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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



義和団事変の際に北京に籠城したロンドンタイムズの記者モリソンは、各国公使の印象を日記に残していて、イギリス公使のマクドナルドは「知力も判断力も無い無能」、フランス公使は「臆病なのら犬」と痛烈に批判しています。・・・海遊館前の港

続いて<日本公使の西男爵は、無言で類人猿のように歩き回っている。彼は公使としての自分の任務は、「口も耳も閉ざしていることだと心得ている」と、もっぱらの評判だが、口を閉ざしているのは賢明だが、耳を閉ざしているのは愚かである>と辛辣です。・・・北極圏の展示室へのアプローチは氷山の下というイメージ

駐清国公使西徳二郎(1847年〜1912年3月)は、鹿児島藩士(西藤左衛門)の二男、戊辰戦争(1868年、21歳)では黒田清隆の下で、越後奥羽の戦争に従軍し各地で戦っています。・・・北極圏の海

1869年には東京に出て大学南校に入学、1年後にロシアについて研究したいと大久保利通に伝えたことから1870年にペテルブルグに赴任、当時まだペテルブルグにいた幕府派遣の2名の日本人が温かく迎え、その世話で1871年にペテルブルグ大学法政科に入学しています。氷山の下を覗くアザラシという設定

1875年にペテルブルグ大学を卒業しますが大学に留まって日本語教師となり、1876年フランス駐在日本公使館二等書記官、1878年には代理公使としてロシアに呼び戻されています。・・・アザラシの顔

1880年7月、後任の柳原前光に事務を引き継いで中央アジア、シベリア、蒙古、清国を経由して1881年4月に帰国、5年後(1886年)今度はロシア公使として三度目のペテルブルグ赴任、それから9年後(日清戦争直後)のロシアとの外交交渉が評価されて男爵(1895年)となっています。・・・北極圏の魚はアークティックチャー

翌1896年、松方内閣で外務大臣に就任、中国研究者河村一夫は、「生来剛毅なりし西男爵も・・・露国を去って帰朝する頃より漸く神経過敏となり、昔日の激溌たる気性を見るあたわず、全くの別人となって悠々哲理を談ずる室内の人となれり・・・西男爵は不言を玉条とする秘密主義者となれり」と紹介しています。この頃から性格が一変したようです。・・・北極圏のクリオネ

西は、外務大臣辞任と同時に引退したかったようですが、伊藤博文の要請で1899年11月に駐清国公使として北京に着任、すぐに病気となり、「病気あがりの西が冴えなかったのはしょうがない」とウッドハウス暎子さんは書いています。・・・北極圏の魚ランプフィッシュ

中国研究者大山梓は「事変が発生すると西公使は、(男性)公使館員全員を義勇兵に送り出し、自ら公使館の館務に当たり、従容として砲煙弾雨の戦線を視察し、日本兵を激励した」と書いていますので、若き日に戊辰戦争に従軍した経験があったからでしょう。・・・北極海生態系の展示

 西徳二郎は、義和団事変の戦後処理の際、西太后からシナ茶の専売権を与えられ、巨万の富を手にしたといわれ、西男爵家は三男竹一(1902〜1945年)が継ぎ(長男、次男は夭折)、竹一はロスオリンピック馬術の金メダリスト、後に硫黄島で戦死しています。

参考文献:北京燃ゆ 義和団事変とモリソン ウッドハウス暎子著 、シルクロード紀行 西 徳二郎著から金子民雄の解説

 



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 1900年の5~8月、北京であった義和団事変の話の続きです。今回は海遊館の「ふあふあクラゲ館」のクラゲと一緒に紹介しましょう。

天津から日本軍を主力とする連合国軍が北京に侵攻、その入場とともに北京籠城は8月14日に終わっていますが、籠城軍総司令官だったイギリス公使マクドナルドは、<籠城期間中の日本人の偉大な働きのお蔭で、持ちこたえることができた>と連合国北京救援指揮官たちへ報告しています。

8月15日に北京は連合国の軍政下におかれ、連合国司令部は、連合国の将兵に「文明の名において、三日間の略奪を許す」許可を出したため、北京は略奪の巷となっています。

この間、日本軍は、柴中佐の先導で清朝の大蔵省金庫にあった250万両の馬蹄銀と米蔵にあった2万石の玄米をいち早く獲得、ここでも連合国の中で日本軍が最も優秀だったことを実証しています。(このときの馬蹄銀は、軍首脳の汚職に発展、それを報道した幸徳秋水は大逆事件で死刑となっています)

乱が治まった後のイギリスの新聞各紙を紹介しましょう。8月18日のイスタンダード紙は<義和団鎮圧の名誉は日本兵に帰すべきであると誰しもが認めている。日本兵の忍耐強さ、軍紀の厳正さ、その勇気は賞賛に値するものであり、他の追随を許さない>

8月20日付けデイリー・テレグラフ紙<北京救助の戦功は、(天津から北京までの)進軍途中の戦功と同じく日本兵士に帰すものである>

8月28日ロンドンタイムズ<列国の公使館が救われたのは日本の力によるものであると全世界は日本に感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗の名誉汚染の屈辱から免れたのは、ひとえに日本のお蔭である。日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である>と報道、柴中佐以下日本人の働きぶりは世界に宣伝されたのでした。

翌1901年から交渉が始まり1902年1月に調印された日英同盟(締結国が他1国と交戦に至った場合同盟国は他国の参戦を防止し、2国以上との交戦となった場合には締結国を助けて参戦する内容)成立は、義和団事変での日本人への高い評価がもたらしたものでしょう。

日英同盟が日露戦争(1904〜05年)勝利の一因という説がありますが、柴五郎と北京に籠城した日本人が日露戦争勝利の一因と言えるのかもしれません。

参考文献:北京燃ゆ 義和団事変とモリソン ウッドハウス暎子著



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昨日の記事からの続きです。ウッドハウス暎子さんの「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」の中から各国人の見た柴中佐と、海遊館の魚たちを紹介しましょう。<  >の部分が本の記述です。・・・太平洋水槽の中

イギリス人のシンプソン(当時23歳)は、6月21日に<僕は長時間かけて各国受け持ちの部署を視察して回ったが、日本が守備する粛親王府ではじめて組織化された集団を見つけた。この小男(柴中佐)はいつのまにか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。僕は間もなく彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう>と日記に書いています。・・・異様に離れているシュモクザメの目

イギリス人ジャイル(当時21歳)の6月24日の日記には<日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきだ。我がイギリス兵が次に続く。日本兵はずば抜けて一番だと思う>とあります。目の間が離れているので距離感が掴み易いのかも知れません

籠城した若いアメリカ人女性ポリー・スミスの日記には<第1回目(6月21日)の朝の会議では誰も柴中佐の意見を求めようとはしませんでした。しかし今(7月2日)ではすべてが変わりました。柴中佐は激戦で偉大な将校であることを実証したからです>と後方にいた女性にも柴中佐のことは判っていたようです。・・・目と目の間の頭部の先端は扇が開いたような形をしています。

ロンドンタイムズの記者モリソン(当時28歳)は7月5日の日記に<イタリア兵と日本兵が守る粛親王府を巡視した。イタリア兵はやる気が無くしぶしぶ戦っているが、日本兵は朗らかな柴中佐の下で張り切っている。日本兵は11名負傷、6名死亡、負傷した11人の中で前線に戻らなかったのは二人だけ>と書き・・・シュモクザメの目の拡大

その三日後には<粛親王府の炎上は、城壁の上からも良く見える。そこは一大活劇のシーンだ。小柄できびきびした柴中佐は、必要な場所には必ずいつでもいる>と賞讃しています。・・・ウツボ

ジャイルの7月8日の日記には<日本兵が守備に当たってくれることは僕達みなにとって非常にラッキーなことで、もしこれがイタリア兵やオーストリア兵だったとしたら北京はとっくの昔に敵の手に落ち、僕達は全滅していただろう>と書いています。・・・日本海溝水槽のイガグリガニ

イギリス人看護婦ジェシー・ランサムは<7月12日の夜、粛親王府で激戦がありました。イタリア兵は逃げ、イギリス兵の部署を無防備のまま孤立させましたが、日本兵はとにかく素晴らしく、皆の賞賛の的となっています>と著書に書いていますので女性の間でも評判が良かったようです。日本海溝水槽のアカザエビ

当時、北京に籠城していた外国人の中で、最も過酷な幼少期を過ごし、その後陸軍士官学校で徹底した軍人教育を受けた柴中佐の手腕は、まさに筋金入りだったのです。・・・日本海溝水槽の魚サギフエ

つづく

参考文献:北京燃ゆ 義和団事変とモリソン ウッドハウス暎子著



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昨日の記事からの続きです。6月20日義和団と清朝政府連合軍の攻撃を受けたオーストリア公使館守備隊は、1日も持ちこたえることなく、イタリア公使館守備隊と一緒にフランス公使館に退却、隊を指揮していたオーストリアのトーマン中佐は、さらに後方のイギリス公使館に逃げ込もうとしていました。・・・海遊館

これを見た11カ国公使団は、籠城軍総指揮官を望んでその地位にあったトーマン中佐の指揮権を剥奪、イギリス公使マクドナルド(48歳)に指揮権を移譲しています。・・・太平洋水槽

オーストリア公使館、イタリア公使館が撤退したために、フランス公使館とドイツ公使館が最前線となり、最後の砦となるイギリス公使館のすぐ東側にある粛親王府(以下王府とします)の守備が重要になってきました。・・・ジンベエザメ鼻と口と目

日本の柴中佐は、王府を日本兵が守備すると進言、総指揮官マクドナルドはイタリア軍に柴中佐の指揮下でその守備につくよう命令しますが、ドイツ側がイタリア軍はドイツ公使館の守備に必要であると反対意見を表明しています。・・・ジンベエザメの目の後ろにある小さな穴は耳でしょうか。

籠城していたイギリス人、ピーター・フレミングは、その著書「北京籠城」で<戦略上の最重要地点王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった>と書いています。・・・ジンベエザメの食事

またフレミングは<日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で、経験も豊富であったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された>と証言しています。・・・ジンベエザメの食事

さらに<当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として皆の目に映るようになったからだ>とも・・・ハタ

籠城したピーター・フレミングは<日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、籠城者一同の賞讃の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは日本人だけである> と日本人を絶賛しています。・・・ウミガメ

北京に籠城した日本人は、彼らが知らないうちに外国人から高く評価されるようになり、このことは世界での日本の地位を急速に高めたのでした。・・・シュモクザメの目

つづく

参考文献:北京燃ゆ 義和団事変とモリソン ウッドハウス暎子著



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先日行った海遊館は混雑していましたので、休暇を取って平日に入館してみました。ところで、もうすぐ5月となりますが今から113年前の5月~8月にあった義和団事変(北清事変)の紹介をもう少し続けましょう。・・・海遊館のチケット売り場

義和団事変は、ロンドンタイムズ紙北京特派員、ジョージ・E・モリソン(1862〜1920年、オーストラリア人)が詳細な記録や日記を残していて、シドニー在住のウッドハウス暎子さんが「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」として出版しています。・・・内部

義和団事変は、日清戦争(1894〜95年)に敗れた清国が日本への賠償金を払うためにロシアから4億フランの借款を受け、その見返りとして満蒙の鉄道敷設権をロシアに与えたことが発端でした。・・・ラッコ

1896年の外交交渉の際、清朝大臣李鴻章に50万ルーブルの賄賂を渡したとロシア財務大臣ウイッテが回顧録に残していますが、清国では政府に対する民衆の不満が高まっていました。(今も中国でくすぶる中国高官の収賄は117年前の当時にもあったのです)・・・アシカの食事

1898年に入ると三国干渉で日本が手放した旅順、大連の租借権をロシアが取得、ロシアによる清国の半植民地化が進み、またキリスト教徒と一般民衆との間での土地争いが頻発、さらに官僚の収賄に対する民衆の怒りが義和団勢力の急速な拡大へとつながっています。・・・アマゾンの魚

1900年5月には暴徒化した義和団が北京に迫り、その知らせを受けた日、英、米、露、独、仏、伊など11カ国北京公使館は、天津から護衛兵(内訳は英83、露81、米55、独52、仏47、伊29、日27など約400名)を北京に入れています。・・・イルカ

6月8日、北京天津間の鉄道が遮断され、6月11日には日本公使館員の殺害があり、義和団と清朝軍は6月13日から北京公使館街の攻撃を開始、連合国の北京籠城戦がスタートしています。・・・動きが早いイルカは写真に撮るのが難しいですね

翌6月21日、交渉に出てきたドイツ公使を殺害した清朝は、連合国側に宣戦を布告、そのとき約1km四方の北京公使館街に籠城したのは、外国人居留民500人、同護衛兵400人、清国人の召使400人、清国人キリスト教徒3000人、合計4000人余りでした。・・・熱帯の魚

兵力の少ない籠城軍は、居留民500人の中から義勇軍を編成することになり、450名以上の居留民がいた欧米10カ国からは合計44名、50人の日本居留民からは婦女子19名を除いた31名が参加、義勇兵参加率は日本が圧倒的に高かったようです。・・・瀬戸内海の魚

つづく

参考文献:北京燃ゆ 義和団事変とモリソン ウッドハウス暎子著



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義和団事変の話の途中ですが、海遊館の展示室が改修され、新しくなったと聞いたのでちょっと行ってきました。

開館から30分後の入場でしたが、すごい人で、なかなか思うような写真が撮れません。

瀬戸内海水槽のタコ

いつも失敗ばかりですが、この水槽のイワシの群れをうまく撮影するのは至難の業です。

今回、新しくできた北極圏海中展示室のイソギンチャクです。

新しく出来た北極圏海中展示室の目玉は、氷山の下を歩いているような照明と、天井にできたアザラシが泳ぐ水槽です。

また海中展示室の外にある北極圏海上展示スペースでは、ペンギンをすぐ近くから見ることができるようになっていました。

以前もあった生きた魚(エイやサメ)とのふれあいゾーンです。

4階には、北極圏のクジラの仲間、イッカクが展示されていました。

此の日、年間パスポート(4月30日までなら4000円)を購入しておいたので、さっと切り上げ、後日出直しすることにしました。



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昨日の記事の続きとなります。会津藩士の五男、柴 五郎中佐(1860〜1945年)が北京の外国公使館区域に籠城して義和団と戦闘した際の状況と長居植物園のツバキの花を紹介しましょう。

義和団事件から1年半後となる1901年12月、<私は、本日諸君に北京籠城の講話をいたそうと思います>から始まる柴 五郎の講演記録が残されています。・・・黄色いツバキはキンカチャ

北京公使館地区での義和団事変は、「北京の55日」という映画でも知られていますが、1990年6月20日~7月17日までの激戦期間、7月17日~8月14日の休戦平和交渉期間と大きく2期に分かれています。

激戦期間の7月10日には<敵が家屋の残壁に銃眼を穿ちますと、敵の銃眼の出来上がるのを待って、敵に先だってその銃眼から我が銃を押しこんで撃ったり、敵が銃眼から銃を出して射撃するのを、壁沿いに横から近づいて梶棒で敵の銃を激打し、敵が驚いて銃を抜くと我が銃を押しこんで射撃する>という猛烈な接近戦で、義和団側は勿論、日本をはじめ連合国側にも多数の死者を出しています。

柴五郎は、敵兵を<終始生命を顧みず真面目に戦い、彼らはなかなか勇慓(ゆうひょう=強く勇ましい)な良い兵で、先頭の者の死骸を踏み越え(中略)先を争って飛び込んでくるときの有り様など敵ながら感心に堪えない(中略)惜しいかな将校の指揮が悪い>と述べています。

7月18日、清朝政府の使者が来て「開戦は北京に来た外国兵の乱暴が原因」と自国(義和団)の攻撃を棚に上げた和平交渉がスタート、これから8月14日までのやりとりは、尖閣列島問題での中国政府の姿勢とそっくりです。

ところで義和団事件から37年後に日中全面戦争が始まっていますが、その頃の軍部や政府に柴五郎の「中国兵士は勇慓だった」という講話を知っている人物がいなくなり、中国兵は弱いので日本軍が一撃すればすぐに降参するという見方が支配的だったのです。

日清、日露の戦争に勝利した日本は、日本が強く中国は弱いという幻想に支配されていましたが、近年のオリンピック金メダルの獲得数にも見ることができるように、中国人は日本人に勝るとも劣らないくらい強かったのです。

1937年から日中戦争が始まると、柴五郎の判断通り、中国兵は勇慓で戦線は泥沼状態となっています。そして開戦から8年後、今度は日本が敗戦を迎えるのです。歴史に学ばない国は、危ういという教訓でしょう。

参考文献: 「北京籠城」柴 五郎述、大山 梓編



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造幣局の八重桜も終わってしまいましたので、長居植物園のツバキ園で咲いているツバキを紹介しましょう。

ところで八重桜といえは、今年のNHKの大河ドラマが「八重の桜」です。・・・・主人公は、幕末から明治にかけて活躍した、会津の人、新島八重(1845〜1932年)・・・八重のツバキ

1868年の会津若松城籠城戦を戦った八重は当時23歳、一方、会津藩士(280石)柴家の五男、柴 五郎(当時8歳)は田舎に避難して無事でしたが、彼の祖母、母、姉妹は自宅で自刃しています。終戦後、柴家の生き残った家族は、不毛の陸奥国斗南(青森県)に移住し、そこで筆舌に尽くし難い苦労をしています。・・・横から日が当たったツバキ

幼少期に苦労した柴 五郎(13歳)は、猛勉強して陸軍幼年学校に入校(1873年3月)を果し、軍人生活をスタートさせています。ここまでの五郎の人生は、石光真人著「ある明治人の記録」に詳しく描かれています。

さて柴 五郎ですが、1879年に陸軍砲兵少尉(19歳)に任官、その21年後の1900年3月(40歳)、陸軍中佐として清国公使館(北京)付陸軍武官となります。しかし着任間も無い6月に「義和団の乱」が起こるのです。

義和団の乱では、暴徒によって日本公使館の杉山書記生やドイツ公使が殺害され、日、英、米、仏など11か国の公使館職員と清国人キリスト教徒が北京紫禁城の東南にあった公使館区域に籠城することになります。・・・黄色いツバキ(金花茶)

籠城した連合国の兵力約400名に対する敵の兵力は、少なくとも8~9千人、多ければ1万4~5千人だったと柴五郎は推定しています。そういう不利な条件下でしたが、西徳二郎公使(硫黄島で戦死したオリンピックメダリスト西竹一の父親)の下で他国軍と協力して60日に及ぶ篭城戦を戦い抜いています。

柴中佐は、後にイギリスはじめ各国政府から勲章を授与され、1902年陸軍大佐に進級、1904年の日露戦争に出征し、その後陸軍少将、陸軍中将と昇進、会津藩士の五男は、1919年8月、59歳で陸軍大将にまで進級しています。

さらに1919年台湾軍司令官、1921年軍事参議官を経て1923年に予備役となり、1930年、70歳で陸軍を退役、その後も長生きして1945年12月に亡くなっています。・・・金花茶は、50種類もあるそうです。

参考文献:「ある明治人の記録」石光真人著及び「北京籠城」柴 五郎述、大山 梓編



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いよいよ今年も牡丹の季節となりました。大阪市内で見事な牡丹を見ることのできる場所として知られているのが長居植物園です。

開花したばかりの豪華な赤い牡丹

白い牡丹もあります。

この蕾は、白と赤紫のツートンカラー

赤の蕾

音を立てて開花しているように見える牡丹の蕾です。

白い牡丹の中にはもう満開となった株もありました。

赤い牡丹も満開です。

もうじき満開となりそうなツートンカラーの牡丹です。



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仏隆寺千年桜の横の石段を登り、上から見た千年桜です。

折角ここまで来たので、仏隆寺を拝観することにしました。・・・仏隆寺は、西暦850年に空海の高弟によって創建されたと伝わっています。

山門を入ると左手に庫裡、正面の石段を上ると本堂です。石段に覆い被さるように白い花が満開でした。また、空海が唐から持ち帰った最古の茶をここで栽培したといわれ、仏隆寺は大和茶発祥の地となっています。

この古木は、「樹齢約450年の山梨です。長十郎梨の原木です」と書いてありました。

これが梨の花の拡大です。

石段の上の本堂

石段の途中から山梨の花と山門

本堂の裏手にある十三重の塔には、元徳2年(1330年)の銘があるという古いものでした。

最後に、もういちど2013年の春に咲く千年桜の姿をどうぞ。



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昨日の記事からの続きです。・・・仏隆寺千年桜は、階段状となっている南向きの斜面にありました。

株の根元にあった説明文には、天然記念物「仏隆寺もサクラの巨樹」昭和58年3月15日指定とあります。

本文は、<仏隆寺のヤマザクラとして指定されていたこのサクラは、開花期に鑑定を受けとところヤマザクラとエドヒガシの雑種であるモチヅキザクラの一種であることが判明した>

<しかし、このモチヅキザクラは、花柱に毛が無く、ガク筒のふくらみが円筒状楕円形をして長いなど・・・>

<・・・ヤマザクラの形質をもそなえている点、学術上貴重な巨樹である>・・・仏隆寺の千年桜は、急な斜面の谷底近くにありました。

<このサクラは、根囲7.7mに及び、根株から2mのところで大小11本に分岐し、分岐枝の最大のものは、幹囲1.2m(もあります)>・・・ここから室生寺まで5.6kmとある標識。

<四方に枝を広げ、樹勢は衰えておらず、奈良軒下で最大、最古の株とされ、貴重な存在でもある(昭和61年3月)>昭和61年から既に27年が経過していますが、まだまだ勢いがあります。

去年紹介した又兵衛桜よりも、仏隆寺の千年桜の方が大きいようですね。

今年も上に向かって勢い良く枝が伸び、満開の花を付けていました。

つづく



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大阪難波発7時5分の近鉄電車に乗って榛原駅で下り、奈良交通「曽爾村役場」行バスに乗り換えて15分、奈良県宇陀市高井バス停に到着です。

バス停すぐ傍の交差点に仏隆寺1.9kmの標識があったので、指示された方向に向かって歩くことにします。

ウグイスの声の聞こえる山道をしばらく歩きました。

途中見かけたシロヤマザクラ。吉野山でよく見るサクラです。

歩くこと25分、谷の間に白い桜が見えてきました。

到着したのが9時少し前、これがソメイヨシノよりも遅く咲くことで知られる仏隆寺の千年桜でした。

早朝ですが、既に多くの見物客が来ています。・・・中央の石段は、丘の上にある仏隆寺への参道です。

千年桜の右側に廻ってみた全景です。・・・最上部まで一杯の花を付けているので、千年桜とはいえ、まだまだ勢いは衰えていないようです。

すぐ下から見ると、こんな感じです。

つづく



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ソメイヨシノが散ったあと、少し遅れて咲くのがサトザクラです。今年も大阪造幣局のサトザクラを見てきましたが、すごい人出でゆっくりと写真撮影ができません。緑色の桜は御衣更。

折角の珍しいサトザクラをどこかでゆっくりと写真に撮りたいと思っていましたが、何と長居公園で見つけました。・・・御衣更という桜のツボミは緑色です。

これは黄緑色の花弁にピンクの線が入った黄桜。鬱金(ウコン)でしょう。

造幣局でも人気のある品種「楊貴妃」。今年の造幣局では、盛りを過ぎた状態でしたが、長居公園では開花したばかりの姿を撮影できました。

楊貴妃のアップ

これは造幣局でも人気の品種「普賢象」。普賢象は楊貴妃よりも少し遅く咲くので造幣局でも満開でしたね。

その拡大写真です。花弁の中心のメシベが象の鼻に見えることから命名されたとか。

長居植物園の中にもサトザクラ「松月」に似た大きな株があり、満開でした。

これは一重のサトザクラ「鍾馗」という品種かも知れません。

ツボミが一杯ついたのは楊貴妃でしょうか。

今年は、長居公園と長居植物園でゆっくりとサトザクラが撮れてラッキーでした。

 



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白い一重の桜は、造幣局通り抜けの入り口(南門)の近くにもあった鍾馗です。満開となる時期はサトザクラと同じですが、シロヤマザクラに似ています。

ごく薄いピンクが混じった白い大輪の桜は松月。大阪造幣局では、この松月の株をあちこちで見ることができます。

造幣局に1本しかない珍しい品種の須磨普賢象も満開でした。

黄桜の一種は鬱金。造幣局にはこの鬱金の株が多数見られました。

煉瓦外壁前の簪桜(カンザシザクラ)が満開でした。

鎌足桜にはまだ蕾も見られたので、満開はこれからでしょう。

純白大輪の渦桜も満開でした。

出口の北門近くにある兼六園菊桜の由緒書

兼六園菊桜の拡大

今年の造幣局通り抜けは、満開を過ぎたサクラが多く、例年の豪華さに及ばなかったのが残念でした。来年に期待しましょう。



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今日から大阪造幣局の通り抜けが始まりましたので、仕事の合間をみつけて行ってきました。・・・あいかわらず、すごい人出です。

今年は、例年よりも桜の開花が早かったので、造幣局のサトザクラも満開を過ぎた株がかなりありました。・・・今が盛りの普賢象

手前の白い花は、満開の鍾馗という品種です。ここからは、盛りを過ぎた品種を除外して、入り口から見ることのできる今年の満開の桜を順に紹介しましょう。

松月もちょうど満開で、見頃でした。この松月は、造幣局の中にかなりの株があり、この白い大きな花をあちこちで見かけました。

紅玉錦も満開でした。

大輪の松前紅紫も満開ですね。

すこし小型の品種、数珠掛桜をアップで撮ってみました。これも満開です。

花弁が緑色の御衣更も満開ですが、やや盛りを過ぎていたかも知れません。

花弁が小型の菊桜も満開。これもやや盛りをすぎていたようです。

つづく



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