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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



ヴォーリズの建築設計会社が設計した建物は、戦前だけで1600件以上といわれ大阪市内にもいくつかが現存しているようである。



大阪市西区の土佐堀通りから少し南に入ったところにある日本基督教団大阪教会も1922年(大正11年)に竣工したロマネスク様式の教会堂である。



狭い全面道路の反対側から見ると、煉瓦外壁の正面にバラ窓を配置する礼拝堂があり、正面の左下には1921年9月と書かれた隅之首石が嵌め込まれていた。



大阪教会は、阪神・淡路大震災で半壊したが、半年後に復興し登録文化財制度発足と同時に国の有形文化財に登録されている。



心斎橋の大丸百貨店本店もヴォーリズの設計建物で、となりの「そごう」が2005年秋に新装改築された横で、70年以上の歴史を誇示している。



建物には随所にアールデコのデザインが使われていて、当時40代のヴォーリズが相当力を入れて設計したものであることが伺える。



心斎橋通り側の入り口にある孔雀のレリーフが美しいが、このアーチのデザインは旧八幡郵便局の入り口の形とソックリであった。



さてヴォーリズは1941年1月、日本に帰化することを選択し、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名して日米開戦後も近江八幡に留まることを選んでいる。

終戦直後の1945年9月、天皇を戦争犯罪者としないようにマッカーサーに伝えてほしいとの近衛元首相の使者が来たことがあったという。

大阪教会の内部



ヴォーリズは旧知のバートレット将軍と会って近衛のメッセージと自分の意見を伝え、結果的に昭和天皇の戦争責任追求が回避されたという秘話が残されている。

戦後も続いたヴォーリズの事業は、収益を目的としたものではなく、キリスト的生活を徹底的に実践することを目指して運営されていた。

大阪教会のステンドグラス



そういう中でヴォーリズはくも膜下出血で倒れたが、近江療養所に入るようにという医師団の勧めを、助かるかもしれない人のベッドを使うことになると断っている。

病院の創設者でオーナーが病に侵された時、他の人を優先して欲しいと言って自らの病院に入るのを断る凄い博愛精神を持った人がかつて近江八幡にいたのである。

近江八幡にあるヴォーリズの質素な自宅(現在はヴォーリズ記念館)



1964年に亡くなるまで7年間も自宅で療養を続けたヴォーリズの活動は、ヴォーリズ記念病院、株式会社近江兄弟社、近江兄弟社学園、一粒社ヴォーリズ建築事務所など、近江兄弟社グループとして現在も発展を続けている。


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昨日、靱公園の桜の開花状況を見てきたので、今朝は早く出勤して淀屋橋で下り、中之島公園の桜を見ることにした。



ところが、府立図書館の前にオオシマザクラが1本あるだけで、中央公会堂、さらにバラ公園まで歩いてみても桜の木が全然見当たらない。



仕方がないので中之島の北側を御堂筋まで引き返えすと、市役所北側の堂島川の川沿いに幹の太さ5センチ、高さ3mくらいのソメイヨシノが植えられていて、チラホラ咲いている木もあった。



御堂筋まで出て中之島遊歩道を眺めてみたが、ここにも桜の木はなさそうである。



そのまま淀屋橋を渡ると、橋の南西に桜の木が1本あり、2分咲きくらいの花をつけていたが、この散歩で中之島には桜の木が殆ど無いことが良くわかった。



本町まで戻る途中、御霊神社に立ち寄ると鳥居の南に2分咲きのソメイヨシノがあったが、御堂筋界隈ではなかなかお目にかかれない貴重な桜であった。



会社の昼休にも難波神社まで散歩してみると、境内の奥にある白いオオシマザクラが7分咲き、手前のソメイヨシノは2分咲き、西の鳥居に近い八重桜が2輪だけ咲いていた。



難波神社を出て南御堂の南の道路を歩いていたら、石垣の中にピッタリと石地蔵がはめ込まれているのに気が付いた。



この石垣は、江戸時代に大阪城の石垣を移してできたものといわれているので、恐らくその頃から今の場所にはめ込まれていたのであろう。

難波神社の八重桜



その南御堂の石垣沿いに歩いて坐摩神社に立ち寄ると、この神社には桜の木が1本も無かったのである。

難波神社の花桃



仕方が無いので昨日立ち寄った靱公園まで足を伸ばし、桜の状態を見てみると昨日よりも大分開花が進んでいて、木によっては7分くらいまで咲いているものがあった。



昨日の夜の雨で桜の下はかなり濡れていたが、今晩くらいから花見は十分できそうである。

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昼休みに北御堂の前を通りかかると、「クラシックへの誘い」というポスターが出ていて、12時25分から無料ピアノコンサートがあるらしい。



開演時間まで少し時間があったので、近くの靱公園まで桜の開花の様子を見に足を伸ばしてみることにした。



大阪のセントラルパークとも言える靱公園は、まさにビジネス街のオアシスであり、近くのサラリーマンやOLの昼の憩いの場所である。



その靱公園のバラは、毎年5月頃に見事な花を咲かせるが、今はバラの木の剪定が済んだばかりの状態で、花が満開になるまでにはあと2月くらいかかりそうである。



この公園には楠木やケヤキの大木が多く桜の木は意外と少ないが、公園の中央に1本だけある枝垂桜は小ぶりなピンクの花が7分咲きであった。



広い公園の北東部分にだけソメイヨシノが20本くらいまとまった場所があるが、まだ2分咲きくらいであろうか、それでも桜の下には場所取りのブルーシートが隙間無く敷かれていた。



シートには会社名と使用期間が表示され、これから場所取りに来ても桜の木の下にはシートを敷く場所は全く残っていないほどである。



さて、コンサートの時間が近づいてきたので靱公園を出て北御堂まで戻り、会場の本堂への高い石段を上る。

靱公園のソメイヨシノは2分咲き



金ぴかの仏壇がまばゆい本堂の中には、椅子が200席くらい用意してあり客は6分くらいの入りであろうか。



座席はフリーだったので、ピアニストの指がよく見える最前列に近い場所に座って待つことにした。



暫くして赤いドレスで登場したピアニストの平松春奈さんは、北御堂とおなじ浄土真宗系列の相愛大学音楽学部ピアノ専攻を卒業しており、第11回堺ピアノコンクールE部門金賞受賞者という。



シューマンの「献呈」とリストの「スペイン狂奏曲」を20分間演奏してくれたが、さすがに指の動きが滑らかで素晴らしい。

靱公園の今日のさくら



桜の開花と大都会の大寺院ならではの無料コンサートで、すっかりリフレッシュできたので昼からの仕事もがんばろうと決意して会場を後にしたのである。


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ある休日、JR大阪駅からの新快速電車に乗って1時間の場所にある滋賀県近江八幡市まで出かけ、近江八幡市の名誉市民であったヴォーリズ(1880~1964年)の足跡を尋ねてみた。

近江八幡の街並み



ヴォーリズは、1904年にコロラド大学哲学科を卒業、外国伝道に身を捧げる決意をして1905年2月近江八幡にあった滋賀県立商業学校(八幡商業と改称されたのは1908年以降)英語教師として赴任している。

従って、ヴォーリズは神学科を終了した宣教師ではなく、英語教師の立場で来日したキリスト教伝道士であった。

現在の八幡商業高校(1940年にヴォーリズの設計で完成)



商業学校での英語授業の傍らに、自宅でバイブルクラスという新約聖書の研究会をはじめたところ、2ヶ月後の新学期には160名の生徒が参加したという。

ヴォーリズの人徳か、秋には商業学校の全校生徒の三分の二がバイブルクラスに 入ったことから滋賀県の仏教関係者の反発を招き、1907年には商業学校教師の職を解雇されてしまっている。

現在の近江兄弟社学園幼稚園、小学校



ヴォーリズは解雇されても最初に赴任した近江八幡に留まり、細々と英語教師をしながらキリスト教の伝道活動を続けている。

今の近江八幡



1909年、大学時代に建築家になるつもりでいたヴォーリズは、京都YMCA会館の建築工事の仕事を頼まれたことをキッカケに翌年、建築設計の合名会社(後の一粒社ヴォーリズ建築事務所)を創立したという。

1913年完成の現在の京都YMCA会館



この後ヴォーリズが1925年までに設計した建物は426棟、会社設立32年後の1942年には延べ1600棟に及んでいるというから年間平均50件もの設計をしていたことになる。

ヴォーリズが設計し1921年完成した旧近江八幡郵便局



1913年、病気療養のためにアメリカに一時帰国したヴォーリズは、伝道活動の後援者であったカンザス州の製薬会社社長ハイド氏を訪ね、同社の製品であるメンソレータムの日本での代理販売権を譲られている。

ヴォーリズは当初メンソレータムの販売に熱心ではなかったが、1921頃から販売を強化したところ爆発的に売れ出し、1931年には製造工場(後の株式会社近江兄弟社)を設立している。

現在の本社(旧メンソレータムは現在メンタームとなっている)



1918年、ヴォーリズは建築設計の利益をすべてつぎ込んで「近江療養院」(後のヴォーリズ記念病院)を設立しているが、当時不治の病といわれた結核の療養所としては当時日本で最先端の病院であったという。

翌年ヴォーリズは、一柳子爵家の住宅を設計した縁でアメリカに8年間の留学経験のある一柳満喜子と結婚し、満喜子は近江八幡で保育の仕事を始めている。

1931年完成後にヴォーリズと満喜子が住んだ現ヴォーリズ記念館



その満喜子の仕事は、幼稚園から高等学校にまで及ぶ学校法人「近江兄弟社学園」に発展している。

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ある休日、JR大阪駅からの新快速電車に乗って1時間の場所にある滋賀県近江八幡市まで出かけ、江戸の情緒の残る近江八幡を散策してみた。



旧八幡郵便局の隣には、1717年(享保2年)に創業した西勝酒造の酒蔵として使われてきたという雰囲気の良い酒游舘という建物があった。



中に入ると、1階の奥にはコンサート、個展などに利用されているという常設展示ギャラリーがあり、入り口の左側には銘酒や滋賀の郷土料理が楽しめるレストランがある。

ギャラリー



酒游舘の説明書きによれば、「大自然の恵みの『米』を仕込んで醗酵させ、酒を造るという行為は、まさに神秘であり、太古は酒を飲むことは神と一体になること」とあるではないか。

そこでぜひ神と一体になる体験がしたいと思い、唎酒セットを注文してみると唎猪口に入った5種類の酒が出てきた。

唎酒のできる店内



付いてきた冊子には唎猪口(キキジョク)は、中の蛇の目模様で酒の色、光沢を見て、さらに器に鼻をつけて香りを判定するもので、プロは中身を飲み下さないと書いてあるではないか。

しかし、続きを読むと唎酒の点数が少ない場合にはプロでも酒を飲み下し、「のどごし」の判定をすると書いてあったので、今回は安心して「のどごし」の判定に挑戦してみることにしたのである。

酒游舘の隣は旧八幡郵便局



左から吟醸酒「さやかうた」日本酒度+5、本醸造「湖東富寿(ことぶき)」日本酒度+3、原酒「鬼ころがし」日本酒度+16、純米酒「ハートランド」日本酒度+3、貴醸酒「湖東富寿オールド」日本酒度―45の順に並べてあった。



但し「湖東富寿オールド」だけは、仕込み水の代わりに清酒を使い、さらに3年以上寝かせておいたために琥珀色をしていて、これだけはグラスに入っているので別格扱いであろう。

まず別格の「湖東富寿オールド」から唎酒をスタートすると、アルコール分17,2%という度数の高さからか甘口の薄いウイスキー?のような変わった味わいである。

湖東富寿の古い看板



次に左から順に猪口を取り上げ、蛇の目模様で酒の色、光沢を見て、器に鼻をつけて香りを嗅ぎ、飲み込んで「のどごし」を判定することにした。

結論から言うと、酒の色、光沢、香りの差は全くわからないが、酒の味には微妙な差があり、精米歩合55%以下という「さやかうた」の吟醸酒特有の旨さは、他の酒よりも上であると思った。

ギャラリーの奥から入り口を見る



4合(720ml)ビンの値段を調べてみると、やはり別格の「湖東富寿オールド」が3100円で最も高価、「さやかうた」が2550円、それ以外は1200円前後ということなので、酒の旨さも値段通りの結果であった。

西勝酒造の酒の原料は滋賀県産の米、仕込み水は鈴鹿山系から湧出する伏流水(中硬水)というので安心して楽しめる酒のようである。


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昼休みに地下鉄で梅田まで出て、近松門左衛門の「曽根崎心中」で有名なお初天神(露天神社)まで散歩してきた。



大阪のキタ(梅田地区)を代表する繁華街曽根崎には、お初天神の名前にちなんだ通りがあり、北門の近くはサラリーマンのストレス解消のための飲食店で一杯なのである。

北門



北門から境内に入ってみると、狭い敷地に社殿がぎっしりと詰め込まれているようである。



露天神社(お初天神)の拝殿の前には2本の石柱があり、右側の1本には戦時中の米軍機による機銃掃射の弾痕が残っているので、大阪のこの辺りでも戦争の犠牲者が多数いたのであろう。



社伝によると、大阪湾に浮かぶ小島の一つであった現在の地に、「住吉須牟地曽根ノ神」を祀ったと伝えられており、「難波八十島祭」旧跡の一社である。

東門の外は飲み屋街



創建年代は定かではないが「難波八十島祭」が西暦850年にまで遡ることから、起源もその頃と推察されているので、1100年以上の歴史があるようである。

901年1月、55歳の菅原道真が大宰府に左遷される途中立ち寄り、「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば」と詠んだという。

南門



道真は2年後に亡くなるが、16年後の919年に大宰府にある道真の墓の上に建立された社殿が天満宮の始まりという。

その後、道真を慰霊するため947年に京都北野天満宮、949年に大阪天満宮が創設されているので、曽根崎の神社も「露天神社」と社名を変えたのであろう。

西門



1096年に描かれた「浪華の古図」に所在が記されているので、900年以上前には確実に存在していたので、かなり歴史のある神社である。

江戸時代、1703年に境内で実際にあった心中事件を題材として、近松門左衛門が人形浄瑠璃「曽根崎心中」を書き、そのヒロインであるお初の名前から「お初天神」とも呼ばれるようになったという。



心中後300年を経た2003年に、お初と徳兵衛の慰霊像が建立されていたが、今頃になって心中を記念した銅像を建てられた二人は、天国で恥ずかしい思いをしているのではなかろうか。


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今年のアカデミー長編アニメ映画賞では、本命といわれていたピクサー作品「カーズ」を破ってオスカーを受賞したミュージカル仕立てのアニメ「ハッピーフィート」(幸せの足?)を見てきた。



ネットで取ったVITチケットで「TOHOシネマズなんば」に入場し、少し狭い3番スクリーンの最後部の席に着くと、場内はやはり子供連れが多い。



しかしこの作品は、アメリカで公開された際に同時公開の「007 カジノ・ロワイヤル」を抑え、興行収入ランキングで3週連続全米1位になっているので子供向けとあなどってはいけないのである。



南極大陸に暮らす皇帝ペンギンたちは、“心の歌”で相手に求愛をしなくてはいけないが、歌をうまく歌えない音痴の「マンブル」がどうしてその障害を乗り越えるかという物語である。



音痴のマンブルは、生まれつき得意のタップ・ダンス(幸せの足)で愛の心を届けるのであるが、強引にこじつけたり、一挙に次の場面に飛んでしまったりとストーリー展開にはかなり無理があると思った。



しかし所詮アニメなので、ミュージカルと同じようにストーリーよりも歌を楽しんだり、最新技術を駆使した迫力あるCGの映像を楽しむものと割り切って見るのが正解であろう。



ダンスシーンは、実際のダンサー達に踊らせ、モーションキャプチャーでその動きを取り込む手法をとっているので、ペンギンの動きが自然で素直に感情移入できるのが素晴らしい。



特に主人公・マンブルのダンスシーンは、タップの神様と言われているセヴィアン・グローバーが演じているという。

ペンギンたちのホワホワした毛並みまで見事に再現した精巧なCGと、日本語吹き替え版でも十分に楽しめるボイスキャストの歌声が素晴らしい。



特に「マンブル」のダンスに惚れて同行する5羽のアデリーペンギン「アミーゴス」が歌うラップ調の「マイウエイ」は鳥肌が立つほどである。



これらの歌や、南極の嵐などの効果音は、迫力のある最新ディジタル音響システムによって見事に再現されていて、氷山の崩壊シーンでは会場全体が実際に振動するので凄い。



映画はどこの劇場で見ても同じ値段なので、最新の音響システムを持った映画館で見るのが正解であろう。



帰りにはいつものようにロールケーキを買って帰ることにしたが、今回は重要建築物の新井ビルに本店があるパティストリー・ド・サムライ「五感」のケーキとした。



このケーキは意外と安いが、値段の割には健闘していて、高価なC3のケーキよりも格段に旨かったのである。




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朝目覚めると、朝日に輝く景色がすがすがしく、小型の連絡船がひっきりなしに窓の下の海を往復しているので、島と島の交通の利便性は良いようである。



7時からの朝食も海を見ながら食べる炊きたてのごはんが美味しく、久しぶりにしっかりとした朝食を取ることとなった。



この日は海士町にある観光地を見て周ったが、特に保々見地区にある環境省選定「日本名水百選」に選ばれている「天川の水」という場所が印象的であった。



地元では不動さんの水とも呼ばれているように、水源地には石の不動明王像が設置され、苔むした光背に1816年(文化13年)2月の文字を読み取ることができる。



又、水源地の周囲に置かれた石塔も江戸期の文化年間に設置されたものが多く、今から200年くらい前に大きな改修工事があったようである。



地元の伝説によれば天平時代に行基(668~749年)が隠岐行脚の途中、当地でこの湧き水を見て名づけたというので1300年の伝統を持っていることとなる。



現在も1日400トンを越える湧水量があり、この地区135世帯に簡易水道として供給されていて、長寿で有名な隠岐の住民の健康の源になっているようである。

ホテルロビー



早速飲んでみたが癖の無い旨い水で、大阪にはたった1箇所しかない水無瀬の「離宮の水」よりもさらに旨いと思ったのは、水無瀬離宮の歴史がわずか800年しかないからというよりも周囲の環境汚染の進行によるのではと思われる。

先日訪問した水無瀬の「離宮の水」



海士町の人口は、明治時代6700人という記録があることから江戸時代の海士町人口は5~6千人前後と想定されるが、現在は2500人まで減少しているので周囲の環境は行基が行脚した1300年前と殆ど変わっていないようなのである。

海士町菱浦港



「日本名水百選」に選ばれた名水も殆どが人口の増加によって水脈の環境汚染が進んでいるようであるが、天川の水だけは例外的な名水であった。



島根県に2箇所(隠岐国道後にあと1箇所)しかない「日本名水百選」に選ばれているこの水は、隠岐で生産される「承久の宴」という銘酒の醸造に使われていて好評という。



夕方5時頃に「マリンポートホテル海士」にチェックインし、風呂に入ってからレストランに行くと夕食は昨日のメニューとはまったく違う内容に変わっていて、同じものを食べないで済むようになっていた。



翌朝のメニューも前日の朝のメニューとは違ったものとなっていたので、美味しく頂き、お土産に隠岐名物の「さざえカレー」を買っておく。



大阪への帰りは高速船レインボーに乗って帰ることにしたので、朝日の中を入港してくるレインボーを写真に撮っておいた。



米子で吾左衛門弁当を買ってバスに乗り込み、大山を車窓から見ながらゆっくりと食事をするのも旅行の醍醐味である。




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春分の日の休みを利用して、大阪から日本交通バスで米子を経由して境港線に乗り換え、ゲゲゲの鬼太郎で有名になった境港駅で降りる。



隠岐行きの船の出発には少し時間があったので、ターミナルビル「みなとさかい交流館」4階にある「さかいポートサウナ」の風呂入って寛ぐことにした。

ガラス窓の向こうに境水道を一望できる浴槽にはジェットバス、バイブラバスがあり、洗い場にはサウナも付いていて快適である。

窓から見えるフェリー



ほどなく隠岐行きのフェリーの出発時間となったのでフェリーに乗り込み、3時間少しで隠岐「島前(どうぜん)」西の島にある別府港に到着である。



別府港からは小さな連絡船に乗り換えて中の島の菱浦港まで渡る途中、夕日に輝く「国立公園隠岐」の海と島の眺めが素晴らしい。



菱浦港到着の直前には、海上から今回利用する「マリンポートホテル海士」の全景が良く見えた。



菱浦港の船着場からホテルまでは、徒歩で3,4分くらいであろうか、すぐにチェックインを済ませて部屋に入ると、バスとウオッシュレット便座トイレが付いている広い清潔な洋室ツインルームであった。



部屋は勿論オーシャンビューで、窓の外にある展望用のベランダに出るとさらに広い視野で海と対岸の「西の島」を展望できるようになっていた。



丁度高速船「レインボ-」が入港してきたので写真に撮っておいたが、ホテルの窓から見ると水中翼船ということが良くわかる。



下の階にある隠岐で唯一の天然温泉、「承久の湯」の広い浴槽に入ると、巨大な窓から海の向こうの「西の島」の稜線に沈む夕日が見えて素敵である。



ホテルのレストランも、大きな窓から海を眺めながら食事を楽しめるようになっていて、国立公園の大自然に抱かれながら食事を始めると、徐々に心が癒されてゆくのが良くわかる。



料理10品と味噌汁、漬物、ご飯、フルーツという献立で、隠岐の海の幸をたっぷりと堪能することができたが、これで1泊2食の料金が1人9千円とは安い!!



食事の後でもう一度温泉に入って寝ることにしたが、騒音が全く無い隠岐の静寂の中で心地よい癒しの睡眠をとることができたのである。

ROSSの評価 (☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆☆☆☆
部屋     ☆☆☆☆☆
サービス   ☆☆☆☆
食事の味   ☆☆☆☆☆
ボリューム  ☆☆☆☆☆
値段     ☆☆☆☆☆
トイレ    ☆☆☆☆
大浴場    ☆☆☆☆

総合評価   ☆☆☆☆☆(1月に宿泊したホテル川久よりも上)


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1028年に関東で起こった平忠常の乱への追討使には鎌倉を本拠とする桓武平氏の平直方が派遣されたが、乱は長期戦になり鎮定が進まなかったという。

今の源氏の故郷(通法寺から壺井八幡宮への道)



1030年になって朝廷は、源頼信を追討使に任命し派遣したところ、ほどなく平忠常の乱は平定されている。

このとき42歳になっていた頼義(988~1075年)も同行していたようで、前任の平直方は、頼義の人物に感服し願い出て娘を娶わせている。

源氏の本拠(壺井八幡宮)のある丘への石段



頼義も名門の直方の武勇をよく知っており、その娘と自分との間にできた子なら剛の者が生まれるだろうと思い娶ったという話が残っている。

二人の間に生まれた義家(1039~1106年)は、石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と呼ばれるようになるが、頼義が50歳を超えてから出来た子供である。

石清水八幡宮拝殿



このとき以来、平直方をトップとする関東の武士たちは源頼義と主従関係を結ぶようになり、東国武士団の棟梁は頼義以降の河内源氏となったようである。

壺井八幡宮本殿



ちなみに平直方の系統は、鎌倉幕府の執権職となる北条家に続き、北条時政は娘の政子を嫁がせていた頼朝の旗揚げにいち早く駆けつけている。

その後1051~1062年、奥州での「前九年の役」では頼義と義家親子、1083~1087年の「後三年の役」では義家と義光兄弟が関東武士団を率いて乱を平定している。

源氏3代を祀る壺井権現本殿



この平定以降、頼義、義家と一緒に戦った家臣団は関東に残り、100年後に義家の4代後の頼朝(1147~1199年)が平家に対抗して挙兵したときに、源氏家臣団の子孫が武家の棟梁の下に終結したのである。

ちなみに後三年の役で顔に矢を受けても戦った鎌倉景正は、頼朝の旗揚げに参加した梶原景時の祖先という。

壺井権現の扁額



鎌倉幕府を開いた頼朝の先祖は、関東武士という印象があるが、実は大阪府の南東部にその本籍地を持ち、頼信、頼義、義光の三代の墓は現在も羽曳野市の壺井にあるのである。

頼義の墓(通法寺址にある)



1159年の平治の乱で勝利を収めた平清盛(1118~1181年)は、1160年に参議に任命されたことを足がかりに、軍事力を背景にして次第に昇進し平氏政権を打ち立てている。

1180年、奢る平家打倒の最初の挙兵をしたのは、源頼政(1104~1180年)、嫡子源仲綱、源宗綱、源兼綱らの摂津源氏で、平家軍と宇治で戦い戦死したという。

頼信の墓は通法寺から少し離れたブドウ栽培のビニールハウス前



しかし頼政の末子の源広綱や、仲綱の子の源有綱は知行国の伊豆国にいたため生き残り、伊豆で挙兵した源頼朝の幕下に参加したのである。

頼信の墓の傍にある将軍綱吉に仕えた大僧正隆光の墓



1183年、摂津源氏の嫡流多田行綱も平家に対して挙兵し、木曽義仲に味方したあと義経軍に加わり活躍したが、義経の都落ちと共に頼朝によって追放され多田の所領を没収されている。


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八幡太郎義家の墓地のある丘から急な斜面を下ると、通法寺児童公園の広場があったが、ブドウの栽培ハウスの前にひっそりとある黒い石碑は「源氏の館跡」を示す石碑であった。



従って、まさにこの地が、頼信、頼義の本拠であり八幡太郎義家、加茂次郎義綱、新羅三郎義光等が誕生した場所であった。



通法寺は、1034年に頼信が小堂を建て、頼義も帰依したことから河内源氏の菩提寺となり源氏の隆盛と共に栄えていたが、南北朝時代に、戦火により焼失している。

鐘楼址



江戸時代になって新羅三郎義光の子孫という柳沢吉保らが普請奉行となり再興されたが、明治時代に廃仏毀釈により現在のような山門,鐘楼などを残すのみの廃寺となってしまったという。



従って、前のブログにも書いた義家の墓地にあった墓石は、元禄期の再興以来明治の廃寺までの住職のものであろう。



通法寺址の山門を入ったすぐ先には義家の父親である頼義の墓があり、石灯篭には1701年(元禄14年)松平(柳沢)吉保と書かれた文字が刻印されている。



頼信の創建から670年を経た後に建立された灯篭であるが、その建立から現在までは半分以下の300年しか経っていないことになる。



1051年奥州に安倍氏の反乱がおこり、永く鎮圧できなかったために頼義に追討使の勅命が下り、頼義は鎮守府将軍となって赴任することになった。

出陣に際し、石清水八幡宮に詣で戦勝を祈願して出陣し、12年3ヶ月もの長期に渡る戦いの末に1062年反乱した阿部氏と清原氏を平定している。

壺井八幡宮の1の鳥居



頼義が凱旋した1064年に社殿を建立し、石清水八幡宮の神霊(応神天皇・仲哀天皇・神功皇后)を遷して祀ったのが、壺井八幡宮である。



壺井八幡宮の祭神を源頼信、頼義、義家の三代と紹介する記事が多いが、この3人を祀るのは、すぐ西側にある壺井権現社である。



壺井八幡宮と壺井権現社は、多田神社と同じ源氏にゆかりの神社として元禄期に綱吉による社殿の修復があったようで、壺井権現社の前にある石燈篭は、神社再建時の最高責任者柳沢吉保が寄進したものである。

右が八幡宮、左が権現社



1701年(元禄14年)建立の年月と松平吉保とあったので、通法寺の頼義の墓の前にあった燈篭と同じ時期に設置されていた。



境内に上がる石段の前には史跡「壺井の清泉」(頼義が奥州から持ち帰った清水を入れた壷を井戸の底に埋めたもの)があったが、今では井戸の水は汚れていて使われていないようである。




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満仲の3男、頼信は52歳となった1020年に河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とし、河内源氏の祖となっているが、この土地は恐らく母方の藤原大納言家にゆかりのある場所であろう。



地図で調べてみると壺井庄は、大坂と奈良を結ぶ竹内街道のすぐ西にある交通の要衝で、西には肥沃な河内平野を有しており、多田庄よりもはるかに豊かな土地であることがわかる。



淀川の東、現在の交野市、四条畷市、門真市、寝屋川市から、大阪市東部地区、東大阪市、八尾市、藤井寺市、柏原市、羽曳野市、富田林市などを含む河内国は、古代から開けた肥沃な土地であったようである。

壺井地区から見た河内平野



頼信は、本拠地を移した27年後1047年になって河内守に叙任されているので、河内国石川郡壷井庄から河内を支配して後に奥州の乱を平定する経済力を蓄えたのであろう。

壺井絵図



頼信の嫡子である頼義(988~1075年)は、22歳で父親と一緒に本拠地の河内に移ってきて、この地で長子八幡太郎義家、加茂次郎義綱、新羅三郎義光等が誕生している。

1043年、初代頼信は壺井に通法寺を建立しているが、5年後に74才で亡くなり、通法寺の巽の方向にある小高い丘に葬られている。



現在は、近鉄長野線喜志駅からバスで東に10分、そこから北に歩いて15分のブドウのビニールハウスの中の小道をたどって頼信の墓まで行くことができる。

河内ワインの原料となるブドウのハウス



頼信の墓地は、丘の頂上の狭い場所に直径10mくらいある円形の古墳のような形をしており、すぐそばに将軍綱吉の学僧、大僧正隆光の墓もあった。



円墳の最上部には、石の玉垣があったが、墓の前の石灯篭に1804年(文化元年)の年号があったのでその時期に造られたもののようである。



墓の前の石灯篭には1804年(文化元年甲子)の年号があったが、この年には頼信の死後756年の年月が経過していたことになる。



そこから北へ通じる尾根道を少し歩くと切り開かれた広場があり、そこが八幡太郎義家の墓所であった。



義家の墓は祖父の墓と殆ど同じ直径10mくらいの円墳で、最上部に石の玉垣があり、中には樹木が生えているだけであった。



義家の墓地の広場には、江戸期から明治初期までの墓石が多数あったが、頼信が創建したという通法寺の歴代住職の墓らしい。



通法寺は明治時代の廃仏毀釈により山門,鐘楼などを残すのみの廃寺となってしまったので頼信、義家の墓地も写真のように荒れ果ててしまったのであろうが、残念なことである。

それにしても鎌倉幕府を開いた頼朝の祖先で、鎮守府将軍として関東武士団を率いて奥州の反乱を鎮圧した武士の元祖のような八幡太郎義家が河内で生まれ、河内に葬られていることを知らない人は多いのではなかろうか。

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多田神社には、1336年、足利尊氏が九州多々良浜の合戦に戦捷祈願をした御教書が残っているらしい。

拝殿とその奥の本殿(重文)



その足利氏は、八幡太郎義家の孫の義康が栃木県足利庄に土着して地名を姓としたもので、義康の6代後に尊氏(1305~1358年)が生まれている。

源氏の系図



従って、鎌倉幕府においても頼朝と同じ源氏の血を引く名門として処遇されていて、尊氏の妻は、執権一族である北条守時(第16代執権)の娘であり、尊氏は14歳で従五位下、28歳で鎮守府将軍に叙任されている。

苔むした境内



北条(平氏)政権を滅ぼした尊氏は、1338年源氏のトップだけが就ける地位である征夷大将軍の宣下を受けている。

多田神社の南側を流れる猪名川と橋



1358年、足利義詮は父尊氏(等持院に墓がある)の遺骨の一部を多田院に納め、いらい多田院と足利家の関係は益々密となり、歴代将軍の没後は必ず尊氏に倣って分骨が奉納されているという。

宝蔵



しかし戦国期の1577年には、織田信長(平氏)の甥である織田信澄の手によって焼かれ、90年近く荒れていたようであるが、徳川四代将軍家綱は1665年に社領500石を寄贈し、1667年には再興された社殿と拝殿、随神門、西門が落成している。

拝殿手前の随神門(重文)



その徳川氏は、源義家の孫である義国から始まる新田氏の一族と称し、征夷大将軍の宣下を受けているので、徳川氏にとっても祖先を祀る神社となるのである。

摂社の六所神社



満仲の創建から700年後の元禄時代には、5代将軍綱吉(1646~1709年)による社殿の修復があったようである。

綱吉の側用人に抜擢された牧野成貞(1634~1712年、以前ブログで紹介)の先祖は、家康に属してから源氏を称しているので、その縁で1694年(元禄7年)石灯籠を寄進していて、その灯篭は現存している。

拝殿前の石灯籠(画面の左右にある灯篭の奥が牧野、手前が柳沢)



拝殿に最も近い石灯籠の足元に牧野備後守と刻印されているが、牧野成貞は1683年に備後守に叙任された記録が残っている。

石灯籠の竿に牧野備後守とある



柳沢吉保(1658~1714年)は、八幡太郎義家の弟、新羅三郎義光に始まる武田氏の一門で、吉保は1688年、牧野成貞と並んで綱吉の側用人となり、1694年には侍従の官職を受けている。

多田神社の拝殿前には、1695年(元禄8年)に建立された侍従兼出羽守源朝臣柳沢と彫られた石灯籠があり、今から300年以上前に吉保によって寄進されたものである。

拝殿前、牧野灯篭の手前にある柳沢灯籠



次回のブログで紹介する予定であるが、大阪の南部羽曳野市にある通法寺址と壺井八幡宮にも、1701年(元禄14年)に柳沢吉保によって建立された石燈篭が現存しているのである。

通法寺の灯篭、従四位下左近衛権少将兼美濃守源朝臣松平吉保とある




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梅田から阪急宝塚線の電車に乗って川西能勢口で能勢電鉄に乗り換え、北に向かって5つめの駅が多田駅である。



多田駅から猪名川沿いの道を西に20分歩くと、山里の中にひっそりと広大な神社の敷地があり、そこが清和源氏発祥地といわれる多田神社である。



地図で調べてみると、京都から西国街道(国道171号線)を38キロ下った池田から北に分かれる道(国道173号線)を約8キロさかのぼったところが多田庄で、平安時代であっても、急げば京都まで8時間くらいで行ける距離であった。

南大門



この土地は清和天皇の孫、経基王(六孫王、897~961年)の嫡子である源 満仲(912~997年)が、970年攝津守(国司)であったときに住吉大社に参籠し、神託を受けて開拓し源氏の居城としたという。

神社の絵図



しかし、千年以上も前の話しなので、経基王と満仲との実子関係(経基王が15歳のときの子となる)は定かではないが養子という可能性は大きいようである。

満仲は75歳で仏門に入り、ここに一寺を創設して多田院と号したというので、多田神社の始まりは寺院であったらしく、今でも史跡多田院という石碑が残っている。



その後、嫡男の頼光(948~1021年)がこの地を受け継ぎ、京の藤原道長(966~1028年)に仕えて道長の信頼が厚く、摂津源氏多田氏の祖となっている。

南大門前の鳥居



頼光とその四天王渡辺綱、坂田金時等が活躍する「大江山の酒呑童子退治」のお伽話は有名で、当時の日本の頼もしい武士の代表は源頼光であった。

東門



多田神社の祭神である満仲、頼光二人は、本殿の裏にある墓所(廟)に埋葬されたという。

本殿



頼光の摂津源氏系統からは経基王、満仲が歴任した鎮守府将軍に就いたものがいないが、3男の頼信(968~1048年)の河内源氏系統からは、頼信、頼義(988~1075年)、義家(1039~1106年)まですべて鎮守府将軍になっている。

西門



その理由を推測すると、長男頼光の母親は源氏の娘、3男頼信の母は藤原大納言家の娘であったので、鎮守府将軍となる源氏の嫡流は正室の生んだ頼信の系統に移ったのであろう。

その河内源氏の系統から、義家から5代後に頼朝(1147~1199年)が出て源氏のトップだけが就ける征夷大将軍の宣下を受けて鎌倉幕府を開いたのである。

西門から拝殿への道



鎌倉時代を通じて、多田神社の前身であった多田院は、幕府の保護のもとに発展隆昌をとげ、当時の記録は今も神社に多数残っているという。

宝物殿



鎌倉期の境内は満仲、頼光の廟とその拝殿、そして金堂とその周囲には経堂・塔・法華堂・常行堂・鐘楼があり、中門を通しては学問所・東坊・長老坊などがあり広大なものであったらしい。


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2代目和歌山城主の徳川光貞(1627~1705年)は、紀伊国和歌山城で生まれ、1667年40歳で家督を継いでいる。

二の丸櫓



1698年までの31年間藩政を行ったが、光貞が56歳のときに大奥の湯殿において、湯殿番であった於由利の方に手を付けている。

お湯の番をしていた女性という立場から見て、百姓の身分であったのではないかとも言われているが、幕府が厳重に隠蔽工作をしたためか定かではないらしい。

乾櫓



その於由利の方が懐妊して吉宗(1684~1745年)が生まれたのであるが、母親の身分に問題があったため、吉宗は家老の元で育てられ、やがて城中へ引き取られたという。

天守郭の北側



1698年、光貞は嫡男の綱教に家督を譲って隠居したが、7年後の1705年5月に綱教が39歳で病死したために次男頼職に家督を相続させている。

天守郭東側



しかし同じ年の9月に光貞が78歳で亡くなると10月には頼職が25歳の若さで病死したため、紀州藩は1年間に3回も藩主の葬儀を出すという異常事態となった。

天守から見た紀ノ川



そこで急遽於由利の方が生んだ庶子であった吉宗が、21歳で紀州徳川家を相続することとなったのであるが、2人の兄が相次いで急死する偶然がなければ8代将軍吉宗は無かったのである。

天守から東の本丸址と和歌山市街地



吉宗は藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して、葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、災害の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮している。

子天守の東側



このときの吉宗の再建手腕が将軍の後継就任にあたって評価されたようで、将軍就任後も吉宗による改革(享保の改革)は有名である。

連立する天守



1716年、第7代将軍・徳川家継が6歳で亡くなり、徳川秀忠系の血筋が途絶えた時に、御三家筆頭尾張家を抑えて、吉宗が家康に一番血統が近いという理由で、第8代将軍に選ばれている。

天守の玄関



医療水準が劣悪であった江戸期にはこうした例は多かったようで、14男から藩主となった井伊直弼や以前ブログに書いた山内容堂などが有名である。



吉宗は、将軍就任にあたって紀州藩を廃藩とせず、従兄弟の徳川宗直(1682~1757年)に家督を譲ることで存続させている。

徳川宗直は、伊予西条藩3万石の2代目藩主から一挙に55万5千石の御三家の当主に抜擢されたのである。

雰囲気のある西の丸庭園南側



吉宗は、紀州藩士の内から大禄でない者を20数名選び、側役として従えただけで江戸城に入城したが、紀州藩の足軽だった田沼意次の父意行も、吉宗に同行している。



吉宗は、1745年に将軍を嫡男の家重(1712~1761年)に譲ったあと1751年67歳で逝去したが、徳川将軍家は、吉宗の後、紀州から移った吉宗系の子孫が13代家定まで142年間も続いたのである。


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