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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



昼休みに淀屋橋から土佐堀川の南、土佐堀通りを肥後橋まで歩くと、トウモロコシのように上の階が下よりも大きい大同生命本社ビルが見えてくる。

大同生命本社



大同生命本社ビルの土佐堀通り側には、本郷 新(1905~1980年)の作品「太陽の母子」があったが、ブロンズ像には緑青の錆が出て少し痛んでいるようであった。

「太陽の母子」



本郷 新は北海道生まれで、高村光太郎に師事して彫刻を学び、作品は稚内の「氷雪の門」をはじめ北海道内各地に多数展示されている。

「氷雪の門」



又、中之島にはもうひとつの本郷作品が設置されているが、それは次回紹介したい。

大同生命本社ビル四ツ橋筋側の植栽の中にある巨大なブロンズ彫刻は、アントワーヌ・ブールデルの作品である。



この作品は、1918~1922年にかけて制作されたアルゼンチンの解放者アルヴェアル将軍記念群像の中の一体で、「自由」と名づけられている。


大同生命本社前の肥後橋を渡ってフェスティバルホールの南、土佐堀川北側の土手を東に歩くと、歩行者専用の錦橋がある。

錦橋



錦橋から東に伸びる歩道には、大きな彫刻作品が設置されている中之島緑道である。

フェスティバルホールのレリーフ



有名彫刻家の小ぶりな作品が多い御堂筋の彫刻に比べると、中之島緑道の彫刻作品は、中堅的な彫刻家の巨大な作品が多いという特色があるので面白い。


中之島緑道の最も西にある作品は、「雲の歌」という河原 明(1949年~)の金色をした彫刻作品で、河原は東海大学教養学部芸術学科講師という。

「雲の歌」



次の作品は北田吉正の「花の天女」で、岩手県出身の北田は、巨大な石を使ってあどけない女の子をモチーフとした温かみのある作品を多数制作している彫刻家のようである。

「花の天女」




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大阪モノレール彩都線は、さらに東に伸びる計画があるようであるが、彩都西駅から先はまだ全く手が着けられていないようである。

高台から見た彩都西駅周辺



彩都西駅のすぐそばでは、ガーデンモール彩都というスーパー平和堂が入るショッピングセンターが工事中であった。



このショッピングセンターもモノレール開通と同時に3月19日オープンするようなので、住民の買い物の利便性は格段に良くなりそうである。

駅周辺には、計画人口5万人の受け皿となるマンション建設が進んでいるようであるが、5万人を受け入れるにはまだ宅地の造成が足らないようであった。



彩都は世界的な研究機関の集積を目指し、政府の都市再生プロジェクトに採択されているらしい。

既に国家的研究機関の「医薬基盤研究所」をはじめ、1年で7施設26社の進出が決定し、今後も研究施設の集積が期待されているという。

彩都西駅とモノレール軌道



産官学を巻き込み、大阪北部地域の中核を担うリサーチパークとするというが、去年秋の「武田薬品中央研究所」の誘致失敗で暗雲が漂いはじめた。

大阪府は「武田薬品中央研究所」を彩都に誘致するため、約160億円の補助金を含む総額250億円の支援策を提示していたが、武田薬品はたった80億円の補助しかない神奈川県を選んでしまった。

モノレールの線路



「武田薬品中央研究所」を誘致できなかったイメージダウンは大きいと思うので、今後研究施設の誘致活動は大変であろうが、住民に取っては静かな環境が維持できるメリットがあるのかもしれない。

彩都の高台から遥か南を見渡すと、モノレールの軌道の向こうに大阪梅田の超高層ビル群を見ることができる。



梅田方向の右手前には、千里中央の高層ビルも良く見え、「彩都」とは思っていたよりも梅田や千里中央に近い場所であった。



彩都西駅に近い山は、今もどんどん削られて造成が進んでいたが、果たしてこれから5万人もの住民を呼び込めるのであろうか。



また5万人の住民が住む新しい街ができたとしても、30年後に老人ばかりのオールドタウンにならにような対策はあるのであろうか。


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武田薬品の中央研究所を誘致しようとして失敗、世間を賑わせた「彩都」を一度見てみたいと思って休日に出かけていった。

彩都の高台から千里付近を展望する



大阪府、茨木市、箕面市、都市機構、阪急電鉄の共同開発事業である彩都は、アメニティ豊かな住環境と、文化学術や研究開発、国際交流といった特色ある機能が組み込まれた、自然と調和する緑豊かな公園都市であると宣伝されている。

計画面積は、茨木市域が5,8k㎡、箕面市域が1,6k㎡、合計7,4k㎡というから、大阪市西成区と同じくらいの面積である。

彩都の入り口でモノレールと交差する道路



彩都の計画人口は、茨木市域が3万9千人、箕面市域が1万1千人、合計5万人を見込んでいるらしい。

2004年4月には、西部地区の一部が街開きして約350戸が彩都の住民となっているので街ができて既に3年が経過したことになる。

駅前



今の交通手段は、千里中央か北千里からバスに乗るしかないが、バスの終点「彩都バス停」の周りでは、若い母親グループが大勢アチコチで立ち話をしている。

彩都の住宅街では、高齢者の姿をあまり見なかったので、中高年の人には少し暮らし難い若い人の街と言えるのかもしれない。

今年3月19日に開業予定の大阪モノレール彩都線の終点駅、「彩都西駅」とモノレールの軌道は既に殆ど完成しているようであった。

彩都西駅



大阪モノレール彩都線は、現在の阪大病院前駅から路線を延長し、モノレールに乗れば千里中央駅まで直通で17分で行けるという。

大阪梅田までは、千里中央から地下鉄で20分くらいでアクセスできるので、彩都から梅田までは乗り継ぎが良ければ40分程度で到着できそうである。

モノレール軌道




彩都とは、紅葉で有名な箕面の奥にある深い山の中というイメージを持っていたが、交通の利便性は意外に良いようであった。



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高松城を生駒氏から引き継いだ松平頼重の次男(長男は早世)綱条は、水戸徳川家に入ったが、2代で絶えたために、頼重の4男頼侯の孫、宗堯が水戸家を相続している。



以後水戸徳川家は、宗堯の子孫が連綿と続き、4代後の徳川斉昭の子、徳川慶喜はとうとう15代将軍になっているので、高松の松平家からは後に将軍が出たことになる。

高松城の天守閣の復元は、長らく市民の願いであったが、明治の取り壊し寸前の高松城天守閣の不鮮明な写真が1枚残っているだけであったために資料不足として文化庁が復元の許可を出さなかったという。



しかし2005年になって、イギリスのケンブリッジ大学図書館に明治初期に撮影した鮮明な写真が残っていることが判り、その写真を基にした復元の可能性が高まってきた。



それにしても、今から130年近い昔、遠い四国高松までカメラ持参でやって来て、高松城の写真を撮っていたとは、好奇心の旺盛なイギリス人には吃驚させられる。



高松市制施行120年にあたる2010年着工を目指し、復元計画を進めているというが、早くも「玉藻廟」を撤去して天守台の石垣の補修が始まっていた。



天守から鞘橋を渡って二の丸まで戻り、三の丸に作られた日本庭園(内苑御庭)を歩くと高松城という名前にちなんだ松が多い。




陳列館から桜の馬場に出る桜門は、昭和20年の空襲で惜しくも焼失してしまったが、写真が現存しているので、天守閣の次にはこの門の再建をしてほしいものである。



桜の馬場からはケンブリッジ大学に保存されていた写真と同じアングルで現在の天守台の写真を撮っておいた。

今の桜門石垣



桜の馬場を東に歩くと重要文化財の艮(うしとら)櫓があり、さらに石垣の枡形、旭門を出て中掘にかかる旭橋を渡り、やっと城外に出ることができた。




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高松城本丸は城のほぼ真ん中に存在し、周りを内堀に囲まれていて他の城郭とは完全に独立した配置となっている。



外部とは、長さ30mの木製の「鞘橋」一本だけで繋がっており、もし敵にこの橋を落とされたら完全に逃げ場を失うため、近世の城の縄張りとしては異例の造りである。



1676年頃の絵図では、橋の両側に欄干があるだけであったが、その後に橋の上部に屋根が架けられたので「鞘橋」と呼ばれるようになったらしい。



現在の「鞘橋」は、天守閣が取り壊された1884年に架け替えられたと言われ、今でも122年前の珍しい構造を見ることができる。



天守台の石垣は、本丸の東端に突き出し、三の丸の方から見ると天守閣が海上に浮いているように見えたという。



築城時の天守は黒い下見板張であったが、1671年の松平氏による大改修で改築されて初層が東西26,2m×南北24,2m、高さ24,5mと四国最大を誇っていた。

天守の模型



これは通常の5層天守の約2倍の規模で、姫路城より一回り小さいだけの堂々とした天守閣であった。

また、4階が3階より大きい構造は、南蛮造と言われ、一重目と二重目の比翼入母屋破風と唐破風、4階の華頭窓などに高松城の特徴があった。



四国一の豪壮さを誇っていた天守は、1884年(明治17年)老朽化のため取り壊され、天守跡地に松平家初代藩主「松平頼重」を祭った「玉藻廟」が1920年建立されている。

取り壊し直前の天守の古い写真



今の本丸天守台の前には、「玉藻廟」の鳥居が残っているが、「玉藻廟」は石垣の補修と新天守閣建設のために昨年撤去されていた。



最盛期には66万㎡(約20万坪)あった高松城の総面積は、今では約8万㎡(約2,4万坪)にまで減少したが、外堀と内堀には海水が引き込まれていて、往時の水城の名残を残している。


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高松城は、秀吉の中国大返しで有名な備中高松城(岡山県)と、讃岐高松城(香川県)と2箇所もある。



今回は備中岡山で乗り換え、瀬戸大橋を快速電車マリンライナーで渡って讃岐高松城を見てきた。



JR高松駅周辺は、駅前再開発が進み超高層ビルや高層のANAホテルが建って近代的な都市となっている。



高松駅からほど近いところにある玉藻公園は、1587年に豊臣秀吉から讃岐17万石に封ぜられた生駒親正が、数年の歳月を掛けてこの地に築いた旧高松城の城址公園である。



生駒氏は、織田信長生母の実家であったと言われ、生駒親正は信長とは「いとこ」同士となる名門であったが、信長の死後は名門の誇りをアッサリ捨てて秀吉に仕えたらしい。

生駒氏の治世は、親正、一正、正俊、高俊と4代続いたが、1640年に生駒騒動といわれる御家騒動で4代生駒高俊が、秋田県由利郡矢島1万石の地に移されてしまっている。

今も残る月見櫓



2年後に徳川家康の孫で水戸の徳川頼房の子、松平頼重(水戸光圀の兄)が高松城(12万石)に入り、明治2年の版籍奉還まで11代228年間在城している。

水戸光圀は、兄である松平頼重の子綱條(つなえだ)を養子として迎え、水戸徳川家を相続させているので、高松藩の初代藩主の子息は御三家の当主となった。

艮(うしとら)櫓と琴電の電車



一方、光圀の子は、高松12万石松平頼重の養子となったので、兄弟が子供をトレードするという珍しい出来事があったらしい。

瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城(高松城、愛媛の今治城、大分の中津城)の一つと呼ばれ、本丸を中心に時計回りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていた。



城内の水門からは、今も新鮮な海水が流れ込んでいるせいか、堀の水は透明に澄んでおり、稚魚から大きく育った魚が泳いでいるのが良く見える。



明治まで、三重五層の天守閣がそびえ、要所には約20の櫓があって、四国最大の城として威容を誇っていたが、現在では、艮(うしとら)櫓、月見櫓、北之丸渡櫓および水手御門が重要文化財の指定を受け残っているだけである。


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次のコーナーのフランク・ステラの「ゲッティ廟」も大阪市の所蔵作品で6億3千万円で購入したと発表されている。

ポスター



戦後のアメリカ抽象絵画を代表する作家の1人というが、1936年生まれで今も作品を発表しているアメリカ人画家に6億円以上を支払うとは、大阪市は税金の無駄使いをしたと言われても仕方がない。

フランク・ステラの別の作品(この作品の今の市場価格は百万円程度)



例えば、バブル崩壊後の1999年に建設された島根県立美術館にあるフランス印象派の世界的有名作品、モネの「アバルの門」、クールベの「波」、「セイ・アン・バレーの水車小屋」は3点あわせて2億3千万円(1点が約7千万円強)で購入したと発表されている。

モネの「アバルの門」



フランス印象派を代表するマネ、クールベの作品よりも、今も次々と精力的に作品を制作しているフランク・ステラ作品のほうが9倍も高いということは、まず有り得ないので、バブル時に購入した価格が高すぎたということであろう。

クールベの「波」



したがって大阪近代美術館コレクションの購入費総額151億円は、今では十分の一以下の価値しかないと思われるので、市民の税金を無駄使いしたと言われても仕方がないのである。

国際美術館のエスカレーター部吹き抜け



そして巧妙な税金分捕り(無駄使い)の仕組みを作った官僚が、当時は最も優れた公務員として官僚組織では高く評価されていたのである。

昔、典型的な陸軍官僚であった牟田口廉也中将は、7万人以上の日本兵を餓死させたインパール作戦を強引に実施したため、連合軍の裁判では「自軍の兵士を最も多く無駄に殺して日本の敗戦に貢献した・・・」として戦犯を免れている。

牟田口廉也



牟田口中将は、部下に「責任を取って自決せよ」というのが口癖であったが、7万人を餓死させた自らは責任を取らず、陸軍省の最高官僚(中将は大臣と同格)として最高額の恩給を貰って戦後21年間(昭和41年死去)もの永い余生を楽しんだのである。

最前線から弾薬が無いと訴えてくると、「肉弾で戦え」と指示した陸軍官僚の辻政信は、バンコクで敗戦を迎えたが、自らの肉弾を使うことなく僧侶に変装して逃亡、無事帰国して戦後国会議員となっている。

辻政信



第三セクター事業最大といわれる負債3260億円で倒産した宮崎県の「シーガイア」を当時先頭に立って引っ張った松形元宮崎県知事(元農林官僚)は、倒産したとたんに、民間が勝手にやったので自分には責任が無いと言い、知事退職時には高額な退職金を全額受け取っている。

松形祐堯



「官製談合は絶対していない」と言っていた元和歌山県知事の木村良樹(55歳、元自治官僚)も同じ穴のムジナであるが、これが明治から今も連綿と続いている官僚の本質的DNAであると思わざるを得ない。

木村良樹



官僚をチェックする議会や検察、マスコミがしっかりしなければ、同じDNAを受け継いでいる官僚は、昔の陸海軍官僚と同じように国が滅びるまで国民を犠牲にし、官僚の利益のために税金を無駄使いするのである。




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モディリアーニ作品の次のコーナーには、ロシアの作家カンディンスキーの抽象画、その次がキリコ、ダリ、マグリット等シュールリアリズム作品が展示されていた。

カンディンスキー



サルバドール・ダリの「幽霊と幻影」は1931年の制作で、大阪市立近代美術館が6億8千万円で、購入した作品である。

ダリは、1904年スペインのカタルーニャ生まれ、シュルレアリスムに進む道を見出し、1929年にシュルレアリスト・グループに参加している。

有名なダリの作品(この作品はニューヨークの近代美術館にある)



1932年、当時友人の妻であったガラと強引に結婚し、第二次世界大戦後は、妻のガラを聖母に見立てた宗教画を連作している。

第二次世界大戦中は、戦禍を避けてアメリカ合衆国に住んだが、1948年にスペインに帰国したらしい。

国際美術館の地下1階



1982年に妻のガラが死去すると、「自分の人生の舵を失った」と激しく落胆したらしいが、チャッカリ若い女性を愛人にして、7年後の1989年に心不全により85歳の生涯を閉じている。

マグリットの「レディ・メイドの花束」という作品は大阪市立近代美術館所蔵の名品で、今回の展示会ポスターの中心に紹介されている。



1898年生まれで、ダリより年長のマグリットは、1925年頃ジョルジョ・デ・キリコの作品を見て感銘を受け、シュルレアリスムの方向へ進み1966年に68歳で亡くなっている。

マグリットの生涯は、3LDKのつつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝する、典型的な小市民であった。

マグリットの代表作



マグリットは、常にスーツにネクタイ姿で絵を描いていたといい、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたが、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることは決してなかったという。

この作品の後ろ向きの紳士は、同じポーズをした作品がいくつかあるのでマグリット自身を描いたものであろう。



マグリットの向かい側の壁には、ウンベルト・ポッチョーニの「街路の力」という作品があったが、6億3千万円という高額で大阪市が購入したとされている。

ウンベルト・ポッチョーニという名前は聞いたことがないが、それほど価値のある作品なのであろうか。

国際美術館のミロの壁画



民間企業のイトマンは絵画取引や、土地投機で倒産したために幹部は刑務所に入ってしまったが、同じ絵画購入を決断した大阪市の官僚は、高額の退職金と共済年金で今も豊かな老後を楽しんでいるのであろう。

解体中のイトマンビル



倒産したイトマンの本社ビルは、一時住金物産のものとなった後に転売され、今は解体されてしまった。



倒産状態にある大阪市も、淀屋橋の市庁舎ビルを売却して、職員全員がガラガラに空いている南港の巨大ビル、WTCかATCビルに転居すれば少しは反省したと市民に納得して貰えるのではないかと思う。


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1月16日から3月25日まで、大阪にある3つの美術館、国際美術館、大阪市立近代美術館(建設準備室)、サントリーミュージアムのコレクションの中から代表的な作品70点が国際美術館で公開されている。



そこで肥後橋駅から歩いて10分のところにある筑前橋を渡り、国際美術館まで行ってきた。

この美術館は、1階がエスカレーターホール、地下1階のホールにチケット売り場とミュージアムショップ、レストランがあり、さらに下の地下2階と3階が展示室となっている地底の美術館である。

1階のガラス天井から関西電力本社ビルが見える



チケット売り場で、同時に開催されているピカソの版画と陶芸展と合わせて1000円の入場料を払い、まず地下3階の展示室まで吹き抜けのスペースをエスカレーターで降りる。



このエスカレータースペースは上が吹き抜けの天窓で、壁に巨大なミロの陶板画が展示され、美術館の芸術的な雰囲気を出している。



地下3階の受付でチケットを見せ、大阪コレクションズの展示室に入ると、まず目玉作品であるセザンヌ、モネ、ピカソ等の展示があり、その次に今回の真打モディリアーニが展示されていた。

セザンヌ(国際美術館の収蔵品)



1884年、イタリアで生まれたモディリアーニは最初、彫刻家を目指していたが、1915年頃から絵画に専念し始め、1916年から1919年の間に集中して代表作を制作している。

1917年、モデルを務めたジャンヌ・エビュテルヌと知り合って結婚し、一女をもうけているので彼らは職場結婚をしたようである。



1917年に制作されたこの作品のモデルも、ジャンヌ・エビュテルヌであろうが、大阪市が何と19億3千万円という途方も無い金額で購入した作品である。

これが19,3億円の作品



モディリアーニは、生涯貧困と肺結核に苦しみ、36歳という若さで1920年没しているので、作品がこれほど高く評価されるとは夢にも思わなかったであろう。

大阪市立近代美術館は、展示する美術館の建設を待たずに、作品購入に総額151億円の税金を投入しており、その中でも単品としての最高購入価格の作品がこのモディリアーニである。

国際美術館のミュージアムショップ



都築響一氏が書いた「バブルの肖像」という本によれば、日本における美術作品の市場は、1987年の2000億円が1990年に1兆5千億円まで膨れ上がったという。

このときバスに乗り遅れるなと急いで購入した作品は、当然大暴落しているので大阪市立近代美術館が購入した作品も大きく値下がりしている可能性が大きい。

モディリアーニの自画像



公的な美術館が有名絵画をコレクションする方法としては、○○コレクションというネーニングをする約束をして、金持ちのコレクションを寄付して貰うのが一番安上がりな方法である。

国際美術館の外部



そのためには公務員が金持ちのところに足を運び、頭を下げて市民のためにお願いするという汗をかかねばならない。

その汗を避け、値下がりする可能性が大きい絵画を、官僚が多額の税金を使って集めるとは、調達先と何か裏の取引があると思われても仕方が無いのである。


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都築響一氏が書いた「バブルの肖像」という本が去年8月に出版されているが、その中にホテル川久のことが出ていたので紹介したい。



ホテル川久の前身「旅館川久」は、安間千之氏が1949年に創業した旅館で、昭和天皇も宿泊した白浜屈指の木造純和風旅館であったという。

安間千之氏の子息であった2代目社長とその妹が「世界の数奇屋ホテル」を目指し、1989年「旅館川久」の全面建替工事を始めたらしい。



数奇屋とは、金持ちや権力者が茶の湯を楽しむための空間を、高価な材料と最高の職人を使ってさりげなく贅沢な仕事をさせ、それが判る客を驚かし楽しむ建物のことである。

創業者の娘の子息は、2001年に元アナウンサーと結婚して、世間の話題を集めている。

彼もホテル川久の建設に関係していたというが、今は米誌タイムの、若手ビジネスマンを主な対象とした2002年の「世界のビジネスに影響を与えた15人」に見事選出されているので凄い。

さて、ホテル川久の建設費は、世界中から数奇屋材料を集める過程で当初予算150億円を軽くオーバーしてしまい、最終的に300億円(総事業費は400億円という)もかかってしまったらしい。



延床面積2万6千㎡というホテルは、最大千室近い部屋がとれる(都築響一氏)が、ホテル川久には89室(今は88室)しかない。

当然、会員制として個人会員2千万円、法人会員6千万円で1900口(個人会員だけの完売なら380億円となる)の販売を予定していたらしい。



しかし売れたのは僅か431口、開業後の客室稼働率20%という惨憺たる状態で1995年に会社更生法を申請している。

創業者が血と汗で築いた白浜屈指の和風旅館は、こうして2代目にしてアッという間に潰れ、1998年にカラカミ観光チェーンが買収した金額は、何と30億円であったという。



お陰で会員権なしの格安料金で、高価な材料と最高の職人を使ってさりげなく贅沢に造られた「世界の数奇屋ホテル」が、我々庶民にも利用できるようになったので有難い話である。



但し、ロビーの柱は「シュトックマルモ」技法で1本1億円かかっているとか、数奇屋建築の価値が解らなければ、ものを知らない客として元オーナーから軽蔑されるかもしれないので、少しは勉強しておかねばならない。


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ホテル川久にあるモザイクを使った床は、ギリシアのアイギナ島、マケドニア王国宮殿跡から紀元前4世紀頃のものが発見されているので相当古くからあった床の仕上げ技法のようである。



モザイクの床は贅沢なローマ時代の建築物を特徴付けていて、イギルスからシリア、北アフリカ一帯に至るまで広い範囲で発掘されている。



ホテル川久の1階エレベーターホール正面の壁とラウンジ奥の壁には、シリアで発掘されたという今から1800年前のモザイクが当時のまま復元されている。





それにしても調達するには相当高価であったと思うが、シリアの貴重な文化財をどういう方法で入手したのであろうか。

鹿



キリスト教のモザイク装飾は、東ローマ帝国時代に花開き、首都コンスタンティノープル、イタリア東部のラヴェンナやシチリア島の大聖堂には、今でも美しいモザイク画で飾った床を見ることができる。

ラヴェンナ



東方正教会の伝統を受け継ぐロシアなどでも教会や宮殿を飾るのも用いられ、ヴェネツィアでも、サン・マルコ大聖堂は内外装をモザイクで覆っている。



近代においては、アントニオ・ガウディの作品が有名で、バルセロナのグエル公園には、動物のオブジェや波打つベンチが色鮮やかなタイルによるモザイクで覆われている。



モザイク構成の技法のうち、直接技法は、テッセラ(モザイクを構成する小さな大理石など)を一個ずつ接着剤などで貼り付けてゆくものである。



直接技法の優れた点は、モザイクによる壁画が出来上がるプロセスを管理しながら作品を完成出来ることにある。



1階エレベーターホール正面の壁にあるシリアで発掘された牛のモザイク画は直接技法で復元されているようである。



間接技法は、テッセラを裏が粘着性の紙に上下さかさまに置き、最後にこれを壁、床、工芸品などの表面に移し、最後に台紙を除去するという技法である。



間接技法は単純な模様や幾何学的な模様、ホールの床など広大な面積のモザイク制作の際に採用され、表面を滑らかで平らに仕上げることができるので、1500㎡もあるホテル川久のホールも恐らくこの技法を使ったものと思われる。





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ホテル川久には1階と2階に楕円形をした大浴場があり、客室からは専用エレベーターを使って行くことになる。

エレベーター



1、2階の温泉は日替わりの男女交替制となっているので、到着日と翌日は別々の風呂を楽しむことができる。

エレベータ-ホール



温泉は泉温64,2℃、泉質はナトリウム・塩化物・炭酸水素塩泉で無色透明、適応症は創傷・火傷・皮膚掻痒症・リュウマチ性疾患・運動器障害・慢性湿疹・婦人病・更年期障害・神経痛に効果があるという。

エレベーター床の寄木細工



1階の浴室、紫府〔しふ〕には高野槙の浴槽に陶芸家の青山禮三氏の描く仙人画と陶淵明「山海経を詠んで」の漢詩が書かれ、不老長寿の願いを込めた大浴場という。



さらにここから外に出る扉を開けると、ヨーロッパの城に抱かれたような温泉露天風呂がある。

日本風露天風呂は、建物の規模に比べると狭く見えてしまうが、実際に入って見ると結構な広さと深さがあり、中でアクアビクスのエクササイズができるほどである。



しかし後から無理やり作られたようなので、複雑に出来上がった建物のどこかの窓から露天風呂の中が見えてしまうのではないかと不安になってしまう。

2階には遊斉〔ゆうさい〕という御影石の大浴場があるが、こちらには露天風呂が付属していないのが残念である。



朝の露天風呂から出てレストラン「フォルナーチェ」で朝食を摂った後、レストランの係員にワインセラーを見せて貰えるかと聞くと二つ返事でOKですと言うではないか。

ワインセラー入り口



鍵を開けてもらって中に入ると、ヨーロッパの図書館をイメージして設計されたワインセラーは、煉瓦造りの2階建てで、真ん中に螺旋階段を配置してあるのが珍しい。

1階



1階には世界のワイン、2階にはヴィンテージワイン合計8千本が保管されているワインセラーの中は常に室温12~15℃、湿度70%に保たれているという。

1階



螺旋階段を使って2階に上がると、ヴィンテージワインの棚はかなり隙間があったので、ホテル自慢のヴィンテージワインコレクションもかなり減ってしまっていた。

2階



入り口扉には、1976年ドンペリニヨンが1本5万8千5百円と書いてあったが、はたして買う人がいるのであろうか。



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今回ホテル川久は、2食付の宿泊プランだったので、食事は和洋の2タイプから選ぶことができるようになっていた。

さしみ



そこで夕食は和食、朝食は洋食を選んだが、この組み合わせはスタイルの違う2つのレストランを使えて良かったと思っている。

美しい陶板の壁が続く長い廊下



さて、夕食であるが2階のエレベーターホールから続く廊下の奥、「八仙」というレストランに案内された。

八寸



献立は、季節の盛り合わせ八寸、ふぐのつみれ鍋、旬の魚の造り、タラバガニの風味焼き、一口うどん。

ふぐのつみれ鍋



さらに、てんぷら盛り合わせ、アジの高菜巻き酢の物、ごはん、漬物、赤だし、最後に柿を茹でて渋抜きしたものを冷凍したフルーツという9種類の内容である。

てんぷら



記念日の宿泊ということで、鯛の器に入った赤飯をサービスしてくれたが、チョット心温まるサービスであった。



この八仙はすべてテーブル席で48席がすべて禁煙となっているのが有難い。

和食は八仙以外にも、利用人数に合わせた4,5畳~20畳の座敷が20室ある「敷島」でも取れるようなので、個室でゆっくりしたい人はこちらがお勧めである。

茹でた柿のシャーベット



洋食は、1階のバーパブロの奥にある「炉」をイメージしたメインダイニング「フォルナーチェ」を使うが、アンティーク煉瓦とテラコッタを使った壁面や天井の内装はイタリアの左官職人を呼んで仕上げたという。



また、「フォルナーチェ」の中にある2本の柱も、ロビーの柱と同じ、石膏擬石技法「シュトックマルモ」で製作されているが、こちらは部屋のイメージにあわせたアイボリーに近い色であった。



朝7時に「フォルナーチェ」に入ると、きれいにセッティングされた窓際のテーブルに案内され、すぐにコーヒーとグレープフルーツジュースが運ばれてきた。



メニューはサラダ、卵料理、焼きたてパン3種類、フルーツと簡単なものであったが、朝食にはちょうど良い分量であった。



朝食が終わるまでほかの客は全く入ってこなかったので、ウエートレスは手持ち無沙汰のようであった。

「フォルナーチェ」の奥には、ゆったりとした喫煙室があり、中央のテーブルにはかなり高価なものと見える緑色ガラスの置物が置かれている。



喫煙室のさらに奥に、「美しい島々」という名のイタリアンレストラン「イゾラベラ」があり、内装はモロッコ先住民族、ベルベル民族の装飾様式をテーマにコーディネイトがされているというが、今回は利用しなかった。

ROSSの評価(☆☆☆☆☆が最高)

場所     ☆☆☆
部屋     ☆☆☆☆☆
サービス   ☆☆☆
食事の味   ☆☆☆
ボリューム  ☆☆
値段     ☆☆☆
トイレ    ☆☆☆☆
大浴場    ☆☆☆☆☆

総合評価   ☆☆☆☆


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88室しかないホテル川久の客室は、すべてスイートタイプで一番安いスタンダードルームでも客室の面積が80~90㎡もあるのが特徴である。

天井がアーチ状になった客室前の共用廊下



ホテル川久がオープンした1991年には、会員権を持った会員だけに1泊10万円(食事なし)で宿泊させたという。

もっとも広いインペリアルスイートは、面積が1室で660㎡もあるせいかオープン時の宿泊料が1泊60万円(土日の食事なし)というから凄い時代であった。

リビングからの視界の中には煉瓦の外壁が・・・



当時1泊30万円くらいしたであろう221㎡のプレジデンシャルスイートは、今では1泊2食付5万5千円で宿泊できるらしいのでまさに隔世の感がある。

今回宿泊した川久の名を冠した、スタンダードタイプの客室は、重厚な扉を開けると長い廊下があり、右は鏡張りの大型クローゼット、左に独立トイレ、突き当たりがリビングの扉である。

和室と洋室コネクティングルームの場合の配置図(今回は洋室部分に宿泊)



40㎡くらいありそうなリビングには、窓が3つもあり、部屋の中央にはカウンターが置かれ、右のテレビコーナーと左のソファーゾーンを隔てている。

リビングから寝室を見る



リビングから続く寝室も30㎡くらいありそうなので、シティホテルのスタンダードルーム全体の面積と同じくらいか。

寝室にはリビングよりもさらに大きめのテレビが置いてあり、ここにもクローゼットとリビングと廊下に出る扉が2箇所にある。

寝室と天井の豪華シャンデリア



この寝室の扉を閉めると、窓がないので遮音性が良く、光が入ってこないので安眠できそうである。

廊下に出てトイレに入ると、床に大理石のモザイクが嵌め込まれた広いスペースがあり、リモコンウオッシュレットの付いた便器の正面には大きな鏡があった。

トイレ



つまり用を足しながら自分の姿を鏡に映して見られるという特異なトイレであった。

サニタリーゾーンは、入ったすぐのカウンターに1箇所の手洗いと、奥のカウンターに2箇所の洗面器があったので合計3箇所もの水場がある。



建築されて15年も経ったせいか、外国製と思われる衛生陶器の底にある金物は、無残にもメッキが剥げていた。

奥の洗面カウンターの中央の椅子に座ると、正面の鏡は大きな三面鏡となっていて、顔の正面と左右を同時に見ることができる優れものである。



この鏡の前には、3段あるガラスの棚が取り付けられていたが、その支持材にもガラスが使われ、かなり豪華に見える。

奥のバスの湯船は少し浅かったが、大型のものが設置されているのでユッタリと体を横たえることができた。

バスルーム



このバスルームには、スノコを敷いた洗い場があるのが珍しい。



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ホテル川久の幅25m、長さ60mくらいもあるロビーを奥まで歩くと、突き当たりがラウンジである。



このラウンジの特徴は、海を一望出来るように、6mの天井まで一枚ガラスで仕立てた巨大な窓であろう。

又、天井からはイタリアのムラノ工房で作られたベネチアンガラスのシャンデリア、床には丁寧に敷き詰められた大理石のモザイクタイルが豪華である。



モザイクの床の中に鷲が左右、正面を向いた3体のモザイク画が配置されているが、これも1センチ角の石をモザイク職人が手作業で埋め込んで描いたものである。

アーチ型をしたラウンジの天井は、永田祐三氏がデザインしたモスクの天井のような透かし彫り彫刻で覆われていて、これも手間のかかった職人の技が使わている。



宿泊客には、このラウンジでコーヒー1杯を無料サービスしてくれるので、大きな窓から海を見ながら寛ぐ非日常性が良いのであるが、コーヒーの味はイマイチであった。

そのラウンジの左には、バーパブロに続く廊下があり、アーチ天井には孔雀をイメージしたシャンデリア、壁はイタリアのチーズ工場に使われていたレンガを使っているという。



バーパブロには、パブロ・パレス氏制作の「天国と地獄」と名前が付いたカラクリ時計が壁に嵌め込まれ、72時間かかってテーマである「天国と地獄」のストーリーが展開されるらしい。



チョット見た限りでは、中のカラクリは動いていないようであるが、72時間(3日間)もかけてカラクリのストーリーを楽しむ暇な人はいるのであろうか。

このバーパブロの中のレンガのアーチには、アーノルド・トゾ工房の青いベネチアンガラスのシャンデリアが吊り下げられていた。



2階のエレベーターホールから和食レストラン八仙に続く廊下の壁面には、陶芸作家加藤元男氏制作の市松模様の陶板が嵌め込まれている。



瀬戸市にある美夜之窯を1948年からやっている加藤氏の作品は、ホテル川久のエントランスにある野兎の乗った21mの塔やバーなど多数使われているらしい。


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