★行政刷新会議の1回生問題とか答弁メモ作成問題の話を聞いていると、役所時代の風景を思い出したよ
◆今、自分の頭のなかに、ぼんやりと浮かんでいる、いくつかの「想念」がある。
近時のものもあれば、ここ、しばらく続いているもの、あるいは、現れたり消えたりしているものがある。
どうせバカげた内容だし、ま、どうでもいいことだから……と、ほうっておくと、あるとき、フッと消滅し、どうしても思い出せない夢のストーリーのように、もう永久によみがえることがないという「想念」もある。
これまで、たびたび、そういうことがあったような気がする。
だから、きょうは、まず、それをメモすることにする。
昨日、触れた「ブレスト」に近いようなものもあるが、いくつかは、ブレスト・メモよりも、核もあり、根もあるというふうに感じる。
◆まず、核ないしは根があると感じる3点。
第1点は、来年度のわたしの、いわば「仕事」に関することだ。
公的な教育機関や、民間教育団体等が、来年度の事業計画を決定する時期に入ったようで、わたしのような者にも、このHPに設置してあるメールを通して、2、3、話があった。
この点について、実は、今年は、かなり苦しんだ。
断りたくとも、いろいろなつながりがあり、やむをえず引き受けたもの、あるいはまったく逆に、やってみたいと積極的に引き受けたもの、あるいは、日程上、やむをえずお断りしたものなど、いろいろである。
書く分については、ほとんど問題はなかった。
しかし、語る場合は、みなみ退場後の「蟄居」「沈潜」状態から、一気に志気をアップしなければいけないので、かなりの苦痛&負荷を伴った。
ゴロゴロしているボクサーが、ひさしぶりにリングにあがり、ノックアウトされるようなものだ。
だから、来年度の分については、グラグラ揺れた。
退場1年目は、ま、いろいろと話があるものだ。
でも、わたしのようなレベルの場合、通常、2年目に入ると、ガクンと減ってしまう。
にもかかわらず、声をかけてくれるのだから、ほんとうにうれしい。
でも、苦痛&負荷のことを考えると、お断りしたい_(._.)_。
そこで、わがままなようだが、苦痛&負荷に弱いわたしとして、仕事やボランティア活動に関して、自分なりの「基準」を決めた。
(1)わたしがやれる「範囲」の内容であること。
やれる範囲のことしかやらないというのは、かなり消極的ともとれるが、内容に関して、責任がもてる、または、実績がある「範囲」という意味である。
(2)その内容に関して、わたしの代役が見あたらない場合であること。
ま、探し回れば、いっぱいいるだろうから、厳密な意味ではないが……。
今年、文部科学省での講演を引き受けたのは、
A「八戸型教育コミュニティづくりのPR」ができる……。
B「学校・家庭・地域の教育力のバランスの悪さが教育危機の元凶」と主張できる……。
C「連携・協力には中核エネルギーがいる。中核エネルギーの質が連携・協力の質を決定する。学校に事務局を置き、教職員、特に教頭職の立場の人が事務局長的な役割を担うような取り組みは、戦後教育の失敗の繰り返しだ」と言い切ることができる……。
D「小・中学校の連携が、学校側・地域側、双方向の連携推進の条件である」と、具体的事例をもとに語れる……。
さらに、いえば、E「立派な組織を作っても、会議の招集もままならないのでは充実した活動は期待できない。機動性に富む運営組織をどう創り出すかが、ポイントだ」と言える……。
わざわざ東京まで行くのはイヤで、99%お断りしたかったけれど、A~Eについて語れる、特にCが語れる……となると、他の人に押しつけるより、わたしが引き受けるのがベターだと判断したからだ。
(3)単純に、自分が心の底から「やってみたい」と思うこと。
この(1)~(3)の条件がそろえば、やる。
1つでも欠ければ、やらない。
特に(3)が欠ければ、やらない。
苦痛&負荷に弱いとはいえ、こういうことを言うのは、わがままだ、不遜だ……ということは、重々、承知している。
そんなことばかり言っていれば、だれも、あんななんかに声はかけないよ、アカンベェ~ィ……と笑われることは重々、承知している。
たしかに、(1)~(3)の条件が欠落していても、やらなければいけないことはある。(実は、わたしにもある)
その場合、どういう「操作」をすれば、条件の欠落をクリアーできるか……ということだが、これについては、後日、くわしく触れたい。
◆ぼんやりと浮かんでいる、いくつかの「想念」、3点のうち、第1点が、想定以上に長くなってしまった。
2点目、3点目は、短く書くことにする。
第2点は、このHPのコンテンツについて。
このHPの1丁目1番地は、ここだ。
だから、ついつい、ここにいつづけてしまう。
今も、そういう状態になっている。
でも、いつもいうようにHPは、自分の、存在の仕方そのものだ。
自分という存在にとって、自分の外側に存在していて、自分を取り囲んでいる「遙かなる彼方」(ein Wesen der Ferne)との接点を忘れてはいけない。
その「接点」こそ、すなわち「自己の果て+果て」こそ、1丁目1番地以外のコンテンツなのだ。
すなわち、「職員室通信」
すなわち、「すこやかみなみネット」
すなわち、「無人駅線」
すなわち、「チャット」なのだ。
おお! もっと辺境をさまよわなければ……辺境へ疾駆、疾駆!←これが2点目の想念(*^_^*)。
◆第3点は、こういう怠け者で、能力の低い、わたしのような者にも、憑依の状態で、もう、霊などがのりうつり、うわ言のように「教育」を語ることができた、超しあわせな時期がある。
2005/8~2006の途中まで……。
2007、2008と、わたしは何度も、自分を、憑依期間に再接続しようと試みたが、遂に、みなみ退場まで、それはかなわなかった。
なぜ、わたしは2006の途中で失墜したのか?
なぜ、わたしは憑依期間に再接続できなかったのか?
いつか、述べた、どうしても越えることができなかった、3つの「山」と関係があるのか?
ひるがえって、はたして、憑依期間に再接続することが、わたしにとって、しあわせなことなのか?
「山」の話が出たので、もう少し言う。
授業改革にしても、学社連携(すこやかみなみネット)にしても「山」を越えようとすれば、必ず内外に波風が立つ。
これは経験しているので、わくわかる。
不快な「転勤」経験しかないわたしが、無意識のうちに、罵声&怒声を浴びながらの退場を避け、音もなく退場・着地という選択をしたのか?
もし、波風を恐れず、「山」を越えることにこだわり、そのあげく、片肺非行、胴体着陸という退場だったら、今、わたしはどういう心境でいるのか?
わたしは、今、自分が選択を間違えたと思っているのか?
◆きょうは、上記内容を、パラパラッと、3、4行で書いて、「おお! もっと辺境へ疾駆、疾駆!」と、無人駅線の工事をやる予定だった。
まったく、書くという作業は、なにが起こるかわからない。
★小高進の公式HP・600字の教育学へ
★WEB無人駅線・八戸線へ