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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



小さなイトトンボの撮影は、ピントがなかなか合わなくて大変ですが、空中を飛行するイトトンボの撮影も大変です。・・・クロイトトンボ

下のクロイトトンボは、前足を胸部に折り畳んで飛行しています。

前翅と後翅がヘリコプターのプロペラのように見える写真も撮ることができます。

こちらはベニイトトンボの飛行です。

離陸(草)直後のベニイトトンボ

足を畳む直前のベニイトトンボ

こちらはモノサシトンボの飛行。向こうからベニイトトンボが飛んできていますね。

モノサシトンボの足は白いのが特徴で、そこを見れば遠くからでも識別できます。

モノサシトンボは前翅と後翅を思い切り羽ばたきながら、ベニイトトンボに向かって飛び去ってゆきました。



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久しぶりに大阪市内から電車で30分ほどかけてベニイトトンボの撮影に行ってきましたのでその姿を紹介しましょう。・・・下の写真の右下にベニイトトンボその左にキイトトンボ

ベニイトトンボ(全長36-43mm)は、昆虫網、トンボ目、イトトンボ亜科のイトトンボ科に属し、腹部が赤く見えるのが特徴です。

このベニイトトンボですが、現在その生息地が局地的になり、2012年8月の環境省が発表した第四次レッドリストで準絶滅危惧種に指定(その前は絶滅危惧Ⅱ類)されています。

羽曳野市にある大阪府環境農林水産総合研究所のHPに水辺の昆虫図鑑があり、その中にベニイトトンボが紹介されていました。<・・・>が引用

<ベニイトトンボは名前のとおり、全身朱赤色をした中型のイトトンボです。キイトトンボ仲間で、腹長は約3cm、センター内の他のイトトンボよりも少し大きく、赤が目立つのですぐ見つけることができます>

<ベニイトトンボは、日本国内で東北地方から九州南部にかけて分布しますが、生息地は限定されています。大阪府内でも明らかになっている産地はそれほど多くありません>

<メスはオスのように赤くはなく、くすんだ色あいをしています>・・・雌雄連結した前がオス、後方がメス

<環境省レッドリスト(2012)と大阪府のレッドリスト(2014)でそれぞれ「準絶滅危惧」に指定されています>

ベニイトトンボはキイトトンボよりも草に止ってじっとしている時間が長く撮影は容易でした。



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久しぶりに大阪市内から電車で30分ほどかけてクロイトトンボの撮影に行ってきましたのでその姿を紹介しましょう。

昆虫網、トンボ目、イトトンボ亜科、イトトンボ科に属するクロイトトンボの大きさは(27-37mm)昨日紹介したモノサシトンボ科のモノサシトンボ(39-50 mm)と比べると、小ささが際立っています。

クロイトトンボは、平地や丘陵地の水草の多い池に多く、都市部でも普通に見られるイトトンボで、腹部先端の青色部を除いては、ほとんど黒いのが特徴です。

クロイトトンボ属にはクロイトトンボ、オオセスジイトトンボ、セスジイトトンボ、オオイトトンボ、ムスジイトトンボの5種が存在しています。

クロイトトンボ属の各種はよく似ていますが,肩縫線上の淡色斑の有無及び眼後紋の形状と後頭条の有無で判別することができるそうです。

クロイトトンボは肩縫線上の淡色斑がなく,後頭条がない.また♂は成熟すると体全体に青白い粉を吹くのが特徴で、♀は緑色タイプと青色タイプの2種類が存在するようです。

イトトンボには眼後紋(がんこうもん)と呼ばれる目の後ろに特徴的な紋を持つものがいます。

クロイトトンボには、体色に合わせた小さめの眼後紋があり、他のイトトンボの仲間と見分けるときの参考になります。

こうしたイトトンボの体の一部を確認するためには写真撮影が無難です。しかし全長が3cmほどしかないイトトンボなので大きく写すのは難易度が高いですね。



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久しぶりに大阪市内から電車で30分ほどかけてイトトンボとは別の科に分類される「モノサシトンボ」の撮影に行ってきましたのでその姿を紹介しましょう。

モノサシトンボは、昆虫網、トンボ目、イトトンボ亜科、モノサシトンボ科(イトトンボ科ではありません)に分類され、世界で26属205種が知られ、日本では3属6種1亜種が確認されています。

モノサシトンボは、イトトンボよりやや大きく(全長39-50 mm、キイトトンボは31-44mm)腹部に物差しの目盛りのような黄白色の模様があるのが特徴です。

日本には、モノサシトンボ属、グンバイトンボ属、ルリモントンボ属の3属が生息し、ほぼ全国的に分布していますが、モノサシトンボ以外は生息地が局地的で、中でもグンバイトンボは、生息地が極めて希で絶滅に瀕しています。

モノサシトンボの全長は39-50 mm、腹長31-40mm、後翅長18-26 mm、成熟すると長い腹部の斑紋が水色となります。・・・雌雄の連結

近縁種でやや大型のオオオモノサシトンボ(環境省の絶滅危惧1類指定)と形態が酷似し、腹部に物差しのような等間隔の環状紋があって、これが和名の由来となっています。

中脚と後脚の脛節は白く、やや拡がっていますが、同属のグンバイトンボはこれが軍配状に広がっていることからその名が付いたようです。

モノサシトンボの後頭部には青白い斑紋があり、複眼は左右に離れていて、複眼の内側に波状の斑紋がありますが、グンバイトンボには頭の後頭条がありません。

モノサシトンボの翅には小さな黄色い斑紋がありますが、若い個体の斑紋はやや赤味を帯びた黄色です。



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昨日紹介したキイトトンボですが、止っている場所から離れて空中を飛行する写真を紹介しましょう。

体は停止しているように見えますが、4枚の翅を高速で動かしていますね。

こちらは今、まさに飛び立つ瞬間、前翅を前に、後翅を後ろにして羽ばたくようです。

体が浮いたこの段階では後翅が前にきていますね。

これも飛び立ったばかりの状態

頭部をこちらに向けての飛び立ち

前翅を前に、後翅を後ろにした姿は、4枚羽のヘリコプターを連想させます。

イトトンボの翅は前後と上下を立体的に動いています。

明るい黄色のキイトトンボは低い場所を飛ぶので、画像が暗くなってしまいました。



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久しぶりに大阪市内から電車で30分ほどかけてイトトンボの撮影に行ってきましたのでキイトトンボの姿を紹介しましょう。

昆虫網、トンボ目、イトトンボ亜科のイトトンボ科に属するトンボで大阪近郊で見ることができるのは、黄色いキイトトンボをはじめ青色系のアオモンイトトンボ、赤いベニイトトンボ、黒っぽいクロイトトンボなどです。

イトトンボは、日本の南にいくほど種類が多くなりますが、本州の山地や北海道に分布するエゾイトトンボなど北方系もいることが知られています。

トンボ科やヤンマ科など、不均翅亜目(トンボ亜目)普通のトンボは、後翅が前翅に比べて幅広いのに、イトトンボなどの均翅亜目は前後の翅がほぼ同じ形をしています。(上の写真)

イトトンボの頭部は左右に幅広で、複眼はトンボと比べると小さく、腹部は細長い円筒形をしているので、小型のイトトンボは、呼び名の通りちょっとした糸くずのように見えることがあります。

トンボ科やヤンマ科など、大型の不均翅亜目が直線的に広い空間を飛び回るのに対して、小型のイトトンボはあまり水辺を離れず、水辺の草の間でぱたぱたと緩やかに羽ばたきながら低く飛びます。

またトンボ類の交尾はオスとメスが輪を作りますが、イトトンボ(均翅亜目)では腹部が細くてよく曲がるため、交尾の際にはハート型となることが知られています。

イトトンボは幼虫も成虫と同様に体が前後に細長く、さらに腹部先端に細いえらが3枚ついているので大型トンボ(不均翅亜目)のヤゴと区別できます。

イトトンボは、世界の熱帯から亜寒帯まで多くの種類が知られていますが、特に熱帯に種類が多く、南アメリカの熱帯雨林に分布するハビロイトトンボはイトトンボの最大種(体長100mm、開張150mm)とされています。

 



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アリス・メイベル・ベーコンは、27歳で教師として来日した際の様子を10年後にアメリカで出版していますが、その中に天長節(明治天皇33歳の誕生日)に臨席したときの様子が描かれていましたので、長居植物園のモンシロチョウと一緒に紹介しましょう。<・・・>が引用部

<明治17年(1884年)11月3日、朝7時半に津田梅子(当時21歳)と車(人力車)で大山捨松(大山陸軍卿の妻・当時25歳)の家に迎えに行き、青山練兵場で行われる観兵式の式典会場に向かいました>

<役人や華族たちは金モールのついた大礼服を着て、金のモールの縁取りの帽子を被って式典会場に急ぎ足でやってきます。友人のお陰で、他の人たちのように会場の隅っこで立ち止まることなく、兵隊たちがうやうやしく並んだ通路を通って大山陸軍卿のところに連れてゆかれました>

<(顔見知りの)大山陸軍卿(当時43歳)は、沢山の勲章やメダルがついた豪華な制服を着ておられ、私たちにとても親切で私と優しく握手して下さり、天皇陛下のテントの隣に案内してくれました>

<しばらく待つと次第に人が集まりだし、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、外交官たちに囲まれて混雑しはじめましたが、私はすばらしい席に着けたことを感謝しました>

<やっと、馬のひづめの音が聞こえ、人々は前へ前へと押し合いを始めましたが、幸いなことに私たちは(陸軍卿の計らいで)前の席(最前列)に坐っていたので、観兵式式典をよく見ることができました>

<ほどなく豪華な馬車がやってきて、私たちのすぐ前で止まり、中から天皇陛下が下りてきました。天皇は神の子孫であり、天の子として国民に崇拝されているのですが、私には普通の日本人となんら変わらないように見えました>

<日本人男性としては背が低く、外国人たちから、天皇は日本人にしては色が黒いと聞いていましたが、私にはむしろ色白に見えました。天皇のお顔立ちは彫りが深くどっしりとしています>

<天皇のすぐ後から、大山陸軍卿を先頭に将官たちが続いてやってきて、会場を一回りしてから私たちのすぐ側に戻ってきました。あまりにも近くだったので、もし私が天皇にお声をかけたいと思えば大きな声を出さなくてもお話しすることができたほどでした>



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明治時代に教育者として来日したアメリカ人の女性アリス・ベーコン(1858年 ~ 1918年)のことを長居植物園のキチョウと一緒に紹介しましょう。

1872年、日本から来た女子留学生山川捨松(当時数え年で13歳・帰国後大山巌と結婚)を引き取ったのは、コネチカット州ニューヘイブンの牧師、レオナルド・ベーコン夫妻で、夫妻は日本人の捨松を娘同様に扱い、特に年齢の近かったアリス(15歳)と捨松は姉妹のように過ごしています。

アリス・ベーコンは、後に明治期の日本を書いた本の前書きに「生涯の友人・大山捨松に捧げる」という一文を入れるほど、捨松との友情を育み、アリスが1年先でしたが死ぬ直前まで文通していたようです。

父・レオナルドは、牧師のほかイェール大学神学校の教師も務め、南北戦争の時、いち早く奴隷制に反対する論陣を張るなど人望のある地元の名士でしたが、ベーコン家は子沢山であったため生活は非常に苦しかったといわれています。

そのためアリスは大学進学をあきらめますが、24歳でハーバード大学の学士検定試験に合格(1881年)して学士号を取得、1883年にハンプトン師範学校の正教師となっています。

一方、捨松と津田梅子は出発から11年目の1882年(明治15年)に日本に帰国、捨松は翌1883年(明治16年)に当時陸軍卿(後に陸軍大臣と改称)だった大山巌と結婚しています。

アリスは1884年(27歳)、大山捨松(25歳)や津田梅子(21歳)の招聘により、華族女学校(後の学習院女学校)の英語教師として来日、1年間だけでしたが明治初期の日本社会をつぶさに観察しています。

アイリスは帰国後、日本での出来事をまとめたものを1894年にアメリカで出版(『日本の内側』日本語訳題『華族女学校教師が見た明治日本の内側』)し、反響を呼んでいます。

アリスは1900年にも大山捨松と津田梅子の招聘で東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)と津田梅子が建てた女子英学塾(現・津田塾大学)の英語教師として赴任、1902年4月に任期満了で帰国するまで日本の女子教育に貢献した人物でした。



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元帥大山巌公爵の息子、大山柏大尉が陸軍に在籍していたある年(1921年・大正10年頃・柏氏32歳頃)、福井県で陸軍の大演習があり、夜行列車で同僚の徳大寺実厚大尉(柏氏より2歳年長・東山天皇の八世子孫・徳大寺家は公爵)と一緒に東京に帰る途中のエピソードを紹介しましょう。<・・・>が引用部分・・・長居植物園のハーブ園にはアゲハチョウが蜜を吸いにやってきていました。

二人は<福井から早朝京都に出て、陸軍御用(大山元帥の定宿)の近太旅館で一休みして東京に帰ることとし、京都駅からタクシーで近太旅館に着くと、まだみんな寝ている。大声で怒鳴って叩き起こすと見知らぬ新顔の女中がやっと出てきた>・・・ハーブの薄紫とアゲハチョウがよく合っています。

<若い大尉風情がと軽蔑気味に案内されたのが、近太としては最下等の従僕部屋。だが私たちは委細かまわず「先ず床を取れ」「飯ができ次第持ってこい」と矢継ぎ早にやらかす。女中は若いくせにいやに横柄な客だと、起きてきた女将に上申したらしい>・・・下の写真は右正面から

<(顔見知りの)女将がやってきて見たら、徳大寺と私が行燈部屋で飯を食っている。「あらー!」と平身低頭してお辞儀をし、顔を上げるや否や柳眉逆立て大声で「誰どす。こんなお部屋にご案内しやはったんは!早うここにきてお詫び申し上げなさい」と恐ろしい剣幕だ>・・・これも右側から

<初対面の女中君、おどおどして平蜘蛛のようにお辞儀ばかりしている。余りに気の毒だったので方向転換のつもりで「ねえ女将さん。この人は徳大寺さんなんだよ」と何気なしに言った>・・・後ろから別のアゲハチョウが接近

<ところが女将が徳大寺と聞くや否や、飛び下がって障子を開け、廊下まで出たらと思ったら、板の間にペッタリと坐って額を板にすりつけた最敬礼だ。何秒かかったか解からないが私の親爺(大山元帥)にもこんなにはしない>・・・横を通過しただけでした。

<かねてから京都人は、お公卿様をえらく尊敬するとは聞いていたが、目の当たりにこれを見て、私の方が驚いた。だが近太旅館はそれ所ではない。忽ち大騒ぎだ。この警報が旅館内に伝わると、一家総動員。まず旅館主人が紋付羽織袴の正装で出てきて行燈部屋で寝ている徳大寺様へ廊下から挨拶>・・・蜜を吸い終わってハーブから離れたアゲハ

<片や女将総指揮でお部屋の準備。いよいよ出来上がった所で女将は現れ、お部屋替えをと言う。私が「せっかく寝ているのだから起きてからにしてくれ」と言うと、「お寝みのままで結構です」と男衆が布団の四隅を持って担架輸送しようとする>・・・これもハーブから離れたアゲハ

<徳大寺君が「大山!移ってやろうよ」と言うので譲歩し、両人(二人とも後に公爵を襲爵)とも最上室に入って絹布団にくるまって寝て、その晩に夜行列車で帰京した。これが縁となって、徳大寺君は軍人をやめて、昭和天皇侍従となった後も、京都に来る度毎に、必ず近太旅館に泊まるようになったとか>・・・ハーブからやや距離を起いたアゲハ

金星の追憶 大山 柏著



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大山巌(1842~1916年)孫に当たる大山梓氏(1889~1992年)の「父(大山柏)の思い出」という随筆から父親の大山柏氏の青島赴任断念と長居植物園のダリアを紹介しましょう。

1915年(大正4年)元帥(終身)陸軍大将、内大臣(宮中序列は総理大臣の上)大山巌(数え年74歳)公爵の子息、大山柏中尉(1889~1969年・27歳・1910年に陸軍士官学校を卒業)は、青島にあるドイツ人俘虜収容所勤務となる内命を陸軍省から受けていました。・・・菊の花のような八重咲きのダリア

実は、親戚の西郷寅太郎中佐(1866~1919年・50歳)が陸軍習志野俘虜収容所長に就任、大山柏は歩兵将校としてそこを訪問した際に西郷所長(ドイツに7年間在住・ドイツ士官学校卒業)が流暢なドイツ語でドイツ人捕虜と接する姿をみて憧れたようです。・・・こちらは外がピンク、内側に向かって白くなるダリア

大山柏中尉は、父親の教育方針で幼少期からドイツ語の教育を受けていて、ドイツ語には自信があり、それを生かせる職場と張り切っていたようですが、現地軍の参謀長山梨半造少将(1864~1944年・52歳)の猛反対で青島勤務は実現できず、生涯山梨氏を恨んでいたといいます。・・・コガネムシの仲間のハナムグリがいるダリア

実は、青島守備軍(司令官 神尾光臣中将1855~1927年・61歳)は、占領地で密かにアヘンを独占販売し、その利益を軍資金として流用していて、大山中尉の青島転勤によってこの事実が父親に密告されることを恐れたのが理由でした。・・・黄色の八重咲きダリア

大山元帥(青島司令官より13歳、参謀長より22歳年長)は徹底して不正を許さない厳格な人物で、当時陸軍の幹部連中はそれを良く知っていたのです。・・・オレンジ色の八重咲き

また息子も父親に似た性格であることが知られていて、息子が青島勤務となった場合、アヘン密輸益を軍資金としていることが密告されることを恐れたからでした。・・・朱色の八重咲き

さて、大山中尉の転勤を無事阻止した山梨半造少将の後は、関東戒厳司令官、東京警備司令官、軍事参議官を経て1921年に陸軍大将に昇進、1927年(昭和2年)には軍人としての最高ポスト朝鮮総督となっています。・・・一重咲きダリア

ところが朝鮮総督就任直後、米穀商人から収賄した疑獄が暴露されて辞任。間に入った側近は有罪判決を受けますが、陸軍最高ポストの山梨大将は無罪となっています。青島アヘンから朝鮮での収賄まで12年、山梨半造の不正(という性格)は変わらなかったようです。・・・最後にダリアの花粉を必死に食べている三匹のハナムグリ



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6月19日から県境をまたぐ観光が解除となったので、神戸北野ホテルまで朝食を食べに行ってきました。

このホテルの朝食は上の写真にもあるように「世界一」だそうです。朝食のメニュー

右にパン、コーヒーとミルクポット、中央にハム、その下がスープ、その左がイチゴジャム、ナッツ、ピーナッツバター、蜂蜜、左端上は3種のバター、その下に砂糖と塩

次に5種類の飲むサラダやタピオカオレ、ヨーグルト、プルーン、半熟卵の載ったトレイが来ます。

飲むサラダのお品書きです。

専用エッグカッターで卵の殻を割ります。

エッグカッターで割れた卵の殻、この卵に室町時代から続く製法で造られたという「豊岡市の塩」を振って頂きました。

クロワッサンとフィナンシェの載ったトレー下の箱にもパンが入っていました。

左上はトマト、パセリ、プレーン3種のバター。右下は生コンフィチュール(砂糖で果汁を浸出させ、果汁だけを煮詰めた後に果肉を漬けたもの)その左が栗の花の蜂蜜とアーモンドペースト



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6月19日から県境をまたぐ観光が解除となったので、神戸北野ホテルまででかけてみました。

トーアロード案内看板にある赤い現在地表示のすぐ左が神戸北野ホテル

トアロードに面した入り口

エントランスのすぐ横がフロント

ホテルの規模相当のロビー

上の写真テディベアの座るデスクの右がラウンジでした。

レストランへの通路です。

左が案内された朝食レストラン

折角なので有名な神戸北野ホテルの朝食を頂くことにしました。



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長居植物園のアジサイ園です。小雨が降っていたので花弁に透明な水滴が付いています。

赤いアジサイ

ガクアジサイ

ガクアジサイの中心部

こちらもガクアジサイ

ガクアジサイ中心部の蕾み

八重咲きのアジサイ

八重咲きのガクアジサイ

ガクアジサイの水滴



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昨日に続いて梅雨に咲く長居植物園の花を紹介しましょう。・・・大池のスイレンが満開

スイレンの咲く池の側の花菖蒲園。・・・レンズに雨粒がついてしまいました。

小雨の中でしたが、職員が花の世話をしています。・・・ご苦労様

見事な花菖蒲

花菖蒲は梅雨の季節が見頃で、雨の中で見るのが一番かも。

雨の水滴が花弁に

白い花菖蒲は露出が難しい。ちょっと露出オーバーでした。

長居植物園の花菖蒲は紫色の花が多かったようです。

こちらは明るい紫色の花菖蒲



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梅雨の小雨でしたが、久しぶりに長居植物園に行ってきました。

アカンサス(別名ハアザミ)の花。アカンサス属は30種類からなり、地中海沿岸を中心に分布しているとか。

クチナシの花

入り口に置かれたユリ

ユリ

アジサイの集中展示

大池の横にある花菖蒲園

梅雨空に花菖蒲は合いますね。

雨を受けた花菖蒲



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