WALKER’S 

歩く男の日日

長坂街道(新高野街道)

2010-07-25 | 新高野街道

 新高野街道は長坂街道とも云われる。紀和鉄道(現在のJR和歌山線)が開通し、高野口駅ができた明治34年(1901年)ころから、この道が盛んに参詣道として使われるようになった。そして、南海高野線が極楽橋まで開通する昭和5年(1930年)以降はほとんど歩く人はなくなったという。わずか30年間ほどの短い期間しか使われなかった。
 順番としては、室町後期から明治まで表参道として使われた京・大坂道(東高野街道)を歩きたかったけれど、梅雨終盤の大雨で流されてしまった。空撮のニュース映像は見たけれど、それがどの位置かいまだにはっきりしない。でも橋本市内の高野橋本線(県道118号)だということははっきりしている。東高野街道の最初の部分はそこを歩くので、今回は諦めざるを得なかった。

7月24日 8:53

15ヶ月ぶりに南海難波駅にやってきた。

7月24日 8:55

上から2番目、橋本行き急行に乗る。特急こうやは特急券が必要なので乗ることはできない。第一ぼくの下りる高野下駅には停まらない。

7月24日 8:57

急行はすでに4番ホームで待っている。乗り込んでまもなく隣のこうやが出発。特急料金は終点の極楽橋までだと500円。リッチな人々を見送る。

7月24日 9:54

橋本駅に到着、極楽橋行き各停は2分後に出る。

7月24日 10:00

紀伊清水駅で上り列車とすれちがう。その先頭に高野線全線開通80周年のプレートがある。つまり、ぼくがこれから登る長坂街道がさびれ始めて80年ということでもある。

10:03

学文路駅に到着、本当ならここから歩き始めるところだった。

10:06

九度山駅、町石道はここから歩き始める。ぼくがこの駅を降りたのはもう2年前のことになる。

10:09

高野下駅で降車、ここから歩き始める。明治から大正時代の参詣者は高野口駅からここまでも歩いたはずだけれど、ぼくはその部分はスキップせざるを得ない。

10:11

高野下はかつて門前町として栄えた所ということもあって無人駅ではなく駅員さんが迎えてくれた。もちろん自動改札機もある。スルッとKANSAIの加盟駅は無人でも必ず自動改札はあるようだ。JR四国ではいまだに車掌さんが改札をする駅が多い。

10:11

駅を出ると目の前の橋を渡る。川は不動谷川、九度山橋の所で紀ノ川に注ぐ。

10:11

橋を渡って右へ折れる。道は国道370号。

10:12

橋を渡って100m、椎出郵便局の前を左に折れて国道を離れる。

10:13

左に折れたところ、600mほど手前で国道に合流した県道118号がまたここから始まる。とても県道という感じではないけどね。

10:15

県道に入って2分で人家は一旦とぎれる。県道というより本当に街道、参詣道の趣がある。

10:15

もし、大した予備知識もなく、この看板を見ていたら、一瞬立ち止まって愕然としていたかもしれない。行き止まりの後、どういう道を行けばいいのか、丁寧な案内サイトを熟読してきたので何の心配もしていない。

10:18

県道を離れ左の道に入る、ここから本格的な登りになるはず。

10:19

写真では坂道は全然その感じが出ない。登り始めるといきなり20度はありそうな急勾配が待っていた。

10:20

右下10mに県道を見下ろす。勾配は全く衰えることなくどんどん高いところへ上っていく。

10:21

きれいに舗装されているし、木陰も十分で、勾配の割には登りやすい。きついといっても太龍寺の山門の手前ほどではない。実際は10度もないのかもしれない。

10:25

やや勾配が緩くなってきた、そろそろ一息つけるのかと期待したけれど、

10:27

少し緩くなったところで、野良仕事に来ていたおじさんに声をかけられた「高野山に行くの?」。はい、と答えるのがやっと、すでに下着はぐっしょりだ。それにしても、ぼくのように、ここを通って山に登る人がたまにはいるようだ。おじさんが生まれたときは極楽橋まで電車が通じていたから、ここがにぎわっていたことは知らないはずだ。

10:31

廃屋の前を行く。こんな山の中にという感じだけど、明治の末から大正にかけてはここが表参道だったから、ここに宿があっても何の不思議もなかっただろう。

10:33

ちょっと緩やかになって、一息つきながら登る。ここまで平坦なところはほとんどなかった。

10:35

県道に合流する。左に折れてしばらくはまた県道を歩くことになる。

10:35

県道に入るとまもなく、今度は右へ大きくUターンする。そのカーブのところから4人のハイカーが現れた。かなり年輩の男女で、ぼくに話しかけてくる。やはり、高野山に行くのかと、まず訊かれた。女性の一人がどれくらいかかるのかと尋ねる。2時間ちょっとで行ければいいなと思っています、と答える。正直なところ距離も時間もほとんど目算をつけずに歩いていた。初めての道だし、どういう坂があるか分からないし、見当をつけるのはほとんど無意味だと思っていた。

10:39

登り始めて21分、ようやく平坦なところに出てきた。そろそろ第一目標が近いかもしれない。

10:41

今度は比較的新しい廃屋、10年くらい前までは人が暮らしていた感じがする。それにしても、こんなに山奥で何にもないところに人が生活する理由が見いだせない。

10:43

最初の道標があった。高野山まで□里、△kmと2種類の表示があるようだけれど肝心の数字ははっきり読みとれない。読みとれたところであまり参考にはならない。脇の大正13年という制作年ははっきり見える。紀伊神谷まで電車が通じたのは昭和3年、終点の極楽橋まで通じたのは昭和4年だから、この道標が役に立ったのはわずか4年くらいだった。

10:44

苅萱堂の前までやってきた。先に見た看板の通りここで県道は行き止まりになっている。グーグルの地図でもそうだ。案内サイトで見たとおり堂は廃屋然としている。ここが参道ではなくなって80年にもなるから自然なことなのかもしれないけれど、

10:44

堂の前へ行って左を見ると、これまた案内サイトに書いてあった通り、何とか歩けそうな道があるようだった。

10:45

堂の左隣の建物もほとんど廃墟と化している。その前の道も荒れていて人通りはほとんどないことを伺わせる。

10:45

歩けそうな道が何とか続いている。幅の広い獣道という感じがしないでもない。

10:47

倒れた木が行く手を阻む。こういう光景は四国の遍路道でも時折遭遇することがある。四国ではたいてい翌年にはきれいに取り除かれている。こちらではそういうことはないのかもしれない。

10:48

今度は本当に道が完全にふさがれている。左側は崖になっているので右側の掘り起こされた根本をよじ登る、最後に1.5m位の高さを飛び降りなければならない。足首に自信がないので飛ぶことはできなかった。仕方ないので引き返して左側の崖側を何とかそろりそろりと越える。一仕事終えた感じだ。

10:51

越えてきた倒木を振り返る。これを越えるだけで3分もかかってしまった。このようにして廃道は自然に帰っていくのだろう。

10:52

高野山まで1里24丁、6600m、と読める。1丁(町)は109m、1里は36丁。

10:54

二つ目の目標、長坂地蔵に到着。野草がちゃんと生けてあることからして、面倒を見ている地元の人がいるのかもしれない。高野古道の看板があるけれど町石道に比べればかなり新しい道ではある。

10:55

長坂地蔵の前を過ぎてまもなく、次の目標である長坂大師の案内板があった。この道が一般の参拝者が往き来しなくなって80年は経つはずなのにこの看板は明らかに新しい。ここ数年ということはないにしても20年以内のものであることは間違いない。高野山ではなくここだけを目当てに訪れる人がいるのだろうかと、意外な感じがした。

10:58

3つ目の目標、長坂弘法大師に到着した。小さな祠があるだけだけれど、苅萱堂とは違って部分的に新しい木材で補修されているようだ。お参りに来る人はどれだけいるか分からないけれど、確実に現代に生きている。

10:59

案内サイトで見たとおり祠の右側を上がっていく道がある。高野古道の矢印もそちらを向いている。でも往時の参道はこの道ではなかったはずだ。弘法大師の前をそのまま行き過ぎる道が本来の参道だったはず。そちらの方に荒れてはいるけれど広い道が続いている。でもその先は自然災害かなんかで行き止まりになってしまったのだろう。それで無理矢理ここから右に折れてこの登る道がつけられたのだと思う。

11:00

山道の脇に高野古道の矢印があさっての方向を向いて転がっていた。正しい方向を向けて分かりやすくしておいた。

11:02

足場が悪く急な山道をたっぷり一汗かきながら登り切って林道に出てきた。

11:03

林道は舗装されていて勾配も緩やか。苅萱堂からここまでの道とは比較にならないほど歩きやすい。この道は江戸時代の絵図面に記録されていて、当時から林業のために利用されていた。明治時代になってから参詣道として使用されるようになったということらしい。

11:05

こういう歩きやすい舗装道がずっと続くのかと思いきや、

11:07

200mで地道が現れる。ぼくの地図では苅萱堂で行き止まりになったはずの県道118号がこの道とつながっていてここも118号と記されている。でも地元の人も参詣者もほとんどこの道を利用することはないから、むしろこういう感じの道が多い方が自然かもしれない。

11:08

と思うとまた舗装道、でもここも長くは続かなかった。

11:11

歩き始めてちょうど1時間になるので休憩を入れる。

11:12

道ばたに荷物を全部放り出して、まずは食塩を取り出す。5回6回と立て続けになめても全然味がしない。想像以上に汗をかいているようだ。スポーツドリンク500ccを一気に飲み干すとようやく人心地ついた感じ。体温が気持ちよく下がって活力がみなぎってくる。こういう感じが今年の焼山寺(柳水庵)で欲しかった。これだけ歩いていても水と塩と食料の理想的な摂り方はよく分からない。立ったまま5分ほど休んで、また歩き始める。

11:16

歩き始めてすぐ右に折れるところが峠のような感じがしたけれど、甘かった。ごく緩やかではあるけれどまだ登りは続く。

11:21

ようやく下り坂にやってきた。でも峠ではないのですぐに登りになってしまった。でも全体に傾斜は緩やかなので気持ちよく歩くことができる。

11:26

三叉路に到着、これは案内サイトで見た光景。林道に上がってきてからここまで、何回か不安におそわれる。一本道で迷いようはないのだけれど、初めての道だし、四国のように道標や案内シールが全くないので、本当に正しい道を歩いている確信が持てなくなってくる。これで一安心。

11:26

三叉路を左折する前に振り返るとこんな看板があった。ぼくはずっと通行止めの道を歩いてきたことになる。

11:26

へんろ石(四国ではないからこういう言い方はしないだろうけれど)があった。刻まれている文字は判別不能だけれど、かつてここが参詣者でにぎわった確かな証拠だといえるかもしれない。

11:27

ようやく本当の峠を越えたようだ。なだらかな下り坂が続いている。

11:28

高野町にはいる。気分的にはもう高野山の中という感じだけれど、とんでもなかった。

11:28

分岐点、右へ行くと紀伊神谷駅、左は極楽橋駅へ至る。もちろん左の道へ進む。

11:30

突き当たりは東高野街道(京ー大坂みち)。ここから女人堂までは江戸時代初期から明治中頃まで表参道として多くの参詣者が踏みしめた歴史のある道を歩く。新高野街道はここまでだけれど、カテゴリーは便宜上そのままにしておきます。

11:30

林道に上がってから全く道標はなかったから、分かっていてもほっとする。でも現代ではこの道標を見る(必要とする)人は滅多にいないかもしれない。

11:30

いかにも街道、参道という雰囲気が濃厚に感じられる。

11:30

このあたりは、明治時代までは門前町として相当栄えた、いくつもの旅館が建ち並んでいたという。

11:31

至高野山、4600m、1里6町。

11:33

至高野山女人堂、4400m、1里4町20間。
反対側には御成婚記念と刻まれている。昭和天皇の御成婚のときに立てられたものらしい。

11:35

東高野街道に入ってからは平坦で歩きやすい道が続く。

11:36

至高野山、4200m、1里2町30間。

11:41

ここは紀伊神谷駅からの道が合流してちょっと複雑な交差点になっている。ここから久々に急な登り坂になる。

11:42

坂を登りきるとこの立て看板があって、一瞬びっくり、でも極楽橋までは行けると書いてあるので胸をなで下ろす。

11:44

切り通しを抜けて南海高野線が走る谷に出てきた。

11:44

眼下に高野線が走る。極楽橋まで、ゆるゆるとあの高さまで下り坂が続いていく。

11:49

高野線の上を渡る。ちょうど上り列車が出発したところ。

11:49

極楽橋へ向かう線路はトンネルへ入る。参道は大きく右へ迂回する。

11:52

1時間40分かかって不動坂の入り口に到着、ここから女人堂までは3年前に歩いたことがある。そのときは冬だった、しかもここから歩き始めた。今回は真夏で、すでにたっぷり汗をかいて体力も使いきっているので絶対同じようには歩けないと確信している。

11:52

正面は極楽橋駅。

11:53

右に折れて極楽橋を渡る。

11:54

橋を渡るといきなり急坂が現れる。すぐに気持ちが萎える。まともに登りきる自信がなくなってくる。

11:54

左手に極楽橋駅、極楽橋駅の標高は538m。女人堂の標高は900mくらいだから350m以上は登らねばならない。距離は2kmほどだけど3年前は40分くらいかかった。今回はとてもそんな速さで登り切れそうにない。

11:57

右に折れてケーブルと平行に登る。

11:58

左折してケーブルの下をくぐる。

11:58

トンネルを抜けると左折してケーブルとは反対の方へ登っていく。ケーブルほどではないけれどかなりの急坂が続く。

11:59

近世の表街道、と書かれていることからして、東高野街道が開かれた江戸時代初期からほとんどの参詣者がこの坂を登ったのだと思いこんでいた。でも案内サイトを詳しく読むと、この坂は大正4年に開かれたもので、それまではいろは坂という急峻な山道があったという。それが現在どうなっているかはよく分からない。