泉涌寺は830年頃、空海がこの地に草庵を結び、法輪寺と名付けられたことに由来し、後に仙遊寺と改名されています。泉涌寺総門から続く広い坂道をそのまま直進すれば、泉涌寺の大門の前です。
開山の月輪大師(がちりんだいし)俊芿(しゅんじょう、1166~1227年)は、若くして仏門に入り、1199年に中国に渡り、1211年(滞在12年)に帰国しています。坂道の途中にある塔頭寺院戒光寺の紅葉
帰国した月輪大師は、栄西(1141~1215年)の招きで建仁寺に入っていますが、翌年には、稲荷の崇福寺に移っています。坂道の途中にある塔頭寺院今熊野観音寺の紅葉
1217年、宇都宮信房(1156~1234年)を受戒したことがきっかけで、翌年、宇都宮信房からこの地の寄進を受け、宋の法式を取り入れた大伽藍の造営を図り、その計画を後鳥羽上皇(1180~1239年)に見せています。大門
1221年、後鳥羽上皇は鎌倉北条幕府追討の承久の乱を起こして敗退、隠岐中ノ島に配流され、直後に後鳥羽上皇と血統がつながらない後堀河天皇(1212~1234年)が即位しています。楊貴妃観音堂
1224年、月輪大師は泉涌寺を皇室の御願寺とするよう後堀河天皇(1212~1234年)に願い、1226年には泉涌寺の主要伽藍の完成をみています。仏殿
月輪大師は、1227年に亡くなりますが、1233年に後堀河天皇の中宮藻壁門院(四条天皇生母)を泉涌寺に埋葬、後堀河天皇も泉涌寺の塔頭観音寺の観音寺御陵に、さらに四条天皇も泉涌寺月輪御陵に埋葬されています。舎利殿
月輪大師が亡くなって4年後に誕生した四条天皇(1231~1242年)は、月輪大師の生まれ変わりという伝説(増鏡)が流布するくらい皇室との関係を強めています。舎利殿と仏殿
その後も後光厳天皇以下多くの歴代天皇の葬儀、火葬が泉涌寺で行われ、皇室との関係を強めた泉涌寺は、御陵守護の官寺として御寺(みてら)と呼ばれるようになっています。本坊
紅葉の季節に訪ねてみましたが、塔頭寺院の見事な紅葉と比べ、泉涌寺の紅葉は期待外れでした。泉涌寺にある清少納言の歌碑
参考文献:古都巡礼 京都 泉涌寺 田中澄江、小松道圓著