1860年の桜田門外の変は、水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件ですが、井伊家からは藩主がその事件でちょっと怪我したので、屋敷で暫く療養するとして届出書が提出されています。神戸どうぶつ王国のワオキツネザルの写真と一緒に桜田門と坂下門外の変の届出書を紹介しましょう。<・・・>が参考文献からの引用部(・・・)はROSSの補足
<今朝(江戸城への)登城掛け、外桜田御門外にて狼藉の者、鉄砲撃ち掛け、凡そ二十人余り、抜き連れ駕籠を目懸け切りこみ候に付、供方の者(警備の家臣)防戦し、狼藉の者一人討ち留め、その余手疵、深手等負はし候に付き、悉く逃げ去り申し候>
<拙者(井伊直弼)儀、取り押さえ方指揮致し候処、怪我致し候に付、一先ず帰宅仕り候。尤も供方(警備の家臣)手負死人、別紙の通りに御座候。此段御届け申し達し候。以上>
襲撃後の現場には後続の大名駕籠が続々と通りかかり、鮮血にまみれた雪は多くの人々に目撃されており、暗殺はただちに江戸市中へ知れ渡りますが、井伊直弼は公式記録の上では怪我しただけでまだ生きていたのです。
しかし事件から25日後、突然急病を発したとして幕府に相続願いが提出され、それが幕府に受理されたあと病死と発表があり、譜代筆頭の井伊家は御家断絶を免れています。
その2年後、今度は老中安藤対馬守信正を尊攘派の水戸浪士6人が襲撃、負傷させる事件(坂下門外の変)が発生しますが、安藤家から幕府に出された届出書は2年前に井伊家が出した届出書とそっくりでした。その内容を上の桜田門外の変のものと比較してみてください。
<今朝(江戸城への)登城掛け、坂下門御外下馬先手前にて、狼藉の者、鉄砲撃ち掛け、七、八人程、抜き身を以って左右より駕籠へ切りつけ候に付、供方の者(警備の家臣)防戦し、狼藉の者六人討ち留め、余りの者逃げ去り申し候>
<拙者(安藤信正)儀、取り押さえ方指図致し候内、少々怪我致し候に付、坂下御門御番所にて、手当致し候へども、出血も有り候に付、一先ず帰宅仕り候。供方の者、手負いの者これ有候間、追いて相糺(あいただし)し、御届け申し上ぐべく候。以上>・・・余りに桜田門外の変のときと似ていたので、てっきり安藤は暗殺されたと早合点した人も多かったようです。
安藤信正は、桜田門の教訓から供廻りを50人に増やしていたため軽傷で済んでいますが桜田門外の変に続く幕閣の襲撃事件は、幕府権威の失墜を加速した事件でした。万一に備えて井伊家の届出書の写しを保管していた安藤家の家臣がいたのかも知れませんね。
参考文献:近世日本国民史 維新への胎動 徳富蘇峰著 平泉 澄校訂