野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



この日、午後から雨が降ってきましたが、折角の東京観光なので表参道を散歩することにして、地下鉄明治神宮前まで出てみました。山手線の原宿駅前

表参道と明治通りとの交差点。案内看板の向こうが表参道のケヤキ並木です。雨の中、傘をさしたまま片手でぶれないよう夜景写真を撮るのは至難の業ですね。

表参道ヒルズ前も雨のせいで人通りが少ないようです。

表参道ヒルズの入り口。皆さん傘をさしていますが、ときどき風も吹くので傘をさした状態で、カメラのシャッターを押すのは大変です。

表参道ヒルズの内部も雨のせいかお客が少ないようでした。

表参道ヒルズ前にあるルイヴィトンのショップ。年末のイルミネーションは実に華やかなのですが、やはり雨の日は冴えませんね。

表参道ヒルズ前から原宿駅方向を振り返ってみました。

ベネトンショップの前まで来ましたが、雨が止みそうにありません。

そこで表参道と青山通りとの交差点で今回の散歩は切り上げ、地下鉄表参道駅に避難することにしました。

 次からは、今回宿泊したホテルからほど近い皇居前広場の紹介です。

 



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上野動物園の三回目は、まず鳥達の紹介です。西園の広いゲージにいるフラミンゴ。白っぽい子供もいます。

アフリカ産のライラックニシブッポウソウ

モロッコ原産のチャエリイワシャコ

日本にも夏に渡ってくる東南アジア原産のアカショウビンが、池の中を泳いでいた魚を捕まえました。自然の中でこのような写真を撮るのは至難の業ですが、動物園では実に簡単です。

アフリカ産のホオカザリツルは、垂れさがった白い頬が特長です。

アフリカ産のシロハラムクドリのオス。メスは地味な褐色をしています。

さて、上野動物園には、世界三大珍獣がすべて揃っていますので最後に紹介しましょう。最初はコビトカバ。生まれたばかりの子供もいましたが、こちらは親。

 

次がオカピ。恥ずかしがり屋か顔を向けてくれなかったので、お尻だけの写真となりました。

三大珍獣の最後は、竹を美味しそうに食べるジャイアントパンダです。

 

おわり



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1882年(明治15年)に博物館(現東京国立博物館)の付属施設として開園した日本最初の動物園、上野動物園の面積は、大阪天王寺動物園(11ヘクタール)よりやや広い14ヘクタール。

上野動物園の敷地は、正門のある東園と、不忍池に隣接する西園に分かれていて、両園を結ぶモノレールは日本初のモノレールだそうです。折角なので乗ってみましたが、たった1分30秒乗るために30分くらいも待たされてしまいました。

ここでは、420種2200頭の動物(天王寺動物園は約230種1000頭)を飼育していて、旭山動物園よりも多い年間約300万人が訪れる人気スポットです。西園は不忍池に面しています。

不忍池の蓮の中に、何故かバオバブの木が立っていて、カメラマンがカメラを向けています。

そこで、バオバブの木の近くまで行ってみると、見慣れない長い尾をした生き物がいます。

ズームアップしてみると、マダガスカルに棲息するワオキツネザルのようです。自然な形で飼育されていますが、檻が無かったようなので逃げ出さないか心配です。

この日、サイの鳴き声を初めて耳にしました。

シマウマ舎での写真は、檻が邪魔ですが仕方ありません。

上野動物園では、飼育環境をできるだけ自然な状態に近づける取り組みが行われていて、このゴリラの親子も気持ち良さそうでしたね。



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今回の東京旅行のメインイベントは、山手線上野駅から歩いて5分の場所にある上野動物園の見学です。入り口

正面ゲートのすぐ近くにパンダ舎があり、ガラス張りの屋内区画には手前からシンシン(メス)、次ぎがリーリー(オス)です。子供連れの母親がシンシンをバックに写真を撮れるくらいだったので、この日は空いていたのでしょう。

手前の竹が邪魔でしたが、シンシンの顔を拡大して見ると、なんとなく宮崎アニメに出てくるトトロの表情に似ていますね。

こちらは出口に近く、明るい場所にあるリーリー(6歳)の居住区画です。

竹を美味しそうに食べているリーリーの顔。目の上の数本の長い毛は、眉毛でしょうか。

 パンダ舎の外には、置物のパンダと一緒に写真を撮ることができるパンダフォットのコーナー(有料)もありましたので、記念写真にはここが良さそうです。

さて、上野動物園では、観客のすぐ近くまで寄ってくるライオンやトラも見ることができます。余り近くまで寄ってくるので、皆さんびっくりしていました。

そこで阪神ファンのために、トラの写真を撮っておきました。トラの姿は皮で想像できますが、目は、生きたトラでないと見ることができません。

生きたトラを見たことのない江戸時代の絵師たちは、トラの目をネコと同じであろうと想像して描いたという話は有名です。

つづく



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徳川家康は、1603年京都の中心に二条城を造り、1605年には東山の黒谷と知恩院を城構えとし、徳川幕府の緊急時に備えています。 高麗門



従って黒谷には、大軍が一度に入ってこられないよう南に小門だけを設置し、西側には城門のような高麗門を置いたのです。 高麗門の内側



また金戒光明寺の4万坪の境内は、全体が小高い丘になっていて、最高部(三重塔辺り)から西側を見ると、御所や京都市内は勿論、大山崎、天王山あたりまで見渡せる戦略上の重要拠点でした。 三重塔



そのために京都守護職となった松平容保は、京都御所からわずか1600mの距離にあったこの金戒光明寺にまず本陣を置いたのです。 御影堂前にある熊谷直実鎧掛けの松



当時の金戒光明寺には、52の宿坊があり、会津兵1000名の宿舎として25の宿坊が使われているので、1か所当たり40名が滞在、藩主の容保は大方丈に入ったようです。 大方丈の入り口



金戒光明寺の山門は、応仁の乱で焼失しましたが、容保が本陣を置く2年前、万延元年(1860年)に再建されているので、完成したばかりの山門を容保が見ていることは確実です。 山門の下部は改修工事中



山門の北側にある御影堂は、江戸期のものが昭和9年の火災で焼失、1944年に再建なったもので、昭和時代の模範建築物だそうです。



金戒光明寺の山上墓地北東には、会津藩殉難者墓地が有り、会津藩が京都に駐留した文久2年〜慶応3年の5年間に亡くなった237霊と、鳥羽伏見の戦いの戦死者115霊を祀っています。



戊辰戦争の戦死者を記録した「戊辰殉難追悼録」によれば会津藩約3000、徳川幕臣1500、仙台藩1000、二本松、庄内、米沢藩が各300余り、この数字が会津軍の奮戦を正直に物語っています。会津墓地



幕府は、現在京都府庁舎がある土地(3万坪)に、文久3年から京都守護職屋敷の建築を始め(完成は翌年9月)、会津兵1000名は順次そちらに移転したようなので、金戒光明寺に滞在したのは1年半程度だったようです。


参考文献:京都守護職始末 山川浩著、幕末維新史の定説を斬る 中村彰彦著、松平容保とその時代 星 亮一著



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京都御所の西南部から鴨川を越えて東に直線1600m、春日北通りの突き当たりに黒谷金戒光明寺の高麗門があります。



京都守護職として1000名の兵を率いて京都に入った会津藩主松平容保(1836〜1893年)が文久2年12月(1862年)から金戒光明寺を本陣としたことは良く知られています。そこで、現在の金戒光明寺と、容保が京都守護職を拝命した経緯についてご紹介しましょう。 石段の先が御影堂



容保が火中の栗を拾うような京都守護職を受けたのは、松平春嶽の説得があったことが知られていますが、徳川親藩大名の中で最強の軍事能力を持っていたことが、指名された理由だったことは余り知られていません。 阿弥陀堂



かつて会津藩には、田中玄宰(1748〜1808年)という名家老がいて、徹底した藩政改革を断行、中でも軍制の改善は著しく、幕府が最強と認める軍隊を造り上げていたのです。 御影堂の正面にある納骨堂は新しい建物



会津藩が藩主の命令一下、整然とした軍事行動ができることは、翌年7月に御所の建春門外で馬揃を天覧に供した際に実証され、それ以降公卿の容保を見る目が変わったといいます。NHK大河ドラマの主人公、お江の供養塔 

また孝明天皇は、容保を一層信頼するようになり、その直後にあった8月18日の政変(長州藩と三条実美以下のクーデター未遂事件)を容保が未然に防いだことで、前例の無い感謝の宸翰(直筆の文書)と、御製(天皇の和歌)を容保に与えたほどでした。お江の供養塔の東の丘が墓地



その孝明天皇が急死したことで、幼い明治天皇を担いだ岩倉具視以下過激派の公卿と薩長によって形勢は一挙に変わり、会津藩は朝敵となったのです。 法然(円光大師の廟)

1893年(明治26年)に容保が亡くなったとき、この宸翰と御製が遺品として出てきたことで、過激派公卿と薩長による会津攻撃は、孝明天皇の本意では無かったことが明らかになっています。墓地の上には三重塔 

会津藩が朝敵でなかったことが明るみに出るのを恐れた、薩長藩閥の大物は、宸翰と御製のことを書いた本の出版を禁止、明治後半になってようやく許可を出しています。 三重塔の背後にある清和天皇火葬塚 

参考文献:京都守護職始末 山川浩著、幕末維新史の定説を斬る 中村彰彦著、松平容保とその時代 星 亮一著



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京都東山に近い鈴声山小山の地には、一条天皇(980~1011年)の生母で、藤原道長(966~1028年)の姉、東三條女院藤原詮子(962~1002年)の離宮がありましたが、そこに984年、比叡山常行堂の阿弥陀如来(慈覚大師作)を移したのが真如堂の始まりです。赤門

その後、一條天皇の勅願寺となり、また不断念仏の道場として、浄土宗の開祖法然や浄土真宗の開祖親鸞をはじめとする念仏行者の信仰を受け、民衆(ことに女人)の厚い信仰を集めてきています。本堂への通路の両側にはもみじの古樹が多い。

しかし、応仁の乱(1467~77年)では、この辺り一帯が東陣となり、その戦火で堂塔は消失しますが、本尊だけは比叡山の黒谷、滋賀県穴太に避難して無事だったようです。本堂への石畳

その後、真如堂は京都各地を転々とした後、1519年に一旦旧地に戻りましたが、1578年、秀吉により京極今出川下るに移転させられて火災で類焼、1693年東山天皇の勅で、やっと元の土地に再建されています。三重塔

その間、真如堂の墓地だけは、鈴声山小山の地に残っていたようで、墓地の中には春日局(1579~1643年)の実父、斎藤利三(1534~82年)の墓があり春日局が真如堂に肩入れしていた記録が残っています。本堂前

本堂は、1693~1717年(24年間も)かけて建立された十五間四面・総欅・単層入母屋・本瓦葺で、使われている材木にはすべて「○○家先祖代々菩提の為」と記されているので、当時の多くの信者の寄進によったのでしょう。本堂

 

また三井家は、初代三井高利以来、真如堂の檀家で、本堂の仏具などには、寄進者の三井家の(四つ目紋)家紋が付いているものが多く見られるようです。梵鐘の左側に見える2か所の小穴は、戦時供出した際に金属成分を調べるために開けられたもの。

真如堂は、秋のもみじで有名で、今の季節も境内至る所にもみじの古樹を見ることができます。庫裡への渡り廊下

そのもみじが見ごろとなる季節には相当混雑するようなので、拝観者の少ない今の季節が狙い目かもしれません。もみじで覆われた本堂。

参考文献:玄翁禅師伝現出と真如堂信仰 小林 月史著



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旧岡田家住宅から300mくらい北に猪名野神社があります。正面が一の鳥居

一の鳥居は、阪神大震災で破損、真新しいものに復旧されていました。

参道を進み、一の鳥居を振り返ると、両側に石灯籠が並んでいます。新・伊丹史話によると猪名野神社にある97基の石灯籠で最も古いものは、寛永20年(1643年)だそうです。

これが拝殿。背後にある本殿は、1686年に建立されています。

社伝よれば、904年の創建で、敷地は広く、拝殿と本殿の周りには多くの摂社(10社)が配置してありました。大地主神社

これだけ広い境内をもっている猪名野神社には、江戸時代に繁栄した伊丹の酒造業者が競って寄進を続けたのではないでしょうか。拝殿の東側にある稲荷神社

狛犬の台座の銘で最も古いものは、明和5年(1768年)とあるそうです。左が社務所、右が稲荷神社

猪名野神社は、戦国時代、荒木村重の有岡城の惣構(そうがまえ)の北端、「岸の砦」が置かれていた所で、境内の北西部に土塁跡が残っています。

難攻不落だった伊丹有岡城の惣構は、豊臣秀吉によって大坂城にも転用され、大坂冬の陣での徳川方の攻撃を完全に防御しています。最も東に配置されている護国神社

参考文献:新・伊丹史話 伊丹市立博物館編



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伊丹の小西酒造の北側にある旧岡田家住宅は、棟札に延宝2年(1674年)の文字があるので、建築後337年という古い木造建築です。

  

 

現在無料公開されている旧岡田家住宅の天井を見上げて見ると、太い丸太が梁として使われています。

  

 

最初の所有者は、松屋与兵衛でしたが1729年に大坂の鹿島屋に買収され、明治時代に安藤家を経て岡田家の所有となっています。

  

 

岡田家の所有となって「富貴長」銘柄の酒が生産され、南側入口を入った右手に今も富貴長の菰樽が置かれています。

  

 

旧岡田家住宅の中に「領主近衛家と伊丹の町政」という展示パネルがあり、それによれば伊丹は1661年から明治維新まで摂関家の近衛家の領地でした。

 

 

江戸時代、将軍御用の伊丹の酒は高い値段で取引されていましたので、伊丹酒を騙る偽ブランド商品に苦慮したようです。旧岡田家住宅の土間

 

 

そこで、伊丹から江戸に送られる酒樽には、近衛家の焼印「伊丹御用改所」が表示されるようになっています。旧岡田家住宅に隣接する旧石橋家住宅

 

 

しかし、商標権保護の概念が確立していなかったため、幕府の規制は緩く、当事者間での取り締まりに終始し、あまり効果は無かったようです。旧石橋家住宅

 

 

猪名野神社の門前町にあった旧石橋家住宅が移築されて伊丹郷町館として公開され、北側の公園とあわせ「みやのまえ文化の郷」となっています。中央が旧石橋家住宅、右が旧岡田家住宅

 

 

 

 参考文献:新・伊丹史話 伊丹市立博物館編

 



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江戸時代初期には奈良の南都諸白が銘酒のトップでしたが、元禄時代に入ると辛口の伊丹の酒が江戸の人々の好みとなったといいます。JR伊丹駅前からの景観

 

 

 

1697年(元禄10年)、伊丹には36軒もの酒造家があり、1万6千石の酒造が許可されていたそうです。小西酒造の企業ミュージアムの中

 

 

1725年頃には、江戸で極上酒として扱われた酒屋33人のうち伊丹が15人と45%までを占めています。小西酒造のミュージアム長寿蔵の入り口

 

 

1740年(元文5年)頃、伊丹酒は徳川将軍家の御用酒となり、中でも「剣菱」は当時からよく知られていて、特に武家に人気があったようで、今でも東京では人気があるようですね。長寿蔵の内部

 

 

 

その剣菱は、1929年に伊丹から神戸市東灘区に移転、今では灘の酒というイメージがありますが、1505年頃に伊丹で創業し、江戸時代には伊丹を代表する銘酒だったのです。白雪長寿蔵の外

 

 

 

剣菱の剣は、不動明王の持つ刀の刀身、菱はその柄を現しているようで、古い剣菱マークには、剣と菱の間に鍔が描かれています。屋根裏

 

 

さて、今も伊丹を代表するのは「白雪」の小西酒造で、JR伊丹駅から西に歩くと、酒蔵をデザインした巨大な工場と、その隣に古い酒蔵を活用した企業ミュージアムがあります。白雪のマーク

 

 

 

1550年創業という小西家が伊丹の酒屋として頭角を現すのは18世紀後半、小西家は伊丹から江戸への輸送、江戸での販売部門を早期に整備強化し、業績を拡大したようです。

 

 

小西家は、頼山陽とも交流があり、下の写真の奥にある看板の文字「白雪」は、頼山陽が揮毫したものだそうです。

 

 

伊丹の酒の生産高は、江戸末期に灘の木一本に抜かれてしまいますが、白雪だけは大手酒造メーカーとして現在まで続いています。

参考文献:新・伊丹史話 伊丹市立博物館編



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清朝を倒し辛亥革命を成功させた孫文(1866~1925年)が1895年に日本に亡命していたとき、彼を強力に支えた宮崎滔天(1871~1922年)という人物がいますので、広州にある孫文所縁の場所と一緒に紹介しましょう。広州市にある孫文の号を取った中山記念堂1931年完成

宮崎は、若き孫文を政界の大物だった犬養毅(1855~1932年)に引き合わせ、犬養を孫文のパトロンのような立場に籠絡していますが、宮崎が何故そこまで孫文を支援したのでしょうか。孫文が1924年に設立した黄埔軍校旧址記念館

著者は、作品の中で「今日世界の現状は弱肉強食で、アジアは強者である白人の侵略のままとなっている(中略)アジアの運の別れ道は、中国の興亡にあり、そのために革命の英雄を求め、これを助けて犬馬の労を取りたい」と宮崎に言わせています。

軍官学校の由緒書に見える孫文(孫中山)、蒋介石、周恩来の文字

腐敗した清朝を倒し、早期に中国革命を起こすことで、白人に侵略され続けているアジアの友邦を同じアジア人である日本人の力で回復しようとしたのです。軍官学校で孫文が使っていた総理室

1898年、宮崎は上海から康有為を日本に亡命させ、孫文との提携工作をしていますが、清朝の高官(難関の科挙合格者)康有為が拒絶して成功していません。広州にある孫文の大元帥府(1923~24年まで滞在)

1902年、宮崎は革命費を私物化したという噂に憤慨して一時革命運動を中断、桃中軒雲右衛門に弟子入りし、浪曲師(桃中軒牛右衛門)に身を落として根拠の無い噂を否定したこともありました。大元帥府にある孫文の執務室

南京で中華民国を設立した孫文は、北京の袁世凱と交渉し、革命に貢献した宮崎滔天に貿易特権を与えたいと通知しますが、宮崎は中国の格言「渇しても盗泉の水は飲まぬ」と回答し、その権利を放棄しています。大元帥府の食堂

1913年、桂太郎内閣の招きで来日した孫文は、その歓迎会で「アジアの平和はアジア人が保持する義務があります(中略)私は日本が中国を保ち育て、互いに提携することを希望します」と演説しています。大元帥府の孫文の居室(夫人の宋慶齢と孫文の人形が置かれています)

辛亥革命を成功させた孫文には、これからの中国を成長させるために日本の協力がどうしても必要だったのでしょうが、日本の政治家に宮崎滔天のような人物はいなかったのです。広州にある孫中山文献館

参考文献:茫々の記 宮崎滔天と孫文 立野信之



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慶応3年(1867年)11月にあった坂本龍馬(1836~1867年)暗殺の犯人には諸説あるようですが、京都守護職配下の見廻組与力頭(佐々木只三郎)配下の幕臣、今井信郎(1841~1918年)という説をご紹介しましょう。先斗町歌舞練場

今ではありふれた名前ですが、幕末の今井信郎は、18歳で直新影流の榊原健吉に弟子入りし、3年で免許皆伝、その後幕府講武所の師範代(近藤勇が目指し就くことができなかった地位)、後に師範役となり、練習中今井の猛烈な打ち込みを受けた弟子が死亡するほどの凄い腕前でしたが、慶応3年5月に京都見廻組出仕を命じられています。三条大橋

慶応3年11月15日、今井信郎以下6名は佐々木只三郎(1833~1868年)から呼び出され、河原町四条上る蛸薬師角の醤油屋「近江屋」の2階に潜伏中の坂本龍馬を襲撃するよう指示されています。料亭の納涼床

坂本龍馬は、前年、伏見の寺田屋に滞在中、伏見奉行の同心2名をピストルで殺害したまま逃走し、幕府に指名手配されていたのですが、「近江屋」の2階に潜伏している確かな情報を佐々木只三郎はどこからか掴んでいたのです。先斗町歌舞練場は1927年(昭和二年)に完成

佐々木を含めた7名は、午後9時頃まで先斗町の居酒屋で時間を潰し、今井が一番刀となって襲撃した事実を明治の後半、今井が証言しています。坂本龍馬が近江屋に転居する直前まで住んでいた材木商「酢屋」は、先斗町歌舞練場の西に現存しています。

「近江屋」の2階に上がると、二人の侍がいたので、とっさに「ヤッ、坂本さん しばらく」と今井が言うと、一人が「どなたでしたかねえ」と答えたので、すぐに坂本と判って躊躇なく斬りつけたといいます。

坂本龍馬も北辰一刀流の剣客でしたが、講武所師範役(近藤勇以上の実力者)今井の襲撃で致命傷を負い、同席していて斬られた中岡慎太郎は、駆け付けた谷干城に相手は相当な使い手(武辺場数のやつ)だったと証言しています。此の付近、土佐藩邸跡の表示。すぐ西側が「近江屋」

 

 

坂本龍馬が「近江屋」に潜伏している情報を佐々木只三郎に伝えたのは、大政奉還した徳川家を寛大に扱うよう主張する坂本龍馬が邪魔となった西郷隆盛説、実兄の会津藩公用人手代木直右衛門説などがありますが、真相は不明のままです。土佐藩藩邸跡の備前島小学校、左下には高瀬川の案内図、右下には角倉了以の顕彰碑が置かれていました。

このあと今井信郎は、鳥羽伏見の戦い、函館戦争に参戦してから政府軍に投降、明治3年に禁固刑に処せられていますが、2年後に特赦となって出獄、大正7年まで生存しています。高瀬川を開いた角倉了以の顕彰碑です。

参考文献:「幕末維新史の定説を斬る」中村彰彦著



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京都先斗町の朝の風景の続きですが、先斗町には幕末の1859年(安政六年)芸者嫁業の公許が下り、祇園と並ぶ花街として有名になっています。右の店の犬矢来は黒い金属性でした。

先斗町通は、この辺りで一部途切れて公園となっていて、東山からの朝日が射しこんでいました。

狭い先斗町通を散歩する途中、青空が見えてほっとできるオアシス、先斗町公園。

 

かつてはベンガラ格子の家が両側に建ちならび、東西に五十番まで数える大小の路地があったようですが、いまはかなり減ったようです。その路地の一つです。

幕末には勤皇の志士や新撰組、見廻組の隊士が、この路地に身を潜めたり、待ち伏せしたりという歴史の舞台でもあったのです。彼らが出てきそうな雰囲気が少しは残っていませんか。

先斗町通は、明治初期に独立した花街となり、花街特有の形態を若干残していますが、今では一般の飲食店が多く並んでいます。これも路地

先斗町通りの東側は、すぐ鴨川の河川敷となっているので、東側には納涼床を持った飲食店が多いのが特長です。

この先が先斗町通の終点です。その手前の右側に「鴨川をどり」で有名な先斗町歌舞練場があるのです。

つづく



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和田弘とマヒナスターズの名曲「お座敷小唄」の最初のフレーズ「富士の高嶺に降る雪も~京都先斗町に降る雪も~雪に変わりはないじゃなし~溶けて流れりゃみな同じ」で有名な京都先斗町を四条から三条に向かって散歩しましたのでご紹介しましょう。四条通からの入り口。

ところで「雪に変わりはないじゃなし~溶けて流れりゃみな同じ」という歌詞は、どう考えてもヘンですね。先斗町の石畳

 

左側の店にある竹で造ったアーチ状のものが京町家に欠かせない犬矢来(いぬやらい)で、本来は野犬などのマーキングから壁を守る役目を果たすものとされています。

「先斗町の語源については、東が鴨川(皮)、西が高瀬川(皮)、皮と皮にはさまれた鼓を叩くとポンと音がするのをモジって、ポント町の名が生まれたとも、ポルトガル語からきているとも言われています。ここだけ店が無く、路地が鴨川まで伸びています。

 

かつて先斗町通の両側には、紅殻格子に虫籠窓、犬矢来という日本情緒豊かな店が軒を連ねていましたが、今もそうした店がかなり残っています。

また、先斗町通の店は、間口が狭く奥に長い京町屋と呼ばれる独特の構造をしていて、俗に「鰻の寝床」と呼ぶことでも知られています。

先斗町通の中心部、このあたりは狭い通となっていて、先に見える電柱も途中から曲がって建てられています。

この地に水茶屋ができたのは、今から300年くらい前(1712年頃)、初めは高瀬川を上り下りする高瀬舟の船頭や旅客を目当てにした旅籠屋が、客の求めに応じ茶立女を置いたことから始まったそうです。

つづく



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料理人、中辻利宏さんの店として知られる和献洋彩にんにんATC店に先日行ってきました。客席からフェリーターミナルが見え、夕方入るとなかなかの景色です。

 

テーブル席の壁に「人気の料理BEST10」という掲示がありましたので、さっそく1位の「お造り5種盛り」から順に注文し、採点してみました。お造りは80点。

2位は、ぷりぷり海老とゴボウのサラダ。この料理はかなりレベルが高く95点。

3位は、スモークサーモンとチーズの生春巻き。味はまあまあでしたが、ちょっとボリューム不足だったので75点

4位はにんにん特製トロ玉海老チリ。チリの辛さとエビのプリプリ感が良かったので85点

 5位は、宮崎名物チキン南蛮。ふつうのチキン料理だったので65点

少し満腹感を覚えたのでコッテリした6位チーズの天ぷら、7位黒豚のとろとろ角煮はパスし、8位のふわふわ海老の天ぷらです。マヨネーズの濃い味と淡白なエビが合って90点

9位はイカとアスパラの明太子パスタ。アスパラが固く、ボリュームも無かったので70点

番外のカリカリベーコンと温泉卵のシーザーサラダ。意外とチーズが全体を引き立てていて80点

締めは、番外のネギとろ丼。ごはんが美味かったので80点。

 絶品料理(100点)はありませんでしたが、二度と食べたくないという60点以下の料理も無く、かなり健闘していると思いました。



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