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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



六甲アイランドの岸壁を離れた「さんふらわあファミリークルーズ」は、小雨交じりの明石海峡を目指し、右手に神戸市を見ながらどんどん進みます。

明石海峡大橋が近くなってくると、雨が止んできました。

もうじき明石海峡大橋の下を通過します。

今、通過!こちらは神戸垂水区方向

船は、明石海峡の西で大きくUターンします。

今度は西側から橋の下を通過します。ということで、右側は淡路島。

2回目の通過です!淡路島方向

そのころ4階のデッキでは、こうべサンバチームによる賑やかなサンバの踊りが披露されていました。

笑顔が素晴らしいコウベサンバチームでした。

 



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先日、神戸六甲アイランドからフェリーに乗って明石海峡を周遊するクル−ズイベントに行ってきました。・・・六甲アイランドのフェリー乗り場

今年の明石海峡や大阪湾を周遊するクルージングは、3月、10月、12月が大阪南港発着、5月、8月が六甲アイランドから発着する予定だそうです。・・・フェリーから見える対岸

その料金は、大人3,800円、小学生1,800円、幼児(3歳以上)1,000円、これでちょっとした船の旅を楽しめるのなら、安いのかも知れません。・・・神戸

さて、8月のプランでは、六甲アイランド埠頭から11時乗船、12時出港、神戸市内を右舷に見ながら明石海峡の西側でUターンし、15時半に戻ってくるクルージングでした。・・・明石海峡大橋

当日は、神戸や大阪市内に集中豪雨があって一部床上浸水の被害があったそうですが、海に浮かぶ大型の船ならどんな豪雨でも安全です。・・・船内5階

使われた船は、神戸 - 大分航路に使用している「さんふらわあ ごーるど 」です。その総トン数11,380トン、全長165.5m、幅27.0m、出力24,480馬力、航海速力23.2ノット(時速42km)。・・・6階

この「さんふらわあ ごーるど 」は、2007年11月21日に就航した比較的新しい船で、旅客定員は780名、車両はトラック147台・乗用車75台も積載できるそうです。・・・7階デラックスルーム

船室には、熊本県のゆるきゃら「くまもん」のルーム(くまモンと夢見る船旅ルーム)が1室あり、スタンダード4名部屋料金に1名あたり1000円追加料金で利用できるようです。

ハローキティのキャラクターグッズでいっぱいの(ハローキティルーム)は、スタンダード4名部屋料金に1名あたり2000円の追加料金だそうです。

このクルージング中でも、別途料金を支払えば「くまもん」ルーム、ハローキティルーム、デラックスルームが利用できます。

つづく



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貝塚市にある願泉寺を取材したあと、海の見える場所を探し南海電車で南へ移動してみました。しばらくすると、海の近くに駅があったので下り、そこから200m歩くと海岸でした。

ここは南海電車の箱作駅です。その東側にある陸橋からも泉州の海が良く見えます。

海岸に出ると、正面はすべて海。・・・まず左側(西側)の景観から・・・ここから見える海の先はすべて淡路島です。紀淡海峡は、この視界よりもっと左側にあるので、この写真には写っていません。

北西方向を見ると、遠くに明石海峡大橋が見えています。ということは、橋の右側が神戸市と六甲山ということになります。

左側に見える山は六甲山、その手前に見えるの、関西空港でしょう。

ここまで拡大すると関空の様子が良く判ります。・・・ちょうど離陸している飛行機が写っています。背景の山が六甲山ですね。

さらに右側を見てみましょう。・・・地図では良く判りませんが、この辺りの海岸が西に大きく湾曲していることが判ります。

大きく湾曲した海岸の先には、りんくうゲートタワービルが見えています。

最後に、約180度の範囲を捉えたパノラマ写真をどうぞ。昨日の記事で紹介した顕如も、430年前のこの風景を見ていたのではないでしょうか。

 



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昨日の記事からの続きです。さて、紀州鷺森に移っていた本願寺十一世顕如(1543~1592年、当時41歳)は、卜半斎了珍(1526~1602年、58歳)を通じた秀吉(1537~1598年、当時47歳)の要請を受け、海塚御坊に拠点を移し(1583年)、海塚御坊は顕如が大坂天満に移るまでの2年間、浄土真宗の総本山となるのです。・・・願泉寺の表門(重要文化財)

1584年、秀吉は小牧・長久手で徳川家康と戦って苦戦、(家康と連携した)紀州根来衆が秀吉の本拠地大坂に進撃したこともあり、秀吉側からの申し出でやっと講和が成立しています。・・・鐘楼と教蔵

実は、小牧・長久手の戦いの直前、家康から卜半斎了珍に根来衆通過を黙認してほしいとの要請があったようです。了珍の黙認で根来衆の大坂攻撃が実現、小牧・長久手での家康側勝利となっています。・・・本堂前

しかし、秀吉との関係も維持してきた実績(顕如の海塚御坊移転など)から、1585年の紀州根来攻撃の際に秀吉は海塚御坊の安全を保障、海塚は秀吉軍の攻撃を免れています。・・・太鼓堂(重要文化財)

ところで1592年に本願寺十一世顕如が亡くなると、長男教如(1558~1618年、東本願寺)三男准如(1577~1630年、西本願寺)との後継者争いがあり、本願寺は東西に分裂しています。・・・本堂(重要文化財)の屋根

東本願寺教如の妻は、卜半斎了珍と同じ泉佐野の豪族(佐野川新川家)出身で、卜半斎家と東本願寺は緊密な(親戚)関係にあった文書が願泉寺に残っています。・・・表門

一方、西本願寺准如は、2年間本願寺総本山だった海塚御坊を保護する上から、卜半斎家を海塚留守居職とし1607年、海塚御坊に「願泉寺」の寺号を授け、このときから願泉寺の寺号が使われ始めています。・・・本堂前

1610年、願泉寺と海塚(貝塚)寺内町との間で係争が起こると、幕府は小牧・長久手で徳川方に味方した卜半斎家に諸税免除の黒印状を与えて貝塚の支配を認め、卜半斎家は正式に貝塚の主となっています。・・・石灯籠には金涼山という山号が彫りこまれていました。

卜半斎家と願泉寺は、江戸時代を通じて幕府の保護を受け、東西本願寺との関係も切れること無く、両方に属する兼末寺院という珍しい形で存続していますが、現在は西本願寺派の寺院となっています。・・・外から見た太鼓堂

参考文献:貝塚願泉寺と泉州堺 堺市立博物館編、金涼山願泉寺 三谷二瑞著

 



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今から421年前に浄土真宗の総本山だった貝塚市の海塚御坊(現在の願泉寺)の歴史を調べて見ましたので紹介しましょう。・・・南海貝塚駅前

願泉寺のある土地は、応仁の乱(1470年前後)の頃に本願寺八世蓮如(1415~1499年)が布教の際に留まった草庵のあった場所でした。・・・貝塚駅から願泉寺への道

摂津国の浄土真宗の古い寺院として、本願寺堺別院(堺御坊)を紹介したことがありますが、堺御坊の復興がなった頃、蓮如ゆかりの海塚に海塚御坊が完成したようです。・・・上の道路から西に延びるわき道の先に願泉寺はありました。

1545年、この寺の住僧となったのは、根来寺から来た卜半斎了珍(1526~1602年)で、了珍は泉佐野の豪族(佐野川新川家)出身の若い僧だったようです。・・・表門から見た本堂

現在の願泉寺には、本願寺十世証如(1516~1554年)が下付した阿弥陀如来画像(天文19年=1550年の裏書あり)が残っていて、1550年頃には既に和泉国の拠点寺院となっていたことは確実です。・・・重要文化財の表門(1679年建立)

さて、織田信長の勢力が大坂に及ぶと、石山本願寺に立て籠もる十一世顕如(1543~1592年)との間に10年に及ぶ石山合戦があり、本願寺支援勢力を打つ織田勢の紀州雑賀攻め(1577年)がありました。・・・表門の彫刻

その際、和泉国一向一揆は海塚御坊に立て籠もりますが、決戦前夜に海路から紀州に脱出、織田勢は無人の海塚御坊を焼き打ちしています。・・・重要文化財の本堂(1663年建立)

しかし1580年、本願寺はついに信長と和睦して大坂から紀州鷺森に移っています。一方、同年海塚御坊は、八間四面の板葺本堂を再建しているので、卜半斎了珍の勢力は温存されていたようです。・・・奥に見えるのが重要文化財の太鼓堂(1719年建立)

1582年、本能寺の変で信長が急死、秀吉の(1537~1598年)時代となると、秀吉は海塚を海塚御坊寺内町と認め諸役を免除、海塚御坊とその寺内町は急速に復興しています。・・・本堂前から見た表門

信長と違って本願寺との関係を改善したかった秀吉は、卜半斎了珍を呼んで紀州鷺森にいる十一世顕如を大坂に近い海塚御坊に移すよう要請しています。

つづく

参考文献:貝塚願泉寺と泉州堺 堺市立博物館編、金涼山願泉寺 三谷二瑞著



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昨日の記事からの続きです。さて、大塩から老中5名宛てに送られた建議書は、箱根で押収されますが、恐らく届いていても日の目を見ることは無かったと思います。さて、当時の老中を紹介しましょう。・・・スイレン

大久保忠真(当時60歳、1778~1837年)は、1810年大坂城代、1815年京都所司代を経て1818年に老中、大塩の乱のすぐ後に死去。京都所司代時代に関与したことを大塩が掴んでいます。大久保忠真の分家の武家無尽も摘発されています。・・・ハイビスカス

松平乗寛(当時60歳、1778~1839年)は、1818年京都所司代を経て1822年に老中となっていますが、京都所司代時代、大坂で無尽に関与していたようです。

水野忠邦(当時44歳、1794~1851年)は、1825年大坂城代、1826年京都所司代を経て1828年に老中となっています。大阪城代のときに家臣が一心寺の関係者に無尽を依頼した事実を大塩が掴んでいます。水野の実弟(堀 直哉)が藩主だった越後国椎谷藩の武家無尽も大塩は摘発しています。・・・サボテン

松平宗発(56歳、1782~1840年)は、1826年大坂城代、1828年京都所司代を経て1828年に老中となっています。宗発が大坂城代時代に無尽に関与したことを大塩は報告しています。・・・サボテン

太田資始(39歳、1799~1867年)1828年大坂城代、1831年京都所司代を経て1828年に老中。大塩が与力を引退した後に大坂城代、京都所司代となっているので、大塩の調査には含まれていません。・・・ユリ

かつて伏見奉行だった小堀政方は、家臣がやった無尽を伏見住民から訴えられ、所領没収改易(1788年)となったことがありました。・・・ラヌンクルス・アカウリス(ニュージーランド原産の高山植物)

従って、大坂城代、京都所司代在職中の無尽が明らかとなれば、老中でも所領没収改易となる可能性があったのです。・・・チングルマ(日本北部原産の高山植物)

幕府最高幹部の大スキャンダルとなることを恐れた水野忠成(3年前に死亡)は、この事件を闇に葬ったのですが、報告が却下され、さらに天保の飢饉の際の幕府の対応に激怒した大塩は、ついに武装蜂起をしたのでした。・・・ミルトニア・モレリアナ(南アメリカ原産のラン科植物)

参考文献:十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯 佐藤雅美著

 



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江戸時代の武家とその家臣は、無尽(現在の宝くじのようなもの)の胴元となることを禁じられていましたが、財政難で苦しむ諸藩は、自領内や大坂、京都などでこっそりと無尽の胴元となって利益を得ていたようです。

通常老中に昇進する大名は、先に大坂城代、京都所司代を勤めますが、経費がかかる(赴任先と江戸と領地の三重生活となる)割に手当が少なかったため、無尽の胴元となって財政をやりくりするのが(密かな)慣例だったようです。

しかし一旦老中に昇進すれば、大名旗本の陳情を自宅で聞くことが許され、その際に陳情者が持参する賄賂収入が期待できたようです。

当時の実力老中、水野忠成(1763~1834年)は、日光東照宮修繕費用として自ら1万両を幕府に上納、さらに水野忠成が亡くなった翌年(1835年)水野家は江戸城普請に1万両、西の丸修理費用1万両を現金で支払っているのがその証拠でしょう。

1829年、老中水野忠成は、配下にある大坂東町奉行高井実徳に大阪在住の武家の不正調査を命じていますが、高井実徳の命で調査を直接担当したのが与力大塩平八郎です。・・・ナンジャモンジャの雄花

大塩は、すぐに西町奉行所の与力弓削新左衛門らを仲介者とした武家無尽を摘発、大坂城代や京都所司代など武家高官の関与もしっかりと報告しています。・・・ナンジャモンジャの雌花

大塩平八郎が摘発した中に名前があったのは、老中6名のうちの4名で、身に覚えがあった老中は震え上がったようですが、幕府中枢の不正を公にするわけにはゆかず水野忠成は、その追及を避けています。

しかし、1830年に大坂東町奉行の高井実徳が転勤となったことで立場が微妙となった大塩は町奉行与力を引退、さらに1834年に老中水野忠成が亡くなり、権力欲の強い跡部良弼が1836年に大坂東町奉行に就任したことで直情径行型の大塩の堪忍袋の緒が切れています。・・・ユリ

翌1837年、大塩平八郎は、水野忠成に報告していた武家無尽の件を建議書にまとめて老中全員(当時は5名)宛てに発送、その直後に大坂で武装蜂起するのです。・・・シャクナゲ

参考文献:十五万両の代償 十一代将軍家斉の生涯 佐藤雅美著



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8月後半の大阪港では、日の入りと、月の出がほぼ同時刻となる日があります。今回は大阪港からの満月の出を紹介しましょう。18時15分頃の大阪港です。・・・入道雲の右下から地平線に向かって斜めに伸びる薄い光の線に注目して下さい。

実は、西に沈む太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れ、太陽と正反対の東方向に光線(光芒)が放射状に収束して見える現象があります。・・・大阪港からは、あべのハルカスが良く見えます。

夕暮れ時、西にある太陽周囲にできる放射状の光線(光芒)は薄明光線と呼ばれ、東側に見えるのは反薄明光線(又は裏御光)と呼ばれています。・・・この日、18時29分頃の東の空(生駒山上空)に反薄明光線がしっかり見えました。

18時45分頃、生駒山のすぐ上にある雲の中から、やっと明るい月が姿を現しました。本当は、生駒山の稜線から出る月を見たかったのですが・・・

西の地平線すぐ上の太陽が光の起点となり、東の太陽と正反対の地点(対日点)に向かって光芒が収束しながら伸びるのが反薄明光線で、薄明光線終了と同時に反薄明光線も消滅します。・・・反薄明光線消滅後に満月が出現

従って反薄明光線は、地上から見た太陽の角度が低くなる早朝や夕方、日の出や日没直前にしか見ることはできません。実は、その観測に最も適した時期が雲や湿度などの条件が整いやすい今(夏)なのです。・・・あべのハルカスと満月

月の高さは、伊丹空港着陸機の航空路にどうやら近いようです。

飛行機が月面通過するチャンスを待ちましたが、なかなか思い通りにはゆきません。

反薄明光線は、高いところを飛ぶ飛行機の窓からの方が見え易いようです。・・・反薄明光線が消滅し、辺りも暗くなってきたので、今回の撮影は終了です。



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隠岐中ノ島で盆踊りがあった日、まずまずの天候だったので、港の夜景を撮影に行ってきました。西方向中央の谷からやや左上の稜線ギリギリに金星が小さく写っています。

この日の夕方、風が無く海面が鏡のようでした。

港の出口方向。まだ星は見えていません。

暗くなるとやっと星が見え始めました。右の強烈な光は、イカ釣り船の漁火でしょう。

港の夜景。強い光の直上には、カメラレンズの中で反射した光が写っているようです。

ペルセウス座流星群を狙って北東部分の空にカメラを向けてみると、写真の中央部に流星が1本だけ薄く写っていました。

南西方向の夜空。港の強烈な光を受けてレンズの反射が空に写ってしまいました。右側山の上の3つの星は、北斗7星のヒシャクの柄でしょう。

こちらは天頂方向にある夏の大三角形。この日大気の透明度が悪く、天の川は殆んど写りませんでした。

星は、大気と天気によって写真の出来不出来が大きく左右される難易度の高い被写体です。

 



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境港は、2012年の全国漁港水揚高(トン)ランキングの第6位(前年は3位)という重要港です。その岸壁に、多くの船が係留されていましたので、いくつかを紹介しましょう。水産庁の漁業取締船「白嶺丸」と沖を航行するフェリー「しらしま」

第三代となる白嶺丸は、総トン数499トン、全長63.37m、幅9.6m、沿岸沖合海域において日本漁船の指導取締と、周辺国の漁船の指導取締をするために平成5年に建造された船で、この境港が定係留港となっています。

海上保安庁第8管区(島根県、鳥取県、兵庫県、」京都府、福井県の沖を管轄、本部は舞鶴)所属の巡視船「おき」は、総トン数820トン、全長85m、1989年配属というので船齢は24年となる老船です。

境港には、2008年に配属された新鋭巡視船「きそ」(総トン数1800トン、全長95m)と巡視艇「やえざくら」、「みほぎく」が配属されています。

第一わかば丸(135トン、全長47.7m)は、巡視船「おき」と同じ1989年に進水したまき網漁船。2008年長崎に向かう途中で浅瀬に乗り上げる海難事故を起こしています。

第三更賜丸(78トン、全長27.1m)沖合底引き網漁船。この船も2010年に浜田沖から戻る途中、境港の浅瀬に乗り上げる海難事故を起こしています。

第五十五吉丸(122トン)は、日本海でのベニズワイガニ漁船。紅ズワイガニの漁獲は、島根県が全国1位、境港のある鳥取県が全国4位(いずれも2011年)とか

境港の入り口に架かる境水道大橋(延長709m、海面上40mの連続トラス橋)

第二十五菊栄丸(132トン)も日本海でのベニズワイガニ漁船。紅ズワイガニの加工は境港の重要産業となっているとか。



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毎年8月下旬の早朝、大阪港では大関門に沈む満月を見ることができます。その様子を紹介しましょう。早朝4時50分、シーサイドコスモ遊歩道からの満月

少しアップにしてみましょう。この日の満月は、大関門赤灯台の右上にあり、淡路島に沈むようです。

この日の日の出時間は5時22分。大関門の西側がかなり明るくなってきました。

満月は、淡路島のすぐ上にまで沈んでいます。

あと少しで月の没です。

少しアップにしてみましょう。日の出時刻が迫り、周囲がかなり明るくなってきました。

明石海峡は、月のすぐ右側です。本当は、明石海峡大橋の間に沈む満月を見たかったのですが・・・

もう淡路島の山影に隠れそうです。

日の出が近づく頃、大阪港大関門から見える満月は、淡路島の彼方に沈んだのでした。



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境港の「水木しげるロード」の賑わいをもう少し紹介しましょう。以前は見られなかったJR境港駅前の妖怪キャラクターと観光客

こちらは妖怪神社

目玉おやじが描かれた地酒「千代むすび」のショップと歩道の混雑

水木しげるロードの標識

水木しげるロードの突き当りにあるアーケード街の賑わい

アーケード街の中央には、2003年にオープンした水木しげる記念館があり、NHKのドラマ「ゲゲゲの女房」が放送された2010年の観光客数は370万人に達したとか。

これが水木しげる記念館。その前にはねずみ男と子泣き爺のキャラクターが愛嬌をふりまいています。

水木しげるロードは、隠岐汽船の鬼太郎フェリーで結ばれる隠岐島に延長されることとなり、島には妖怪の銅像が既に10体も設置されているとか。

水木しげる記念館の隣には、妖怪食品研究所があり、目玉おやじ饅頭などを販売していました。



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境港は、漫画家の水木しげる氏の出身地で、ゲゲゲの鬼太郎や悪魔くんに出てくる妖怪キャラクターの彫刻を並べた「水木しげるロード」があることで知られています。・・・もう20周年だそうです。

米子からの列車が到着すると、駅前ではゲゲゲの鬼太郎と悪魔くんたち妖怪キャラクターが観光客を出迎えてくれます。

こちらは猫娘が描かれた列車と猫娘

水木しげるロードにある顕彰碑。銅像の下には「なまけ者になりなさい」という水木さんの直筆が彫りこまれていました。

21年前は寂しかった通りも水木しげるロードとなってから、山陰を代表する観光スポットとなっています。

妖怪神社前の人だかり

ねずみ男の銅像

こちらは、境港目玉本舗というみやげ物店

水木しげるロードの両側歩道は、花見シーズンの京都嵐山の歩道のような混雑でした。

 つづく

 



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今年も恒例の隠岐旅行に行ってきました。なんばOCATからの高速バスは、途中上月サービスエリアで休憩します。このバスは、横3列シートなので車内がゆったりとしていて快適です。

上月を出ると、伯耆大山が見えてきます。

米子駅には30分遅れで到着。駅の中にある吾左衛門鮓ショップで昼食。

米子から境港までは、ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪キャラクターの列車(ねこ娘トレインと書いてありました)に乗り込みます。

境港への途中にある米子空港。

境港駅に到着。「ようこそ妖怪の国へ」という看板が出迎えてくれます。

妖怪の国の紹介は次回するとして、境港から隠岐行きのフェリー「しらしま」に乗り込みます。

境港から2時間40分の航海で西ノ島町別府港に到着、ここでフェリーを下船します。

ここからは、小型の連絡船「いそかぜ」に乗り換えです。

つづく



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京都霊山護国神社の拝殿に向かって右手には、明治維新の際に亡くなった英霊を祀る霊山官修墳墓があります。この自動改札機に300円を投入すれば、史蹟の拝観ができるようになっていました。

霊山官修墳墓への途中から見た京都霊山護国神社。終戦記念日が近いせいか、拝殿の前には多くの提灯が置かれていました。

この墳墓には、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓があることで有名です。

向かって左が坂本龍馬、右に中岡慎太郎の墓石

その右手には、龍馬と慎太郎の銅像もありました。

これが銅像の前から見た京都市内。右端はるか先の森が京都御所でしょう。

こちらは長州の墳墓

その最上段には、内閣顧問勲一等贈正二位木戸孝允墓と、左に妻の幾松(贈正二位木戸孝允妻岡部氏松子)の墓があります。

こちらは隣の霊山歴史館。NHK大河ドラマ「八重の桜」に合わせて、会津戦争関係の資料を展示していました。



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