京都市営地下鉄竹田駅の西には、安楽寿院があり、その近くに西行と同時代に生きた白河、鳥羽、近衛天皇の御陵が集まっているのでご紹介しましょう。
1117年、白河法皇(65歳)は、美人の誉れ高い養女の待賢門院(17歳)を孫の鳥羽天皇(15歳)の中宮(皇后)としていますが、白河法皇と待賢門院とは既に男女の関係にあったようです。
待賢門院が鳥羽天皇に入内(結婚)した後、(鳥羽天皇が数え年17歳)1119年に顕仁親王(後の崇徳天皇)を生みますが、鳥羽天皇は顕仁親王を叔父子と呼んだそうです。レンゲの先が白河天皇陵
1123年、鳥羽天皇(21歳)は崇徳天皇(顕仁親王、5歳)に譲位して上皇となりますが、最高権力者の白河法皇(71歳)の下で不遇の時期を過ごしています。白河天皇陵
1129年に白河法皇(77歳)が崩御すると、鳥羽上皇は鳥羽離宮東殿に安楽寿院の造営を開始、上皇の「北面の武士」だった西行は、その安楽寿院への行幸(1137年)にお供をしています。今の安楽寿院
1139年、鳥羽上皇(37歳)と美人の美福門院(23歳)との間に躰仁親王(後の近衛天皇)が生まれ、その翌1140年に西行(23歳)が出家しています。白河、鳥羽院政之地の石碑
既に最高権力者となっていた鳥羽天皇は、生後3カ月の躰仁親王を東宮(皇太子)に立て、その2年後に出家して鳥羽法皇となり、崇徳天皇(23歳)は躰仁親王(近衛天皇、3歳)に不本意ながら譲位して上皇となっています。安楽寿院内部の堂
1155年、病弱だった近衛天皇(17歳)が崩御したことで、鳥羽法皇(53歳)は待賢門院との間にできた雅仁親王(後白河天皇、28歳)を皇位に就けています。
近衛天皇陵は安楽寿院のすぐ隣。
西行は、近衛天皇の崩御の際に高野山から安楽寿院の墓所に詣で、翌年に鳥羽法皇が崩御された際にも安楽寿院にかけつけ、葬送に参加しています。近衛天皇陵の多宝塔
鳥羽法皇の崩御がきっかけで、異父同母の兄弟だった後白河天皇(30歳)と崇徳上皇(38歳)の権力闘争(保元の乱)があり、破れた崇徳上皇は讃岐に配流されますが、1164年(46歳)に上皇が崩御するまで西行と和歌の贈答があったようです。鳥羽天皇陵
1168年、西行は讃岐にある崇徳上皇の御陵にも詣で、出家したあとも天皇に対して律儀な行動を取っていることに驚かされされます。
参考文献:別冊太陽(西行 捨てて生きる)