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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



1907年、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の設立に参画した、阪急グループの創業者小林一三(1873~1957年)は、なかなかのアイデアマンであった。

現在の阪急梅田駅をアクティ大阪から見る



客を誘致するのではなく、創り出すという新しい発想で、小林一三37歳の1910年には、阪急沿線に住宅地を開発して不動産分譲事業、1914年宝塚歌劇団を創設して女性や家族連れでも楽しめるエンタテインメント事業にも乗り出している。

1914年の地図に載っている梅田駅(線路がJRの上を通過している)



さらに鉄道乗客を作り出す一環として、小林一三が56歳となった1929年には、阪急梅田駅の敷地に日本初のターミナルデパートとなる阪急百貨店を創業している。

1936年の地図に載っている阪急百貨店(線路がJRの下を潜っている)



小林一三は、1937年に東宝映画を設立しているが、後に東宝の社長は、次男辰郎(松岡家の養子となり松岡姓)が継ぎ、現在では辰郎の長男である松岡功氏が会長を勤めている。

昔の地図にある阪急駅は阪急百貨店東側のコンコース部分にあった



小林と松岡家との縁は、1920年に開業する阪急神戸線の建設時に、当時「船成金」と呼ばれていた松岡汽船(後の商船三井タンカー管理)の松岡社長に資金援助を求めたことがきっかけのようである。

ちなみに松岡功氏の次男が、元テニスプレーヤーでスポーツキャスターの松岡修造である。

JRから阪急梅田駅への陸橋



阪急百貨店は、地上8階、地下2階という当時では群を抜いた規模を持ち、従来の高級百貨店の枠を出て、より多くの人々に親しまれる新しい百貨店を目指したという。

今の阪急百貨店



ちなみに心斎橋の大丸百貨店は、1922年から1期工事を始め、1933年に3期工事が完成しているので、全館オープンは阪急よりも若干遅いことになる。

1931年の地図に載っている大丸と十合(そごう)は、心斎橋筋に面していた



開業当初は、百貨店運営のノウハウが無かったために日本橋白木屋を招致し、その後に自社直営に切替えたようである。

また、百貨店が運営するレストラン事業としてライスカレー・ソーライス等を庶民に提供し、行楽に向かう人々へ弁当販売をするなど、今日のターミナルデパートの雛形となった存在であった。

阪急電鉄コンコース



その後、1947年に、阪急百貨店は阪急電鉄より分離独立し、株式会社阪急百貨店として梅田本店と全国に10の支店を展開しているので、阪急電鉄とは兄弟会社という関係にある。


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