根室市内から野鳥を探し納沙布岬まで、そこに北方領土の資料を展示する啓発施設「北方館」がありました。
四島返還の署名コーナーには「現在までの署名総数」として9,366万人。日本の領土であることに疑いはないので早速署名しておきました。
幕末の1855年、日本とロシアは日露通好条約で択捉島とウルップ島間を国境と確定しています。これで北方四島は日本領土と確定し、千島列島(ウルップ島からカムチャッカ半島までの諸島=ロシアではクリル諸島)はロシア領となります。・・・内部
20年後の1875年(明治8年)樺太千島交換条約で樺太をロシア領とする代わりに四島以外の千島列島(ロシア語のクリル諸島)も日本領とすることが確定。日本は樺太に持っていた権益とクリル諸島を交換したこととなります。・・・2階から歯舞諸島が見えます
その30年後の1905年(明治38年)日露戦争後のポーツマス条約で南樺太が日本領と確定。クリル諸島を含む千島列島は当然日本領のままです。・・・展望用双眼鏡
それから40年が経過した1945年2月米英ソ三国によるヤルタ会談でソ連が対日戦に参戦すれば「南樺太及びクリル諸島はソ連に引き渡される」協定が締結されます。このクリル諸島に北方四島は含まれていないのは明らかです。・・・北方四島の歴史パネル
1945年(昭和20年)8月18日ソ連の第二極東軍(クリル諸島担当)がクリル諸島最北のシュムシュ島に上陸、8月31日に南端のウルップ島まで来て(ヤルタ会談の)占領作戦を完了しています。ソ連がウルップ島までがクリル諸島(千島列島)としていた証拠ですね。
一方、別に編成されたソ連第一極東軍(日本領土担当)がヤルタ会談で決められた以外の北方四島及び北海道の占領を目指して進軍を開始しています。
第一極東軍はまず南樺太を占領、さらに米軍の不在が確認できた北方四島を8月28日から9月5日までに占領、続いて北海道北部(留萌と釧路を結ぶ線の北側)を目指しますが補給の関係からか断念しています。・・・それが今日まで続いているということです。
参考文献:われらの北方領土・外務省