、六波羅蜜寺も炎上しますが、すぐに再建されています。六波羅蜜寺の南にある三盛町

源頼朝に与えられた六波羅には、京都守護の庁舎が置かれ、御家人の宿舎が築かれています。さらに承久の変(1212年)の後には六波羅探題が置かれ、探題に仕える武士の屋敷があったようです。左側が三盛町、そのさらに左手が門脇町

1333年、鎌倉幕府の六波羅探題は、足利尊氏に攻められ焼亡、隣接する六波羅蜜寺も類焼しています。この左手が平頼盛の邸宅があったという池殿町

室町幕府の基礎が固まった1363年、六波羅蜜寺再興の勧進が始まり、その3年後に本堂が完成、この本堂は応仁の乱にも被災することなく数回の修繕を経て現在まで奇跡的に残っています。六波羅密寺の西側にある石畳の宮川町筋

江戸時代の六波羅蜜寺には、本堂の他に6~7の諸堂があったようですが、明治時代の廃仏毀釈によって表門、裏門、開山堂、閻魔堂、地蔵堂などが破壊され、寺地も大幅に縮小されています。鴨川に架かる松原橋

松原橋から見た六波羅密寺は、写真中央やや右手です。早朝の京都は、観光客が少なく、気持ちの良い散歩となりました。

明治の廃仏毀釈で縮小された波羅蜜寺は、空也が創建した当時の規模に戻ったことになるのかも知れません

参考文献:六波羅密寺 毛利 久著、古都巡礼京都六波羅密寺 川崎 龍性著

 



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 大寒を過ぎたと思ったら、本格的な寒波がやってきました。余りにも寒いので久しぶりに休暇を取り、大阪城の梅林の様子をみてきました。梅林の外に咲いていた10月桜

1月15日に紹介したロウバイは、まだ満開状態が続いてます。一方梅の開花は、梅林全体(1270本)の株の中で1%も無い状態でした。早咲きの「寒紅」

それでも早咲きとして知られる白色の「冬至梅」の気の早い株だけが、ほんのわずかに開花しはじめていました。

ピンク色の「寒紅」も早咲き品種として知られていますが、こちらも開花した株はほんのわずかで、広い園内をくまなく探してやっと見つけるという状況でした。

これも早咲きの品種と思いますが、「初雁」の株の中の1本だけ、ほんの少し小さな花弁を開花させていました。

しかし、完全に開花した状態よりも、膨らみはじめた途中段階の花が最も美しいのではないでしょうか。

冬至梅の白い蕾もかなり膨らんできているので、1週間後くらいには見頃を迎えそうです。

太陽の光が斜め逆光となる角度から撮ってみると、偶然に太陽光線が写っていました。

平安時代以降の日本人が春の花の代表としているのは桜ですが、奈良時代以前には梅の花だったようです。

その証拠に、万葉集の中にある梅の歌は119首もあるのに、桜の歌はたった42首なのです。「寒紅」の逆光写真

奈良時代以前の日本人は、大寒の季節に花を咲かせる梅を見て、心を揺さぶられたのでしょうが、我々にもそのDNAが受け継がれているのでしょうね。

 



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朝早く大阪を出て、NHK大河ドラマの主人公、平清盛(1118~1181年)の一族がかつて居住した土地にあるという、六波羅蜜寺とその周辺を散歩してきました。朝の鴨川

西暦951年、空也上人(903~972年)は、鳥辺野の墓地に眠る無数の霊を供養するために小さな西光寺を創設しています。六波羅密寺の北、建仁寺の西門

空也の跡を継いだ高弟の中信は、西光寺の伽藍を拡大し、977年に六波羅蜜寺と改名していますので、それから既に1035年が経過している古い寺院なのです。六波羅密寺の北、大和大路通の恵美須神社

六波羅蜜とは、人が彼岸へ進むために修業する6つの徳目、すなわち布施(応分の施しをして、施しを心に留めないこと)持戒(道徳から外れないよう自らを戒めること)忍辱(忍耐に徹すること)精進(不断の努力をすること)禅定(静かに自分を客観的に見ること)智慧(考えて正しい行動をすること)のことです。左は建仁寺の南塀

平家と六波羅蜜寺との関係は、白河上皇(1053~1129年)の院政期(1110年頃)に平清盛の祖父、平正盛(?~1121年)が六波羅蜜寺に供養堂を建立し、その子忠盛(1096~1153年)が「六波羅館」を置いて武家の拠点としたことから始まっています。六波羅密寺の北、松原通

伊勢平氏は、伊勢国を本拠としており、京都から伊勢や東国方面への街道(江戸時代の東海道)の出口に当たる六波羅の土地を一族の拠点としたようです。松原通から見た六波羅密寺

清盛の全盛期には、鴨川の東側、北は松原通から南は七条通(800m四方くらいか)に一門の屋敷が5200軒もあったと記録されています。東向きの本堂の前は、すぐ道路となっています。

六波羅の泉殿と呼ばれていた平清盛本邸の位置は、現在良く判っていませんが、六波羅蜜寺に近接した場所にあったことは確実なようです。本堂の屋根と観音像

観音像が置かれているのは、六波羅密寺が西国三十三所観音巡礼の17番札所となっているからでしょう。南側から見た本堂

六波羅密寺が現存していることで、この辺りがかつて平清盛をはじめとする平家の根拠地だったことが判るのです。

つづく

参考文献:六波羅密寺 毛利 久著、古都巡礼京都六波羅密寺 川崎 龍性著



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大阪府咲洲庁舎からの風景を紹介していますが、まだ少し在庫がありました。下の写真の手前は淀川、そこから箕面の山に向かって次第に高くなり、中央上が北急千里中央駅付近(咲洲から21キロ)です。

写真を撮っていると、右から伊丹空港に着陸するJAL機が視野に入ってきました。伊丹に着陸する飛行機は、市街地の真上をかすめて飛ぶので、沖縄の普天間飛行場と同様に危険ですね。

地下鉄心斎橋駅と谷町周辺のタワーマンションの背景に見える山です。最も高いポイントは、25キロ離れた飯盛山(314m)、その左に見える煙突は、四条畷市立環境センターでしょう。

飯盛山の左側に見えるはるか遠くの山は、咲洲庁舎から49キロ先にある宇治田原町の鷲峰山(682m)でしょうか。

なんばパークスタワー(150m)の先、飯盛山の右側は、少し低くなっているので阪和カントリークラブ辺り(咲洲から24,8キロ)でしょうか。山中に多くの建物が見えています。

生駒山は、その右側から少し高くなり、近鉄石切駅の上に当たる頂上付近には、数本のアンテナを見ることができます。

そのすぐ右側、アンテナが林立するポイント(咲洲から24,4キロ先)が東京スカイツリー(634m)よりも高い生駒山山頂(642m)、その麓が近鉄額田駅から枚岡駅付近の住宅地でしょう。

そこから右、久宝寺駅前のツインタワーマンション(150m)の背後が高安山(487m)で、レーダーがかすかに写っています。

生駒山の右、咲洲から27キロ先には二上山(雄岳517m、雌岳474m)、その右端、切れ込んだ谷が古くから河内と大和を結ぶ竹内峠(289m)で、そこを超えるとすぐ当麻寺です。

二上山の左の谷を流れ出た大和川は、江戸時代に開かれたルートを西に向かい、大阪府咲洲庁舎から5,7キロ先にあるこの辺りが河口です。下の橋は、阪神高速湾岸線。

 

 



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年末に大阪府咲洲庁舎から見た大阪の風景をご紹介しましたが、今回は神戸から尼崎までをご紹介しましょう。ワイド画面でみると、この範囲

最も左側に見えているのは、ポートアイランドのビル群で、咲洲からの距離は18キロくらいでしょうか。この日、真上の雲のせいで海岸線だけに日が当たっていました。

その右、メリケンパークから三ノ宮の中心部です。距離は20キロくらいでしょう。遠いので画面に霞みがかかっているように写っています。

地震から間もなく17年、三ノ宮にはタワーマンションが林立し、威容を誇った神戸市庁舎も埋没していました。咲洲庁舎からの距離は21キロくらいでしょうか。

左が新神戸駅付近、中央が震災直後に建設されたHAT神戸のマンション群でしょう。神戸市は、六甲山中腹まで建物がひしめき合っていることが良く判ります。

大きな筋交が見えるP&Gビルがあるので、ここは六甲アイランド。大阪府咲洲庁舎からからの距離は14キロくらいでしょう。

現時点では神戸市で最も高い(170m)という御影のタワーマンションですが、もうじき三ノ宮駅東のマンション(190m)に抜かれるようです。距離は16キロくらいだと思います。

咲洲庁舎から11キロ離れた芦屋浜のマンション群です。良く見ると、海岸はヨットで埋め尽くされています。ヨットを持つ日本人がこれほどいるとは驚きです。しかし、津波が心配ですね。

手前は武庫川団地、その先には西ノ宮のタワーマンションが見えています。距離は13キロくらいでしょう。

尼崎市のJR立花駅前にあるツインタワーです。距離は11キロくらいでしょうか。

咲洲庁舎から10キロくらいまでの距離なら、かなり細かな部分まで 撮影できるようです。



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聖徳太子の死から570年後となる1191年、親鸞が師の慈円と共に聖徳太子廟(叡福寺)に詣で3日間参籠、そこで夢のお告げがあり、親鸞が苦悩した話を1年前に紹介したことがあります。聖徳太子廟

それから157年を経た1348年、叡福寺に北朝の高師泰率いる足利軍が乱入、石室の遺品を略奪したという記録があるので、聖徳太子の棺の破損も免れなかったようです。右が円墳石室への入り口のある正面

さらに226年後の1574年には、織田信長の兵火で全山が焼失していますが、1603年、後陽成天皇の勅願によって豊臣秀頼が伽藍の一部を再興しています。側面から見た円墳は、山の斜面に築造されています。

 

叡福寺のある磯長(しなが)は、蘇我氏ゆかりの地で、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いていますが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もあるようです。聖徳太子の父親の用明天皇陵

明治12年(1889年)、富岡鉄斎も参加した学術調査があり、古墳は直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されていたと報告されています。左がその入り口

 

 

3基の棺は、日本書紀にあるように、621年に相次いで亡くなった聖徳太子の母、妃、本人のものと考えられることから、聖徳太子の墓と考えてほぼ間違いないのではないでしょうか。円墳の西側にある墓地の中で最も古いものは天喜2年(1054年)の忠禅上人層塔

石室の奥に置かれた蓋の無い石棺(198cm×75cm)は母親のもの、手前右の棺台(240cm×92cm)は聖徳太子のもの、左の台(215cm×90cm)は、妃のものと考えて良いと思います。円墳の背後にも多くの墓石が置かれています。

 

手前二つの棺台には、乾漆製の夾紵棺が置かれていたようですが、夾紵棺は風化し、遺骸や遺品は残っていなかったと報告されているので、541年前にあった高師泰軍の略奪のせいかも知れません。山門の西側にある二重の塔

その調査の後、横穴入口はコンクリートで埋められ、宮内庁が聖徳太子廟として管理しているので、現在では石室の中を調査する事は不可能となっています。叡福寺では、初詣の参拝者に甘酒の接待がありました。

遣隋使の派遣や17条の憲法で知られる飛鳥時代を代表する人物「聖徳太子」の廟が河内にあることを知らない人も多いのではないでしょうか。

参考文献:河内の古道と古墳を学ぶ人のために 泉森 皎著

 

 



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竹内街道は、孝徳天皇陵から西400mのポイントから北に向かいますが、そこから800m西に聖徳太子の墓所とされる叡福寺があります。今年の初詣は、その叡福寺に参拝してきました。

日本書紀や天寿国繍帳の銘文によると、西暦621年に聖徳太子の母(用明天皇の皇后)が亡くなり、磯長陵(しながりょう)に葬られたとされています。山門

その僅か2か月後に聖徳太子の妃が、さらにその翌日、聖徳太子自身が斑鳩宮で亡くなり、母と同じ磯長陵に葬られたとされています。宮内庁の看板

父親の用明天皇陵に近い磯長の地に母のための墓の築造(寿墓)に着手したのは聖徳太子と考えられるので、母の死の2か月後に亡くなった聖徳太子夫妻は、そこに追葬されることになったのでしょう。ほど近い用明天皇の河内磯長原陵

叡福寺に伝わる磯長陵の見取り図によれば、拝殿のある南側に石室へ至る廊下の入り口があり、石室内に3つの棺が安置されていたようです。正面が石室の入り口だったのでしょう。

飛鳥時代以前の陵墓に埋葬された人物が、現在の陵名通りなのか実は良く判っていないようですが、石室に3つの棺があったことから、磯長陵だけは、聖徳太子のものと考えて良いと思います。円墳の外周は、墓石が隙間なく2重に取り囲んでいます。

太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされ、103年後の724年に聖武天皇が伽藍を整備したようです。

 

寺は、当初磯長御廟寺と呼ばれていたようですが、室町時代(14世紀)頃から叡福寺と呼ばれるようになっています。1732年に再建された金堂

鎌倉時代には聖徳太子を救世観音の化身とする伝説が生まれ、太子廟に巡礼した信者が石室に入って棺を拝んだ際、「在りし日のようで眠るごとくで、南方を枕に北方に足を伸ばしていた」と記録しています。(聖徳太子伝私記、法隆寺の僧、顕真著)太子廟(左)の西側は、聖徳太子にあやかりたい人々の墓地となっています。

 

日本仏教の祖といわれる聖徳太子墓所ということで、空海、親鸞、日蓮などがこの寺に参篭したことが知られています。

参考文献:河内の古道と古墳を学ぶ人のために 泉森 皎著



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先日、竹内街道の記事をアップしましたが、司馬遼太郎(1923〜1996年)の著書「街道をゆく」のなかに今から70数年前の竹内街道について触れたところがあるので、その一部を紹介しましょう。

司馬遼太郎は、「私は幼年期や少年期には、その竹内村の河村家という家で印象的にはずっと暮らしていたような気がする(中略)そこが母親の実家だったからだが(中略)竹内峠の山麓はいわば故郷のようなものである」と書いています。以下原文のままとします。

村の中を、車一台がやっと通れる道が坂をなして走っていて(中略)路相はおそらく太古以来変わっていまい。(芭蕉が逗留した弟子の千里の実家は、綿弓塚記念館)

それが竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう。

村の上の方に池がある。大和の池には万葉ぶりの名のついた池もあるがこの池は単に「カミノイケ」という。(右が上池の土堤)

私ども子供のころにはこの池は山林の嵐気を映して、池心がおそろしいばかりに青く、他の地方と同じように主がいるといわれ、それを理由に子供たちが泳ぐことを禁じられていた。しかし私は真夏にはさんざんこの池で泳いだ。(上池改修の石碑)

子供たちはカミの池を怖れていたが尊敬もしていた。なぜなら、これほど大きい池はちょっと在になかったからである。

「海ちゅうのは、デライけ?」と、なかまの子供たちからきかれたことがある。デライ、というのはドエライということで大きいという意味であった。(上池)

私は(中略)大阪からやってくるという立場上、村外の知識はかれらより多く持っていた。「デライ」と断定すると子供たちはうなずいてくれた。子供たちはさらに「カミの池よりデライけ?」と聞いた。(咲洲のWTCビルから見た海は、やはり上池よりも広い)

私は比較の表現に困り、「むこうが見えん」というと、こどもたちは大笑いし、そんなアホな池があるもんけと口々にののしり、私は大うそつきになってしまった。いまの日本は実に文明開化したものである。



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数日前の朝に見たのは満月に近い月でしたが、いつのまにか半月となっています。今の季節、難波から本町までの御堂筋で見ることのできる月と、月の手柄話を紹介しましょう。道頓堀橋の上から

朝の通勤時、下弦の月をはっきと見ることができるのは、日の出の時間が遅い今の季節ならではのものでしょう。スポタカの上の半月

また、空気の透明度が悪かったり、雲が多いとこれほどクッキリとした月は見ることができないと思います。下弦の月が日航ホテルの直上にありました。

さて、1872年(明治5年)までの暦は、太陰暦だったため、それ以前の歴史的イベントがあった日は、月の満ち欠けの月齢と一致しています。日航ホテル

たとえば赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあった、元禄15年12月14日は、満月の前日だったとすぐに察しが付くのです。南船場3丁目交差点

当日は晴天の14夜、芝居などで見る討ち入りシーンでの降雪は、舞台効果のための演出で史実ではありません。御堂筋ダイビルの上

満月前夜の月光は、夜の照明が乏しかった元禄時代、人の夜間行動に欠かせない重要な要素だったのです。中央大通りの北、ヨドコウビルの上

従って、曇りや雪や雨の日の場合、夜は正に漆黒の闇となり、夜間に仇討などの活動ができる状況では無かったのです。御堂筋と本町通交差点の上

大石内蔵助は、月光の明かりが期待できる14日、15日、16日をあらかじめ討ち入り候補日と決めていて、たまたま吉良の在宅が確認され、晴天となった12月14日がその決行日となったのでしょう。北御堂の看板の横

赤穂浪士が本懐を遂げることができたのは、月光という自然の味方があったからという月の手柄話でした。

参考文献:花鳥風月の日本史 高橋千劔破 著



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銀河丸とは全く関係ありませんが、先日(1月13日午後9時半、現地時間)イタリアで発生したクルーズ船(コスタ・コンコルディア)の座礁事故について、ウイキペディアの記事を紹介しましょう。

コスタ・コンコルディアは、7日間の西地中海クルーズに向け、イタリアのチビタベッキアを出港した直後に浅瀬に乗り上げています。従ってクルーズ客にとっては、旅行に出たとたんに発生した事故だったようです。

遭難したコスタ・コンコルディアは、総トン数:114,147 トン、全長:290.2 m、幅:35.5 m、船客定員:3,000名(最大 3,780名)、乗組員:1,090名という大型クルーズ船です。事故と関係の無い銀河丸の船尾。

同船には、イタリア人989人、ドイツ人569人、フランス人462人、スペイン人177人、アメリカ人126人、ロシア人108人それと日本人43人を含む3200名が乗船していたとか。銀河丸ブリッジの内部

今回、コスタ・コンコルディアに乗船していた日本人のツアー料金は、日本からイタリアまでの航空運賃を含めて最も安いランクで18万円とか。クルーズ会社に安全を犠牲にする無理なコスト削減は無かったのでしょうか。コンパスの置かれた窓の向こうには、クルーズ船ディスカバリーが見えています。

銀河丸のブリッジ下には、ブリッジに似たシュミレーションルームがあり、スクリーンに映る映像を見ながら操船訓練ができるようです。

コスタ・コンコルディアの船長は、乗客よりも早く避難したという情報もあるようですが、銀河丸で学ぶ練習生には、そのような行動を取らない船長になって欲しいものです。船内の通路

2006年にイタリアで完成したコスタ・コンコルディアの船価は56,500万ドル(約440億円)当然保険に入っているでしょうが、大変な損害ですね。銀河丸のエンジンルーム

ブリッジの外から見たディスカバリー。停泊している岸壁に置かれたフェンスの先は、立ち入り禁止区域となっていました。

座礁したコスタ・コンコルディアは、このディスカバリーの約7倍というマンモスサイズだったようです。



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大阪港天保山埠頭で、航海訓練所が保有する練習船「銀河丸」の一般公開があると聞いたので、行ってきました。

銀河丸は、東京海洋大学海洋工学部(旧東京商船大学)、神戸大学海事科学部(旧神戸商船大学)、海技大学校、商船高等専門学校及び海上技術学校の学生・生徒の航海実習訓練を目的として建造された航海練習船です。

公式HPには、銀河丸の総トン数: 6,185トン、全長 116.40m、幅:18.00m、深さ:10.50m、最大速力:20.5ノット、航海速力:18.6ノット、定員(実習生):246(180)と紹介されていました。

東京船籍の銀河丸が完成したのは、2004年6月、建造後7年半しか経っていない練習船としては新しい大型の船です。煙突のある中央部

銀河丸の前方部分。

 この日の天保山岸壁には、バミューダ船籍のクルーズ船ディスカバリー(総トン数 20,186トン、全長 168.7m、全幅 24.64m、船籍 :バミューダ 乗客数 :最大750名、建造年:1971)が前方に着岸していました。

さて、航海訓練所のHPに「おもかじ(面舵)、いっぱい」という言葉の意味が紹介されていましたのでご紹介しましょう。 手前が銀河丸、右がディスカバリー

この呼び方は、十二支を配置した時計の12時、つまり子(ね)の方向に船首を向ければ、右側の3時方向は卯(う)、左側の9時方向は酉(とり)になることからきているそうです。

従って右側が卯面(うも)、左側が酉(とり)と呼ばれていたため、右に舵をきることを「卯面、う(お)もかじ」、左に舵をきることを「酉、とりかじ」と言うよう になったそうです。

 

寄港したクルーズ船や練習船、自衛隊の護衛艦などを気軽に見学できる、港町大阪に住む人のメリットでしょうね。 

 



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