★ネットで「ねぶたで結ぼう、地域と学校 教材開発を推進」(2008年7月9日6時12分配信 河北新報)を見つける。 〈記事内容の概要〉 青森の夏祭り、ねぶた(ねぷた)の教育効果に光を当て、制作や地域運行をする学校を増やそうと、ねぶた師の弟子立田健太さん(23)=青森市=が母校・弘前大教育学部の大谷良光教授(技術教育)と共同研究で取り組んでいる。 ねぶた制作の教材開発や小中学校でのモデル授業も予定。 立田さんは「制作、運行を通し、学校と地域の連携を深めてほしい」と意気込んでいる。(配信記事要約文、以上) これ等は、僕が前号(№16)で示した「家庭や地域が担っていた機能を補完するために、学校の中に地域・家庭を取り込もうとする方向」の典型例だろう。 ねぶた(ねぷた)の教育効果は認める。 「制作、運行を通し、学校と地域の連携を深め」ることも、決して悪いことではない。 しかし、今、学校が「ねぶた制作の教材開発」……「モデル授業」……と、「ねぶた」まで抱え込んで、どうするというのだ? 考え方が安易だ。 また、現在、地域の教育力を担っている方々に対しても失礼だ。 この取り組みが、もし、これだけでとどまるとすれば、まちがっている。 ★社会機能の細分化が進み、その機能への適応教育が増大する。 不幸なことに(望むと望まざるとにかかわらず)それが際限もなく学校にもちこれる。 交通安全、防火訓練、震災訓練、給食指導、消費者教育等々……。 その代表例が学校部活動だろう。 学校はパンクしている。 教育不全に陥っている。 連動して、不幸なことに(やはり望むと望まざるとにかかわらず)教育機会の減少した家庭教育や社会教育は、教育力を低下させている。 これが教育危機に至る、僕の歴史的理解だ。 教育危機の元凶は、学校の教育独占体制(学校の教育丸抱え体制)だ。 むやみに学校の中に地域・家庭を取り込む、愚をくりかえしてはいけない。 ★学校が、今、やらなくてはいけないのは、(いや、とりあえず、やれるのは)地域で行われる社会教育活動や公的な社会教育活動への参加を奨励することだ。 学校部活動等と重なる場合は、率先して、教職員が調整役を引き受ける。 こういうコーディネート力をつけることが先決だ。 (「職員室通信」に関するコメント、以上) ★けさ、4時に目覚める。 といっても、昨夜は午後8時に眠っている。 だから、8時間爆睡したことになる。 不覚である。 いつ、イノシシに食われてもおかしくない状況だったのだ^^;。 しかし、きわめて爽快。 頭の中を、いくつもいくつも「想念」が駆け巡る。 この「想念」が逃げてしまわないうちに……と、アトランダムに、メモを取る(=キーボードを打つ)。 ★メモ1=毎日、泣きながら製作している「鋳型」について。 ズバリ、「職員室通信」がメインに据える。 これだけで、もう十分ではないか? これだけで、野村胡堂原作の銭形平次(橋蔵平次)888回に対抗するドラマを成立させる方向で詰めることにしよう(←ちょっと荒っぽいかぁ~*^_^*)。 「職員室通信」に、職員室通信に関連するツイート(140字)を1つ、あるいは2つ、あるいは3つ……。 これくらいにとどめる。 ∞にやりたいときは、やればいい。 僕は、あくまで、ひとつの校区にある中学校の、その職場=「小さな劇場」の座付作者なのだ。 それ以上ではない。 欲ばるのはやめよう。 ★メモ2=「教育」以外のテーマは、いくつか設定しておいて、(たとえば、プロ野球、お好み焼き……等々)、そこから1つ、あるいは2つ、あるいは3つ……と選択して、記事を書く。 いくつかのテーマを輪番で……ということだ。 僕の場合、「教育」以外のテーマは、おまけ……くらいの気持ちで。 「教育」と「おまけ」の組み合わせに、あるいは「おまけ」と「おまけ」の組み合わせに神経を使う必要はない。 バカげている。 それから「式辞」や「全校朝会コメント」も「職員室通信」の中に含むこと。 やりながら、統一され、消化され、いい「鋳型」が出来、いい「作品」になっていく……という姿勢で。 ★メモ3=現在、僕は、いろいろな空間を移動しつづけるノマドスタイルをやめて、主に旧DAKA古書店の跡地に棲息している。 書架はすべて撤去されている。 存在するモノは簡易ベットと、ストーブと、テーブル。 今後も、これ以上のモノは置きたくない。 その替わりに、壁面のどれかひとつを「芸術壁」に(*^_^*) ★メモ4=これらのメモは字数にして原稿用紙2枚くらいにすぎないし、内容も、他の人から見たら、どうということのないものだ。 しかし、僕にすれば、にっちもさっちも動かなかった局面が、崩れるように開けている。 ある意味で、屋台崩し(^_^)vだ。 醗酵することによって、爆発的なエネルギーが創出したのかも。 ★関連記事 ・大東亜戦争下の教育学は抹殺されている。なのに生きている。このよじれを解明しつつ、戦前に立ち還る ★公式ホームページへ ★WEB無人駅線ページへ |
★早朝、「1に足腰、2に文体」の「足腰」のために、はなむけ号(折りたたみ自転車)に乗り、中心街十キロを爆走。 途中から、いつものルートを離れ、昨日、行けなかった「森のおとぎ会」に寄る。 桜山招魂社の境内で、標高40.9メートルの森の中にある。 裏の小道を、はなむけ号を押して登る。 既に、始まっていた。 女性が、小さなステージ上で、紙芝居をやっている。 木陰から、みにくいあひるの子の艱難辛苦を見、聞きながら、ああ、こういうステージも、いや、こういうステージがいいなぁ~と思った。 ステージをひとりで主宰し、主催し、ひとりですべてを演じる。 こういう気楽さ、楽しさ、そして、「ステージの上だけが人生だ」という厳しさを忘れてはいけない。 ★ここ、しばらく、泣きながら、ずっと、「新・通信」のカタチ=僕のホームページ&ブログ記事の「カタチ」=僕の「存在のカタチ」の、「カタチ」を創ろうとしている。 といっても、高尚なことをやっているのではない。 子分の八五郎が「親分、て、て、て~へんだぁ~」と平次の長屋に駆け込んでくる――これでドラマが始まる。 クライマックスで平次が親指と人差し指の間に銭を立てて投げる――これで1話が終わる。 こういうカタチを創ろうとしている。 鋳型製作だ。 この鋳型に、トロトロに溶けた(「溶かした」のではない。「溶けた」)僕を流し込んで、ホームページ&ブログの記事を、下町の職人的に、量産していく。 そして、野村胡堂原作の銭形平次(橋蔵平次)888回と競争するのだ。 ★「カタチ」・鋳型で、現在、決まっているのは、必ず、職場の「職員室通信」を登場させるということだ。 この「職員室通信」を、「親分、て、て、て~へんだぁ~」的に使うのか? あるいは、「親指と人差し指の間に銭を立てて投げる」的に使うのかは、未定。 これは臨機応変ということでもいいのかもしれない。 ただ、頭に「職員室通信」が来ると、それを素に、なにかを展開させなければいけないという義務感みたいなものが僕のうちに働いてしまう。 残念ながら、今の僕には、僕のうちの義務感に応えて、「職員室通信」を新たに展開させる覚悟は、まだない。 しかし、そうだからといって、ただ頭に「職員室通信」を置いておくだけだと、いかにも、教育ブログの体裁を取り繕った、単なるお飾りという感じがしてしまう。 ★2011甲子園。 わが畏友・阿修羅氏の奈良大会がおもしろい。 あすがその準決勝。 ベスト4は、桜井、智弁、畝傍、奈良。 偏差値・超70の奈良を筆頭に、まれにみる高偏差値対決だ(^_^)v。 ★関連記事 ・銭形平次の世界。おなじみの神田明神下界隈、江戸っ子長屋、茶店。お弓がいる。万七がいる。清吉がいる。 ★公式ホームページへ ★WEB無人駅線ページへ |
★ヒマワリの葉を食べる犯人がわかった。 彼(=画像)だった。 窓から庭をみていると、ヒヨドリ・小太郎が、桜の木の枝からヒマワリ付近に急降下、突進していくので、はじめ、小太郎を疑っていた。 でも、小太郎ではなかった。 小太郎は彼を食っていたのだ。 ★僕のホームページは、Diary形式になっている。 通常、3、4日分をアップする。 そして、過去の記事はどんどんgooブログに移動して、ホームページ上からは消去する……という方式だ。 しかし、7月は違った。 ページが重くなるのを承知の上で、7/2の記事からぜんぶ残していた。(ただし、この記事のアップと同時に、4日分を残し、あとは消去する。) 理由は、今の僕の「立ち往生」の状況を、いつでも、僕自身が、俯瞰的にみられるようにしておきたかったからだ。 ★さっき、7/2~7/21の記事をスクロールしながら、ぜんぶ読んでみた。 立ち往生の「状況」は、次の2点にまとめることができる。 (1)僕の「人生」の連続性を保証するのが「教育」だ。 この教育と人生を、一体化するために、どのような「しくみ」を創出すればいいのか? 「しくみ」のヒントになったのが、「通信」(職員室通信、学校通信等々)だった。 途中ははしょる。 これからの「新・通信」のカタチが決まったら、それが、僕のホームページやブログの記事の「カタチ」になる。 僕の「存在のカタチ」といってもいい。 ただ、この「カタチ」を頭の中で考えていても仕方がないから、ホームページを編集しながら、あるいは「通信」を発行しながら、考えていこう……というのが、最新の「状況」だ。 (2)1999/7/21の「教育だけが人生だ」と、現在の「僕の人生の連続性を保証するのが教育だ」とは、同じなのか? 違うのか? 結論的にいえば、違う。 「教育だけが人生だ」は、江藤淳自刃の跳ね返りだった。 べっとりとした血糊のイメージを振りはらうためのものだった。 同時に、「日本の教育のカタチを変えてやる」という気魂がこもっていた。 しかし、「僕の人生の連続性を保証するのが教育だ」には、これらと重なりあう要素はひとつもない。 では、後者は、何なのか? ひと言でいうと、「人生の肯定感」、あるいは「生の肯定感」だ。 これを僕のホームページに定着させようとしている。 当然、僕のうちにも定着させることになる。 この「人生の肯定感」において、野村胡堂原作の銭形平次(橋蔵平次)888回と競争したい。 僕の夢だ。 ★関連記事 ・「教育だけが人生だ」というのと、「某作家がシェイクスピアを語るように、教育を語る」というのとでは、まるで異なる ★公式ホームページへ ★WEB無人駅線ページへ |
★きょうの「職員室通信」は、6月末に発行したものだ。 中学の教師をやっていて、いちばんシンドイのが7月だ。 1学期末の定期試験が終わって、終業式までの期間が「剣が峰」。 ここを(教師が)がんばれば、いい2学期が迎えられる。 いい3学期が迎えられる。 逆に、この期間をいいかげんに過ごせば、悲惨な結末が待っている。 ただし、「通常業務」+「総括評価業務」+「この時期独特の生徒指導業務」+「地域・家庭との連携業務」……。 業務に必要な時間を算出して合計すると、睡眠時間が0時間になる計算だ。 ★「がんばる」ポイントとして2点。 (1)授業・学級活動・面談・通信表等を通して、子どもたちひとりひとりに、区切りをつけさせ、次の目標に向かうベクトルを形成する(ことができるかどうか?)。 苦しい状況にある子どもには「ここまで来ることができた、ここでいいんだよ」と評価してやることも大切だ。 (2)生徒指導上、ホンマ、いろいろなことが起こる期間だ。 ゲーム終了間際の失点は痛い。 徹底した予測・予知・予防に努める。 教師が(自身の)温かさと厳しさのバランスに気を配りながら、子どもたちと、あるいは保護者と、あるいは地域の人びとと向き合う(ことができるかどうか?)。 徘徊・外泊・盗み……。 水難・花火・交通事故……。 校内暴力……。 新グループ?の形成、新スタイル?の登場……。 ★以前、お好み焼きの焼き方を変えたという話をしたことがある。 一般的には、中火で約5分、ひっくり返して約5分、さらにひっくりかえして約3分などといわれる。 それを、弱火の超「じっくり焼き」に変えたのだ。 ただ、ひっくり返すタイミングに集中していたので時間ははかっていなかった。 昨夜、その時間をはかってみた。 なお、「弱火」というのは、「蛍火」ではない。 中火より、弱いという意味だ。 鉄板と炎との間に1センチくらい(いや、1センチ強)のスキマがある程度。 この「弱火」のまま、焦げる寸前まで、じっくり焼く。 時間をはかってみたら9分~10分。 ひっくり返して6分。 さらにひっくり返して4分。 焼き上がりまで20分だった。 ただ「弱火で9分」といっても、鉄板の厚さやガスコンロの性能によっても異なる。 だから、次のように言い換える。 お好み焼きの表面が油揚げより、少し濃い程度のきつね色になるのに「9分~10分」かかる火のレベル……と考えればいいのかもしれない^^;。 百発百中「外サクサク中ホカホカ」のお好み焼きが実現しまっせ。 ★酔っぱらいが、同じことを何度も何度も語るように、きょうも僕はまた同じことを語る(^_^)v。 僕の存在の仕方(カタチ)=ホームページのカタチ……だ。 今まで、この「仕方」と「カタチ」をごちゃ混ぜに使ってきた。 これからは「カタチ」に統一する。 この「カタチ」を一刻も早く確定して、「記述」をバンバン創出し、野村胡堂原作の銭形平次(橋蔵平次)888回と競争したいと思っている。 僕の夢だ。 しかし、この「カタチ」がなかなか決まらない(ノ△・。)。 ★ヒントが2つある。 ひとつは、江藤淳自刃時の僕の発言「教育だけが人生だ」。 僕の人生と教育は切り離せない。 もうひとつは、その僕が「人生」において、もっともこだわったのが「通信」だ。 そして、「教育」において、僕がもっとも固執した手法が「通信」だ。 「学級通信」「学年通信」「学年事務通信」「教科通信」「教育技術サークル通信」「研修通信」「職員室通信」「主任通信」……。 だから、普通に考えて、僕の存在のカタチ=ホームページのカタチ……と、これら「通信」とは、おそらく密接不離の関係にあるのだろう……。 ここまでは突き詰めている^^;。 もしかしたら、 僕の存在のカタチ=ホームページのカタチ=新「通信」のカタチ……ということなのかもしれない。 しばらく、苦しむつもり。 ただ頭の中で考えていても仕方がないから、ホームページを編集しながら、あるいは「通信」を発行しながら、苦しむ。 ★関連記事 ・★教育だけが人生だ。僕の場合、この「教育」と「人生」をつなぐのが「通信」だ。 ★公式ホームページへ ★WEB無人駅線ページへ |