家内の父は1918年(大正7年)12月生まれ、2003年の暮れに85歳の天寿をまっとうしている。
今回、実家で不要品を整理している最中に、その父が書き残した大連汽船在任中のメモを偶然発見した。
便箋2枚に細かい文字でビッシリと書かれたメモは、日中戦争から太平洋戦争時に民間会社の船員として従軍した人の貴重な記録であると思うので、時代背景を考証しながらブログに書き残しておくこととした。
大戦中の海軍将兵の戦死率16%に対し、戦争中に動員された民間の船員の戦死率は46%だったのをご存知だろうか。
戦時中、戦う武器を持たない丸腰の船に乗船した民間会社の船員の過酷な状況を伺うことができるが、陸軍工兵を満期除隊した父は、戦争真っ只中の昭和18年、徴兵前と同じ民間海運会社船員の道を選んでいる。
便箋の記録は、18歳の父が昭和12年11月下旬、中国の大連にある大連汽船株式会社の所有する興安丸3500トンに乗船したときから始まっている。
興安丸
恐らく船員学校で教育を受けた後、就職活動をした結果、晴れて大手の大連汽船に合格したのであろう。
松井邦夫氏の日本商船船名考というサイトによれば、大連汽船は、1915年(大正4年)に設立された満鉄の直系子会社で、当時の所有船総トン数は、日本郵船、 大阪商船に次ぐ日本第3位という海運会社であった。
大連汽船ビル
大連汽船は戦争で多くの船を失っているが、残った船舶を集めて昭和22年に東邦海運と社名変更して営業を再開、昭和37年には八幡製鉄系の2社と合併して新和海運となっている。
戦前の大連港ターミナル
調べて見ると、新和海運は現在も超大手2社日本郵船、 商船三井に次ぐ利益を上げている有力海運会社であった。
松井邦夫氏のサイトには父が乗船した興安丸の記録もあり、3462トン、昭和11年8月、浦賀船梁で製造された貨物船、最後は海軍の徴用船として昭和19年1月24日ラバウル港内で沈没、船員47名、便乗者13名、計60名が戦死したと記録されている。
ラバウルはパプアニューギニア、ニューブリデン島の北部にある
興安丸という船は、他の海運会社にもあったようで、終戦後、大陸からの引き上げに使われ有名になった船も同じ興安丸という名前である。
ラバウルで沈没した貨物船
当時父が乗船した大連汽船の興安丸は、建造から1年しか経っていない新造船だったようで、トン数についての父の記憶はかなり正確である。
現在のラバウル港
18歳の新米船員として初めて乗った船が、3462トンもある新造貨物船だったので、さぞ感激したことであろう。
現在、隠岐と本土を結ぶ隠岐汽船の大型定期フェリーが2300トンしかないので、その大きさが想像できる。
隠岐汽船の大型フェリー
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この記事を偶然見つけて・・・。
http://hiro.sweet.coocan.jp/tetyou/14-tetyou.htm
に夫の手帳についての記事をアップしています。
大連汽船を調べていたら、たどりつきました。
実は、父も、大連汽船に勤めていました。
大正12年生まれで、大連汽船に勤め、その後、召集されて、南洋へ。そして、戦況が悪くなってきて、安芸丸という船に乗船して、目的地は、日本への帰還ではなく、グアム。。。その途中、アメリカのクレヴァルという潜水艦の魚雷4発で撃沈され、命からがら、翌朝、他の船に助けられ、、、(ネットで調べて、船の名前、潜水艦の名前、亡父の話が一致しました)、戦後すぐ、新和のアメリカへの船で、シアトルなど、、、、後は、経理、総務などの仕事をしていました。。。
懐かしかったです。
今日のブログにて、古い写真絵はがきをアップしています。
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