職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

索莫・寂漠・寥々としたチャットは、現時点ではこれはこれでいい。わたしの蟄居・独居の象徴だ

2009-05-31 11:07:05 | Weblog

★光太郎山荘の裏山からの眺め。光太郎は、この場所が気に入っていて、来訪者をよく案内している。


◆チャット発言
 チャットといっても、早朝、午前4時の、独居チャット・ひとり発言だ。

①割合、いい感じで目が覚めましたヾ(@⌒ー⌒@)ノおはよう。
②ま、濁ったビニールを被ったような、二日酔いの目覚めの対極の気分。
③目覚めた瞬間に、(1)ホームページのちょっとしたデザインの変更をしよう(このページの「見出し」のデザイン)とか……
④(2)めったに誰も書き込まない「掲示板」にカキコミがあったので、それに、怒濤の返信をしようとか……
⑤これからの人生、どっちに一歩を踏み出していいのかわからなくて、朝に決めたことが、夕刻にはひっくり返るという状態だったが、昨晩、眠る前に、一応、「結論」を出したので……
⑥(3)きょうは、その「一歩」を、実際に試してみようとか……
⑦こんなふうに、目覚めた瞬間、(1)(2)(3)と、やりたいことが電光のように駆ける、ホンマ、いい感じの目覚め♪~♪ d(⌒o⌒)b♪~♪
⑧まず、コーヒーメーカーで、大量のコーヒーをつくる。
⑨しかし、話は、ガラッと変わるが、このチャットの閑散ぶり(ノ△・。)
⑩索莫ぶり(ノ△・。)
⑪寂漠ぶり(ノ△・。)
⑫この寥々とした感じ……は、なんといえばいいのだろうか(ノ△・。)
⑬けど、ま、わたしのチャットというのは、現時点では、これはこれでええのんとチャウかなぁ~( ̄。 ̄)ボ~~~~ッ
⑭わたしの、現在の「蟄居」「独居」の象徴として。
⑮当面は、ここを、ひとりブレストの場として使っていくつもりo(*▼▼*)o
⑯けど、他の人も気が向いたら、ぜひ“ヘ( ̄∇ ̄ )カモォーン♪“ヘ( ̄∇ ̄ )カモォーン♪

◆寥々とした掲示板・BBSへの返信

 いえ、いえ、泥水でも、泥酔でも、いや、もちろんシラフでも、カキコミはカキコミです。
 うれしいもんですよ★(*^-゜)v Thanks!!★

 前回の返信として、ブログ上である人からの「光太郎のどこにいちばんひかれるのですか? 日本には他にもたくさん詩人がいるのに……」という質問に答えるというカタチで……少し書きましたが、大筋としては、あのコメントの通りです。

 よくよく考えれば、わたしの場合、光太郎の作品そのものよりも(ま、もちろん、好きな詩はたくさんありますから、何度も何度も暗記するくらい読んだものもありますが……、それ以上に)
 ①父光雲との確執
 ②欧米留学で受けた痛撃
 ③智恵子との、ま、奇妙といえば奇妙な関係(昭和6年:精神分裂症の兆候 昭和7年:自殺未遂 昭和9年:精神分裂症悪化……という具合で、病気の状態によっては、絶叫、飛び出し、器物破損など、結構、荒れるんですよ。で、光太郎は危ないから鑿や小刀は隠して(結果として、やむなく粘土で彫刻をやったりして)看護に専念しています。そうしながら、ああいう智恵子抄を書いているわけです。)
 ④大東亜戦争への全身全霊の突入(光太郎の大東亜戦争下の戦争詩の質は群を抜いた水準を誇っていますよ)
 ⑤そして、異常といえば、異常な山小屋での独居・農耕自炊生活(←ああいうところでの真冬というと、ま、2、3日くらいなら、わたしもなんとかなるかもしれませんが……。富良野塾開校の労苦を記した倉本聰『谷は眠っていた』というのがありますが、あの100倍の苦渋、苦難)……等々、いわゆる光太郎の生活の歴史(そのなかから、わたしが、いくつか、いくつか、勝手につまんでいるだけかもしれまへんが……)に強くひかれているところがあります。

 また、詩そのものについては、これまで2回、衝撃的な巡り会いがありました。
 1回目は、前にどこかに書きましたが、大学の卒論作成時、敗戦期の、多くの文学者を襲った、深い挫折感、あるいは一種の解体現象について、わたしがどうしても感情移入できなかったときに、光太郎の、戦争責任に服しつつも、「鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのづから強からんとす。/真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」と、修正すべきは修正し、貫くべきは貫き、背筋を伸ばして、新しい生活を切りひらいていこうとする強靱な精神構造との対比において、亡国の民の、敗戦の哀しみを理解することで、学生時代のわたしが、この問題に関して「諒とした」とき。

 もう1回は、いずれくわしく書きますが、わたしが48歳のとき、光太郎の詩が、いつもわたしが好んで使う「魂の内側に沿って底に」侵入するというより、もっと即物的に、わたしの血肉のもっとも深いところに音もなくしみこむ……という感じで、光太郎の詩が押しよせてきた体験。

 途中ですが、疲れたので、これで、やめます▼▼”⌒☆o(_ _o)ドテッ(けさの「寥々とした掲示板・BBSへの返信」以上)


高村祭のあとで。光太郎がお茶を入れてくれる。「夏は疲れるから、日中は仕事に出ない」と。

2009-05-28 17:17:26 | Weblog

★高村光太郎が7年間、独居・農耕自炊した7坪の小屋の内部

◆高村祭が予定より早く終わったので、花巻駅行のバスが出発する15時20分まで、2時間以上の時間ができた。
 そこで、高村山荘、光太郎菜園、裏山などをゆっくりと歩くことにした。

 高村祭は今回が初めてだが、ここに来るのは、大学時代(昭和45年)、是川中在職時代(平成10年、11年)、白銀南中時代(平成18年)と今回で、都合、5回目になる。
 是川中時代の2回目は教職員旅行だった。
 
 最初に来たとき(昭和45年)、樹木に囲まれた小屋が予想外に大きく立派なので驚いたら、案内してくれた人が、あれは小屋を保護する套屋(うわや)で、中に光太郎の小屋があるのだと教えてくれた。
 その套屋も老朽化し、昭和52年に現在の鉄骨の第2套屋が造られたそうだ。
 内部が暗いので、第1套屋を壊して被せたのか、第1套屋のうえに被せたのかは、よくわからない。



 ガラス越しに、広さ7坪半といわれる小屋の内部を眺める。
 外の光太郎畑の鮮やかな緑が反射するので、角度を工夫して、目をこらす。
 ランプがつり下げられている。
 板の間の囲炉裏のまわりに一升瓶4本、五合瓶2本と、七輪。
 土壁に沿わせた書棚に光太郎の蔵書。
 その脇に古びた紙が張ってあるが、黄ばんで、虫に食われ、内容は読めない。
 掃き清められた土間の隅に、小さな水ガメと流し台。
 障子戸は閉められている。

◆「ごめんください。宮沢さんからおことづての品を持ってきました」と、私は固くなって言いました。(『言葉はどこからどこへ』(宮地裕)から引用)

 軽い食事を済ませたところだと言われましたが、おむすび一個を呈上し、たくあんの漬物でいっしょに食事をしました。
 光太郎がお茶を入れてくれました。
 「夏を越すのは二度目だが、夏は疲れるから、日中は仕事に出ない。
 畑は五畝ほど。
 野菜などの副食物を自給するつもりでいるが、なかなかできない。
 耕具・肥料・殺虫剤、みな不足で困る。
 しかし、いずれは一反までは耕作して、アトリエも近くに建てて、農業と彫刻を両立させたい。
 一年の耕作の予定はよく組むが、思うようにはいかない。


 夜のランプの油が悪いから本が読めない。
 ろうそくは高くて買えない。
 彫刻の材料も木もない。
 今はただ刀がさびないように研いでいるが、近く、小さい物から彫りたいと思っている。
 太田村の人たちは純真で、親鸞・蓮如への信仰があつい。
 理屈なしに善悪を感じ分ける力を身につけている。
 ただ、日常の食生活については改善を勧めている。
 「玄米四合」てなくて、米は適量にして牛乳何合かというような酪農にするといいと思う。
 それにしても夏は体が弱る。
 冬、小屋の北側はすっかり雪にうずもれる。
 南側にも三尺ほど雪が積もるが、私は血色がよくなって元気が出る。」(『言葉はどこからどこへ』引用、以上)

◆これから裏山にのぼろうと思うが、その前に3点、述べる。

(1)照れくさい話だが、わたしには、宮地氏が記録した光太郎言を転記しながら、光太郎の「一反までは」を、あるいは「アトリエも近くに」を、あるいは「近く、小さい物から」を、これからやろうとする自分の仕事に置き換えてとらえるようなところがある。
 ある人から「光太郎のどこにいちばんひかれるのですか? 日本には他にもたくさん詩人がいるのに……」と言われ、答えに窮したことがある。
 よくよく考えれば、わたしの場合、光太郎の作品そのものよりも、父光雲との確執、欧米留学で受けた痛撃、智恵子との、ま、奇妙といえば奇妙な関係、大東亜戦争へ突入、異常といえば異常な山小屋での独居・農耕自炊生活等、いわゆる光太郎の生活の歴史に強くひかれているところがある。

(2)前回、「光太郎を統一的に論じる視点をみつけだすことができない」といったことについて、少し補足する。
 光太郎が全身全霊、大東亜戦争に突入していったのは、(あくまでも一例としていうのだけれども)、智恵子の死(昭和13年)が契機になっている……とか、あるいは、光太郎が(通常の感覚でいえば、異常な)山小屋での独居・農耕自炊生活に入ったのは、(これも、わかりやすくするために、あくまでも一例としていうのだけれども)文学者としての戦争責任を激しくつきつめるためである……とか、ま、こんなふうにひとつ筋を通していえなければいけないのだけれども、わたしにはそれはできない……という意味である。
 蛇足になるが、太宰についても同じだ。
 中期(『富嶽百景』『老ハイデルベルヒ』)から、後期(『斜陽』『人間失格』)への変貌が、どうしても解せない。

(3)最後に、この巨大な套屋(光太郎小屋のカバー)は、なんとかならないのだろうか?
 障子越しに、この障子の向こうに光太郎がいる……というスタイルにはなっていて、それはそれでいいのだが、花巻郊外の、人里離れた孤絶生活の世界や、光太郎と自然とがスパークして創出される美などは、きわめてとらえにくい格好になっている。
 わたしの希望をいえば、山小屋が朽ちてしまうのがイヤなら、套屋で覆うのではなく、そういうものは取っ払ってしまって、樹脂(今はいいものができている)で固めに固めて、地上に割れてくづれるまで/この原始林の圧力に堪えて/立つなら幾千年でも黙って立つてろ……という感じにしてほしいと思っている。
 くりかえすが、この障子の向こうに光太郎がいる……というスタイルだけではなく、ひとり光太郎が障子の外に感じたものを自分も感じたいと強く願っている。


高村祭⑤ 高村祭は光太郎がここ(太田村山口)の小屋で独居・農耕自炊した7年間に限定して物語ろう

2009-05-27 15:31:20 | Weblog


◆高村祭(2009/5/15・第52回)。
 高村祭・第2部(午後)は、12時から、地元の人による高砂の舞、花巻高等看護専門学校生によるコーラスではじまった。
 コーラスの曲目は、歌詞に高村山荘がうたわれている「花巻の四季」と、高村光太郎が作詞した「最低にして最高の道」「リンゴの詩」の3曲だ。

 最低にして最高の道

もう止さう。
ちひさな利慾とちひさな不平と、
ちひさなぐちとちひさな怒りと、
そういふうるさいけちなものは、
ああ、きれいにもう止さう。
わたくし事のいざこざに見にくい皺を縦によせて
この世を地獄に住むのは止さう。
こそこそと裏から裏へ
うす汚い企みをやるのは止さう。
この世の抜駆けはもう止さう。
さういふ事はともかく忘れて
みんなと一緒に大きく生きよう。
見えもかけ値もない裸のこころで
らくらくと、のびのびと、
あの空を仰いでわれらは生きよう。
泣くも笑ふもみんなと一緒に
最低にして最高の道をゆかう。
 (文部省『中等国語一[後]』昭和21年8月発行より)



 コーラスのあと、地元婦人会や参会者による「歌と踊り」が、午後2時まで延々つづくことになっていたのだが、歌う人、踊る人が予想外に少なく、急遽、短縮して、午後1時に終了。




★高村祭終了。詩碑の前で記念撮影をする参会者たち(2009/05/15/13:25)

◆いつもいっていることだけれども、たとえば、三沢市の寺山修司記念館は、ある統一的な視点で、寺山の生涯のトータルをカバーしようとしている。
 記念館に身を置くと、その視点と姿勢を(ま、それを受け入れるか受け入れないかは別にして)強く感じる。
 しかし、光太郎について、これをやろうとすると、なかなかむずかしい。
 父光雲と光太郎、留学と光太郎、智恵子と光太郎、大東亜戦争と光太郎、独居・農耕自炊生活と光太郎……などから、統一的に論じる視点をみつけだすことは、わたしにはできない。

◆だから、高村光太郎記念館&高村祭は、そういうものからはあっさり開放されて(ま、あきらめて)、光太郎がここ(旧稗貫郡太田村山口)の小屋(7坪少々)で独居・農耕自炊した7年間(昭和20年~27年)に限定して物語ろうとするのがいいのではないかと思っている。
 光太郎のトータルの一部としての「独居・農耕自炊生活」……ととらえるのではない。
 また、「独居・農耕自炊生活の光太郎」とそれ以前の光太郎……ととらえるのでもない。(←どうしても、この傾向が出てくる)
 スパッと、「農耕自炊生活の光太郎」に限定し、独立させてとらえるのだ。
 そうすることによって、もしかしたら、光太郎という人間の統一的な視点が得られるのであれば、それはそれでいい。


★光太郎が7年間、独居・農耕自炊した7坪半の小屋の内部。見つめていると、吹雪の音が聞こえてくる。

◆今回、はじめて高村祭に参加して、いちばん心打たれ、クラクラとしたのが、光太郎ゆかりの小学校の児童たち、中学校の生徒たち、看護専門学校の生徒たち、地元のサークル会員たちによる高村祭だったことだ。
 宮沢賢治学会イーハトーブセンター副代表理事の森三紗氏の特別講演「高村光太郎と宮沢賢治」も、希望をいえば、小・中学生の光太郎に関する学習発表会くらいのほうがいいかもしれない。
 また、高村光太郎と宮沢賢治は、まったく別モノとして、切り離して考えたい。
 ムリな関連づけは、互いに不幸だ。

◆蛇足になるが、太宰治という人も、統一的に論じる視点を見いだしにくい人だろう(*^_^*)。
 わたしは、サラッと、前期(『晩年』『ダス・ゲマイネ』)、中期(『富嶽百景』『老ハイデルベルヒ』)、後期(『斜陽』『人間失格』)と分けてとらえている。
 そして、中期の作品群を最も高く評価している(大好きだ(^_^)v)。
 他は、関知しない(^_^)vという姿勢だ。

      (「高村祭」は、もう少し、つづく。)


高村祭④ 三畳あれば寝られますね

2009-05-21 14:28:59 | Weblog



★高村祭。花巻市立西南中学校吹奏楽部の演奏。5/15 10:50頃

◆みなみを退場してから、1ヵ月半かかって、やっと「読書」を生活の軸に設定することができた。

 退場する前に、漠然と「退場したら蟄居して読書しよう」と考えていたが、(以前にも少し触れたように)これがなかなかむずかしい。
 あちこちに気が散って、読書に集中できない。
 みなみの子どもたちには、常々、「勉強には、決断力、集中力、持続力がいる」と語っていたが、自分からは完全に欠落していることがわかった。

 きっと笑われると思うので、コマゴマとは記述しないけれども、読書のときの①古書店内での場所
 ②その場所でのソファーの向き
 ③ソファーの角度
 ④両足の高さ
 ⑤書物の高さ
 ⑥照明の種類と角度……等々、1ヵ月半、調整に調整を重ねて、やっと、読書→読書→眠くなったら書物を開いたまま胸の上に伏せていねむり→目覚めたらまた読書→読書……という具合に、なんというか、読書に自分が丸ごと沈潜している……という感じになってきた。(いつもいう「魂の底に沈潜する」というのとは違うように思うが……。)

 もちろん、①~⑤の「調整」がすべてではない。
 もう少し深い部分で、頭が、中学校の経営者から、市井の人に、ほぼ切り替わったということでもあるのだろう。






★高村祭。今年で52回目。木漏れ日の下、地元の人、親交のあった人、県内外のファン、約300人が参加

 その「市井の人」は、3つのイメージで支えられている。
 3つを列挙する。

(1)思いをあらたに

 思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
 甲州。
 ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさに在る。
 小島烏水といふ人の日本山水論にも、「山の拗ね者は多く、此土に仙遊するが如し。」と在つた。
 甲州の山々は、あるひは山の、げてものなのかも知れない。
 私は、甲府市からバスにゆられて一時間。
 御坂峠(みさかたうげ)へたどりつく。
 御坂峠、海抜千三百米。
 この峠の頂上に、天下茶屋といふ、小さい茶店があつて、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもつて仕事をして居られる。
 私は、それを知つてここへ来た。
 井伏氏のお仕事の邪魔にならないやうなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思つてゐた。(太宰治『富岳百景』から引用)










★高村祭。西南中生が、光太郎の「心はいつも あたらしく……」という言葉を一節にする同校精神歌を歌う。

(2)蟄居

 漸っとその小屋まで登りつめると、私はそのままヴェランダに立って、一体この小屋の明りは谷のどの位を明るませているのか、もう一度見て見ようとした。
 が、そうやって見ると、その明りは小屋のまわりにほんの僅かな光を投げているに過ぎなかった。
 そうしてその僅かな光も小屋を離れるにつれてだんだん幽かになりながら、谷間の雪明りとひとつになっていた。
 「なあんだ、あれほどたんとに見えていた光が、此処で見ると、たったこれっきりなのか」と私はなんだか気の抜けたように一人ごちながら、それでもまだぼんやりとその明りの影を見つめているうちに、ふとこんな考えが浮んで来た。
 「……だが、この明りの影の工合なんか、まるでおれの人生にそっくりじゃあないか。おれは、おれの人生のまわりの明るさなんぞ、たったこれっ許(ばか)りだと思っているが、本当はこのおれの小屋の明りと同様に、おれの思っているよりかもっともっと沢山あるのだ。そうしてそいつ達がおれの意識なんぞ意識しないで、こうやって何気なくおれを生かして置いてくれているのかも知れないのだ……」
 そんな思いがけない考えが、私をいつまでもその雪明りのしている寒いヴェランダの上に立たせていた。(堀辰雄『死のかげの谷』から引用)

(3)独居、農耕自炊生活

 三畳あれば寝られますね。
 これが水屋。
 これが井戸。
 山の水は山の空気のやうに美味。
 あの畑が三畝、
 いまはキヤベツの全盛です。
 ここの疎林がヤツカの並木で、
 小屋のまはりは栗と松。
 坂を登るとここが見晴し、
 展望二十里南にひらけて
 左が北上山系、
 右が奥羽国境山脈、
 まん中の平野を北上川が縦に流れて、
 あの霞んでゐる突きあたりの辺が
 金華山沖といふことでせう。
 智恵さん気に入りましたか、好きですか。
 うしろの山つづきが毒が森。
 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。
 智恵さん斯ういふところ好きでせう。(高村光太郎「案内」)


★高村祭。第1部(午前)の最後は、宮沢賢治学会イーハトーブセンター副代表理事の森三紗氏の講演「高村光太郎と宮沢賢治」。内容的にはやや支離滅裂な印象をもった(スンマヘン、聞き方が悪いのだと思います)が、語り口は魅力的だった。ただ、講演の終わりのほうで、いくつかの高村光太郎詩集を紹介し、「この編集は冷たい」「この編集はあたたかい」という言い方をしたが、その理由は語られなかったので気になった。もしかしたら、いわゆる戦争詩の扱い方に関係しているのだろうか。これには詩集によってかなりの差がある。まったく掲載していないという詩集もある。ちなみに、わたしはそういう詩集は認めない。前にも触れたが、光太郎の戦争詩は、現在の評価軸では評価しきれない、とてつもない、ずばぬけた質の高さを誇っている。

◆読書については、意識して、主に、ほぼ、1972年(昭和47)~1981年(昭和56)の10年間に発表された作品を読んだ。

 この10年間は、いい、わるいは別にして、自分にとって、ひとつの区切りだ。
 自分が過ごしてきた10年という時間と、書物の世界の時間とを、重ねあわせたり、対比させたりしながら、読みつづける。
 もう少しいうと、この作者が1975年に「新歌舞伎」について書いているとき、わたしは、根岸小学校で5年2組を担任していたのだ……ということを確認する作業だ。

 こういう読み方をすると、これまでの自分の経験からいうと、たいてい「悔い」が導き出される。
 悔いはやがて悲哀に……ということはわかっているのだが、それでもかまわない、その「悔い」とか「悲哀」とかに、正面から向き合おうと思っている。


日本の学校は力がある。家庭もそうだ。地域もそうだ。ただ、今、バランスが悪いだけなのだ。

2009-05-19 15:10:29 | Weblog


◆教育開発研究所から『教職研修』(6月号)が送られてきた。

 6月号の第1特集は〈学校と家庭・地域“双方向”の連携・協力――新教育課程下の新たな“連携・協力”のあり方を考える〉である。
 この中に、「児童・生徒を主役とする新たな連携・協力への移行」(香川大学教授・柳澤良明)、「“双方向”の連携・協力をどう進めるか」(日本大学教授・佐藤晴雄)等とともに、わたしの「すこやかみなみネット事業~気軽に参加・参画できるゆるやかなネットワークづくり~」が掲載されている。

 『教職研修』の編集のやり方で、これはいいと思うのは、原稿の冒頭に「実践のポイント」、あるいは「対応のポイント」として、400字程度で要旨を提示していることだ。
 これは、書き手にとっても、読み手にとっても、たいへん都合がよい。

 ちなみに、わたしの原稿の「ポイント」は、次の①~④である。

①連携・協力の中核エネルギー
 歩く人が多くなれば道はできる。しかし、最初に歩く人、多少の困難があっても歩きつづける人がいないと、なにも始まらない。連携・協力には中核エネルギーが必要である。中核エネルギーの質が連携・協力の質を決定する。

②小学校と中学校の連携
 小・中学校の連携がしっかりしていることが、学校側・地域側、双方向の連携推進の条件である。小・中学校の方針がバラバラだと、継続的な学社連携はほとんど進まない。

③機動性に富む運営組織
 理念をきちんと共有した上で、それぞれの立場から、気軽に自由に参加・参画できる組織づくりが大切である。立派な組織を作っても、会議の招集もままならないのでは充実した活動は期待できない。

④学校・家庭・地域のバランス
 このバランスがよくなれば日本の教育はまだまだよくなる。逆に悪いままだと、なにをやってもなかなか効果があがらない。連携事業が、バランスをよくすることに結びついているかどうかを絶えず点検する必要がある。(「ポイント」以上)

 この「ポイント」をみて、読んでみようと思った人は読めばいいのだ。(ぜひ、読んでいただきたい(^_-)。)

◆このポイントで原稿を書いたわけだが、原稿用紙(400字詰め)にして7~8枚だから、(決して実践の「部分」を書くことを求められているのではないから)どうしても広く、浅く、かつ、つめつめの実践論文になってしまう。
 狭いスペースでも、こちらにもう少し技量があれば、中心は深く鋭く、他はサラサラッとやって、読む人に「つめつめ」感を与えることなく、趣意をつかんで納得していただける原稿が書けるのに……と、いつものことながら猛省している。

◆もし、スペースが2~3倍程度あるなら……こういうことに触れたかったのだけれども……ということを、3点書くことにする。

(1)学校支援地域本部事業やコミュニティスクール・地域運営学校、あるいは、放課後子ども教室推進事業等と、わたしの「ネットワーク設計」との、重なり合う部分と相いれない部分とを、鮮明にしたかった。
 前者の多くには、たとえば「子どもの環境は、情報化、価値の多様化も含めてどんどん変化しており、学校はこれまで以上にさまざまな課題を抱えるようになっています。学校の負担を軽減するために、地域の力を借りて学校を支援していくことが求められています」(清水潔・文部科学省生涯学習政策局長)という発想がある。

 しかし、わたしは「学校の負担を軽減するために、地域の力を借りて学校を支援」してもらおうと考えたことは、これまで1度もない。
 現在の教育危機の元凶は、学校が多くの荷を抱え込みすぎた(ま、わたし流にいえば)「学校の教育丸抱え体制」、あるいは「学校の教育独占体制」にあると考えている。
 だから、学校が抱えている荷をそのままにして、「たいへんでしょう。支援してさしあげましょう」という発想では、事態の好転は、ほとんど期待できない。
 学校が抱えている荷のなかで、家庭が引き受けるべきは家庭に、地域が引き受けるべきは地域に……と、適切に分担(分担も「連携」)することにより、学校の本来の教育活動が充実する、そして、家庭や、地域も生き返る。
 このことを目指した、学校・家庭・地域の連携・融合・協働であり、ネットワークづくりである……という発想だ。

 だから、「もう一度地域の人が結集するシンボルとしての学校を見直そう」(清水潔・文部科学省生涯学習政策局長)とか、「……さまざまなネットワーク活動を意図的に立ち上げて社会のつながりをつけ直すことが必要だと思う。そのためのひとつの有効な方法として、いい学校をみなで作ろうということを目指した、学校を拠点とした地域と学校の連携を深めるネットワーク活動がある」(金子郁容氏)という思想とは、あいいれないものがある。

 くどくなるけれども、くり返す。
 わたしは、学校の荷はそのままに……という連携や、学校を拠点にした連携という発想はとらない。
 学校・家庭・地域、それぞれの教育のバランスがよい状態を追い求めたい。
 学校・家庭・地域のバランスがよくなれば日本の教育はまだまだよくなる。
 日本の学校は力がある。
 家庭もそうだ。
 地域もそうだ。
 ただ、今、バランスが悪いだけなのだ。
 バランスがよくなれば、日本はまだまだ大丈夫だ。
 逆にバランスが悪いままだと、なにをやってもなかなか効果はあがらない。
 バランスをよくするための連携事業、ネットワーク活動が大切だ。

 わかりやすくいえば、わたしは「バランス主義」、そうでないのは「学校中心あるいは学校拠点主義」。
 この区別はきちんとつける必要がある。
 区別をつけておかないと、まず、まちがいなく、道を誤る、落とし穴に落ちる。

 「学校中心主義」かどうかを、見分けるための簡単な方法がある。
 そのネットワークの中核になっているエネルギーがどこにあるかを点検すればいいのだ。
 わたしは取材するとき、必ず、まず「会議を招集するとき、だれがやるのですか?」「会場はだれがセットするのですか?」「このプリントはだれが作ったのですか?」「会計はだれがやっているのですか?」等とたずねる。
 あるいは、「実施要項」とか「会則」とかの「事務局」の項目をみる。
 「事務局には、事務局長を置き、教頭をもってこれに充てる」というようなことが書いてある場合は、最悪のパターンとまではいわないが、ま、あまり期待できない。

 話は少しそれるが、日本の社会教育の失敗も、これに似ている。
 戦後、たくさんの社会教育団体が発足した。
 そのとき、事務局に役所の職員を充てた例が、(どのくらいだろう? 相当)あるのではないか。
 わたしは、これがまずかったと思っている。
 いつも歴史はくり返している。
 よほど気をつけなければ……。

◆「もし、スペースが2~3倍程度あるなら……こういうことに触れたかったのだけれども……ということを、3点」といったが、1点だけで、きょうは終わってしまった。
 2点目=小中連携、3点目=組織運営……は、後日。


高村祭③ 光太郎の戦争責任

2009-05-18 11:24:14 | Weblog

★高村祭。花巻市副市長のあいさつ。市民代表として光太郎と花巻市民の関係を語るいいあいさつだった

◆今、高村祭の記事を連続してアップしている。
 高村祭は5/15午前10時~午後2時までで、わたしがアップしたのは、午前10時09分の時点までだから、HP上の高村祭はこれからまだまだつづくのだが、きょうは、別のことから書きはじめることにする。

 けさ、目が覚めたとき、ふと「ホームページの更新をいつやるか?」……ということが、気になったからだ。

 みなみ在職時は、夕食後、飲みながら(発泡酒orウィスキー)やっていた。
 飲みながらやりたくないが、この時間しかなかった。
 で、今、みなみ退場後はというと、夕刻、夕食前にやっている。
 「ふと気になった」というのは、このどちらもマズイのではないかと考えたからだ。

 「飲みながら」……というのは、もちろんマズイ。
 理由は2つある。
 1つは、飲みながら更新作業をやっているうちに、PC前で眠ってしまい、(HP更新作業の工程は、ブログと異なり、画像ひとつとってみても、大きさを縮小したり、品質を調整したりと、結構、複雑で)次に目が覚めたとき、どの作業からどの作業に移ろうとしていたのか、わけがわからなくなることがある。(ここから、わけがわかるような状態にもどすのが、すごくたいへんなのだ。)
 もう1つは、文章の質だ。
 前半は比較的いいのだが、後半はあやしくなる。
 ぼんやりして論理的でなくなるということもあるが、そのこと以上に、酔いのせいで気宇壮大というか豪胆無比というか、論じている内容、いや、論じていること自体が「もう、どうでもいい」という気分になってしまうのだ。

 みなみを退場してからは、さすがに飲みながら更新作業をするということはなくなった。
 しかし、現在の「夕刻、夕食前」というのも、理由はバカバカしてので省略するが(/▽\)、「飲みながら」以上に、マズイ。


★高村祭。花巻東高校生による詩の朗読。

◆ということで、昨夕の「光太郎が、わたしの精神の内側に沿って魂の底に侵入したことが、これまでに2度ある。1度目は……」というくだりを、「飲みながら」でもない、「夕食前」でもない、時間帯に書き直すことにする。

 現在の時刻は、07:30である。

 大東亜戦争下の詩人たちの戦争期から敗戦期に至る精神の変遷を取りあげたわたしの卒論は、難航する。
 理由を粗くいうと、戦争期に、戦争の趨勢に関する、特別な情報をもたず、ただ軍艦マーチが鳴ればよろこび、海行かばが流れれば哀しみという具合に一喜一憂する、その詩人の内面については、感情移入が比較的やりやすかった。
 それにくらべ、敗戦期の、(昨夕の表現でいえば)深い挫折感、あるいは一種の解体現象については、追体験がむずかしかった。

 具体的に例をあげる。
 伊東静雄の「夏の終り」だ。

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落す静かな翳は
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田(みづた)の面(おもて)を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる
   「反響」(昭和22)所収

 「夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲」というのは、台風のような戦争期を生きぬいて、その哀しみを、ひとりの日本人としてうけとめている静雄の自画像であると考えていいだろう。
 そして、「気のとほくなるほど澄みに澄んだ/かぐはしい大気の空をながれてゆく」というこの「空」は、あの8月15日の空の青さを反映しているのだろう。
 こういうふうに頭では、静雄のこの作品に、亡国の民の、敗戦の哀しみが定着されている……とわかるのだが、戦後生まれ、育ちのわたしには、どうしても感情移入ができないもどかしさがあった。 ずっと逆立ちしていたいくらいの心境で、卒論用の原稿用紙を眺めていた自分を覚えている。


★高村祭。花巻高等看護専門学校生による詩の朗読

 わたしは、このときに、光太郎の「一億の号泣」に出会う。(もちろん『智恵子抄』の作者としての光太郎は既に知っていた……。)

 再掲する。

綸言一たび出でて一億号泣す。
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず。
玉音ひびき終わりて又音なし
この時無声の号泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
宸極に向かってひれ伏せるを知る。
微臣恐惶ほとんど失語す。
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす。
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん。
  (昭和二十年八月十六日午前花巻にて)

 昨夕の繰り返しになるが、戦争責任に服しつつも、「鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのづから強からんとす。/真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」と、批正すべきは批正し、貫くべきは貫き、背筋を伸ばして、新しい生活を切りひらいていこうとする強靱な精神構造との対比において、静雄の、亡国の民の、敗戦の哀しみを理解することで、学生時代のわたしは、この問題に関して「諒とする」ことにした。

 なお、今「戦争責任に服しつつ」といったが、文学者の戦争責任というものに軽重があるとすれば、光太郎のそれは最も重い。
 大政翼賛会中央協力会議委員、文学報国会詩部会長という立場に加え、吉本隆明などは、昭和16年読売新聞に発表された「全国の工場施設に美術家を動員せよ」等の「公的な文学活動」および「庶民の指導者」としての詩業を厳しく批判している。
 ただ、わたしは、そのことをもって「最も重い」といっているのではない。
 光太郎自身が「我が詩を読みて人死に就けり」といっているように、その詩、それを戦争詩というのであればそれでもいい、その詩の、現在の評価軸では評価しきれない、おそらくは後の世で再評価されるであろう、その作品の、とてつもない、ずばぬけた質の高さにおいて、光太郎の戦争責任は「最も重い」といっているのだ。


★高村祭。花巻市立太田小2年生による楽器演奏と旧山口小校歌の合唱(10:45)

◆みなみ在職時代、通常、06:50学校着を、「ひとりサマータイム」と称して、05:50学校着にしていた期間がある。
 たしか6月いっぱいだったと思う。
 何にもわずらわされることなく、真空のなかで文字が書ける、最適の時空間だった。
 書いた文字の量でいうと、たぶん、このサマータイム期間が、これまでの最高だろう。
 ただ、このサマータイムは、6月いっぱいで終わる。
 理由は、これをやると、午後4時~5時という、諸会議が密集し、結構、重大な判断をしなくてはいけない時刻に、もう既にへばってしまっているという欠点があったからだ。

 「ホームページの更新をいつやるか?」
 みなみ退場後のわたしに、もう諸会議の密集時間帯はない。
 「ひとりサマータイム」、いや、「超・ひとりサマータイム」復活というのもいいかもしれない。






高村祭② 雪白く積めり

2009-05-17 16:39:39 | Weblog



★高村祭。光太郎の詩碑「雪白く積めり」の前に、参加者を代表して、太田小学校2年生児童2名が献花する。

◆光太郎が、わたしの精神の内側に沿って魂の底に侵入したことが、これまでに2度ある。
 1度目は、わたしが大学時代、卒業論文で、大東亜戦争下の詩人たちの戦争期から敗戦期に至る精神の変遷を取りあげているときだ。
 わたしは、光太郎の「一億の号泣」を見いだす。

 一億の号泣

綸言一たび出でて一億号泣す。
昭和二十年八月十五日正午
われ岩手花巻町の鎮守
鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて
天上はるかに流れきたる
玉音の低きとどろきに五體をうたる
五體わななきてとどめあへず。
玉音ひびき終わりて又音なし
この時無声の号泣国土に起り、
普天の一億ひとしく
宸極に向かってひれ伏せるを知る。
微臣恐惶ほとんど失語す。
ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、
苛も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
鋼鉄の武器を失へる時
精神の武器おのづから強からんとす。
真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ
必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん。
  (昭和二十年八月十六日午前花巻にて)

 敗戦によって、一種の解体現象、あるいは深い挫折感に陥る文学者が多いなかで、光太郎のみは「鋼鉄の武器を失へる時/精神の武器おのづから強からんとす。/真と美と至らざるなき我等が未来の文化こそ/必ずこの号泣を母胎としてその形相を孕まん」と、戦争責任に服し、批正すべきは批正し、貫くべきは貫き、背筋を伸ばして、新しい生活を切りひらいていこうとする強靱な精神構造は、別格をなしていた。(この記述内容のつづきや、「2度目」については後日触れることにする。)


★高村祭。地元の茶道サークル会員(三彩流新茗会)による献茶。

★高村祭。献茶に使用する水は、この智恵子抄泉を使っている。

★高村祭。花巻市立西南中学校1年男子による詩碑「雪白く積めり」の朗読。

雪白く積めり。
雪林間の路をうづめて平らかなり。
ふめば膝を没して更にふかく
その雪うすら日をあびて燐光を発す。
燐光あをくひかりて不知火に似たり。
路を横ぎりて兎の足あと点々とつづき
松林の奥ほのかにけぶる。
十歩にして息をやすめ
二十歩にして雪中に坐す。
風なきに雪蕭蕭と鳴つて梢を渡り
万境人をして詩を吐かしむ。
早池峯(はやちね)はすでに雲際に結晶すれども
わが詩の稜角いまだ成らざるを奈何にせん。
わづかに杉の枯葉をひろひて
今夕の炉辺に一椀の雑炊を煖(あたた)めんとす。
敗れたるもの卻(かえつ)て心平らかにして
燐光の如きもの霊魂にきらめきて美しきなり。
美しくしてつひにとらへ難きなり。

★高村祭。花巻高等看護専門学校の1年生39人が先導し、参加者全員(300人くらい)で光太郎の詩「岩手の人」を朗読する。

岩 手 の 人

岩手の人眼静かに、
鼻梁ひいで、
おとがひ堅固に張りて、
口方形なり。
余もともと彫刻の技芸に遊ぶ。
たまたま岩手の地に来り住して、
天の余に与ふるもの
この如き重厚の造型なるを喜ぶ。
岩手の人沈深牛の如し。
両角の間に天球をいただいて立つ
かの古代エジプトの石牛に似たり。
地を往きて走らず、
企てて草卒ならず、
つひにその成すべきを成す。
斧をふるって巨木を削り、
この山間にありて作らんかな、
ニッポンの背骨岩手の地に
未見の運命を担う牛の如きの魂の造型を。




高村祭の準備風景

2009-05-17 03:39:02 | Weblog

★高村祭の会場に向けて疾駆するタクシー。どれくらいの料金になるのかが少し心配。




★太田山口の高村山荘が近づきました。心配していたタクシーの金額は3100円。



★会場に到着。近所の人々による出店がありました。


 

★メニューは、おでん、焼きそば等々。













★花巻市立西南中学校吹奏楽部のリハーサル。


★準備の様子を見守る高村光太郎。


★太田小の児童による献花のリハーサル


★高村祭の空


★出番が近づき、気合いの入る花巻高等看護専門学校の生徒たち。


高村祭に向かって

2009-05-16 15:41:53 | Weblog



★高村祭に参加するため、06:03八戸発、北上行普通列車に乗車。(08:29花巻着)
 外の空気は冷たいが、車内は座席下の電気ヒーターがよく効いてあたたかい。

★高村光太郎の遺徳を偲ぶ高村祭。
 光太郎が大東亜戦争中、花巻に疎開したのが、昭和20年5月15日。
 この日を記念して、毎年、5月15日に開かれている。
 光太郎が亡くなったのが昭和31年。
 その翌々年、昭和33年から開かれていて、今年は52回目になる。
 場所は、光太郎が花巻市から同年11月17日に移り住んだ太田山口の高村山荘。
 光太郎は、この山荘で、約7年間、独居、農耕自炊の生活を送る。

★女性の運転手だった。
 キチンキチンやる指差確認喚呼の動作や声がこちらにまで伝わってくる。



★苫米地付近を快調に疾駆する電車。
 快調に疾駆とはいえ、普段、在来特急と、新幹線と、八戸線(気動車)にしか乗らないので、電車1両目の強烈な加速感にクラクラする。

★08:29花巻到着。
 が、高村山荘行の岩手県バスは08:05に既に出発したあと。
 次便は午後2時。
 高村祭が、午前10時から午後2時だから、これだと祭りのあとに到着することになる。
 きっと通常の路線バス時刻表とは別に、高村祭臨時バスなどがあるのだろうと、花巻駅前の観光案内所を訪ねたが、臨時バスという発想そのものがないという感じだった。
 「では、タクシーで」というわたしを「高村山荘まではずいぶん距離がありますから……」と引き止め、これから高村祭に向かうスタッフの自動車をさがしてくださる。
 ただ、こればかりは丁重にお断りして、タクシーに乗車。
 列車につづき、タクシーも女性運転手だった。(高村祭情報つづく)

◆民主党代表選をめぐる妄想
 第1段階 鳩山VS.岡田。鳩山敗戦。
 第2段階 衆院選 自民VS.民主。自民敗戦。
 第3段階 自公連立解消。
 第4段階 安倍晋三復活。

 この妄想は、第1段階から崩壊してしまうo(T(●●)T)oo(T(●●)T)o。


自己崩壊の危機を切り抜けるおまじない

2009-05-14 15:28:34 | Weblog

★蟄居中の古書店の一隅。「蟄居」するにも、相当な力がいるということがわかった。いちばん手前の書物群は、現在、読み続けているもの。画像の上部に文庫本が積まれているのが見えるが、これは上の棚が重さで下がってくるのを、この文庫本で支えている。ご覧になっておわかりのように、これは元食器戸棚だから、書物の重さに耐えるようには作られていない。けど、結構、重宝している。

◆以前にも触れたことがあるが、みなみ在職期間は「みなみを退場したら何々がしたい」「何々をしなければ」というような、抱負や願望については、一切、封印していた。
 とにかく、日付が3/31から4/1に切り替わる「ポ、ポ、ポ~ン!」の時報に、きちんと着陸すること、これが願望のすべてだったし、もし、自分にそれができたとしたら、それはそれは、もう奇跡的なことだし、もちろん多くの方々のお力のお陰だし、もうこれ以上の幸福はない……と考えていた。

 ただし、(これも以前に触れたことであるが)例外が3つある。
(1)ずっと切れたままになっている玄関灯の電球を取り替えたい。
(2)古書店(自室)に蟄居したい。もう何にもかかわりたくない。
(3)お好み焼き学校に入校したい(←「蟄居」とちょっと矛盾するが)。

 この3つは、「みなみを退場したら」という条件設定下の願望とは、まったく別種の(これも、いつも、いつも、くり返すことだけれども……)自己崩壊の危機を切り抜けるために、時間軸上の自己同一性(アイデンティティ)を顕在化させようとする、永遠のおまじないのようなものだ(と、わたしは考えている。(○゜ε゜○))

(1)「玄関灯」については、みなみ退場後、即、近くのサンデーに行き、電球型蛍光灯National パルックボールスパイラル 60W形(電球色・E26口金)★消費電力12ワット! 長寿命・省エネ 定価 1,890円 の品→特価! 680円。これを1個購入。

(3)「お好み焼き学校入校」についは、大阪の入校先は既に決めているが、入校日は、未定。


★蟄居中の古書店の一隅。上の画像の角度を少し変えたものだ。奥は「堀辰雄コーナー」の作りかけだ。最初、軽く考えて、3月頃、つくりはじめたのだが、関連書物……たとえば、神西清集とかリルケ詩集とかプルースト『失われたときを求めて』とか堀辰雄全集とか……を考えると、他の書物を相当、移動しなければならないことに気づき、現在は、一頓挫の格好になっている。7月中下旬に手をつけたいと思っている。

◆問題は、(2)「古書店内蟄居」だ。
 「蟄居」するにも、相当な力がいるということがわかった。
 みなみ在職中、子どもたちには機会あるごとに「受験勉強には、①決断力 ②集中力 ③持続力が必要だ……」という話をしてきたが、4月、蟄居生活に突入しようとして、わたしには蟄居のための①決断力、②集中力、③持続力がないということに気づいたo(T(●●)T)o

 しばらく愕然としていたが、今週(5/10~)に入って、やや好転。(「好転」状況については、また後日に触れたい。)

◆ついでだから、古書店内蟄居で、どういう内容を想定しているかというと、(こういうことをネット上にアップするのも間の抜けた話だが……)

 ①自分の部屋の書棚を眺めながら、一日中、ぼんやりものを考える。
 単語と単語を(バタバタとではなく)、ひとつひとつ、自分が納得するまで組み立ては崩し、組み立てては崩しして、私的な側面を公的な側面が含む、あるいは逆でも可、公的な側面を私的な側面が含む、パワフルで、豊かな、新しい文体を創り出していく。
 わたしには、かなりハードルの高い願望だが、これまでに積み重ねてきたことを生かして挑戦したい。

 ②手当たり次第に過去の書物を読み直す。
 書物のなかの世界と、これまで自分が過ごしてきた時間とを、重ねあわせる、あるいは、対比させる。(これ、自分の経験からいうと、たいてい「悔い」が導き出されることになりがちだ。「悔い」はやがて「悲哀」の感情を帯びる……ということはわかっているのだが、それでもかまわない。ま、ひょっとしたら、今度は違う結果になるかもしれないし……。)

 こういう①や②に、1時間、2時間というのではなく、もう何時間でも……。
 作業しているうちに眠り込む。
 ハッと目をさまし、また再び作業をつづける……というふうに。


人生は、時穴、道行

2009-05-11 14:53:33 | Weblog





★早朝、はなむけ号で、八戸湊線の廃線跡を訪ねる。ここで心のうちに生じた喪失感が、きょう、記述する『およね平吉時穴道行』につながっていったのかもしれない。

◆1月に、このページ(600字の教育学)で『およね平吉時穴道行』(半村 良)に触れたことがある。

 〈このときの記述の引用〉

 三鷹市の古書店・フォスフォレッセンスは、太宰が眠る禅林寺から約1キロくらいの場所にある。
 すぐ隣が三鷹図書館だ。
 太宰ファンにとって、もちろん、太宰ファンである店主にとっても、もう、ここしかないよ……というようなロケーションだ。
 『およね平吉時穴道行』ではないが、フォスフォレッセンスの地下には、きっと、太宰の時代へのタイムスリップ装置が埋まっているのだろう。
 真姿はんが、この古書店内で「デジャヴもあったり」といっているが、ほんとうは時穴に落ちかかったのかもしれない。
 時穴に落ち、行方しれずになった真姿はんを、なりきりマントを羽織ったわたしが助けにいくというタイムトラベルSFも、おもしろそうだ。
 店主が大阪出身ということは、今回、真姿はん情報ではじめて知った。(09/01/18記述)


★『およね平吉時穴道行』の一場面・江戸時代から200年後の東京・銀座に姿を現したおよね

◆自分の古書店・DAKA書房の書架の配置を設計しているときに、真姿さんから三鷹の古書店・フォスフォレッセンスの情報を得て、いい古書店は「時穴」の性質をもっている……というふうに話が展開して、『およね平吉時穴道行』に接続したのだった。

 このときに触れた『およね平吉時穴道行』のことが、ずっと気になっていた。
 ネットで調べてみると、1977(昭和52)年4月9日、NHKで放送されている。
 27歳のわたしはこれを観たのだ。
 その後、一度、再放送されたらしいが、今後は予定はないし、DVDも出ていない。。

 ひょっとしたら、YouTubeに、ドラマのカケラくらいはあるかもしれないと、昨日、「時穴」で検索したら、なんと、9分間×8でアップロードされていた。
 
 興味のある方は、ぜひご覧ただきたい。
 「時穴」で検索しても見つけることができるが、ズバリ、「およね・平吉時穴の道行」(昭和52年)p1-8……で検索し、「およね・平吉時穴の道行」(昭和52年)p2-8……「およね・平吉時穴の道行」(昭和52年)p3-8と順々に検索をかけてもOK。
 最終回が、「およね・平吉時穴の道行」昭和52年)p8-8……になる。


★『およね平吉時穴道行』の一場面・200年前の江戸・銀座にいる兄に向かって、時穴に現代の週刊誌を投げ入れるおよね

◆今、冷静に観ると、(ま、「冷静に観」られているかどうかは自信がないが……)ドラマのテーマは、江戸から昭和、200年間の時を越えた、およね・平吉(へいきち)の恋の悲哀……ということになるのだろうが、当時のわたしは、この「恋の悲哀」にはまったくといっていいくらい反応していない。

 妹・およねが時穴に消えたあとの、兄・京伝の喪失感のほうに強く反応している。
 だから、今回だって、その「喪失感」を再度チェックしたくて(=味わいたくて)、YouTubeをつなぎ合わせて(結構、苦労して)、全編を観たのだ。
 しかし、予想ははずれていて、「喪失感」がまったくないというわけではないが、「喪失感」そのものは、ドラマの単なる余韻にすぎない。

 どうしてこういうことになったのか?

 ドラマが放映された1977年4月9日というと、その2週間ほど前に、5年、6年と2年間担任した、愛する根岸小の教え子たちと別れたばかりの頃だ。
 その強いさびしさと、妹・およねの消滅→兄・京伝の喪失感とが結びついたのだろうか……?

◆1776年3月3日に、およねが時穴に入る。
 時穴から出たところが、200年後、昭和の東京・銀座。
 3年後に、およねを追って、平吉が時穴に入る。
 平吉が出たところが、100年後、明治の東京・銀座。
 平吉は、遂におよねに再会することなく、その後に起こる関東大震災で没する。
 その平吉の孫が、それから100年後、すなわち、時穴に入ってから200年後のおよねに出会う。

 振り返れば、わたしは、ドラマを観た1年後、平吉が時穴に入るのと同じように、「中学への転勤」を希望する。
 そして、平吉と同じように、時穴を出たところが、根岸の教え子たちがいる場所ではなく、まったく別の場所だった……というわけだ(*´;ェ;`*)。

 ま、もちろん、これはこれでよかった。
 いや、いい、わるいではない。
 これが人生だ。
 根岸の教え子たちがいる場所ではなく、まったく別の場所で、わたしは、まったく別の人生を歩むことになる。

 そのわたしが時穴に入ってから、30年以上の歳月を経て、さいわいわたしは、平吉のように災難に遭遇し没することなく、先日、鬼丸で、根岸の教え子たちに再会した。

 美佳さんから、きのう、そのときの鬼丸での写真が送られてきた。
 見つめていると、涙が出た。
 人生は、時穴、道行だ。

◆ま、ひとまわりまわって、これ(=わたしの『およね平吉時穴道行』の読み方)は、これでいいことになるィェ‐ィ v(●´U`●v))))))。


 


上谷順三郎氏の奇妙な回答

2009-05-09 13:42:50 | Weblog


◆光村図書から届けられた冊子『国語教育相談室』(中学校№58)を読んでいて、特集「文学教材で〈自分の考え〉を形成する」の中の、上谷順三郎氏(鹿児島大学)の回答に、ま、結果的に、快い知的な刺激を受けた。

 まず、回答に対する問いは、次のようなものだ。
 「説明文教材で〈自分の考え〉をもつことと、文学教材で〈自分の考え〉をもつことは違うのでしょうか」

 我思う、ゆえに我あり……対象が説明文教材であれ、文学教材であれ、自分は自分であるし、自分の考えは自分の考えである。
 おかしな「問い」だなと思った。

 しかし、回答者の上谷氏は、「結論から言えば、両者は違います」と言っている。
 ええっ??w(( ̄ ̄0 ̄ ̄))w

 氏の説明の概略を紹介しよう。
 書き手の位置づけが違う。
 説明文は、書き手である「筆者」と文章中の「話者」は同じ。
 だから、書き手と読み手は一対一の関係になる。
 一方、文学の場合は、書き手である「作者」と文章中の「話者」は異なる。
 だから、読み手は話者を通して作品を読むことになる。
 「すなわち、説明文教材では書かれていることに対して直接的に反応していく、文学教材では間接的に反応していくということでもあります」と述べている。

 作者や話者等については、上谷氏の説明の通りだ。
 しかし、説明文教材に対する自分も、文学教材に対する自分も、自分であることに変わりがない。
 それを、対象の差異から、作者だ、話者だとこねくり回して、「自分」というものの差異を導きだそうとするのは、なんだか子供じみた議論だ。
 ストレートに、説明文教材と文学教材は「読み方」の指導方法が違うのでしょうか?……という問い立てのほうがよいのではないかと思った。

◆ただ、冒頭、「結果的に、快い知的な刺激を受けた」といっているのは、このことを差しているのではない。
 氏の回答に疑問をもちつつ、少し考え直してみなければ……と思ったことがあるからである。

 わたしは、これまで、あちこちで、何度も何度も、自己のアイデンティティ(同一性)」を、①時間(垂直)軸と、②空間(水平)軸の2軸でとらえていると、言いつづけてきている。
 ①「時間軸」は、自己の時間的・歴史的連続性、つながり。
 ②「空間軸」は、所属する社会との連続性、つながり。

 もちろん、この2軸が複雑に絡まり合い、わたしという「自己」が形成されている。
 この世には、時間軸に対する感性の鋭いタイプと、空間軸に対する感性の鋭いタイプの2種類が存在して、わたしの場合は、圧倒的に、時間軸を重視するタイプの人間だということだ。

 このことに関して、一度、おもしろいことがあった。
 校長試験のときだ。
 校長試験は2度、受験している。
 1度は不採用で、もう1度は採用ということになるが、たしか、その不採用のときの小論文のテーマが、(正確ではないが)「子どもたちの自分さがしの旅を実現させる学校経営」という枠組みだった。

 当然、わたしとしては、時間軸を柱に論を展開していったわけだが、どうしてもうまく展開しない。
 それで、後半、仕方なく、空間軸を中心に論を組み立て、なんとかスペースを文字で埋めつつ、ほんとうに自分という人間は時間軸人間なんだなぁ~と痛感し、同時に猛省した。

◆上谷氏という人は、わたし流にいえば、「空間軸」に対する感性の、すごく鋭い方なのではないか?
 また、「空間軸」に対する感性の鋭い方だと、上谷氏の論の展開はごくごく自然に理解できたのではないか……思った。
 少し考え直してみたい。


意識の深層にある願望

2009-05-08 13:31:09 | Weblog

★古書店の八重桜が満開だ。ただ、きちんと手入れをしていないから、くぐるようにしなければ古書店には入れない。

◆朝、はなむけ号で、4㎞ほど離れたところにある、温泉銭湯に行く。
 朝5時から営業しているのだが、あまり早い時間帯だと、朝風呂が大好きだという人たちで、結構、混み合うのではないか? それが一段落したあたりがいい……ということで、6時過ぎに出発し、(シャンプー・石けん・タオル等を入れたナップザックを背負い、橋を渡り、跨線橋を越え、こぎにこいで)6時半頃、到着。
 予想どおり、数人の客しかいなかった。
 浴室のいちばん奥にある、ひばの巨木をくり抜いた木製の湯船にひとり、浸かる。

 湯気ごしに、脱衣場にある大時計をみると、6時50分をさしている。
 3/31までだと、ちょうど、学校の玄関を解錠している時間だ。
 この時間に温泉にやってきたのは、温泉がガラガラだから……ということとは別に、意識の深層に、学校解錠の時間に、温泉に浸かっていたいという願望があったからではないか……と、ふと思った。
 嘉瀬T、志塚T、西塚T、ホンマにスンマヘン、スンマヘン(*- -*)

 お湯は、いわゆる源泉かけ流し。
 ぬるめで、無色透明。
 温泉成分分析表によると、ナトリウム塩化物泉、38.5℃。
 湯船に注ぎこむお湯が、植物の葉っぱについた朝露のようにキラキラしている。



 


それだけはちょっと待ってくださいよ

2009-05-06 15:20:05 | Weblog

★昨日につづき、南部縦貫鉄道・体験乗車の画像だ。自分自身が愛着のあるものに関して、廃線・廃止情報が入ると、かならず乗車するという方針だが、果たせなかったのが、この南部縦貫鉄道と、大阪青森間の白鳥号だ。ああ、南部縦貫鉄道、ホンマに悲しい。

◆みなみ退場後、「すこやかみなみネット」に関して、4月中に原稿を3本書いた。
 いずれも、原稿用紙にして7、8枚の実践レポートのようなものだ。
 原稿料のトータルは、約50000円。
 とてもこれでは生活できない。
 加えて、ま、はずかしげもなく希望をいえば、7枚、8枚というのではなく、50枚、100枚とまとまったもの、あるいは、連載モノが書きたいのだけれども、だれもそんなふうに認めてくれていないし(ノ△・。)、また、わたしのほうもそれだけの実力があるわけではないのだから仕方がない。

 原稿料や50枚、100枚の話は半分冗談として、その依頼で、最近、やや気になるのが、依頼主が、文部科学省の「学校支援地域本部事業」=「すこやかみなみネット事業」ととらえているケースがあることだ。

 学校支援地域本部事業の基本的な仕組みは、①地域教育協議会 ②地域コーディネーター ③学校支援ボランティアで構成されている。
 すこやかみなみネット事業も、同じような要素を含んでいて、見た目には、まったく同じに見える。

 依頼主には、次のようにお話ししている。

(1)すこやかみなみネット事業は、学校支援地域本部事業として実施しているのではない。(すこやかみなみネットはH17~、学校支援地域本部はH20~)

(2)ただし、当然のこととして、事業内容には、重なり合う部分が、相当にある。

(3)しかし、理念的には、相いれない部分があって、学校支援地域本部事業の方向を修正したほうがいいのか、あるいは逆に、すこやかみなみネット側が修正したほうがいいのか、あるいは、究極には、互いに部分的に修正し、統合することがあり得るのか、現在、わたし自身、教育哲学をしているところである。

 「もし、これで、よろしければ、お引き受けします(o*。_。)o」と言っている。

◆このホームページ「600字の教育学」は、以前にも触れたように、理想のかたちは、次の3つの要素が、バランスよく組み合わされていることだ。
 まず、①自分の「仕事」が、順調に進んでいるときであれ、遅滞あるいは退歩しているときであれ、大きな方向だけはしっかりとしていること。
 その上で、②ブログ的に、その「仕事」への自身の携わり方、あるいは、その日常を語ること。
 また、③進捗、遅滞、退歩する「仕事」そのものは、1つのコンテンツとして(クリックすれば至れるように)内包していること。

 この①の「大きな方向」の1つが、学校支援地域本部事業やコミュニティスクール・地域運営学校、あるいは、放課後子ども教室推進事業等と、すこやかみなみネット事業の重なり合う部分と、相いれない部分とを、鮮明にしていくことだと思っている。

 人によっては、それぞれのツールを活用して、それぞれいいものをつくればいいのだ……というかもしれない。
 わたしも、そう思っているところもあるし、これまでも、そのようにしてきたつもりだ。
 しかし、どうしても相いれない部分(←部分とはいえ、根幹部分)もある。

 たとえば、「子どもの環境は、情報化、価値の多様化も含めてどんどん変化しており、学校はこれまで以上にさまざまな課題を抱えるようになっています。学校の負担を軽減するために、地域の力を借りて学校を支援していくことが求められるようになりました」とか、「もう一度地域の人が結集するシンボルとしての学校を見直そうということです」(引用前・後、いずれも清水潔・文部科学省生涯学習政策局長)とかについては、思わず「いやぁ~、それだけはちょっと待ってくださいよ」と言ってしまうくらい、わたしは清水氏とは異なった考え方をしている。

 こういうことについて、クドクドと、ネチネチと、語りつづけるのが、くり返すが、ホームページ「①の大きな方向の1つ」(←あくまでも「1つ」の例)であり、「②ブログ的日常」だ。



ああ  南部縦貫鉄道レールバス。今、垂直に遡上する

2009-05-05 17:14:43 | Weblog


★南部縦貫鉄道株式会社。
 野辺地~七戸 20.9km 非電化・単線・タブレット閉塞
 駅数 11駅 (野辺地・西千曳・後平・坪・坪川・道の上・天間林・営農大学校前・盛田牧場前・七戸)
 開業 昭和37年10月20日
 休止 平成 9年 5月 6日
 廃止 平成14年8月1日

★昨日、「レールバスとあそぼう2009」に参加し、体験乗車。
 突き上げてくる振動に打たれながら、(わたしは、よく「魂の内側に沿って垂直に下る」という言い方をするが)「ああ、このレールバスは、今、垂直に遡上しようとしているのだ」と思ったら、こみあげるものがあった。
 悲しすぎるものがあった。

◆今、ここしばらく、ずっと、ずっと、何に苦しんでいるのかというと、(笑われるかもしれないが)わたし自身の「読む力」の劣化だ。

 下記は、先日、みなみ中文芸部員とのチャットにおける、わたしの発言だ。

・と、と、とにかく、みなみを退場したら、べ、べ、勉強をしよう。教育に関する、わたしのテーマに即した、文献にあたろう。
・で、そのうち、テーマに即して、あちこちに取材にもいこう。
・で、そのうちに、ポツポツと、論文を書こう(←自分のために)と思っていたのですが、読む力がすごく不足しています。
・読む力というと、①理解力 ②持続力 ③スピード……。
・このうち、①理解力は、まあまあなんですけど▼*゜v゜*▼テヘッ、②持続力は、ほんま、全然、アキマヘンね; ̄ロ ̄)!!
・それに、③スピード、これも、ホンマ、ノロマロ( ̄□ ̄;)!!
・さぼっていたから=仕事でいっぱいいっぱいだったから←弁解……ということですね。
・ま、そのうち、②持続力も、③スピードもでるだろうと……楽観していますけど。

◆これは、正直なコメントだ。
 読み続ける根気だけではなく、書物の重さを支えつづける両腕の力まで落ちてしまっている(ノ△・。)。←これ、実感。

 つくづく、〈発信〉と〈受信〉のバランスの悪い期間が長かったのだなぁ……と、ここ10数年を思い返している。

(1)日々の業務を処理するだけで、発信も受信も思うようにならなかった期間が3年(鮫中教頭時代)
(2)このあとの11年間は、にわかじこみのデータをもとに、ほとんど、付け焼き刃の発信の連続。

 もちろん、だからといって、すべてを悔いているわけではない。
 受信も発信もできなかった期間にも多くのことを学んだし、にわかじこみの、付け焼き刃発信にも信念はこもっている。

 それゆえに、早く、読む力を復活させて、これまでの発信を補強したい、修正もしたい、また、失われた美しさも、もう一度、追いかけたい(*⌒∇⌒*)テヘ♪。