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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



大阪では、冬になると遠くの景色が良く見える日があります。そこで大阪府咲洲庁舎から見た大阪市を取り囲む山系を紹介しましょう。大阪市内全景

まず北摂山系、左側の山麓に小さく見えるのが約21km離れた千里中央駅前にあるザ・千里タワー(164m)、右側はUSJのホテルと海遊館です。

写真中央やや左奥は、京都方面だと思いますが、雪雲のようなものが見えています。大阪中心部にあるビルまでの距離は、約10キロでしょうか。ちょうど雲の影に入り、シルエットとなって見えていました。

写真の左下、約5キロ先には弁天ふ頭、その先の梅田は、意外と海から近いことが良く判ります。津波への備えは大丈夫でしょうか。

南東方向中央は、大和川が流れている谷、そのすぐ右が田尻峠(標高120m)、右側が咲洲から27キロ離れている二上山(雄岳517m)、その右に武内峠(289m)、右端の岩橋山(659m)付近が初日の出のポイントです。

田尻峠の先に見えるかすんだ高い山は、大阪府咲洲庁舎から50kmも離れている音羽山(851m)経ケ塚山(889m)熊ケ岳(904m)、ちょうど明日香村を東から囲うように聳えています。これらの山を咲洲地区から見ることができるクリアな日は少ないと思います。

PL教団大平和祈念塔(180m)の背後の山は、咲洲から34キロ先にある大阪府最高峯の金剛山(1125m)、手前のツインタワーは、10キロ先のJR堺駅前のタワーマンション(142m)です。

金剛山系は、大阪府を取り囲むように西にカーブしながら海に向かって伸びています。

そうそう、大阪府咲洲庁舎から37キロ先にある明石海峡大橋の様子も紹介しておきましょう。右の橋脚と山との間にあるタワーは、ティオ舞子(高さ101m)でしょう。こちら側は、あまり天気が良くないようですね。

大阪湾が池のように見えませんか。



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大阪では、冬になると空気が澄み、かなり遠くの景色が見えるようになる日があります。この日がそうでした。

そこで、大阪府咲洲庁舎(旧WTCビル)の展望台から、大阪市内を展望してみたので紹介しましょう。梅田から難波まで

まず、中之島から難波方向を見ると、生駒山系の山襞までクッキリと見えていました。ここまでクリアに見える日は少ないと思います。

左側の超高層ビル群は難波地区、右側は天王寺付近の高層ビル群です。25キロ離れた生駒山山頂(642m)のアンテナも見えていますね。

生駒山山頂のクローズアップです。アンテナの赤白模様まで見える日は珍しいと思います。

屋上にクレーンが乗っている「あべのハルカスビル」は、完成すると高さ300m、背景の生駒山系よりも高く見えるようになるかも知れません。こうして見ると近鉄阿倍野橋駅付近は、高台(上町台地)となっていることが良く判ります。

南東側手前は、南港ポートタウン、その先の生駒山系は左から右に低くなり、谷を挟む中央やや高い山が二上山(517m)、その右に竹内峠、さらに岩橋山(659m)、葛城山(959m)があり、右の最も高い山が咲洲から34キロ先の金剛山(1125m)です。

さて、北方向に戻ってズームしてみると、「うめきた」グランフロント大阪の工事がかなり進んでいるのを見ることができます。

また中之島で工事中のフェスティバルタワービルは、残念ながら弁天町の超高層ビル、オーク200(高さ200m)の背後に隠れていました。

つづく



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住吉大社のある住吉の地は、古事記の仁徳天皇(西暦399年崩御?)の段に、「墨江の津を定めたまいき」とあり、古来から航海の発着地だったようです。反橋

古事記を研究した本居宣長は、住吉大社の創建を仁徳天皇時代という説を称えています。御文庫(1723年)

日本書紀の雄略天皇14年(西暦470年頃?)には、「呉国の使いと共に住吉津に泊まる」と見え、異国の来朝者を住吉で迎えたことが記録されています。南珺神社の楠木は樹齢千年とか

遣唐使の派遣(第一回は630年)に当たっても必ず住吉大神に奉幣祈願があり、その際の祝詞は、延喜式にも記載されています。高倉(重要文化財)

万葉集には、天平5年(733年)に出発する遣唐使に贈る歌として、「住吉の三津に船乗り、日の入る国に遣わす」とあるので、この付近から出港したのは間違いないでしょう。石舞台(重要文化財)

さて、住吉は、スミヨシと読みますが、万葉集に住江、墨江、清江、須美之江とあることから、奈良時代にはスミノエと読んでいたことが確実です。第二本宮と第三本宮は、ともに国宝

上方方言では、良いという言葉をエエと発音するように、同意語の吉もエと読み、比叡山の麓にある日吉(ヒヨシ)神社をかつてヒエ神社と呼んでいたのと同じです。縦に並ぶ3つの本宮(国宝)

時代が下って平安時代の和名抄(西暦930年代)には、住吉を須三与之と書いてあるので、この頃からスミヨシと読む例が認められますが、未だスミノエが有力だったようです。反橋

釈日本紀(1300年頃)に「昔、住吉大神が現れ、この地を褒め称えて「住み吉し」と言い、神の社を定めたと」あるので、鎌倉時代にはスミヨシと読むのが有力となっています。絵馬殿

現在の大阪市には、住吉区と住之江区が存在していますが、平安時代までの日本人には紛らわしい漢字表記(両方ともスミノエク)となっています。

参考文献:住吉大社 住吉大社編



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年末の住吉大社と共に、住吉大社に伝わる古い記録について紹介したいと思います。

住吉大社に伝わる住吉大社神代記の巻末には、神主従八位下津守宿禰嶋麻呂と、遣唐使神主正六位上津守宿禰客人の2名の撰者と天平3年7月3日(西暦731年)の日付が挙げられています。一の鳥居の内側

そこには斉明天皇5年(西暦659年)と大宝2年(西暦702年)に定められた住吉大社の由来を神祇官に言上した内容が記載されていますので、住吉大社がそれ以前からこの地に鎮座していると考えられます。反橋の頂上

また、住吉大社神代記には他に類を見ない独特の説話が多く、例えば住吉大神と広田大神の交流を紹介した部分があるので、西宮の広田神社が古い歴史を持っていることが判ります。左が第三本宮、右が第四本宮

1230年、藤原定家がこれを明月記に紹介していますので、当時でも有名な記録だったようです。第三本宮と第四本宮の間

室町時代までの歴史資料にも、住吉大社神代記が何度も登場していますが、それ以降神殿奥に秘蔵され、江戸時代には紛失したものと考えられていたようです。第二本宮

明治に入ってから本格的な研究が始まり、当初は天平3年(西暦731年)の原書と考えられ、正倉院御物と並ぶ貴重な古文書という説が有力だったようです。第二本宮から第一本宮を望む

しかし、戦後になって田中卓による研究があり、田中氏は天平3年原撰、延暦8年(789年)書写という説を発表しています。第一本宮

その要点は、延暦8年の桓武天皇の住吉行幸に際し、上覧に供するために津守氏の保管している本を書写し、その写本が天平3年の原書を書写したものであることを摂津職に証明してもらったというものです。正面第一本宮と第二本宮(右)

現在は田中説が支持され、1222年前の貴重な文書として昭和29年に重要文化財に指定されています。

参考文献:住吉大社 住吉大社編



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初詣で毎年大混雑する住吉大社ですが、年末に出かけてみると、静かな社内で落ち着いた参拝ができます。

さて、一の鳥居を潜ると、住吉大社のシンボルとも言える反橋が見えてきます。

慌ただしい年の暮だったせいか、反橋を渡る参拝者は少ないようです。

反橋には、足がかりとなるステップが取りつけてありますが、こうしてみても相当急な勾配ですね。

反橋の頂上からは、二の鳥居が見えてきます。こちら側は、橋を下る途中から仮設のスロープが取りつけられてありました。参拝者の姿が写っていない住吉大社の写真は貴重です。

二の鳥居の先には、第三本宮が見えてきます。

第三本宮(国宝)です。

第三本宮のすぐ後には第二本宮、そのはるか向こうに第一本宮が見えています。3つの本宮が縦に並ぶ様子は、遣唐使船団の様子を表しているとか。

遣唐使船の出帆前には、住吉大社で航海安全が祈願され、船には住吉大社の神職が必ず乗船したそうです。左が第三本宮、右は第四本宮

つづく



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平安時代、三井寺は東大寺、興福寺、延暦寺と並ぶ四大寺院に発展、藤原道長(966~1028年)と娘の一条天皇(980~1011年)皇后(上東門院)は、三井寺に帰依し、一条天皇の遺骨は、三井寺に安置されています。

藤原道長の子の頼通は、三井寺の長吏(トップ)明尊に帰依し、明尊を宇治平等院の検校とし、また子の覚円を明尊の弟子として三井寺に入れています。

前回、清和天皇(850~881年)が三井寺の灌頂壇に入壇したと紹介しましたが、1051年、前九年の役に出陣する清和源氏の嫡流、源頼義(988~1075年)が三井寺の新羅明神に戦勝を祈願しています。

源頼義は、石清水八幡宮を長男義家の氏神とし、賀茂社を次男義綱の氏神、三井寺の新羅明神を三男義光の氏神としたことから、三井寺の新羅明神は清和源氏の氏神となっていたのです。

甲斐の武田氏や常陸の佐竹氏などの祖となった新羅三郎義光の新羅とは、三井寺にある神社にちなんだ命名だったのです。

ところで延暦寺内での慈覚大師(山門)派と智証大師(寺門)派の対立はその後も拡大し、智証大師の没後190年を経た1081年、延暦寺山徒による三井寺焼き打ちがあり、多くの堂宇が焼失しています。

しかし三井寺の増誉(1032~1116年)は、白河天皇、堀河天皇の護持僧となり、白河上皇は、1090年に増誉を熊野三山検校(熊野別当の上)とし、以来、熊野三山は三井寺が支配するようになっています。

増誉の次の熊野三山検校職は、三井寺の行尊(1057~1135年)に受け継がれますが、その行尊は、三十三所観音霊場を巡礼した記録があり、この巡礼が後の西国三十三観音札所信仰の成立につながったようです。

その関係でしょうか、三井寺観音堂も西国三十三所の14番札所に定められています。

参考文献:古寺巡礼近江 三井寺 福家俊明著

 



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三井寺は、正式には園城寺といい、天智天皇(626~672年)の孫で弘文天皇(648~672年)の皇子「大友村主与多王」が西暦686年に氏寺として創建、それから1325年を経ている古い寺院です。

この地には、もともと清水が湧出する神聖な井戸(御井)があり、それが天智天皇、天武天皇、持統天皇の産湯として用いられたことから、園城寺は御井の寺(のちに三井寺)として親しまれていたようです。

金堂の西にある閼伽井屋(あかいや)からは、今もその霊水が湧出しています。

創建から約180年後、円珍(814~891年)が天台別院として再興したころから園城寺(御井寺)は、三井寺と通称され、地元では園城寺と言っても通用しないこともあるとか。

円珍(和気広雄)の母は、空海と同じ佐伯氏、従って円珍は空海の甥に当たるとされ、828年に延暦寺に入って修行を積み、853年(40歳)に唐に渡っています。

円珍は、5年後の858年、大量の仏教典籍・図像を持って帰国し、859年から866年頃までは、三井寺で典籍の研究をしていたようです。

その途中、864年には円珍の経歴を知った清和天皇(850~881年)が三井寺の灌頂壇に入壇したことで、清和天皇の第6皇子から始まる清和源氏の氏寺となったようです。

円珍は、868年に延暦寺の第5代天台座主となりましたが、当時の比叡山には第3代天台座主の円仁(慈覚大師794~864年)門流と円珍門流の2派が対立していたようです。

円珍は、座主職にあること24年、891年に亡くなりますが、927年に醍醐天皇から智証大師(ちしょうだいし)の諡号が贈られています。

円珍の没後98年を経た989年、延暦寺内での慈覚大師(山門)派と智証大師(寺門)派の対立は深刻な状況となり、智証大師派は、比叡山を出て山麓の諸寺に移っています。

参考文献:古寺巡礼近江 三井寺 福家俊明著 

 



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少し遅くなりましたが、天台寺門宗の総本山、三井寺(正式には園城寺)の終わりかけた紅葉をご紹介したいと思います。総門

観音堂への石段と、その脇にあるモミジの古木。当日は天気が良くなかったので、紅葉の色が冴えませんね。

観音堂の紅葉

童子鐘堂(重要文化財)前のモミジ

上りきった石段の下に見える紅葉

微妙寺前の紅葉

一切教蔵前の紅葉

三重塔(重要文化財)前の紅葉

一切教蔵(重要文化財)と紅葉

つづく

 



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西暦668年、天智天皇は、飛鳥板蓋宮の北北西にある大神神社の神を大津宮の北北西ある日吉大社に勧請していますが、神武天皇の皇后は、大神神社の主祭神、大物主大神の娘とされていたので大津京への神の加護を願ったのでしょう。日吉大社の合掌鳥居

約5年間続いた近江大津京ですが、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱(672年)では弟の大海人皇子が皇子の大友皇子に勝利して即位、天武天皇となってから再び飛鳥に遷都しています。東本宮の楼門

聖徳太子が摂政になった593年から694年までの102年間は、飛鳥時代と呼ばれますが、途中に飛鳥以外の大阪や大津などへの遷都があったのです。東本宮本殿前から見た楼門

天武系統の天皇は、聖武天皇とその娘の称徳天皇まで続きますが、称徳天皇崩御後に天武系統は絶え、天智の孫の光仁天皇(桓武天皇の父)が即位(770年)、それからは天智系統の天皇が続きます。日吉大社の紅葉

大和から長岡京遷都、平安京遷都を決めた桓武天皇の行動には、大和から大津京に遷都した曾祖父天智天皇への憧れと、約100年続いた天武系統の呪縛から逃れたい思いがあったのかも知れませんね。

大神神社の神を日吉大社に勧請してから120年後、最澄が比叡山上に延暦寺建立、比叡山の地主神である日吉大社を、天台宗延暦寺の守護神としています。

唐に渡った最澄は、中国天台宗の本山「天台山国清寺」の神(山王元弼真君)にならい、比叡山の地主神(日吉大社)を山王権現と呼ぶようにしたのです。

延暦寺では、山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけた山王神道を説き、中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出したみこしは日吉大社のものでした。

平安京遷都以降は、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになり、延喜式神名帳(927年)の名神大社に列格、延暦寺の力を背景にして二十二社に列せられた最後の1社(序列は下八社の筆頭で14番目)となっています。坂本駅への参道の紅葉

参考文献:日吉大社と山王権現 嵯峨井 建 著



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日吉大社(ひよしたいしゃ、元は「ひえたいしゃ」)は、滋賀県大津市坂本にある神社で、俗に山王権現とも呼ばれ、日本全国に約2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本宮です。日吉大社鳥居の横は延暦寺への道。

西暦668年、天智天皇が大津京鎮護のため大和の大神神社の「大己貴神」(おおなむちのかみ)を西本宮に勧請したことで、元々の神「大山咋神」(おおやまくいのかみ)よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、西本宮が「大宮」と呼ばれたようです。走井元三大師堂

古事記には、東本宮にある祭神「大山咋神」を「此の神は近淡海国の日枝の山(比叡山)に坐し」とあり、西本宮「大己貴神」を勧請した668年よりも古くからこの地にあることは確実でしょう。日吉大社特有の合掌鳥居

さて、天智天皇(中大兄皇子、626〜672年)のことですが、中臣鎌足と謀って蘇我入鹿を暗殺した事件(645年)をきっかけに、母親の皇極天皇女帝、594〜661年)は、同母弟の軽皇子(孝徳天皇、596〜654年)に皇位を譲っています。左は社務所

その孝徳天皇は、難波長柄豊碕宮(法円坂の難波宮跡)を造営し、651年にそこを都と定めているので、孝徳天皇は大阪にも縁のある天皇なのです。西本宮の楼門(重要文化財)

孝徳天皇が654年に崩御されると、翌年に前の皇極天皇が飛鳥板蓋宮で再び皇位(改名して斉明天皇)に就きますが、政権は皇子の中大兄皇子が握っていたようです。西本宮本殿(1586年建立、国宝)

中大兄皇子は、百済救援の白村江の戦い(663年)で大敗を喫したことで唐・新羅連合軍からの攻撃を避けるために飛鳥から近江大津宮への遷都を決意、668年(大化の改新から23年後)になって大津宮で即位しています。日吉大社の紅葉

その際に、大津京の北北西3,5kmにある比叡(ひえ)山の麓の日吉(ひえ)大社に大和一宮として知られる大神神社(三輪神社)から大己貴神(おおなむちのかみ)を分祀したのです。宇佐宮

古事記の近淡海国の日枝の山(比叡山)の日枝大社が日吉大社となったのは、当時の神官が「枝」よりも同音で縁起の良い「吉」に修正したと考えられ、同じ現象が墨江から住吉(すみのえ)となり、訓読みまで変化した住吉(すみよし)大社にも見られます。日吉大社の紅葉

 

つづく

参考文献:日吉大社と山王権現 嵯峨井 建 著



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京阪電車の坂本駅で下り、少し歩くと境内に3千本のモミジがあるという日吉大社の白い鳥居が見えてきます。

鳥居の裏側から日吉大社までの広い参道の両側は、モミジの並木道となっています。

社伝によれば、比叡山の麓に鎮座する日吉大社は、2100年前の崇神天皇7年に創建されたという滋賀県でも古い神社です。車道と歩道との間の石灯籠の列

参道を少し歩き、振り返ってみた鳥居

オレンジ色のモミジを逆光で写してみました。

参道を先に進みます

こちらは左側の参道

太陽に照らされると、こんな感じとなりました。

ほどなく官幣大社日吉神社の赤い鳥居の前に到着しました。

次からは、日吉大社の歴史を少し紹介したいと思います。

つづく



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満月の時期には、大潮と重なって土佐堀川の流れが止まり、風が無ければ川面が鏡のようになる現象を見ることができます。この日はまだ少し流れていたので月の反射像が揺らいでいます。

翌日、土佐堀川の流れが完全に停止し、川面は鏡のようになって周囲の景色を写していました。川の中の月もちゃんと円形に写っています。

かなり条件の良い日、天神橋から天満橋方向の土佐堀川を見たらこんな感じです。残念ながら風のせいで手前の川面が少し波立っているようです。

翌日、川の流れが止まり、無風状態という、めったに無い条件が出現しました。OBPのビルの上を飛ぶ飛行機もちゃんと川に写っています。

対岸のビルもこの通り

教会の十字架も、しっかりと十字のまま川に写っています。

暫くすると、ゆっくりと上流方向に向かう流れが出てきて、川面に映る月の映像がゆがみはじめました。

八軒家浜を離れ、中之島公園バラ園に入りました。

流れ出した土佐堀川水面の一部は、まだ鏡のようになっています。

土佐堀川が鏡に変化することを、今回初めて知りました。



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泉涌寺は830年頃、空海がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名されています。泉涌寺総門から続く広い坂道をそのまま直進すれば、泉涌寺の大門の前です。

開山の月輪大師(がちりんだいし)俊芿(しゅんじょう、1166~1227年)は、若くして仏門に入り、1199年に中国に渡り、1211年(滞在12年)に帰国しています。坂道の途中にある塔頭寺院戒光寺の紅葉

帰国した月輪大師は、栄西(1141~1215年)の招きで建仁寺に入っていますが、翌年には、稲荷の崇福寺に移っています。坂道の途中にある塔頭寺院今熊野観音寺の紅葉

1217年、宇都宮信房(1156~1234年)を受戒したことがきっかけで、翌年、宇都宮信房からこの地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を図り、その計画を後鳥羽上皇(1180~1239年)に見せています。大門

1221年、後鳥羽上皇は鎌倉北条幕府追討の承久の乱を起こして敗退、隠岐中ノ島に配流され、直後に後鳥羽上皇と血統がつながらない後堀河天皇(1212~1234年)が即位しています。楊貴妃観音堂

1224年、月輪大師は泉涌寺を皇室の御願寺とするよう後堀河天皇(1212~1234年)に願い、1226年には泉涌寺の主要伽藍の完成をみています。仏殿

月輪大師は、1227年に亡くなりますが、1233年に後堀河天皇の中宮藻壁門院(四条天皇生母)を泉涌寺に埋葬、後堀河天皇も泉涌寺の塔頭観音寺の観音寺御陵に、さらに四条天皇も泉涌寺月輪御陵に埋葬されています。舎利殿

月輪大師が亡くなって4年後に誕生した四条天皇(1231~1242年)は、月輪大師の生まれ変わりという伝説(増鏡)が流布するくらい皇室との関係を強めています。舎利殿と仏殿

その後も後光厳天皇以下多くの歴代天皇の葬儀、火葬が泉涌寺で行われ、皇室との関係を強めた泉涌寺は、御陵守護の官寺として御寺(みてら)と呼ばれるようになっています。本坊

紅葉の季節に訪ねてみましたが、塔頭寺院の見事な紅葉と比べ、泉涌寺の紅葉は期待外れでした。泉涌寺にある清少納言の歌碑

 参考文献:古都巡礼 京都 泉涌寺 田中澄江、小松道圓著



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JR東海道本線のすぐ南、東大路通の新熊野(いまくまの)神社から200m南に泉涌寺道があり、その先の泉涌寺の総門から400m坂道を上ると泉涌寺の塔頭寺院、今熊野観音寺です 。

ここには大同年間(806〜810年)空海が庵を結んだという観音寺があり、また桓武天皇、嵯峨天皇時代に朝廷で活躍した藤原緒嗣(774〜843年)が伽藍を造営したと伝えられています。

それから300年を経た平安末期、後白河上皇は、鳥羽天皇の第四皇子(母親は藤原璋子)として生まれ、異母弟、近衛天皇(母親は藤原得子)の急死により3年間(在位1155〜1158年)だけ皇位を継ぎ、実子の二条天皇(近衛天皇の養子)に譲位しています。

その観音寺は、平安末期には、東山観音寺と呼ばれていたようですが、後白河上皇(1127〜1192年)が、その寺に新那智山の山号を寄せたことで、1160年頃から今熊野観音寺と称するようになったようです。 後白河天皇は、上皇のちに法皇となってからの34年間に、歴代最多の34回もの熊野詣をしたことで知られています。

その熊野好きの上皇が、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場とした新熊野神社に近いこの観音寺を熊野那智大社の本地仏(千手観音)を祀る寺とし、その山号を与えたのでしょう。

後白河上皇の治世は、戦乱が相次ぎ、平清盛、木曾義仲との対立で幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれますが、源頼朝以降の鎌倉幕府は協調路線を取っています。本堂は、江戸時代中期の1713年に再興されたようです。

しかし、後白河天皇が安徳天皇(壇の浦で入水)の後継者として選んだ孫、後鳥羽上皇は、気性が激しく、後に鎌倉幕府に対する反乱(1221年、承久の乱)を起こして隠岐中ノ島に配流されたことで有名です。

承久の乱の後、後鳥羽上皇につながらない血統の天皇(後白河天皇のひ孫)として急遽即位した後堀河天皇(1212〜1234年)の観音寺陵は、曾祖父ゆかりの今熊野観音寺の東南に隣接して営まれています。鳥居橋の下から

応仁の乱では全山が焼失、江戸時代半ばの1713年頃にやっと再興したようです。鳥居橋の上の紅葉

参考文献:古都巡礼 京都 泉涌寺 田中澄江、小松道圓著



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雲龍院は、北朝4代、後光厳天皇(1338〜1374年)が1372年に勅願し、北朝5代目の後円融天皇が1389年に龍華殿を建てたことに始まるようです。雲龍院へのアプローチ

後円融天皇(1359〜1393年)の実母で後光厳天皇の女房、紀(きの)仲子は、足利義満の実母で足利義詮の側室、紀良子の妹に当たり、姉妹の父親は石清水八幡宮の別当、禅法寺通清です山門前の紅葉

従って後円融天皇と足利義満とは、母親同士が姉妹というイトコ関係にあり、どちらも正平13年生まれの同い年(西暦では1年違い)なのです。

後円融天皇は、1382年に後小松天皇(1377〜1433年)に譲位して上皇となりますが、征夷大将軍兼左大臣兼院別当となった足利義満との人間関係は、かなり険悪だったようです。 庭園

翌年、後円融天皇の女房で後小松天皇の生母、藤原厳子(1351〜1407年)が義満との密通を疑った後円融天皇に殴打され、実家に逃げ帰るというスキャンダルが発生しています。書院

さて、1393年に後円融上皇が崩御すると、義満は事実上の上皇として、後世「義満の院政」と呼ばれる権力を振るい、後小松天皇は、まったくの傀儡に甘んじているのです。 書院から見た五色のカエデ

その後円融上皇崩御の翌年、義満は仏門に入っていますが、自分を恨んでいるイトコが迷わず成仏することを願ったのではないでしょうか。五色(赤、橙、黄、黄緑、緑)のカエデ

後光厳天皇、後円融天皇、後小松天皇と北朝3代の天皇の帰依を受けた雲竜院には、北朝歴代の位牌が霊明殿に奉安されています。五色のカエデのさらなる拡大

後の「応仁の兵乱」では、全山焦土と化していますが、江戸時代、幕末の光格天皇の皇妃を始め、仁孝天皇両皇女、孝明天皇の両皇女を埋葬するなど皇室との関係が深くなり、伽藍の整備も進んだようです。悟りの窓

今から630年前の石清水八幡宮の別当、禅法寺通清の二人の孫(天皇と将軍)の争いは、義満の圧勝だったようで、小説家の海音寺潮五郎は「後小松天皇の実父は足利義満だった」という説を称えています。

参考文献:古都巡礼 京都 泉涌寺 田中澄江、小松道圓著



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