野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



さて、伏見稲荷神社の本殿前の両脇には、狛犬の代わりに宝玉をくわえた狐の像が置かれ、伏見稲荷神社のHPには、「いなり」と「きつね」との関連は、「稲荷大神」とその「神使」の関係であると書いている。



しかし江戸時代の頃から、「稲荷神=狐」と誤解されるようになったのには、いくつかの説があるようである。



一つ目の説として稲荷神は、宇迦之御魂(うかのみたま)神など穀物の神の総称であり、別名を御饌津(みけつ)神と言い、御は尊敬語なのでミを省略すれば饌津(ケツ)の神となり、ケツノ神からケツネ(狐)ノ神を連想したとする説。



大阪で「きつねうどん」のことを少々乱暴な言い方で「けつねうどん」と言うが、狐の古名は「ケツネ」であったようである。



さらに東寺では、真言密教における荼吉尼天(だきにてん)に稲荷神を習合させていて、真言宗が全国に広まった際に、荼吉尼天を稲荷神として祀る社寺が広がったとされる。

伏見稲荷本殿



ちなみに全国3大稲荷のひとつ、愛知県にある豊川稲荷は、妙厳寺という寺院で、荼吉尼天を鎮守としている。

千本鳥居



この荼吉尼天は、人を食らう夜叉または、羅刹の一種で、神像としては右手に剣、左手に宝珠を持ち、白い狐に乗っていることから、狐が荼吉尼天の化身動物とみなされていたようである。



また農耕の神であった稲荷社は、野生の狐が多く住んでいた小高い古墳の上に置かれることが多く、稲荷社の近くに出没する狐を見た庶民の多くが稲荷神と勘違いしたということもあったようである。

お塚



他の祭神と違い稲荷神では神酒・赤飯の他に「神使」とされる狐の好物である油揚げが供えられ、ここから油揚げを使った料理のことを稲荷と呼ぶようになっている。



日本にある稲荷神社は、企業のビルの屋上や工場内などに祀られているものまで入れると無数と言って良いほどの数になるが、どこも狛犬の代わりに狐の像が置かれているようである。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




伏見稲荷には、908年藤原時平によって、初めて三個社の社殿が造営された記録があり、「吾妻鏡」には1190年に造営、1245年に焼失し翌年に再建された記録があるという。

伏見稲荷の入り口



当初は、稲荷山の山頂三が峰に上中下の3神を祀ったというが、現在の地に移ったのは1438年と伝わっていて、下社の宇迦之御魂(うかのみたま)大神を主祭神とし、佐田彦大神を中社、大宮能売大神を上社に祀っている。



1468年には応仁の乱で炎上し、「稲荷社事実考証記」によれば、現在の本殿は1499年の遷宮で造営され、以降509年の風雪に耐えている国の重要文化財である。

本殿



1589年には秀吉による伏見稲荷の修復があり、このときの年号が書かれた墨書が楼門から見つかっている。

楼門



また秀吉は、伏見城築城時に満足稲荷神社、大坂城築城時に瓢箪山稲荷、玉造稲荷神社をそれぞれ勧請し、稲荷社に対する尊崇は篤かったようである。

徳川家康も江戸城築城と同時に三河稲荷と金亀山稲荷を鎮守神として祭祀したために、江戸の市中にも多数の稲荷神社が奉祭されている。



徳川時代に入った1694年にも伏見稲荷では大規模な修復工事が行われた記録が残っている。

外拝殿



伏見稲荷に鳥居を奉納する習わしは、江戸時代に始まり、400年間の間に約一万基の鳥居が建立されていて、伏見稲荷独特の景観を醸し出しており、中でも千本鳥居のある場所は名所となっている。



但し、湿気の多い山中にある木製朱塗りの鳥居は、数十年で朽ち果てるので、その都度新たな寄進者が出て建替えているようである。

奥社奉拝所から山頂に向かう参道に建つ千本鳥居には比較的古いものが見られるが、ざっと見た限り1980年より古いものはかなり少なかったので、鳥居の寿命は30年くらいであろうか。



1871年には近代社格制度のもとで官幣大社に列格するとともに、正式社名を「稲荷神社」とし、「官幣大社稲荷神社」となっている。

しかし終戦後の1946年、伊勢神宮を本宗とする神社本庁から独立した単立宗教法人となり、「伏見稲荷大社」と改称している。

末社



五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益がある伏見稲荷には、毎年の初詣で近畿地方で最多の参拝者を集め、2008年正月三が日の参拝者数は、約269万人であったという。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




京都市伏見区にある稲荷山全体を神域とする伏見稲荷大社は、二十二社の上七社の一社で、旧社格は官幣大社、稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮である。

千本鳥居



稲荷とは、「稲生(いねなり)」にちなむ農耕神であったため、五穀豊穰・商売繁盛・交通安全といったご利益があるとされている。



711年、秦氏が勅命を受けて稲荷山に三柱の神を祀ったことに始まり、延喜式神名帳には「稲荷神社三座」と記載され、名神大社に列し、月次・新甞の幣帛を受けると書かれている。

本殿の下にある外拝殿



826年、空海は東寺を造営するに当たり、用材を稲荷山の神木に求め、その際に稲荷山に稲荷明神を祭祀したとする文献も存在するので、伏見稲荷の創建者は秦氏か空海か、はたしてどちらであろうか。

東寺南大門



この伏見稲荷と東寺の関係は、奈良にある春日神社と興福寺の関係と良く似ているようで興味深い。

平安の頃より稲荷神か降臨したとされる2月の初午の日に参詣し、しるしの杉を頂く風習が始まって伏見稲荷は賑わっていたようで、蜻蛉日記(975年頃)や枕草子(996年頃)にその模様が詳しく描かれている。

稲荷社本殿



平安時代中期以降になると、紀州の熊野詣(本宮、新宮、那智大社)が盛んとなり、その往き帰りの道中安全を祈願するために伏見稲荷に参詣し、杉の小枝(しるしの杉)をいただいて、必ず身体のどこかにつけたという。



ヨーロッパにおけるキリスト教の巡礼でも、道中安全を祈願するためにホタテの貝殻を必ず身に着ける風習があるのと良く似ていて面白い。

1159年、平清盛は熊野参詣の途中、平治の乱が起こり急ぎ京へ引き返しているが、その際にもまず伏見稲荷に参り、杉の枝を鎧に挿してから本拠地の六波羅に戻ったと平治物語に書かれている。

権殿



また、稲荷山の山中には20~30万基とも言われる石碑(お塚)が存在し、不思議な聖地、霊場となっているが、平安時代以降の熊野詣の成就を感謝したのものであろうか。

お塚



伏見稲荷は、平安時代末期、平安京の五条から九条までに住む首都庶民の産土神となっていたようで、1120年代に作られた今昔物語(巻30、28など)にもたびたび社名が登場している。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




伏見稲荷にはかなり前に参拝してから長らくご無沙汰していたので、季節外れであったが大阪からちょっと足を伸ばして参詣してきた。

第一大鳥居



JR京都駅から奈良線に乗ると2つ目の駅が稲荷駅で、改札を出るとすぐに表参道の赤い第一大鳥居が見えてくる。

第二鳥居



第二鳥居を潜ると堂々とした楼門の前に出るが、この門は1973年の解体修理の際に年号が書かれた墨書が見つかり、1589年豊臣秀吉の造営という伝承が証明されている。



楼門を潜ると外拝殿(舞殿?)があり、その奥の石段を上った場所に本拝殿と本殿があるが、本殿は1468年の兵火で焼失し、1499年に竣工した需要文化財である。

本拝殿



本拝殿に上る石段の両脇には、稲荷神社のシンボルである狐が置かれていたが、どうやらブロンズ製のようである。

本拝殿に向かって右手には神楽殿があり、巫女さんの舞う姿をちょっとだけ見ることができた。



本拝殿に向かって左手を奥に進むと正面に見える朱塗りの建物は権殿と呼ばれ、朱色が鮮やかなので比較的新しい建物のようである。



権殿の前から右手にある本殿の裏を奥に進むと、神輿庫と神饌所が見えるが、神社らしい静かな雰囲気の場所であった。



権殿の前に戻り、社務所の前を右手に折れると三の鳥居があり、その先が奥宮で手前にいくつもの末社が並んである。

三の鳥居



その先が伏見稲荷のハイラトである千本鳥居のトンネルで、外人観光客が興味深げに鳥居を潜っている。

江戸時代から始まったとされる千本鳥居は、いまでは1万本を超えると言われるほど多数林立していて、稲荷山の麓に神秘的な雰囲気を醸し出している。



千本鳥居が、途中途切れている場所は、奥社奉拝所となっていて稲荷山の山頂全体を奉拝する場所のようである。

そこから続く千本鳥居をさらに奥に進むと、次第に鳥居がまばらになるが、それでも凄い本数である。

鳥居が一旦途切れた先にある石段を登ると熊鷹社の前のこだま池に出たが、熊鷹社から先にも千本鳥居がまだまだ続いている。



このこだま池の周りには多くの古い石碑が見られるが、今でも引き続いて参拝されているようであった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隠岐では、年間約1000頭の子牛が生まれるが、子牛の段階で島外に出荷されていたため、隠岐生まれの子牛は、肥育先の名称で食肉として売られ、肉のブランドとしての隠岐牛は市場に存在しなかった。

スキヤキ用にスライスした隠岐牛



実は、数年前に亡くなった私の義理の父親も、隠岐で子牛を生産していたが、隠岐牛を食べたことが無かったのである。

隠岐行きフェリー



隠岐郡海士町の建築会社では、数年前から公共工事の減少による事業転換の一環として海士町に牧場を作り、隠岐で生まれた子牛の肥育事業に乗り出している。



現在、「島生まれ、島育ち、隠岐牛」として良好な管理のもとで飼育が行われているが、隠岐牛のブランドで市場に出るものは、隠岐で生まれた牛のたった1割という。



去年109頭、今年1~6月で61頭出荷された「隠岐牛」ブランドは、すべて未経産の雌牛で、7割以上が食肉格付協会最高の格付A5にランク付けされているという。

海士町にある隠岐牛の店



日本食肉格付協会のHPによれば、牛の枝肉の取引規格には、歩留等級と肉質等級の2つの規格があり、この二つを組み合わせたアルファベットと数字で食肉のランクが決められている。

焼肉用にカットされた隠岐牛



歩留等級は、A,B,Cの3ランクに分かれ、Aの評価が最高、肉質等級は脂肪交雑、肉の色沢、肉の締まり及びきめ、脂肪の色沢と質の4項目について1~5の5段階に評価され、5の評価が最高となるので、A5とされた肉は、日本食肉格付協会認定の最高の肉なのである。

店内の焼肉コーナー



ちなみに昨年、日本食肉格付協会では黒毛和種去勢牛51、494頭を評価し、最高ランクのA5は僅か15、6%、A4が35,6%、A3が30,5%、A2が7,9%、A1は0%、B5~1評価が10、4%というので、隠岐牛の評価は全国平均をはるかに上回っている。

海士町物産直売



黒毛和牛の生産と飼育に永い歴史と伝統を持ち、島の環境を生かした牧場で地元産の安全な飼料を与えて、牛にストレスを与えない木目こまやかな管理が行われているからであろう。



BSEの問題には全く無縁の環境で、隠岐牛の生産飼育を続ける「隠岐潮風ファーム」の発展を願って止まない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




独立行政法人国立文化財機構が運営する京都国立博物館は、1897年(明治30年)に開館しているが、片山東熊設計の本館(1895年完成)と森田慶一設計の新館(1965年完成)の2館が広い敷地内に配置されている。



所蔵品と寄託品を合計した収蔵国宝は何と110点、重要文化財は810点という堂々たる国立博物館で、建物自体も、本館、表門、同札売場及び袖塀が「旧帝国京都博物館」として国の重要文化財に指定されている。

南門



1965年に建設された新館(平常展示館)は、今年12月から解体され、5年後に百年記念館として建替えられると聞いたので、夏休みの終わりに尋ねてみた。

京都駅から乗ったバスは東門の前に着くが、5万3千平米という広い敷地を南側に回り、重要文化財に指定されている南門から入場する。

南門の内側



曇り空であったが、噴水の先に見えるレンガ造りの本館の建物は、ヨーロッパの古城のようで美しい。

噴水の先にさりげなく置かれているロダンの彫刻の前を通り、新館(平常展示館)に入ってみると1階は石器時代、縄文弥生時代から平安、鎌倉時代までの発掘品から陶磁器、仏像の展示である。



京都の中小寺院にあった価値の高い仏像の多くが、保存環境の良いこの博物館に寄託されているようで、国宝、重文の仏像をごく近くから拝観できるのが有難い。

ロダン



2階に上がると、鳥羽伏見の戦いに関連する資料の展示と坂本龍馬関係の展示があり、龍馬の多数の書簡と龍馬が暗殺された部屋にあった血染めの屏風や掛け軸が展示されていたのが興味深かった。

坂本龍馬関係展示品の中の多くは、京都国立博物館の収蔵品というので、開館から111年という歴史を誇る京都国立博物館の実力は凄い。



さらに2階の奥には、平安時代以降の国宝を含めた日本画の展示室があり、円山応挙をはじめとする見事な作品が惜しげもなく多数展示されているのが凄い。



1階のミュージアムショップでは、なかなか手に入らないグッズが販売されていたので、江戸時代の京都絵図、源氏物語地図、平安京図会の3点を調達しておくことにした。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




アメリカで5月に公開されたこの作品は、ニューヨーク在住のライターが週刊誌に連載していたコラム「セックス・アンド・ザ・シティ」を原作とし、アメリカのケーブルテレビが1998年から2004年まで連続テレビドラマとして放送していたコメディを劇場版としたものである。



ニューヨークに住む比較的裕福な30代独身女性4人の生活を、コミカルに描くテレビドラマは、50回以上の連続作品となり、エミー賞を7回受賞、ゴールデングローブ賞も8回も受賞するなど、その人気は社会現象となり、放送終了後も世界中で幾度となく再放送されているという。

キャリー



今回の映画は、最終話から4年後という設定なので、連続テレビドラマを見ていない人にはちょっと判りにくいが、1998年に30代であった独身女性4人は、40~50代となったという設定である。



主役のキャリー・ブラッドショーを演じるサラ・ジェシカ・パーカーは、1965年生まれの43歳、映画の宣伝で来日したときに、キャリーとは全く違う性格ですと発言しているが、このキャリー役以降、アメリカではファッションリーダー的存在となり、彼女のスタイルを真似する女性が増出したという。

キャリーと秘書役のジェニファー・ハドソン



PR会社社長、サマンサ・ジョーンズ役のキム・キャトラルは1956生まれの52歳、映画の中で他の3人から50歳の誕生日を祝福してもらうシーンがあったが、若さ溢れる体当たり演技(女体盛り)が見事というほか無い。

中央がサマンサ



アートディーラー、シャーロット役のクリスティン・デイヴィスは、1965年生まれ43歳、4人の中では地味な存在であるが、一番美人ではないかと思う。



メキシコの高級ホテルに4人仲良く泊まる場面では、彼女だけがメキシコを衛生面で信用できない国として、持参したアメリカ製のプリンで食事を済まそうとするシーンがあるが、日本での中国食品問題を連想して面白かった。



ハーバード大学卒業の弁護士ミランダ役のシンシア・ニクソンは、1966年生まれ42歳と4人の中で一番若いが、映画の中では再婚相手の浮気で暗い人生を送っているという損な役回りであったのが気の毒であった。



主役のキャリー・ブラッドショーの秘書役として映画「ドリームガールズ」の主役を演じた黒人のジェニファー・ハドソン(1981年生まれの27歳という若さ)が出演しているが、久しぶりに見た彼女の演技は相変わらず自然で可愛らしい。



10年後に50代、60代になった4人が生き生きとニューヨークで活躍する続編を期待したいが、40代、50代の日本女性には是非見て欲しい作品である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




小野篁(802~852年)は、最初の遣隋使であった小野妹子の子孫で、紫式部(973~1031年)が源氏物語を書く150年前に亡くなっている。



その篁は、遣唐副使としての職務を放棄したことで嵯峨天皇(52代786~842年)の逆鱗に触れて隠岐中ノ島に一時流され、配流された跡地に今も石碑が残っていることは以前紹介したことがある。



嵯峨天皇は、篁の能力と人物を高く評価していたようで、結局1年半後には許されて帰京しているが、二人に関する面白いエピソードがいくつか伝承されている。



今から1156年前に亡くなった篁の墓は、京都市北区北大路堀川交差点の南西にあるが、順徳天皇のひ孫、足利義満の伯父であった四辻善成(1326~1402年)が顕した源氏物語の注釈書「河海抄」に篁の墓に関して「紫式部の墓は、雲林院白毫院の南、小野篁墓の西にあり」という記述が残されている。

参議小野公堂域碑



その場所を尋ねて見ると、小野篁から44代目の子孫が明治2年(1869年)に建立した漢文の巨大な顕彰石碑があり、墓地の正面小野相公墓と書かれた墓石の裏側には明治24年(1891年)とある。



周りの敷地を保有している島津製作所の創業が明治8年(1875年)、同社の紫野工場の創業が1944年なので、この顕彰石碑は、それよりも古くからこの地にあったようである。



平安時代の初め、堀川北大路の南西は、狩猟地や遊歩道があった紫野と呼ばれた原野で、嵯峨天皇(52代786~842年)の弟であった淳和天皇(53代786~840年)がそこに離宮を建てている。

五輪塔(左が小野篁、右が紫式部)



淳和天皇の死後、天皇の遺志で遺体は火葬、散骨されたらしいが、ご遺灰の一部は離宮の地にあった寺院「雲林院」に納められ、そこが墓所となっていたようである。



そのためか54代仁明天皇(嵯峨天皇の第二皇子810~850年)によって僧正遍昭(816~890年)が招かれて雲林院は官寺に昇格している。

平安末期には、現在の大徳寺の寺域とその南側にある紫野雲林院町から堀川通までを含む広大な敷地を有する大寺院となっていたようである。

北大路に面した大徳寺



藤原家の嫡流、藤原冬嗣(775~826年)の長女である順子(809~871年)は、仁明天皇の女御として文徳天皇(55代827~858年)の生母となっている。

雲林院の門



実は冬嗣の12番目の娘(順子の妹)は、小野篁の妻であったので、仁明天皇と小野篁は義兄弟の関係にあったのである。

仁明天皇が官寺とした雲林院に、義弟小野篁の墓所が置かれた可能性は大きいと思われるので、四辻善成が顕した「河海抄」の中にある記事の信憑性は高い。

雲林院境内



雲林院は、鎌倉時代になると衰えて北側の跡地に大徳寺が建立され、応仁の乱では一旦焼失したようであるが、江戸時代(1706年)になってから北大路通りの南側に雲林院観音堂が再建され、今も昔の由緒を伝えている。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「源氏物語」の作者とされる紫式部(973~1031年)の住んでいた住居の跡地に建つ廬山寺と、源氏物語の着想を得た石山寺のことは以前このブログに書いたことがある。



京都市営地下鉄、北大路駅を下りると観光案内地図があり、そこに小野篁、紫式部の墓地とあったので尋ねてみた。

堀川北大路交差点



北大路駅から歩いて10分、堀川北大路交差点の南西には、島津製作所紫野工場の長いコンクリート壁があり、その壁の一部が欠けた場所に紫式部の墓所を示す石碑がある。



石碑に導かれて狭い通路を奥に進むと、L字型になった右側に、紫式部の墓石と五輪塔が置かれた墓地があり、その東側に仲良く並んであるのは小野篁の墓地である。



紫式部の墓石の裏側には、明治32年(1899年)の文字が読み取れるので、墓石は109年前に建てられたもの、五輪塔はさらに古いもののようである。



この土地は、島津製作所の敷地の中に入り込んでいるが、島津製作所が明治時代に工場用地を買収した際に、墓地だけは工場の敷地から外したのであろう。



平安時代に書かれた今昔物語によれば、小野篁は夜になると冥界に行って閻魔大王に仕え、亡者が閻魔大王の前に引き出され罪科を言い渡される際に、閻魔大王に助言をしていると当時信じられていたようである。

小野篁の没後179年を経て亡くなった紫式部は、男女の愛欲を描いた小説を書いた罪で地獄に落とされる恐れがあり、小野篁の隣に墓を設けることで篁から閻魔大王にとりなしを願ったという。

左が式部、右が小野篁の五輪塔



式部の墓が、小野篁の墓の隣にあることは、室町時代から既に知られていて、四辻善成(1326~1402年)が、「式部の墓は雲林院白毫院の南、小野篁墓の西にあり」と記述している。

雲林院



平安時代に官寺であった雲林院は、この辺りから西にかけて広大な境内を保有していて、枕草子、源氏物語、大鏡、伊勢物語、古今集などに寺名が登場しているが、鎌倉時代以降衰え、応仁の乱で消失、雲林院という地名だけが残ったようである。



ここから少し西側の北大路通り南側は、今も紫野雲林院町と呼ばれており、江戸時代になって雲林院観音堂が再建され昔の由緒を伝えている。

雲林院観音堂



雲林院にあった僧正遍昭の歌碑には「天つ風 雲のかよひ路 吹きとじよ をとめの姿 しばしとどめむ」とある。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




隠岐の海で採れる直径3センチ高さ4~5センチくらいの巻貝は、地元の言葉で「ニイナ」と呼ぶが、シッタカ(ニシキウズガイ科のオオコシダカガンガラ又はガンガラ)という貝であることは以前このブログで紹介したことがある。



「ニイナ」の語源を調べてみると、「虫」偏に「卷」と書いて「にな」と読む「蜷」に該当し、巻貝のことを表す古い言葉のようである。



大阪弁などでは、1音節の単語、目(メ)をメエ、血(チ)をチイと最初の母音を長く発音する習慣があるが、古い単語であるニナの最初の母音を長く発音してニイナと言われるようになったのではなかろうか。



「蜷」は、古い時代から使われている言葉で、「古事記」や「日本書紀」の中にもみられ、「万葉集」の中には、「蜷の腸(ワタ) か黒き髪に」と詠まれている歌がいくつかある。



つまり、ニイナの貝殻の中に入っているワタ(腸)は、黒髪を強調する枕詞として使われているのである。

その一例としては、「天なる 日売菅原の 草な刈りそね 蜷の腸 か黒き髪に あくたし付くも」(意味:日売菅原の草を刈るのはやめなさい。蜷の腸のように美しい黒髪にゴミが付くから)などである。



万葉集の頃の「ニナ」は、淡水に棲息するカワニナなどのことであったらしいが、現在はシッタカなど海に棲息するニシキウズガイ科の巻貝に対してニイナ(又はニーナ)と呼んで全国的に使われているようである。

このニイナであるが、隠岐の海の浅い岩場に棲息していて、アワビやサザエの豊富な隠岐の地元では、余りにありふれているので無視されていた貝であった。



しかし、アワビやサザエが減少し、高騰した近年、安くて意外と美味いニイナの味を知った人の求めで商品として市場に出るようになっている。

ニイナを茹で、螺旋状になった貝殻から身を取り出してみると、柔らかいワタの中味は一部黒い色をしているので、万葉集の枕詞は今でも正しいのである。



ところで、富山県に「蜷川」(ニナガワ)という姓があり、そこから出た蜷川氏は、室町幕府の要職を歴任し、江戸幕府でも旗本として明治維新まで続いた名家である。

有名な演出家、蜷川幸雄氏のご両親も富山出身といわれているので、昔の富山では川に「ニナ」が沢山棲息していたのであろう。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




御堂筋に建つアーバンBLD心斎橋は、1981年に建てられた地味なビルであったが、2004年にアーバンコーポレイション(以下アーバンC)が買収し、外装を改修したことで街角の景観が一変している。



このビルは、その変身を高く評価されてグッドデザイン賞、BELCA賞を受賞していて、1階がアップルコンピューターのショールームとなっているので、今ではかなり目立つビルである。



ビル外装の改修に加え、ガラスを多用したデザインのエントランスホールは、SF映画に出てくる未来の建物のようである。



このビルが、今年2月にアーバンCからドイツの不動産投資会社売却されたとの発表を聞いたときに、同社の経営状態が悪化しているのではないかと心配していたが、予感が的中して先週13日アーバンCは民事再生法を申請している。

1階エレベーターホール



そのアーバンC(本社広島)は、資本金190億円、売上高2436億円、総資産6026億円、従業員数1400名(2008年6月)という巨大な会社であった。



創業者で今年46歳の房園博行氏は、22歳で近畿大学工学部経営工学科を卒業後すぐにマンション販売大手の「大京」に入社、「大京」で 5年間の経験を積んだ1990年、27歳でアーバンCを創業し代表取締役社長に就任、そのまま今日まで君臨していたようである。



ゼロからスタートした事業を、僅か18年間で連結総資産6026億円までの企業に発展させた経営手腕は並外れたものがあると言わざるを得ない。

アーバンC社の開発した心斎橋ソニータワー跡地のビル



設立当初は、マンションの企画販売やマンション分譲を中心にしていたが、アーバンBLD心斎橋のように老朽化したビルを買収して、改築をした後に転売する不動産流動化へ事業をシフトしていた。



しかし、サブプライムローン問題や建築基準法改正の影響によって不動産市況が冷え込む中、資金繰りが急速に悪化したようである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




大阪大正区鶴浜にオープンしたIKEAは、スウェーデンの大手家具店で2006年度の売上高は、173億ユーロ(1ユーロ162円とすれば2兆8千億円)、従業員は世界各国で10万人を超えという巨大企業である。



しかしIKEAグループ全企業の親会社は、オランダで登記されている非公開企業で、その企業も、オランダ籍免税非営利法人スティヒティング・インカ財団の所有となっている。

出口に陳列された商品のオブジェ



この企業支配の複雑な仕組みは、高福祉高負担で有名なスウェーデンの税制から逃れ、創業家の支配を安定させるために考えられたようであるが、IKEAの家具にはすべてスウェーデン語の名前がつけられて北欧製品であることを強調している。



IKEAの由来は、1943年に雑貨店を創業したイングヴァル・カンプラードのイニシャルIKに、彼が育った農場と町の頭文字をつなげ合わせたもので、そのIKEAは1951年頃から家具販売店に変身している。

店舗内の通路



IKEAは、同業他社との深刻な価格競争に巻き込まれたことをキッカケに自社のデザイナーによる商品企画・製造・販売・梱包(フラットパック)方式を考案し、消費者自身が簡単に車で持ち帰ることができるようにしたことで飛躍的な業績向上が始まったようである。



その後もコストを徹底的に削減しながら、優良デザインの格安組み立て式家具の販売を続け、ヨーロッパ全域と北米をはじめ、世界の36国と地域に合計278店舗(2008年4月現在)を展開している。

難波行きの無料シャトルバス



本来IKEAは、客が商品を自ら持ち帰り、組み立てることを前提とした販売をしているが、この方法は、1974年に最初に日本に進出した際に失敗(1986年に一旦撤退)していることから、現在の日本の店舗では配送・設置・組み立てのサービスを別料金で用意している。



また、販売のコストを削減するため、店員の配置は最小限としていて、広い売り場で店員を見つけるのに苦労するほどである。

IKEAの店舗では、新規オープンに伴う来場者の殺到が見られ、中国上海店で1日8万人、日本再進出1号店の船橋店(2006年4月の平日)で、3万5千人を超える来場者があったという。



大阪に8月オープンしたIKEA大阪鶴浜店に先日行って見ると、やはり客を入場制限していたが、冷房の無い屋外で長時間待たされるのは辛い。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日本にあるIKEAストアは、千葉県船橋、横浜、神戸ポートアイランドの3店舗であったが、8月1日に大阪大正区鶴浜に4店舗目がオープンしたので行ってみた。



難波高島屋の南西150メートルの場所には、無料バスの乗り場があり、そこから乗るとノンストップ、30分でIKEAストア大阪鶴浜店(以下イケア)に到着である。



イケアは、地上4階、店舗面積 約4万平米という巨大な店舗で、建物の3,4階部分と外部に2千台もの無料駐車場がある。

店内では、まずエスカレーターで2階に上がり、両側に商品が陳列されたクネクネ曲がった通路を、一方通行で歩かされるが、すごい混雑ぶりである。



2階の売り場は広く、かつ大勢の客で混雑しているので、目的の場所にダイレクト移動するのが難しい。

キッチン家具売り場



リビング、オフィス、キッチン、ダイニング、寝室、子共部屋などに配置する家具が、色々なパターンで提案展示されていて、単品だけでなく提案商品全体の価格も表示してあるので、新築時や部屋全体の模様替えの際の購入には便利である。

1階に下りるとキッチン用品、文具、電化用品、照明器具、カーテン、寝具、浴室用品、などの比較的安い雑貨が所狭しと並んでいる。



特にキッチン用品売り場には、IKEA独自の洗練された北欧風デザインの商品が充実していて、価格も意外と安いのである。

1階売り場の奥、レジコーナーの手前は2階分の高い吹き抜けの倉庫(セルフサービスエリア)となっていて、そこのラック棚に梱包された家具が置かれていたが、ラック最上段の高さは10メートル近いのではなかろうか。



2階で気に入った商品があれば、その商品番号を控えておいて、この倉庫から取り出しレジまで運ぶことになるようであるが、大型商品を買った人は商品の移動が大変であろう。

レジから出たビストロ前の混雑



この日はステンレス製コンポート、テーブルクロス、小皿、シーツ、靴べらなどを買ったが、IKEAではレジを通った商品を入れる買物袋が紙製20円、ビニール製が99円と別途料金となっている。



12時10分頃にレジから外に出ると、店内の大混雑を緩和するために入場制限をしていたが、気温35度での屋外待機は大変である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




家内の実家のある集落に2箇所ある船着場の間には、2~300メートルの浅い磯があり、防波堤から階段で下りることができるようになっている。



実家に荷物を置き、磯に入ってみると、明るい海中にメジナの稚魚が群れている。



磯の至る所にムラサキウニがいて、岩の窪みにスッポリと納まっているではないか。



海中の硬い岩に、ウニと同じサイズの窪みが何箇所もできているのは、数千年に渡ってウニが削ったたものであろうか。



そのウニの近くにはサザエが共生していることが多いので、注意深く探し、ウニの棘に刺されないようにして慎重に採っておく。



サザエは、殻の渦巻き模様に注目してウニの近くを探せば結構見つかるもので、かなり前に近くの磯で1時間足らずの間に大きなバケツ1杯採ったこともある。



また岩の割れ目に、貝長10センチくらいのアワビを見つけたが、資源保護のために小さな貝は見逃すこととした。



磯の巨大な岩に直径4センチもあるフジツボが着いるのが不思議な光景であった。



磯の横には、消波ブロックの海岸が続くが、コンクリートでできたブロックの上にニイナが一杯ついているではないか。



隠岐のニイナは、浅い磯の小石や岩の上などの場所で必ず見ることができるありふれた巻貝である。



磯のニイナは海から上がって塩茹でにし、爪楊枝を使って根気良く殻からはずすと、ドンブリ1杯の身が取れた。



螺旋状になったニイナの尻尾は柔らかくすぐに切れてしまうにで、身に刺した爪楊枝を慎重に回転させながら貝殻から引っ張り出すテクニックが必要である。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




家内の実家は、ホテルからタクシーでちょっと走った場所にあり、昔はかなり賑やかであったというが、今では全戸数が40戸の過疎の集落となっている。



産業としてはイカ漁を中心とした漁業くらいしか無いが、乱獲が続いて水揚げは減り、さらに燃料の高騰でどこも経営は苦しいようである。

廃止された郵便局



港には、巨大な集魚灯をいくつもつけたイカ釣り船が数隻係留されていたが、これからも頑張って貰いたいものである。



さて、ホテルで宿泊した翌日、菱浦港のショップで調達したヒオウギガイ、サザエ、ニイナを実家に持ち帰り、早速調理してみた。

まず色とりどりのヒオウギガイは、殻から身を外し、刺身と春雨を入れたニンニク炒めとしてみた。



ヒオウギガイの刺身は、ちょっと塩味が強いが、生きた貝独特の強烈な磯の味がして、先祖から受け継いだ古代からの味覚が呼び戻されて実に美味い。

春雨を入れたニンニク炒めは、以前中国広州に駐在していたとき、春雨とホタテのニンニク炒めが美味かったので、真似をしてみたのであるが、広州の味と同様に貝の旨味が春雨に染み込みこれも美味い。



次にサザエであるが、金槌で固い殻を叩き割って中身を取り出し、半分を刺身とし、残りをサザエの炊き込みご飯としてみた。



生きたサザエの刺身は、コリコリとして美味いが、ご飯の中のサザエが柔らかく炊けて、これがまた絶品であった。

市販のサザエご飯は、具のサザエが硬くて美味しくないが、これは新鮮な生きたサザエを使っていないからであろう。



ニイナは、塩茹でにしてから殻から身を外し、お米と一緒に炊いてニイナご飯としてみたら、サザエと違った貝の旨味が何ともいえない。



ニイナの残りは、焼きそばの中に入れる具にして食べたが、これも美味い料理であった。



サザエやニイナには脂肪分が無いので、菱浦で調達した黒毛和牛の霜降り肉も焼いて、貝料理と一緒に食べてみたら、柔らかくて和牛独特の脂の甘みが美味い。



海士町で生産される黒毛和牛の肉質は、東京市場でも最上級に評価されているという。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 前ページ