◆古書店の道路側の障子は、よく開けるし、開けっ放しにしていることもあるが、隣家側はめったに開けない。
開けたところが、隣家の玄関だということもある。
しかし、それ以上に、障子の向こう側の風景を、想像の、ある意味では、創造の領域にしておきたいからだ。
障子を開ける。
すると、そこは青春時代の大阪の街だったり、岩木山の端麗なシルエットだったり、また、根岸時代の小田八幡宮の幟がはためく光景だったりするわけだ。
明け方、障子に光が差してくると、学生時代の下宿にいる気分になれる。
そんなわけで、ほとんど閉じっぱなしの窓の外に、こういうつるが伸び、からまっていることに気づいたのは3月の中頃?だった。
そのときはまだ、草花の、ほっそりとした、たとえばアサガオのつる、ツタのつるという感じでとらえていた。
みなみ退場のバタバタを経て、昨日、窓の外側にまわってみて驚いた。
先端は軒に届きそうだ。
太いつるが、無線アンテナのケーブル、インターネットのケーブル、ケーブルTVのケーブルにがっちりとからまっている。
雨樋にもからまっている。
☆ところで、これは、いったい何のつるでしょうか?
ご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。
よろしくお願いします。
蟄居しているうちに、こういうつるで、覆われて身動きとれなくなってしまうというのも悪くないけれども……。
◆わたしの「退場」のセレモニーについては、企画してくださる方々のご厚意には心から感謝しつつも、変わり者らしく、すべてお断りしている。
ただし、教え子たちの企画してくれるものには、すべて出席している。
4/26(日)午後6時から鬼丸で、根岸時代の教え子たちが、退場セレモニーを開いてくれた。
2、3名をのぞいて、かれこれ、いや、かれこれではない……、指を折って正確に数えよう……と、ポキポキやると、32年ぶりだ。
「でも、わたしは、学級担任だった子どもたちの顔はきっちり脳裏に刻んでいる。刻み込まれている。だから、だれかわからないというようなことは絶対にない」と思って、靴をぬぎ、ふすまを開けて、鬼丸の座敷に一歩踏み込み、テーブルを囲んでいる顔、顔、顔……を見渡すと、知らない人たちばかりいる。
○道君は、会いたくて会いたくてしようがなかった○道君だとわかるまで、2分かかった。
中○君は、2分どころではない。
はじめ、塚○君か?と思っていたが、違う。
2分、3分、4分……上まぶたのかすかな動きで、遂に、これも会いたくて会いたくてどうしているだろう? どうしているだろう?と思っていた中○君だとわかる。
わたしが「あぁぁっ、中○君だぁ!」と言ったのを聞いて、中○君の隣に座っていた○家君が「えっ、おまえ、中っちか? ええ? ああ、中っちぃぃ~ぃぃ~ぃぃ!」と抱きついていったくらいだ。
企画者の○海さんから花束をもらい、短くあいさつする。
〈あいさつの要旨〉
①あなたたちの担任だったときは26歳だった。26歳の彼が、今、ここに来て、40代半ばのみなさんにこうして囲まれたら、きっと、緊張して、緊張して、萎縮して、萎縮して、ちっちゃくなってしまうだろう。……実は、今のわたしの気持ちは、その26歳の彼の気持ちと同じだ。緊張して、萎縮して、ちっちゃくなっている。
②長い教職生活の中で、世知もない、邪念もない、したがって、バランスも悪い……そんな、ある意味で「超純粋なパワー」を爆発させたというのは、ほんとうに限られた期間しかない。それが根岸時代だった。そんな「パワー」に直面しなければならなかった、みなさんには、ほんとうに、いい迷惑だったと思う。どんな角度から思い返しても、はずかしいし、もうしわけない。けど、……根岸時代は、わたしの人生の原点だ。魂の帰る場所・時代だ。
③きょうのこの場を人生のひとつの区切り……かといって、これからのちの人生10年とか20年とかと想定しているわけではない……運がよければ、あと4年、ま、願わくは2、3年……だが、そのひとつの重要な区切りにしたい。ほんとうに、きょうは、どうもありがとう。(「あいさつの要旨」以上)
できれば、ゆっくりと、ひとりひとりの身の上、historyが聞きたかったが、限られた時間だったので果たせなかった。
◆なお、今回、企画してくれた○海さんに宛てて、10年前に書いた手紙の下書きが、手元(ハードディスク内)にある。
根岸時代へのわたしの気持ちがよく書かれていると思うので、さしさわりのある箇所はすべてカットして、ここにアップする。(きっと、○海さんもゆるしてくれると思うので……。)
〈1999年 ○海様へ〉
拝啓 あなたの第二弾の〈追伸〉の中に〈小6の時、先生から来た年賀状の末尾に「この続きとして②③があります」と言っていたのに、続きは来ませんでした〉とありましたが、今度はその②を、あなたの第二弾が届く前に投函完了していたことで、ホッ!とすると同時に、「私は23年前にも既に〈②……③……〉とやる癖があったのだったか……。そうだとすると、23年ぶりに出した葉書は、①ではなく②だったのだ……」と、いささかの感慨を催さざるを得ませんでした。
あなたが家に遊びに来たときのことはよく覚えています。
わたしも、③か④か⑤に書くつもりでいたのですが、先にあなたに書かれてしまいました。
何をして遊んだのかは忘れてしまいましたが、めちゃくちゃおもしろかったことと、遊びに来た人たちが家が壊れてしまいそうなくらいドンドンやったことは覚えています。
根岸小(正確には、その周辺)には、ここ10数年くらい、おそらく毎年1回程度は、訪ねていると思います。
どうして訪ねていくのかは自分でもはっきりしないのですが、身過ぎ世過ぎの生活に明け暮れているうちに、胸の裡で「根岸に行きたい、あのグランドの隅で1人で座ってみたい」という気持ちがだんだん膨らんできます。
1年に1回ほど、ほんとうに不思議なのですが、必ずそういう気持ちになります。
校舎は変わってしまいましたが、グランドはわたしたちがいたときと同じです。
訪ねる理由を、これまでは深く考えなかったのですが、今、こうしてあなたにお便りしながら、自分の内心に問うてみると、たぶん、あのグランドの片隅に佇んでいると、あなたたちといっしょに根岸小にいた2年間、別れた後の1年間、その後の、根城中4年間、白銀中4年間、大館中9年間、鮫中3年間、是川中1年と6ヶ月間……というふうに経過していった時間、その中には、あなたも同じだと思いますが、結婚とか、失意の転勤とか、愛する人の死とか、別れとか、まさしく人生いろいろあったわけですが、その経過した時計の刻まれる音が、他にも聞こえる場所はあるのだけれども、わたしにはやはり根岸がいちばん聞こえる……ということになるのでしょうか?(まだ、ほんとうのところは、よくわかりません。④⑤⑥……ともう少し深く、また角度を変えて考えてみることにします。)
未熟な教師であったけれど、私にとって根岸という小学校は特別な場所です。
どう「特別」なのかは、今は置いておくことにしても……、したがって、あなたたちは特別な人です。
そのあなたからお便りをもらったり、またそのお便りの中に〈…………さん〉〈…………さん〉〈…………さん〉〈…………さん〉などの名前があるのは、教育がわたしの人生だと考えているわたしにとって、これこそ人生の至福というべきでしょう。
ついでにいうと、初詣はずっと小田八幡宮に参拝しています。
それから、「もし明日死ぬとして、最後に何が食べたいか?」と聞かれたら、(逸見というガンで死んだアナウンサーは放送局前のソバ屋さんでしたが、わたしは)迷わず「ドライブインさつきの豚カツを食べながらビールが飲みたい」と答えます(苦笑)。
「さつき」というのは、小田の信号の近くにあったお店です。
今でもあるのでしょうか?
いつも行きたいと思っているのですが、なかなか行けません。
きょうはこれで一旦ストップすることにします。(「○海さん宛の手紙」の引用・抜粋以上)