★今回のわたしの部屋を古本屋化する作業は、これまでの①自分の精神構造=②書棚の書物という発想に加えて、①自分の精神構造=②書棚の書物+③お客さんにその書物を手にとってみたいと思わせる古本屋空間を創りだすという発想だ。
作業では、これまで粗く「教育」「哲学」「文学」「自分の著作」という枠組みができた。
これからは枠組みのなかをさらに細かく、たとえば「教育」なら、(まだ検討中だが)①教育史・教育哲学 ②学校教育 ③社会教育 ④実践教育学……というふうに分類してみたい。
■心の病に陥った、ひとりの新聞記者が、その「体験記」を読売新聞に連載している。
やる気がみなぎる好調期の高揚感と「治ったのでは?」という期待感、と次の瞬間、再び絶不調期がやってくるというくだりでは、彼の失意、落胆、意気消沈ぶりがリアルに伝わってくる。
わたしのブログもこれに似ている。(と書くとき、わたしはあることをうたがっているのだが……。)
たとえば、5月の連休中、風邪でつっぷし、そこから快復した直後の3週間くらいで、ブログに掲載した記事の文字数は約40000字(←一太郎の「文書の文字数」でチェック)。
原稿用紙にして100枚だ。
音楽家がピアノを弾くように、マラソン選手が走り込むように連日、透きとおるような快さで文字を書きつづけている。
というような期間があるかと思えば、ひと月にたった3枚という期間もある。
■今がその「たった3枚」期間のど真ん中だ。
記述したい、あるいは記述しなければいけないことがらが次から次に目の前にあらわれる。
だが、現在、自分のからだが根元からフワフワと宙に浮いてしまっていて、これらを文字に定着させることができない。
想念の例。
たとえば……レオンは、わたしの外側に存在する1個の動物ではなく、わたしの内側に入りこんで、今もわたしを見つめつづけていること……先日の講演のスライド作りの過程や、語っている過程で学社連携・融合に関して新たな発見があった、その事項……教え子(←わたしは「教え子」という語がきらいで、限られた児童・生徒にしか使わない)からのメールで就業不能になるくらい大きな刺激を与えられたこと……等々。
これらが文字に定着できないから、今は、いわば想念が死蔵されている状態だ。
いったん死蔵された想念は、古いブレストメモのように(自分の精神から切り離された状態にあるので)なかなか生き返らない。
こういう想念が、わたしの内側に充満して、これが重苦しく、もの憂いのだ。
■きょうから7/21までの1ヶ月間は、わが師江藤淳の弔い期間だ。(7/21=命日)
(今、レオンに使った言い回しをそのままわが師に使うのははばかられるが、犬好きの師のことだから、きっと許してくれると思うので)わたしの外側に存在する1個の文学者・江藤淳ではなく、わたしの内側に入りこみ、内側から光を発し、わたしを照らしだす江藤淳を強く意識する期間にするつもりだ。
★で、その古本屋化がどうしたというのだ?と言われれば、わたしも答えに困ってしまうのだけれど、ま、自分の内部をお客さんの視点で見直してみたい、あるいは、自分の内部空間にお客さんと同じ視点を有しつつ存在してみたいということかもしれない、ちょっと月並みか。・°°・(>_<)・°°・。
★わたしの公式ホームページにも、ぜひ、来てください。公式ホームページには、トータルの、全身の、わたしが存在します。
待ってまっせぇ~ィ !!!!!!!!!! → http://www.htv-net.ne.jp/~odaka599/