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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



旧日本租界の和平路と交差する福安大街通りを右に曲がると、海河に架かる北安橋(旧日本橋)です。

 

 

海河の左側は、明るい旧イタリア租界、凍結している河の先に、津湾広場という再開発地区の高層ビル群が見えています。

 

 

旧イタリア租界へ渡る橋の欄干には、イタリア彫刻?が置かれていました。

 

 

正面に見える勝利路の左、時計台ビルの後方は旧オーストリア租界、右側がイタリア租界となっていることを見て、ホテルに引き返しました。

 

 

翌朝、天津日航ホテルからタクシーに乗り、旧イタリア租界(46ha)まで運んで貰うと運賃は17元(240円)、中国での移動はタクシーが便利です。

 

 

アジアへ殆ど進出していなかったイタリアは、この天津租界へ国力を集中させ、イギリス、フランスに負けない街造りをしています。

 

 

その中心に、中国所縁のマルコ・ポーロの銅像を置いた広場を造り、その広場を核とした街造りをしているのが特長で、その像は今も見ることができます。

 

 

また、建物はイタリア古典主義のデザインで統一され、鐘楼の付属した建物が多いという特長もあるようです。

 

 

このイタリア租界には、もともと300余棟もの歴史建造物があったようですが、現在は残念ながら133棟に減ってしまっているとか。

 

 

 

天津市は、イタリア政府のサポートを受け、すでに数十棟の外観修復を完了させていて、石畳の道の両側に歴史的なイタリア租界の街並みが復元していました。

 

つづく

 

参考文献:中国・朝鮮における租界の歴史と建築遺産



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第二次アヘン戦争後結ばれた天津条約(1858年)で、キリスト教の布教が認められると、中国内陸部の一般民衆と欧米の宣教師との間の確執や事件が多発するようになります。  

 天津租界のキリスト教会

中国内陸部の自警団は、次第に反キリスト教団体として統合、義和団と呼ぶ強力な武装グループができ、北京の日本公使館書記官やドイツ公使が殺害される事件まで起こっています。  

1900年6月17日、義和団の暴力行為に抗議した日本を含む連合軍は、清国正規軍が守備する大沽砲台(天津から15キロ南)を宣戦布告なしで攻撃、砲台を占領しています。

超高層マンションと租界の教会(右下)



これを知った義和団は、6月17日に天津の英仏米日独5か国租界への攻撃をはじめ、清国正規軍も2日後に租界を砲撃、清朝政府も列強へ「宣戦布告」するなど本格的な戦争状態となったのが義和団事件です。

フランス租界

最初は劣勢だった連合国ですが、6月23日以降ロシア軍を筆頭に各国軍が次々天津租界に入り、29日には福島少将指揮の日本軍が到着、対する中国側の兵力は、2万5千名を数えたようです。 

この下が 福島少将指揮する日本軍が通ったルートかも

天津での戦闘は、兵力に勝る中国側がやや優勢だった6月17日〜7月8日の租界の天津停車場攻防戦と、連合国側が盛り返した7月9日〜14日の天津城攻防戦に区分されています。 

 海河の先が天津停車場辺りか

天津城攻防戦に投じられた連合国の兵力は、1万7千名、最後の激戦となった天津城南門総攻撃の際には、中国側の猛烈な抵抗にあい、近代装備の連合国側の死傷者数が参戦者の1/7に達したと記録されています。 

フランス租界の南京路は、天津城の南門外大街に続いている

 参謀本部の戦史には、中国軍がこれほど勇猛とは、予想外だったと記録され、当時の新聞にも「清兵なかなか強し」という記事が載ったほどです。 

英仏租界の対岸は、義和団戦争後にロシア租界となっています

 

しかし、5年前に日清戦争で勝利した成功体験を持つ日本は、この天津での戦争の教訓をいつしか忘れ、中国兵は弱いという幻想を持ったまま37年後の日中戦争に突入したのです。 

 天津の高層ビル

これからの経済戦争においても、同じ失敗を繰り返さないよう、中国をあなどってはなりません。 

参考文献:義和団戦争と明治国家 小林一美著

対岸はロシア租界 



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フランス租界の夜景の最初は、何度も紹介しました濱江道の突き当たりにあるロマネスク建築様式の西開教会(1916年完成)。

 

 

そこからフランス租界の夜景探訪をスタート、南京路と交差してまっすぐ北東に伸びている濱江道を、西開教会のある南京路の手前から見たところです。

 

 

1キロ以上続く石畳のショッピング街、濱江道をかなり先まで歩いてみました。

 

 

 

濱江道と和平路の交差点辺りには、フランス租界らしいヨーロッパ風のビルが立ち並び、イルミネーションが綺麗です。

 

 

濱江道から左に曲がって和平路(当時は旭街)に入ると、その先は旧日本租界のあった地区です。

  

 

日本租界に近づくと、ビルの高さが低くなり時計台ビルの先には、日本租界にあった中原公司デパート跡のビルも見えてきます。この辺りの夜景もなかなかのものです。

 

 

 

日本租界のメインストリート旭街(和平路)にあった中原公司は、1928年に創業、租界時代1940年に火災に逢っていますが1年後に再建、向かいには天津日日新聞社があったようです。

 

 

日本租界が返還された30数年後、1976年の唐山地震で中原公司ビルは崩壊、その後、百貨大楼という名前のデパートとして再建されています。

百貨大楼と書かれたデパート

 

 

さて、歩いてきた和平路(日本租界時代の旭街)を振り返って見ると、少し寂しい低層のショッピング街となっていましたが、日本租界時代の絵葉書にこれとよく似た風景がありました。

 

 

和平路と交差する旧日本租界のもう一つのメインストリート鞍山道(宮島街)は、もっと寂しい通りとなっていて、賑やかなフランス租界の濱江道と対照的でした。

 

 

つづく

 

参考文献:天津今昔招待席(正、続)田中良平著



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天津には9カ国の租界があったことから、各国は自国の威信を誇示するために街造りを競い合い、1900年代の初め頃には、都市計画オリンピックのようだったと記録されています。

 

今の天津の繁華街、南京路(左は伊勢丹)

  

 

中でも日本租界に隣接するフランスは、租界の中心に直線のメインロード(ル・デ・フランス大通=現在の濱江道)を造り、この通りの南西端には、ランドマークとなるロマネスク建築様式の西開教会(1916年完成)を建設しています。

 

 

 

大通りの両側には、5,6階建のビルが立ち並び、道路に面した洒落たカフェでは、フランス語がとびかい、パリのようであったとも言われています。

 

仏租界の夜景

 

 

 

また、租界中心部にロータリーのある円形広場(現在の中心公園、1922年完成)造り、そこから放射状の道路を配置した近代的な都市計画をしています。

 

 

 

濱江道と交差する和平路には、路面電車が走っていて、その電車に乗ればフランス租界から日本租界へ直接入ることができたといいます。

 

和平路フランス租界の夜景、低層建物の先が日本租界

 

 

 

道路は同じでも日本租界に入ると、両側に店舗兼住宅が立ち並び、建築デザインの変化に乏しく、街としての景観が極端に貧弱となっています。

 

日本租界の夜景

 

 

当時の日本には、住宅のデザインという考えが無く、ルネサンスから500年を経たヨーロッパと比べると、国力が乏しいまま租界を持ってしまったので仕方ありません。

 

日本租界

 

 

 

明治から大正時代の日本人移住者は、天津でひと旗あげ、故郷に錦を飾ることで頭が一杯、建物へのこだわりは無かったのです。

 

英仏租界

 

 

天津に住む富裕層中国人は、都市計画された建物が多く、セキュリティがしっかりしていた英、仏、独、伊の租界を選び住んでいたといいます。

 

仏租界の建物 

 

 

つづく

 

参考文献:天津史 天津地域史研究会



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天津市内を散歩中、いくつかの「日本」を目にしましたので紹介してみましょう。まずは天津日航酒店(ホテル)看板です。

  

 

 

天津の中心、地下鉄「営口道」駅のすぐ南側にあるこの高級専門店ビルと天津日航ホテルは1階で通じています。そのビルと南京路のはす向かいには、伊勢丹デパートがあります。

  

 

 

天津日航酒店からほど近い濱江道の南の終点「国際商場」の1階には、ユニクロの店がありました。

  

 

 

早朝、その濱江道を散歩していると、ドラエモンとミッキーの混血キャラクター人形が置かれていたのでビックリ。

  

 

 

旧フランス租界のメインロード、濱江道を先に進むと、右側のビルの2階に牛丼の吉野家の看板が見えています。

 

 

 フランス租界からイギリス租界にある金融街「解放北路」までくると、重厚な石造建築が軒を並べていますが、その中に、原(元)横浜正金銀行という表示を見つけました。

 

 

 

 横浜正金銀行(かつての東京銀行、今は三菱東京UFJ銀行)天津支店は、ここで営業していましたが、終戦時、内地へ財産を送金しようとした在留邦人の口座は封鎖され、全員が無一文のままの帰国となったようです。

 

 

 その在留邦人が住んでいた日本租界に残る唯一の日本建築が武徳殿(武道館)です。

 

 

 最後は、凍結した海河に架かる北安橋の夜景、この橋は、かつての日本租界とイタリア租界を結んでいて、古い地図には「日本橋」と出ていました。

 

 

つづく

 

参考文献:続天津今昔招待席 田中良平著

 



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1931年(昭和6年)、満州事変(柳条湖事件)が発生、日本軍(関東軍)土肥原賢二大佐(1883~1948年)は、抗日ゲリラを手引きして天津市に攻撃をしかけ、義和団事件以来30年ぶりに日本租界が戦場となったといいます。

 

日本租界の旧宮島街と淡路街の交差点付近

 

 

溥儀(1906~1967年)は、このどさくさにまぎれ、6年間住んだ天津租界を脱出、翌年建国された満州国皇帝への道を歩み始めていますので、天津は満州国の創設にも深く関係していたのです。

 

溥儀が住んでいた静園の入口

  

 

1933年(昭和8年)に日中の停戦協定が成立すると、日本軍の中国への強硬姿勢はさらに強まり、1935年(昭和10年)に天津から中国政府機関が撤退、冀東防共自治政府が設置されています。

 

静園内部の建物(1921年完成)

 

 

この日本軍の傀儡政権は、国民党政府の関税よりも大幅に低い関税を定めたことで、正規の関税を払わない日本商品(密輸品)が天津に殺到、天津日本租界の景気が一挙に跳ね上がったといいます。

 

 

1934年(昭和9年)、7千7百人だった天津の日本人人口は、1936年(昭和11年)に1万人を突破、翌年には1万6千人、以降も増加が続いています。

 

車道も歩道も狭い日本租界の山西路(明石街)

 

 

1939年(昭和14年)には、社員21万人(うち日本人3万5千人)といわれた国策鉄道会社「華北交通」の拠点が天津に置かれたことでさらに多数の日本人が送りこまれ、1940年に5万5千人を超えたといいます。

 

日本租界にあった公衆便所(扉の無いむき出しの大便器にしゃがんだ人の姿が外から丸見え)

 

 

1945年(昭和20年)8月15日まで、日本軍に占領されていた天津に連合軍の空襲や攻撃は無く、日本軍の武力を背景にした在留邦人は、軍関係者を除くと平穏な生活を楽しんでいたようです。

 

日本租界(左)とフランス租界(右)の境界、錦州道

 

 

しかし、終戦の知らせとともに、華北からの日本人引揚者が天津に溢れ、翌年天津在留者も財産を没収され、全員が着の身着のままで日本に送り返されたのです。

 

山西路(日本租界からフランス租界に入ると道路と歩道が広く、清潔な街並みとなります)

 

 

1911年(明治44年)頃から終戦までの34年間、日本軍の武力を背景とした日本租界の黄金時代があり、日本人は欧米列強と対等となったと考えていたようですが、現在天津に残る日本租界の環境は、欧米租界の環境と比べると貧弱そのものなのです。

 

日本租界の入り口にある武徳殿(日本軍によって設計され、1942年に完成した城のような建物)

 

 

現在の日本の住宅事情を欧米と比較するとき、天津租界の状況と酷似しているのではないでしょうか。

 

つづく

 

参考文献:・天津今昔招待席 田中良平著 ・天津史 天津地域史研究会



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天津の中心部は、伊勢丹や天津日航ホテルのある南京路と営口路の交差点(下の写真)だと思いますが、そこにあるビルよりもっと高層のビルが海河沿いに工事中でした。

 

 

ひと際抜き出た高さのビルは、天津空港から天津市内へ向かう高速道路を走る車の中からも、ハッキリと見ることができます。

 

 

空港から市内中心部に入る際に渡る、大光明橋の途中からでもそのタワーはよく見えています。(左端)

 

 

この超高層ビルは、津湾広場に隣接する「津塔」で、高さは336.9m、75階、延床面積33万㎡、今年(2011年)完成するようです。

 早朝の濱江道(旧フランス租界)を歩く途中、正面に見える津塔

 

 

大阪でも日本一の高さとなる超高層ビル(阿倍野橋ターミナルビル)が工事中ですが、こちらは高さ300m、延床面積21万㎡、完成までにあと3年かかるようです。

旧フランス租界にある円形のフランス公園(中心公園)から見た完成近い津塔

 

 

津塔の高さは、北京で1番高いビル(昨年8月完成した中国ワールドトレードセンタータワーⅢ)の高さ330mをかなり意識しているようですね。

旧イギリス租界のビクトリア街(解放北路)から見た津塔

 

 

上海には、既に高さ492mのビルがあり、さらに高さ632mという上海センタータワーの工事もかなり進んでいるようです。

明るくなった濱江道(旧フランス租界)から見える津塔(薄くぼやけているのは黄砂の影響です)

 

 

中国の武漢市では、昨年12月に高さ606mのビルの建設工事がスタートしたと報道されています。

凍結した海河の先に見える夜の津塔(中央やや右)は、まだ工事中のためか、明かりが僅かしか点灯されていませんでした。

 

 

大連市でも昨年11月に高さ518mのビルが着工していますので、津塔の高さ337は、中国では大したことは無いのです。

フランス公園(中心公園)から見た津塔

 

 

つづく



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1894年の日清戦争の後、天津には日本租界(100ha後に124ha)が置かれ、そこに住んでいた日本人は、終戦(1945年)までの間、最大9カ国の租界が併存する国際都市で暮らしていました。

 日本租界の中心道路(鞍山道、旧宮島街)

 

 その殆どが湿地帯であった日本租界は、埋め立ての歴史から始まり、海河に近い北側の土地の埋め立てと道路整備が1908年(明治41年)に完成、翌年にはイギリス租界にあった日本総領事館が日本租界へ移転しています。

 鞍山道(旧宮島街)の暗い夜景

 

 1911年(明治44年)以降、天津から綿花の対日輸出が盛んになり、辛亥革命のどさくさの中、中国人から輸出主導権を奪った三菱商事、三井物産など日本商社の取り扱い金額は、一挙に増加、日系企業が潤ったことで天津に日本人を引き寄せています。

 陝西路(旧須磨街) 

 日本租界への日本からの本格的な移民は、この頃(明治末期)から始まっていますが、彼らは明治の日本の貧しい環境をそのまま天津に持ち込んだので、欧米列強の租界とは全く違う劣悪な環境でも違和感を持たなかったようです。

 

 この状況は、今の天津で見ることができ、元イギリス租界はビジネス街、元フランス租界がショッピング街、元イタリア租界が高級飲食街となっているのに対し、元日本租界は雑然とした街となっているのです。

 フランス租界の中心道路、濱江道(ル・デ・フランス大通) 

 天津地域史研究会の天津史には、環境が悪く比較的規制が緩かった日本租界では、中国の主権の及ばない治外法権を悪用した、阿片の取引をする日本人居留民が大勢いたとありました。

 張園の煉瓦塀 

 第一次大戦の終結後、天津にも反動不況がきますが、不況の続く1925年、日本軍と天津日本総領事館がラストエンペラー溥儀(1906~1967年)を北京から天津日本租界(最初は張園、後に静園)に移しています。

 張園の塀の中にある建物(1916年完成、1937年改修)孫文やラストエンペラー溥儀が一時ここで暮らしていた    

 その静園のすぐ北東側には、1916~20年、1924~26年の2回、北京政府の指導者となった日本寄りの政治家、 祺瑞(1865~1936年)の屋敷も残されていました。

 鞍山道に面した段 祺瑞邸跡

 

 1928年(昭和3年)頃からは、中国に駐留する日本軍の強硬姿勢に反発して中国各地で日本商品ボイコット運動が発生、1929年の世界恐慌もあり天津の居留民は、一時窮乏に陥ったようです。

 

つづく

 

参考文献:天津史 天津地域史研究会



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天津日航ホテルの宿泊料金は、朝食付きで748元(約1万円)、朝食は、7階にあるSpectrum(彩)で頂くことができます。

朝食がつかない設定の場合、ここを利用すると、118元(1700円)の別料金が必要なようです。早朝6時から営業していますが、6時ちょっと過ぎた頃には、客の姿はまばらでした。

パンのコーナー、ここのクロワッサン(最上段)は、なかなかの品質でした。暫くすると食事客がだんだん増えてきましたが、殆んど日本人ビジネスマンのようです。

手前の具材を適当にリクエストして、シェフにオムレツを焼いて貰いました。このレストランには、日本から届いた朝刊(前日のもの)があり、数人のビジネスマンは熱心にそれを読んでいました。

生ものが、氷の上の皿に盛りつけられているのは、日本の一流ホテルでも、お目にかかれない光景でしょう。6時過ぎから朝食を摂り、7時には行動を開始する日本人ビジネスマンには、頭が下がります。

中国らしいセイロ、中には、おなじみの蒸し饅頭や、小龍包などが入っていました。この小龍包は、本場の上海のものと比べると格段に落ちる味でした。

こちらが、メインの料理コーナー、7種類くらいの料理が、蓋のついたステンレス鍋の中に入っています。全部写真に撮っておきましたが、1点だけ紹介しましょう。

広東料理によくあるフライドベジタブル。味は本場広州に比べるとかなり落ちますが、日本には無い珍しい料理なので、少しだけ頂きました。

種類が少ないサラダコーナー、最高気温が零下1度、最低気温が零下15度という天津では、今の季節に生野菜は、貴重品でしょう。

果物コーナー、ここも貧弱な品ぞろえでしたが、今の天津では仕方ありません。朝食が終わった7時になっても外はまだ暗く、8時を回るとやっと明るくなるのが今の天津でした。

 



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北京の南東160キロ(大阪から岡山の距離)にある天津の名前が中国の歴史に登場するには、1404年、明の永楽帝の時代というので中国では比較的あたらしい都市です。

 

天津の中心を流れる海河(凍結してる川の上に人の姿が見えます)

 

 

第二次阿片戦争(1858年)では、英仏連合軍が天津に攻め込み、天津条約が成立しますが、翌年に中国軍が天津の英仏軍を攻撃、1860年再び英仏軍によって天津は占領されてしまいます。

 

旧イギリス租界とフランス租界の境界部分、道路が微妙に曲がっています。

 

 

1860年に成立した北京条約で天津港は外国に開かれ、同年天津イギリス租界が、翌年にはフランス、アメリカ租界が置かれています。

 

旧フランス租界のメインストリート(今の濱江道)

 

 

1894年の日清戦争の後、日本租界、ドイツ租界が置かれ、さらに1900年の義和団事件の後にロシア、ベルギー、イタリア、オーストリアが次々と租界を置き、このころから天津租界は急速に発展しはじめています。

 

雑然としている旧日本租界の中心道路(鞍山道)

 

 

その後アメリカ租界はイギリスと併合され、英、仏、独、日、露、ベルギー、伊、オーストリアの8カ国が天津市内に併存、世界でも例を見ない多国籍租界都市となっています。

 

旧イタリア租界のマルコポーロ広場と道路の石畳

 

 

明治維新から僅か32年で欧米列強と肩を並べた日本は、租界の開発を進め、欧米租界に比べると貧しい街並みでしたが、当時の日本人は気にしなかったようです。

 

旧日本租界

 

 

第一次世界大戦中(1917年)ドイツ、オーストリアが租界を天津市に回収され、1924年にはロシア租界、1931年にはベルギー租界も中国側に回収されています。

 

フランス租界のメインストリート(濱江道)突き当りにある西開教会(1916年、大正5年完成)

 

 

しかし、天津には4カ国の租界が残り、上海に次ぐ中国の大金融市場として、イギリス租界のビクトリア街は、「華北のウオール街」と呼ばれていたほどです。

 

ビクトリア街(今は解放北路)

 

 

1941年12月、日米開戦と同時に日本軍がイギリス租界を接収、残ったフランス租界と日本租界が1943年(昭和18年)中国政府に返却され、天津租界は歴史から消滅するのですが、実質的には日本軍による支配が1945年の終戦まで続いています。

 

西開教会の夜景

 

 

国共内戦を経た1949年、天津は中国の直轄市となり、今では人口1176万人(2008年)という巨大都市となっています。

 

つづく

 

参考文献:天津史 天津地域史研究会

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天津での宿泊は、正面の超高層ビルのすぐ右隣にある22階建てのビル、天津日航ホテルです。画面が霞んでいるのは黄砂の影響でしょう。

2007年に開業した天津日航ホテルの客室数は、373室 、このビルの6階から22 までがホテル階のようです。

地下鉄の営口道駅に直結していて1階エントランスの隣は高級ショッピングゾーン、日系デパート「伊勢丹」が道路のはす向かいにありました。

ホテルのフロントは7階にあり、フロントにいた女性スタッフに日本語が通じなかったので、英語でチェックイン手続きをすると、1泊朝食付きで748元(約1万円)と説明されたました。

宿泊したツインの客室は、面積が37㎡、このくらいあると、かなりゆったりとしていますが、外が零下15度にもなる天津だけに、部屋がカラカラに乾燥していました。

窓際から客室の入り口方向、右の窓の向こうは、浴室と洗面、トイレです。気温25度に設定された室内は、あまりに乾燥していたので、浴槽にお湯を入れたままにしておきました。

浴室には、日系ホテル特有の深いバスタブがあり、肩まで浸かってゆっくり暖まることができました。この浴槽にお湯を入れたままにしておいたのですが、あまり効果はなかったようです。

トイレには、日本では常識となっているウオッシュレットが無く、そのブースに扉がありません。室内が無茶苦茶乾燥していたので、洗面台で洗濯した下着が、あっという間に乾きました。

客室の窓から見た天津の朝、黄砂で霞んでいましたが、10年前に建てられた高さ415mもあるテレビ塔が中央左側に見えています。こちらは古い市街地で、新しいビジネス街には超高層ビルが結構立ち並んでいました。



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天津行きのJAL841便は、定刻の9時35分にキャセイ航空、シンガポール航空の横から離れ、離陸に向かって動き始めました。

途中、機体にドリームリフターと書かれた珍しい超大型機が見えました。

この飛行機は、容積が元の3倍になるようボーイング747を改造、日本で製造したボーイング787の主翼や胴体などのパーツを積んで、シアトルの工場まで輸送する専用機とか。

さて、滑走路前で一時待機し、JAL機の着陸を待ち、すぐに離陸です。

離陸後見える四日市市付近、外の景色はすぐに見えなくなるので、機内の映画プログラムの中から「ウオールストリート」を選んで見ることにしました。

この映画は、23年前の1987年に公開された「ウオール街」の続編で、主役のマイケルダグラスが刑務所から出獄したあとの物語。日本公開は2月4日なので、映画館では未だ見ることができません。

映画を見ながら美味しく頂いた機内食

マイケルダグラスが素晴らしい演技を見せてくれた130分の映画が終わると、天津空港に向けて高度が下がり、陸地に塩田のような景色が見えはじめます。

海(渤海湾)から天津空港までは35キロ、天津空港から天津市中心まで15キロ、渤海湾に面している天津港から天津市内までは、直線で50キロも離れているので天津市は広い。(日本の岐阜県と同じ広さとか)

下に見えている川(天津市内に通じている海河?)は、水面が凍結しているようです。天津が欧米列強に支配されていた時代には、列強が共同砕氷船を使って冬季の航路を確保していたとか。

次回からは、いよいよ天津市内の紹介です。

 



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出発2時間半前、JALカウンターで、早めにチェックインし、窓側の席を確保、セキュリティチェックと出国審査を経て、搭乗ロビーに向かいます。

関空ほどではありませんがセントレア空港でも、ブランドショップや免税店の派手な看板が軒を並べています。

スカイデッキの下に当たる3階の搭乗ロビーの案内図、縁起の悪い13番は使っていないようです。

19-24番搭乗口への通路、この右側、下の階にビジネスクラスのラウンジがありましたが、今回はエコノミークラスなので入れません。

12-16番搭乗口への明るい通路、中央には動く歩道がありました。

12-16番通路の窓からは、19-24番の搭乗口に横付けされた大型の飛行機が良く見えます。

天津行きのJAL841便、ボーイング737-800、全長39,5m、144人乗です。

搭乗口の真上にあるスカイデッキから見たJAL841便です。

 

隣のキャセイパシフィック航空機(A330-300、全長63,6m、295人乗)と比べると、JAL機はかなり小さいですね。

さて、いよいよ中国、天津に向けて出発です。 



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今回の天津旅行では、中部国際空港を早朝に出発するため、空港に直結しているセントレアホテルに1泊することにしました。正面が名鉄の駅、ホテル玄関から空港ビルまでは約120mくらい。

ホテルの玄関を入ると、右側がレストランです。

フロント(右)からホテル玄関方向、なかなかモダンなデザイン

シングルルームの客室、ベッドの幅は、何と140cmもあります。

テレビと浴室、浴室にも窓がある、ビューバスとなっていました。

部屋の窓から外の眺め

浴槽は広くはありませんが、肩まで浸かることができる深さがあり、家庭の風呂のように洗い場があるのが特長です。

浴室入り口にある簡素な洗面台と、このクラスでは常識となったウオッシュレット付きトイレ

部屋の窓側から入り口側方向、シングルルームとしては十分な広さがあります。

 深い浴槽で疲れを取り、広いベッドでぐっすりと寝ることができました。



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セントレア空港は、飛行機への搭乗ゲートの屋上がスカイデッキという展望ゾーンとなっています。

スカイデッキの左側は、国際線、右側が国内線搭乗ゲートです。香港行きのキャセイパシフィック航空機

国際線搭乗口、手前からバンコク行きのタイ国際航空機、アブダビ行きのエディハド航空機、一番奥がホノルル行きのデルタ航空機でしょう。

エディハド航空は、アラブ首長国連合のフラグシップキャリアで、そのファーストクラスが映画セックスアンドザシティで紹介されていました。

スカイデッキの先端まで歩けば、離着陸する飛行機をじっくりと見学することができます。

セントレア空港での日本航空は、全般的に小型の機材を使っていて、大型の外国機の間をチョロチョロ動いている姿が痛ましい。

堂々としたシンガポール航空機

こちらは、国内線側の搭乗口、ずらりと全日空機が駐機していました。

右下が天津行きの日本航空ボーイング737-800型機(全長39,5m、幅35,8m、速度829km/h、航続距離4400km、ビジネス12席、エコノミー132席)、牽引されているのはベトナム航空機。



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