職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

今、食料品(含酒)以外は、一部の例外を除いて、いっさい、モノの購入はしていません。清貧そのものです

2010-01-26 14:49:20 | Weblog

10.01.26 今、パワーが落ちています



◆今、食料品(含酒)以外は、一部の例外を除いて、いっさい、モノの購入はしていません。
 清貧そのものです(*^_^*)。

 例外として、最近だと、①プリンターのインク黒1個(純正品を買えばいいのに安物を買ったためにつまってしまい、現在、カラーで印刷している)、②CD1枚(「エピソードと終わりなき歌」〈ペテリス・ヴァスクス〉)、③書物1冊(『辻邦生が見た20世紀末』←古本)。
 教育関連の雑誌の購読も、全部、2009/3でストップ。
 新聞の定期購読も、衆議院選挙で自民党惨敗以降、ストップ。

 現在、ニュースは、WEB産経ニュースと、WEBはちのへJP。
 音楽は、PCラジオ=JAZZRADIO.COM。
 読書は、DAKA古書店内の書物・雑誌。

 ただし、教育関連の書物については、「午前9時から(正午から1時までは休憩)午後4時まで、何もみないで、日本の教育の歴史が語れるようになる」という10年来の夢があるので、日本教育史や、大東亜戦争下の教育に関する書物は、今後、積極的に収集するつもりです。

 


◆前置きが長くなりました^^;^^;^^;。
 というわけで、けさは、WEB産経でニュースをチェックしたあと、DAKA古書店内にある、2006・現代教育科学1月号「『学習指導要領』戦後60年の功罪」を読みました。
 どの論文も興味深く読みましたが、特に刺激を受けたのが、次の記述です。

 三「学習指導要領」の罪とは?
 (前略)もう一つは、日本人の家庭や地域から、教育をすべて学校に取り込む方向を促し、社会の教育力を奪ってしまった、という点である。
 これは第一の点とも関係して、戦後も学校の教育こそが常に進んでいて妥当なものとする通念を生み出し、「教育のことは何でも学校の先生に」との態度を国民の間に広めた、と言ってよい。
 「学習指導要領」の法的拘束力の強かった時代は何でも学校がかかえ込むような事態となり、現在はそれが破綻した状態にある。
 今日では、規制緩和によって、あらためて「学習指導要領」の「試案」的性格が強められているが、それを学校現場で支える力のある教師が、昭和50年頃までにいなくなり、せっかくの施策も効果がすぐには出ていない。(安彦忠彦氏)

◆2点、コメントします。

 第1点は、学習指導要領が「教育のことは何でも学校の先生に」との態度を国民の間に広めた……という箇所です。

 安彦氏のいう「教育のことは何でも学校の先生に」とか、「何でも学校がかかえ込むような事態」を、わたしはこれまでずっと、もうみなさんの耳にタコができているかもしれませんが(*^_^*)、「学校の教育独占体制」あるいは「学校の教育丸抱え体制」と呼んできました。

 そして、わたしは、これまで「学校の教育丸抱え体制」を強める方向に作用したのは次の3点(の融合作用)だと考えていました。

①学校中心自治民育体制。
 昭和7年文部省訓令「学校少年団」
 昭和16年「大日本青少年団」
 昭和20年5月22日戦時教育令=「学徒隊」
 このいう流れのなかで、いわば「学校中心自治民育」体制が確立していったのですが、この戦前の「学校中心」というイメージだけが、世の中が変わっても、保持されたこと。

②教育爆発現象。
 高校進学率が昭和20年代〈20%〉→昭和50年代〈90%〉と急カーブを描いています。
 受験のための狭義の学力観に、地域・家庭も追随していかざるをえなかったこと。

③地域社会構造の変化。
 職住分離・核家族化が進行したこと。

 安彦忠彦氏が指摘する、「学習指導要領」が教育をすべて学校に取り込む方向を促し、社会の教育力を奪ってしまったということは、うすうすは感じていたものの、「学校の教育独占体制」の元凶として明確に柱立てしていなかったので、いい視点を提示・顕示してもらったと思っています。

◆第2点は、「『学習指導要領』の『試案』的性格が強められているが、それを学校現場で支える力のある教師が、昭和50年頃までにいなくな」った……という箇所です。

 教育現場の直中にいるわたしのような人間から反論があることは想定の範囲内で書かれていると思うので、あえて反論はしませんが、「せっかくの施策」が効果があがらない原因を「……力のある教師が、昭和50年頃までにいなくなった」からとするのは(……半分当たっていると思いますが、それだけを指摘するのは)、やはりとんでもない誤認識です。(こういう認識をしている限り、教育の改革は進みません。)
 文科省は、「せっかくの施策」がすぐに効果があがらないことは、いや、もっとはっきりいえば、5年先も、10年先も効果があがるはずがないことは、十分予見していたはずです。
 「せっかくの施策」が効果をあげるためには、「もうひとつ別な施策」を同時に展開する必要があります。
 このことは、平成10年度の改訂時に、いったんは「別な施策」を打ち出しながら、大論争の末に、ひっこめざるをえなかった文科省は十分に認識しているはずです。

 今、わたしが、「別な施策」といって、その施策の中味をはっきりいわないのは、はっきりいってしまえば、また、ここで、延々と、語らなければならなくなるのが、ちょっと、シンドイからです。
 今、わたしのパワーが落ちています。
 もうすぐ復活すると思います。
 復活したら、まだバリバリ語ります。

◆昨日のニュース記事。

 社会は厳しいぞ!成人式妨害で2人逮捕

 成人式会場で暴れて式を妨害したとして、長崎県警佐世保署は25日、佐世保市のA(20)、B(20)の両容疑者を威力業務妨害容疑で逮捕した。
 発表によると、2人は10日午後1時40分頃、同市で開かれた市主催の成人式で、朝長則男市長のあいさつの際、壇上に登って奇声を発したり、朝長市長を扇子でたたこうとしたりして進行を妨げた疑い。2人は当時、酒に酔っていた。容疑を認めているという。
 同市は20日、同署に被害届を提出した。同署は、ほかに6人が壇上で暴れたとみて調べている。
 市職員らが制止した後、朝長市長は「社会は厳しいものですよ」などと一喝。ほかの新成人たちから拍手を浴びた。市長は2人の逮捕を受け、「社会のルールを守るのが大事なことだと分かってほしい」と改めてコメントした。(2010年1月25日13時19分 読売新聞)

 一言だけコメントをします。

 「社会は厳しいもの」という「社会の厳しさ」は、小学時代、中学時代、高校時代を通じて、社会、すなわち、地域がしっかりし教えるべきことだと思います。
 「社会は厳しいものですよ」と一喝し、「警察に被害届を出」すことは否定しませんが、同時に、地域の教育、すなわち、佐世保市の、学校教育に対する社会教育が、うまくいっていなかったのではないか? さらに、社会教育がうまくいかなかったとすれば、その元凶は何か?と、それこそ厳しく問い直していく視点が必要です。

 これも、わしとしては、めずらしく、ぼんやりとした言い方をしていますm(_ _)mm(_ _)m。
 スンマヘン、スンマヘン。
 さっきと同じように、はっきりいってしまえば、また、ここで、延々と、語らなければならなくなるのが、ちょっと、シンドイからです。
 今、わたしのパワーが落ちています。
 もうすぐ復活すると思います。
 復活したら、まだバリバリ語ります。

 そんなにシンドイのやったら、寝てたらええやんケ……といわれそうですが、にもかかわらず、こうして起きてくるのが、わしの「悲しい性(サガ)」です。

◆BBSにひさしぶりにMariaっちさんからカキコミがあったので、気合いをいれて返信を書きました。

 Mariaっちブログは、お気に入りにの中の、さらに最重要のフォルダに登録しているので、ブログにはときどき侵入しています。

 確かに以前の記述には、
 ①対象(夫や娘)を鋭く分析する視点、
 ②対象に対してもっている愛情に抗して、つかず離れずの距離を保とうとするストイックさ、
 ③「①」と「②」を支える凛とした、Mariaっちさん身体の軸と輪郭……がすごく魅力的でした。

 一度、わたしの魂の舞台(生野本通商店街界隈)に侵入されたことがありましたが、あの頃が①+②+③に支えられた感受性が最も鋭敏になっていた頃ではないかなぁぁと拝察いたします。

 こんなことをいうと叱られるかもしれませんが、なにか、劇的な危機の予感があり、状況によっては自分もこの描写されている世界に、実際に参加できるかもしれないというワクワクさせるところがありましたm(_ _)mm(_ _)m。
 「ワクワク」を具体的にいえば、こういう人といっしょに暮らす「夫」はちょっとたいへんそう……だけど、自分はこんなふうに分析され、突き放されながらいっしょに暮らしたい……と思うような気持ちといってもいいでしょうか……?

 今のMariaっちさんの記述は確かに以前の記述とは異なります。
 平凡な家庭生活、夫婦生活がダラダラと描かれているだけで、「夫とベタベタとするのなんか、もう勝手にやってよ……」と、読者としてはあきれて、投げ出してしまいたくなるような、緊張感のない雰囲気が漂っています。(これ、わしのヤキモチかも^^;^^;)

 ただし(ここからが大事なのですが)、それは一見いかにもそう見えるだけで、よくよく読むと……
 mariaっちさんは決して自分の深部の感受性にフタをしてしまったのではなく、深部の感受性でとらえたものを平凡な記述の中に投影させているのではないか?
 あるいは象徴的に描いているのではないか?
 また、深部と現実との関係を暗示させる記述をひそませているのだけれども、わたしがそれを読み取れないのではないか?
 「もし、そうだとすれば、現在の記述のほうがはるかに文学的価値が高い。このことはぜひ確かめてみたい……」という思いがわたしに強くあります。

 そう思いつつ、なぜそうしないのかというと、やはり、今の記述に濃く漂っているところの、なんというか、現実に抗しきれず、さきほどの③の軸が、がっくしと折れたような悲哀、傷心、沈痛、悲痛、痛嘆の思いが、あまりにも痛々しいと、Mariaっちさんに対して、わたしが感じているからかもしれません。
 もし、今の記述が、この「悲哀」などを主題にしているのであれば、実におみごとな記述といえます。
 これは決して皮肉などではありません。

 なかなか、終わりらしいコメントに至らず、中途半端なカタチのままになりますが、きょうはこれで終わります。


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