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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



堀川通りに面して西本願寺の南側にある巨大な寺院は、真宗本願寺派本山寺院「興正寺」で、北側は西本願寺の唐門がある北小路、西側には竜谷大学大宮学舎がある。



寺伝では、1212年親鸞による創建とするが、事実上の開祖は、1324年に京都山科に寺を建立した7代の了源で、本願寺第3代の覚如によって興正寺と名付けられている。

北小路の入り口



のち興正寺は、東山に移り、寺号を仏光寺と改めていたが、1482年14代経豪のときに延暦寺の迫害追放を受け、経豪は弟に門主の座を譲って本願寺第8代蓮如のもとに走っている。

北小路(左が興正寺の築地塀)



蓮如は山科に寺を建てて興正寺とし、経豪に名跡を継がせたが、興正寺は1532年に山科本願寺と共に兵火にかかって焼失したため大坂の石山に移転している。

興正寺の三門



1567年、本願寺第11代顕如の二男顕尊が17代門主として興正寺に入り、1569年には石山本願寺の脇門跡寺院という本願寺の中で別格の地位を得ている。

興正寺の御影堂



顕如の長男は、東本願寺を起こした教如、3男は顕如の後継者となり西本願寺を継いだ12代准如なので、当時の興正寺門主は、東西本願寺の門主と実の兄弟という立場であった。

興正寺の阿弥陀堂



1591年に本願寺が七条堀川の地に移った際、興正寺も同時に移転しているが、江戸期を通じて興正寺には西本願寺からの独立志向があり、顕尊の後継者となった興正寺18代准尊は、1607年に東本願寺に転派を図っている。

興正寺の経蔵



1772年には、本堂造営に際し本山を称号するという問題が起こり、西本願寺が幕府に訴えたことで、1811年になってから興正寺は西本願寺の末寺という幕府裁定が下っている。

阿弥陀堂前の阿弥陀堂門



しかし、1876年(明治9年)になってやっと真宗興正派として独立し、同派の本山となったので、本願寺11代顕如の二男顕尊が門主を継承した興正寺は、兄の教如が1602年に東本願寺を起こしてから274年を経て、やっと独立を果たしたことになる。

境内(隣は西本願寺)



本堂は、起工から128年の年数をかけ、日光東照宮の本廟・知恩院の三門とともに、日本三建築の一つと称せられた壮大な大伽藍であったが、1902年の火災で焼失している。

御影堂と阿弥陀堂



伽藍の再建はすぐに始まり、1912年に完成した現在の御影堂は、幅33m、奥行き41m、高さ28mもあり、東京の浅草寺本堂(幅34,5m、奥行き33m、高さ29m)よりも規模が大きい。


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江戸時代の大坂城には、大手門を守備する大坂城代をトップに、京橋口に京橋定番、玉造口に玉造定番となる大名2名、桜門前の二の丸を東西に分け2名の大番頭(おおばんがしら1万石以下の大身旗本)が配置されていた。

今年の大阪城梅園



さらに1~4万石の大名の中から山里加番(一加番)、中小屋加番(二加番)、青屋口加番(三加番)、雁木坂加番(四加番)が1年交代で配置され、山里と青屋口は東大番頭、中小屋と雁木坂は西大番頭を加勢する立場にあった。

大阪城と梅



内堀の東外側にある大阪城梅園(1万7千平米)は、北から青屋口加番(三加番)、中小屋加番(二加番)、雁木坂加番(四加番)の番小屋(加番屋敷と長屋)があった場所で、大坂城守備隊として駐屯していた加番(大名)は、公務か特定の寺への参詣以外、城外へ出ることを禁じられていた。



現在の大阪城梅園を3等分すると、5千平米(1700坪)を越え、その中でも中央に位置する中小屋加番(二加番)の敷地が最も広かった。



加番制度がスタートした直後は、警備小屋であったかもしれないが、江戸中期以降は、番小屋とは呼べない広大な屋敷と、多数の長屋が配置されていた。



なお山里加番(一加番)は、山里郭と極楽橋及びその外側の「搦め手」の重要区域を守備していて、山里加番小屋だけは、本丸の山里郭に置かれ、いざとなれば橋を落として籠城できる体制となっていた。

今年の盆梅



大坂に着任した新規の加番4名は、揃ってまず大坂城代屋敷に向かい、城代、定番、大番頭及び前任の加番、さらに大坂目付と顔を合わせ、事前に交代の打ち合わせをしている。



その後、山里、青屋口(東大番頭の加勢)中小屋、雁木坂(西大番頭の加勢)の順に混雑しないように日を変えて、新旧の引き継ぎが行なわれたという。



加番の大名自身は、毎月2~5回江戸から奉書が着いた時に、四人揃って城代屋敷に出向き、城代に挨拶して奉書の内容を聞くくらいの仕事しか無かったらしい。



また加番には、月番があって、城代よりの連絡はまず月番のところへ来て、そこから順々に他の加番へ伝達しており、月に一度は情報交換という名目で月番の加番の小屋に寄り合う憤例があったという。


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2007年にオープンしたホテルメトロポリタン丸の内のエレベーターロビーは、シンプルなデザインで、吹き抜け空間の周囲にある回廊を通って部屋にアクセスする。

回廊から見下ろしたロビー



今回宿泊したエグゼクティブルームは、南側と西側に大きな窓があり、サピアタワーの28階から34階という客室からの眺望がセールスポイントとなっている。



またホテルの立地は、東京駅ホーム北側終端の延長部分にあるので、南側の窓から東京駅のホームを全部見おろすことができ、東京駅の真上に部屋があるような錯覚を受ける。



面積30平米の比較的狭い客室には、幅120センチのベッドが2台置かれ、ベッドに寝たままで窓から東京タワーを見ることができる。



ベッドと窓との間には、一人掛けのソファー2つとガラステーブル、透明ガラストップの大型デスクが置かれていて、下界を見下ろしながらデスクで事務作業をするのは気持ちが良い。



ベッドの横に置かれた薄い棚は、ベッド方向に画面が回転する32インチ液晶テレビが収納され、狭いスペースが有効に活用されていた。



さて、サニタリーゾーンの扉を開けると、右側がトイレ、左が洗面台となっていて、トイレが独立していない。



ここで衣服を脱いで、浴室の扉を開けると、洗い場のある大型バスが置いてあり、浴槽から外が見える窓があるので、所謂ビューバスとなっている。



地上100mを遥かに越える高さにあるビューバスに入浴するのは、初めての体験で楽しみであったが、すぐ隣の丸の内北口ビル(高さ147m)から中が丸見え状態となっている。



しかし、地上から百数十メートルの高さにある浴室で、ビール飲みながら入浴するという贅沢なひと時を味わうことができたので、宿泊先として選んで良かったと思う。




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JR東日本ホテルズが運営するホテルメトロポリタン丸の内は、JR東日本が所有する高さ166mのサピアタワーの27階から34階に入居している。

客室から高さ100mの丸の内ホテル(左)と丸の内北口ビル(右)を見下ろす



宿泊した日は、あいにく天気は良くなかったが、高層階にある客室から東京駅周辺のビルを展望することができる。



ベッド側面にある窓の向こうは、丸の内北口ビル(高さ147m、29階、延面積7万8千平米、2004年完成)がデンと構え、屋上越しに遠くのビルが少し見えるので、宿泊した部屋の高さも同じくらいかもしれない。



その左には、日立製作所の本社がある日本生命丸の内ビル(高さ159m、28階、延面積9万4千平米、2004年完成)がこれも重厚な外観を誇っている。

日本生命丸の内ビル(左)とサピアタワー



その左には、2007年の完成時に低層階のショッピングゾーンが評判になった新丸の内ビルディング(高さ198m、38階、延面積19万5千平米)が周囲を圧倒する巨大な姿を見せている。



その先には、三菱村を代表する丸の内ビルディング(高さ179m、37階、延面積16万平米、2002年完成)があるが、周囲のビルもデカイので、その巨大さが目立たない。

オレンジ色の道路照明に囲まれた丸の内ビルディング



さて、東京駅のホームを挟んだ八重洲側には、グラントウキョウサウスタワー(高さ205m、42階、延面積14万1千平米、2007年完成)があり、周囲で一番の高さを誇っている。



そのグラントウキョウサウスタワーの遥か先には、お台場が見え、レインボーブリッジの橋脚もかろうじて眺めることもできる。



グラントウキョウサウスタワーと同じ外観をしているグラントウキョウノースタワー(高さ205m、43階、延面積21万2千平米、2007年完成)も巨大である。

低いサピアタワー(左)と高いノースタワー(右)



八重洲側の左手前にあるのは、2008年完成しテナントの入居を待つばかりの、丸の内トラストタワー本館で、これもアピアタワーより高い178m、37階、延面積11万5千平米。



東京駅を挟む狭い範囲の超高層ビルを垣間見ただけで、大阪を遥かに凌ぐ、東京のすさまじい経済力が実感できた。



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東京駅ビルの日本橋口から外に出て左側を見上げると、35階建て延面積14万9千平米の巨大なサピアタワービルがある。



2007年に完成したサピアタワービルは、JR東日本が運営する高さ166mの超高層ビルで 名称は英語で知恵を意味するサピエンスに由来するという。



東京駅の八重洲側には、高さ200mを越えるグラントウキョウサウスタワーと同ノースタワー2棟があるために、166mのサピアタワーは実際よりも低く見えてしまう。

手前から2棟目がノースタワー中央がサウスタワー



サピアタワーは、1~3階がショップ、4~6階が会議室 7~26階が事務所 27~34階にホテルメトロポリタン丸の内が入居している。



ホテルメトロポリタンは、JR東日本ホテルズが運営するシティホテルで、東日本に10軒のホテルメトロポリタンがある。



ホテルメトロポリタン丸の内は、サピアタワーの中に14種類の客室を持ち、60%がシングルルームなので、ビジネスユースのシティホテルというコンセプトかもしれない。

エントランス



雑誌「日経トレンディ」(2008年度版)によれば、首都圏のビジネスホテルの中で唯一Sランクの高い評価を受けている。

客室から丸の内側の眺望



このビルは、東京駅ホームの北側に建設されていて、ビルの上層階から見ると、東京駅を上空から眺められる珍しい景観が売りになっている。



ビル入り口の左側にあるエレベーターで27階にあがると、ホテルメトロポリタン丸の内のロビーがあり、フロントの背後はガラス張りとなっていて展望が素晴らしい。



このロビーは、35階まである巨大な吹き抜け空間の底にあり、その吹き抜け部分の周囲に客室が配置されているので、客室前の廊下を通行するときにロビーを見下ろすことができる。

ロビー



客室階へ通じるエレベーターホールには、カードキーを壁のセンサーに近づけなければ開かない自動ドアがあるので、セキュリティは万全のようであった。



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浅草寺の雷門をくぐり、仲見世の商店街を抜けた先にあるのが宝蔵門で、現在の門は1964年に再建されたものという。



門の左右に仁王像を安置していることから「仁王門」と呼ばれていたが、昭和の再建後は門の上層を文化財の収蔵庫としたために宝蔵門と呼ばれている。

宝蔵門の本堂側



1648年の建立の五重塔は、本堂に向かって宝蔵門の右側にあったが、本堂と同様に東京大空襲で焼失、現在の塔は、宝蔵門の左に配置されている。

1973年に再建された五重塔は、鉄筋コンクリート造で、基壇の高さ約5m、塔自体の高さは約48mという。



宝蔵門と本堂との間にある有名な常香炉も戦後設置された新しいもので、ここに線香を供え、その煙を体の悪い部分へかけるとよくなると、善男善女が煙を浴びる姿はテレビで良く放映されている。



本堂は、本尊の観音像を祀るため観音堂とも呼ばれ、旧堂は1649年の再建で国宝に指定されていたが、1945年の東京大空襲で焼失、現在の堂は1958年に再建されている。

本堂



内陣の中央には、本尊を安置する宮殿(くうでん)があり、宮殿内部は前の間と奥の間に分かれ、奥の間に秘仏本尊、前の間には「お前立ち」の観音像が安置される。

毎年の開扉法要や特別な行事の開扉の際も、信徒が拝することができるのは「お前立ち」像のみで、秘仏本尊像は公開されることはないというが、学術調査はあったのであろうか。

宝蔵門



本堂外陣の天井には、中央に川端龍子の竜の図と、その両側に堂本印象の「天人散華の図」の巨大な天井画があり、いずれも素晴らしい。

浅草寺には、ほかにも二天門(重文)、浅草神社(重文)、伝法院などがあり、境内には多くの仏像、記念碑等も置いてあったが、遠くから眺めただけで仲見世の前に戻ってお土産の草加せんべいを買って帰ることにした。

伝法院



中興開山の慈覚大師円仁が3世天台座主であったため、浅草寺は永く天台宗に属していたが、第二次世界大戦後に天台宗から独立し、聖観音宗の総本山となっている。

仲見世



実は、本尊を救世観音とする大阪の四天王寺も戦後天台宗から独立し、和宗の総本山となっているので面白い。


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今回の東京旅行の目的の一つは、浅草寺に詣でることだったので、浅草寺のことを少し調べてみた。

雷門



寺伝によれば浅草寺は、645年に勝海を開基として創設され、延暦寺の慈覚大師円仁(794~864年)を中興開山とする東京都内最古の寺院という。



これは、大阪四天王寺の593年、京都最古という広隆寺創建の603年、奈良法隆寺の607年より少し新しいが、東大寺752年、清水寺の778年、東寺の796年よりも100年以上も古い。



観音菩薩を本尊とすることから「浅草の観音様」と呼ばれ、御本尊の大きさは、1寸8分(5,5cm)と言われているが、今まで公開されたことが無いので実体は不明らしい。

しかし、慈覚大師円仁が来寺し、秘仏の代わりに人々が拝む観音像を造ったと伝わっている。

雷門の次にある宝蔵門



この円仁は、目黒不動や山形市の立石寺、松島の瑞巌寺など、開山や復興したと伝わる寺が関東東北地方に500寺以上もあるとされているが本当だろうか。

五重塔



平安時代中期の942年、平公雅が武蔵守に任ぜられた際に雷門や仁王門を創建と寺伝にあるるが、浅草寺の名前が文献に現われるのは1300年頃成立した「吾妻鏡」まで下るという。

宝蔵門の提灯



表参道の入口にある「雷門」は、向かって右に風神像、左に雷神像を安置してあり、正式には「風雷神門」といい、1865年に火災で焼失、1960年に松下幸之助氏の寄進によって再建されている。

浅草寺と同じく本尊を救世観音とする大阪の四天王寺の西大門も、1962年に松下幸之助氏の寄進によって再建されているので、二つの寺院には共通点がある。

四天王寺西大門



表参道外側から見る大提灯には「雷門」、内側には「風雷神門」と大書され、今や東京観光のシンボルともなっている。



「雷門」から宝蔵門まで250mある参道の両側には、合計89店の有名な仲見世(中店)が続いている。



これほど大規模な門前市は、清水寺の門前くらいしか知らないが、仲見世の日本情緒は外人観光客に人気があると思う。



浅草寺境内に「仲見世」が設けられるのは、元禄、享保年間(1688~1735年)頃といわれているので、既に300年近い歴史があるらしい。

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2005年から2007年までの2年間、大阪四季劇場のコケラ落し演目として大阪で上演されたミュージカルの映画版「マンマ・ミーア」を見てきた。



大阪四季劇場のミュージカルも良かったが、映画館の巨大スクリーン映像とディジタル音響は迫力があり、出演者の歌唱力演技力も、映画のほうが数段上回っていたように思う。

ソフィの母親ドナがこの映画の主役となるが、ドナ役のメリル・ストリープは現在59歳、スクリーンの中で歌い、踊り、飛ぶ、跳ねるという難しいシーンを熱演している。

ドナとソフィ



彼女は、1979年の『クレイマー、クレイマー』でアカデミー助演女優賞、1982年の『ソフィーの選択』でアカデミー主演女優賞を受賞、2006年の「プラダを着た悪魔」では、ミランダ編集長役を好演している。

ドナの小柄な親友、眼鏡をかけたロージー役のジュリー・ウォルターズも59歳、年齢相応に見えるイギリスの女優で、ハリーポッターにも出演しているという。

左からロージー、ドナ、ターニャ



ドナの親友、スリムで長身のターニャ役、クリスティーン・バランスキー(56歳)は、ジュリアードで学び、ブロードウェイ、映画、テレビで活躍しているが、年齢を忘れさせる過激な演技は素晴らしい。

表情が安室奈美恵に似ている、ソフィ役のアマンダ・M・セイフリード(23歳)の歌唱力は、安室ちゃん以上に素晴らしく、これからが楽しみな女優の一人と思う。



ソフィーの父親候補、サム役のピアーズ・ブロスナン(55歳)は、「007」4作品にジェームスボンド役で出演しているので、彼のクローズアップを見ていると007を見ているような気持ちになってしまう。

左からビル、サム、ハリー



ソフィーの父親候補、ハリー役のコリン・ファース(48歳)は、イギリスの俳優で、メリル・ストリープの相手役にはちょっと若すぎた。

ソフィーの父親候補、ビル役のステラン・スカルスガルド(57歳)は、役と同じスウェーデンの俳優で、あまり存在感はなかったが、パイレーツ・オブ・カリビアン2作品にビル・ターナー役で出演している。

ドナとソフィ



60歳近い女性3人が元気一杯に歌い、踊るミュージカル映画「マンマ・ミーア」は、ぜひ日本のアラカン(アラウンド還暦)世代の人に見てもらいたいと思う。

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汐留は、かつて海辺に近い湿地帯であったが、三代将軍家光のときまで続いた「天下普請」によって、埋め立が完成している。

今の汐留



大坂城の「天下普請」をサボったとして、美濃高須藩(5万石)の徳永昌重(1581~1642年)は、領地を召し上げられているので、どの大名も必死で勤め、経済力の疲弊で徳川に対抗できる大名は無くなってしまっている。

汐留シオサイトを走るゆりかもめ



埋め立てられた汐留は、新橋、銀座、築地などと並ぶ大名屋敷街となっていたが、明治新政府によってその土地が接収されたという。

ひしめきあう汐留の超高層ビル



1872年、日本初の鉄道が横浜との間に開設された際、起点の新橋駅が今の汐留シティセンターのある場所に建設され、そこが東京の玄関となっている。

汐留シティセンター



しかし、1914年になって東京駅が完成、東海道本線の起点が新橋駅から東京駅に変更されたため、新橋駅は貨物専用駅に変更されている。

東京駅



それ以降汐留は、貨物ターミナルとして使われ、1980年頃に広大な空き地が手付かずのまま残っている風景を、何度か見た記憶がある。



1995年頃からようやく再開発がはじまり、今の汐留地区は、200m近い超高層ビルが林立し、高層階がホテルとなっているビルがいくつもある未来都市に変身している。

空中デッキ



毎日6万人が働くという汐留シオサイトは、現在も南の浜松町駅付近と、山手線内側のヴィータ・イタリア地区で建設工事が進行中なので、まだまだ成長過程にある。

コンラッド東京のエントランスロビー



汐留地区の東側には、浜離宮恩賜庭園をはさんで東京湾が広がっているが、東京汐留ビルディングの上層階にあるコンラッド東京(1泊5万円)のロビーラウンジからは、その浜離宮庭園が良く見える。



汐留シオサイトは、その西側に新橋駅、虎ノ門、神谷町、霞ヶ関の官庁街があり、銀座、築地、臨海副都心にも近く、東京の中で絶好のロケーションを誇っている。


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今回の東京旅行では、新橋駅からほど近い汐留地区にある「汐留シオサイト」の超高層ビル群を見てきた。



JR新橋駅の改札を出て、まず最初に見えてくるのが外壁がガラス張りの日本テレビタワー(高さ192m、32階建、延べ面積13万1千平米、2003年完成)で、このビルの外側にはテレビの公開スタジオがある。



また、隣のロイヤルパーク汐留タワー側には、宮崎駿デザインの「からくり時計」が置かれていて、すぐ近くを走る「ゆりかもめ」の中からその面白いデザインが良く見える。



ロイヤルパーク汐留タワー(高さ172m、38階、延べ面積8万平米、2003年完成)の上層階には「ホテルロイヤルパーク汐留」があるが、このホテルは日本テレビタワーと接近して建っているので、日テレ側の部屋の眺望は望めない。

ロイヤルパーク汐留タワー(左)と日テレタワー(右)



一度泊まってみたいと思っているが、すぐ隣に良く似た名前の「パークホテル東京」が入居する、汐留メディアタワー(高さ173m、34階、延べ面積6万3千平米、2003年完成)がある。

汐留メディアタワー(左)



ほぼ同時に完成したために、ホテル名の調整ができなかったのか、利用者には紛らわしいネーミングなので、改善して欲しいと思う。



日本テレビビルと汐留タワーのある地区から空中デッキを挟んだ北側には、緑色のガラスで覆われた、この地区最高を誇る汐留シティセンター(高さ216m、43階、延べ面積18万8千平米、2003年完成)がある。



汐留シティセンターの1階には、旧新橋駅が復元されているので、この場所が日本の鉄道発祥の地ということか。



デッキ通路を先に進むと見えてくるのが、電通本社ビル(高さ213m、48階、延べ面積23万2千平米、2002年完成)で、電通が巨大な会社であることが良くわかる。



電通ビルが最も薄く見える南西方向から見ると、まるで空を切り裂くガラスのナイフのような形をしている。



空中デッキは、さらに先に続きデッキの南側には、コンラッド東京とソフトバンク本社が入居する東京汐留ビルディング(高さ174m、37階、延べ面積19万2千平米、2005年完成)が見えてくる。



周囲のビルが余りにデカイので、この巨大な超高層ビルの写真を撮ることを、つい忘れてしまった。

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辰巳運河沿いにある超高層タワーマンションの隣には、窓のブラインドがパステルカラーに彩色されているアートのような賃貸集合住宅「東雲キャナルコート」(左)がある。



その中央ゾーンは、各界のオピニオンリーダーが都市居住のコンセプトを提案し、建築家、ランドスケープ、照明、サインなどのデザイナーとUR都市機構(旧住宅都市整備公団)のチームが、設計デザインしたという。

公団住宅をもじったCODAN Shinonome



建築家チームには、伊東豊雄、山本理顕、元倉眞琴、山本圭介、隈研吾など日本を代表する建築家が街区の設計を分担している。



ランドスケープデザインは、街区と街区の間に幅10m緩いS字状の歩道を配置し、そこに広場が連結されていて、2005年度のグッドデザイン賞金賞を受賞している。



居住する人々は、デザインに敏感な若い人が多いようで、居住者専用となる2階のレベルに、芝生とボードウオークが配置され、小さな子供を遊ばせるにはもってこいのゾーンとなっている。



都市居住というコンセプトで設計された外観は、コンクリートとガラスという冷たい印象を受けるが、旧住宅公団であったUR都市機構のノウハウが入った住居は意外と快適らしい。

S字状の歩道に続く広場



居住者の買い物は、東雲キャナルコートに隣接してイオン東雲ショッピングセンターがあるので、実に便利の良い街となっている。



この地区は、総戸数2135戸の東雲キャナルコートと、運河沿いの分譲タワーマンションすべて合わせえると4579戸の新しい住宅地となっているが、周辺には、まだ空地があるので、これからもマンションが次々建つのではないかと思う。



東雲キャナルコートの家賃は、面積75平米の2LDKで17万円前後、東京の一人当たり所得の64%(2006年の統計)しかない大阪の感覚ではかなり高いと思う。



この所得格差は、次第に広がっているようなので、これだけのマンションが立ち並ぶ景観は、大阪ではなかなか見ることができないと思う。


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有楽町駅から東京メトロ有楽町線に乗って僅か4つ目の辰巳駅で下り、辰巳運河の辰巳桜橋を渡りかけると、目の前に東雲のマンション群が見えてくる。



東雲マンション群の南側には、すぐ東京湾の海が広がっているので、強風時には橋の通行に難義するのではなかろうかと老婆心ながら心配になってくる。

一番右のビーコンタワーレジデンスは、地上41階建・高さ147m、総戸数440戸、2009年2月に完成予定という。



その左のキャナルファーストタワーは、地上42階、高さ146m、総戸数415戸、2008年に完成している。



その次のアップルタワー東京キャナルコート(中央)は、地上44階、高さ143m、総戸数440戸、2007年に完成。



橋のすぐ右側には、この地区最高の高さを誇るWコンフォートタワーEASTがあり、地上54階、高さ178m、総戸数673戸、2004年に完成している。



同じデザインのWコンフォートタワーWEST、地上45階、高さ153m、総戸数476戸、2005年完成が、タワーEASTの後にちょっとだけ写っている。

40階を越える分譲タワーマンション5棟の合計戸数は、何と2444戸、これだけタワーマンションが林立していれば、お互いが干渉して眺望に問題がありそうに思うが、実際はどうなのであろうか。

運河横の遊歩道



Wコンフォートタワーの南に見えるのは、賃貸のトミンタワー東雲(右)で、地上36階、高さ130m、総戸数336戸、1996年に完成している。



またその左側(南)にも、同じ賃貸の都営住宅東雲二丁目第二アパート、地上32階、高さ112m、総戸数346戸があり、こちらは1995年に完成している。



ウオーターフロントにこれだけのタワーマンションが立ち並ぶのは、東京ならではの景観で、大阪では見ることのできない風景と思う。

それにしても東京のパワーは凄い。


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今年最初の東京旅行は、ホテルとセットとなったチケットで「ひかり」の指定席に乗る予定だったが、時間を間違え、新大阪で乗り遅れてしまった。

N700系「のぞみ」の先端



そこで、やむを得ず次に到着した「のぞみ」の自由席に飛び乗ると、意外と空いていて、右側3席を二人で使っての旅となった。

N700系「のぞみ」



N700系の「のぞみ」には、喫煙ルームがあるために、どの車両に飛び乗ってもタバコの臭いが無いのが有難い。

全席禁煙の表示



のぞみには自由席が3両しか無く、いつも混雑しているイメージがあったが、この日は偶然乗客が少なかったようで、そのまま乗っていると名古屋で予約していた「ひかり」に追いついてしまった。

グリーン車の洗面台



しかし、乗り換えが面倒だし、3人席を二人で使うほうが楽だったので、そのまま「のぞみ」に座って東京へ向かうこととした。

自由席座席下のコンセント



「のぞみ」の自動販売機コーナーにペットボトルのお茶を買いに行くと、500CCのレギュラーサイズが無く、280CCサイズしかない。

自販機



自動販売機コーナーに行く途中、グリーン車を覗いてみると、トイレ通路がメタリック調の豪華仕様となっている。

グリーンのトイレ通路



グリーン車の内部は、中央通路を挟んで横に2列づつ、幅の広いシートが広いピッチで配置されていて、飛行機のビジネスクラスのようになっている。

内部



当然ガラガラに空いていたが、大阪から東京まで僅か2時間30分の旅行に使うのには贅沢すぎると思う。

シート



実は、N700系「のぞみ」普通車のシートピッチは、100cmもあり、ノースウエストのボーイング757型機のビジネスクラスのシートピッチよりも5cmも広いので、普通車でもビジネスクラス並みの余裕がある。

自由席の足元



「のぞみ」N700系のトイレには、ウオッシュレットが付いていなかったが、日本の誇るトイレ洗浄便座は、ぜひ設置して貰いたいと思う。

トイレ



名古屋を出た「のぞみ」は、快晴の東海道を走行し、東京に到着したが、乗り遅れたために、目的地に予定より早く到着するという珍しい体験をした。


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壬生寺のある壬生の地名は、東側にある壬生大路(壬生通)が、大内裏の美福門(みぶもん=壬生門)に通じていたので起こったものと考えられている。

壬生寺表門



この壬生寺は、園城寺(三井寺)の僧快賢が、991年に大内裏の裏鬼門となる地に地蔵菩薩を安置、建立したとされる律宗(総本山唐招提寺)寺院である。

壬生延命地蔵尊とある南門



中世には、円覚上人(1223~1311年)が中興し、重要無形文化財となっている「大念仏狂言」は当時流行していた疫病鎮静を祈って始めたものと伝えられる。

鎌倉時代のものとされる快賢の五輪塔



壬生寺には、京都の治安維持を目的に活動した新選組の本拠が隣の八木家(壬生寺が菩提寺)に置かれた縁で局長近藤勇の銅像や、新選組隊士の墓である壬生塚がある。

壬生塚



当寺旧本尊の地蔵菩薩半跏像(鎌倉時代後期の作)は、「壬生地蔵」と呼ばれ信仰を集めていたが、1962年、放火により本堂とともに焼失、現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移されたもの。

今の本堂



壬生寺境内にある池の中の島は、壬生塚と呼ばれ、阿弥陀堂の先にある橋を渡って中を拝観することができる。

本堂前から見た表門と壬生塚(左)



橋を渡った右手正面には、近藤勇の胸像があり、その横に遺髪塔、暗殺された芹沢鴨と平山五郎、勘定方河合耆三郎、隊士7名の墓がある。



隊士7名の合祀墓には、池田屋騒動(1864年6月)で亡くなった奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門が葬られているが、池田屋騒動で新選組の名前が一挙に有名になり、同年年末の隊員数は67名となっている。

隊士7名の合祀墓



隊員の増加した新選組は翌年春に西本願寺に屯所を移転、そこで大砲など洋式兵法の訓練をはじめているが、西本願寺の門主からの苦情で、壬生寺を訓練場として使ったという。

芹沢と平山の墓



1864年7月隊員数は、134名と急激に増えているので、玉石混交した隊員の訓練は欠かせなかったものと思う。

表門



しかし大砲の射撃で寺の屋根瓦が破損したために、壬生寺も西本願寺の新選組屯所へ再三苦情を訴えていたという。


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文久3年(1863年)9月18日(壬生寺の墓石による)、島原の宴会を抜け出し、八木家に帰った芹沢鴨局長と平山五郎副長助勤、芹沢の家臣平間重助、八木家で待っていた愛妾3人に土方がしつこく酒を飲ませたという。

新選組屯所のあった場所に建つ鶴屋



泥酔した6名が、奥座敷の中央に衝立を立て、芹沢とお梅が縁側に近い外側、平山と小栄が内側、平間と糸里は隣の部屋で熟睡しているところを4人の刺客に襲われている。

鶴屋



平山は、倒された衝立の上から串刺しにされて絶命しているので、刺客は、そこに芹沢がいたと勘違いしたのであろうか。

最も縁側に近い場所に寝ていた芹沢は、最初の襲撃を受けてすぐ目を覚まし、近くにあった脇差で防戦し、縁側を伝って隣の部屋に逃げ込んでいる。

奥が現存する八木家



その夜、当主の八木 源之丞は留守で、奥さんと子息(為三郎と勇之助)がその部屋で寝ていたが、刺客に追われた芹沢鴨が転がり込み、子息が使っていた文机につまずいて転んだところを刺し殺されたという。

その文机は、今も芹沢が暗殺された部屋の中に置かれていて、その上にある鴨居には、芹沢を殺害しようとした刺客の刀でできた疵が残っている。

奥座敷の玄関(右)



この事件で芹沢とお梅、平山は殺されたが、平山の愛妾小栄と隣に寝ていた平間、その愛妾糸里は助かっている。

暗殺の際、八木家の勇之助が足に刀傷を受けているが、刺客を務めた沖田総司が何食わぬ表情で「勇坊まで怪我したそうで大変でしたね」と八木源之丞を慰めたという。

壬生寺南門



しかし、部屋にいた源之丞の奥さんは、刺客を見ていて、後に土方歳三、沖田総司、山南敬助だったと語っているが、4人いた(もう一人は恐らく近藤)刺客の被疑者は、当時不明として処理されている。

壬生寺の壬生塚入り口



芹沢の暗殺後、この奥座敷は近藤など幹部の部屋として使われているので、新選組屯所として使われた屋敷と庭は、今でも近藤が生きていた時代のままという。

壬生塚にある芹沢と平山の墓



八木 源之丞の子息、八木為三郎(1850~1931年)は当時14歳であったが、新選組に加わり、新選組の生き残りとして昭和6年まで生存し、当時のことを多く語り残している。

鶴屋



この後、隊員の増加した新選組は、八木家の母屋と離れ屋敷との間に道場(6,3m×14,4m)を建て、剣術の稽古に使っていたが、2年後に屯所を西本願寺の太鼓番屋に移転する際に解体して運び去ったという。

屯所餅と抹茶



離れ屋敷があった跡には、今や八木家の家業となっている京都鶴屋「鶴壽庵」(社長 八木 勢一郎氏)の店舗があり、八木家を見学したあと、入場時のチケットを見せて抹茶と屯所餅を楽しむことができる。


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